奇跡だなんて言わせない

甲池 幸

第1話

『この香りを覚えて。それで俺を見つけて』


 枕に吹き付けた香水を吸い込みながら、少し角ばった文字の並ぶ便箋を見つめる。時代錯誤の文通趣味。その相手に一度会って話がしたいと言われ、タイムラグのある手紙でどうにか日程を決めたのがつい一週間前。


 香水と『俺を見つけて』なんて短い手紙が届いたのがちょうど三日前。飛ぶように時間は過ぎて、明日はついに、顔も知らない『その人』に会う。


 ドキドキと高鳴る心臓を落ち着けたくて枕に顔を埋めると、トップノートのシトラスが脳に流れ込んでくる。爽やかさの奥に潜むラベンダーと、指先が肌の上を滑っていくようなムスクの甘さ。


 香りを脳に焼き付けながら、どんな人だろう、と考える。


 手紙のやり取りを通して分かっているのは、同じ十七才であること、季節の変化には鈍感で、近所にケーキ屋さんが出来たことに小さな幸福を見出していて、文字越しでも人の感情の機微に敏感なこと。どんな人だろう、と考えながら、空は瞼を閉じた。どんな人でもいいから会ってみたい、と思いながら眠りに落ちた。



 土曜だからか、駅前は賑わっていて落ち着かない。斜めに下げたポシェットの肩紐をぎゅっと握りしめて、空は深く息を吐いた。


 風の中に気の早い夏が潜んでいる。桜はこの前の雨ですっかり散ってしまって、あっという間に日差しの強い日が増えた。もうすぐ梅雨が来て、蝉が鳴き始めて、紅葉に吸い込まれるように目まぐるしく世界は回っていく。


 季節の流れに鈍感で、桜が咲いたことすら空の手紙で初めて気が付いたと言っていた『その人』は、桜が散ったことには自力で気が付いたのだろうか。


 そういう些細なことを、空が教えたいと思うのは、少し出しゃばり過ぎているだろうか。『その人』は一体、どんな人だろう。考えると止まらなくて、そのせいで、朝からずっと緊張と不安で心臓が痛い。


 本当に見つけられるのだろうか?


 顔も知らない。名前も本名かどうか分からない。性別、はかろうじて男だと聞いてはいるけれど、男の人なんて世の中には掃いて捨てるほどいるわけで。


 ポシェットに入れてきた香水瓶をそっと握りしめる。届いた日から三日間、自分につけて匂いを覚えられるように頑張ってはみたものの、手掛かりがこれだけでは合流できるのか、どうしても不安が残る。


 なにせ、このご時世にメッセージアプリのアカウントはおろか、電話番号すら知らないのだ。もう一度深く息を吐いて、香水をポシェットに仕舞った。深く吐いた反動で、通り過ぎていった『その人』から香った甘い匂いを感じ取る。


 脊髄反射で手を伸ばしていた。


 ふわりと長い茶色の髪。薄い茶色の瞳。風を孕んだ服から強く、この三日間ですっかり覚えてしまった香水が香る。


 あぁ、不安なんて、ほとんど杞憂だって言葉は本当らしい。


「みつけた」


 少し体温の低い手を握って、笑いかける。ほんの少しも驚いた様子を見せずに『その人』はにこりと笑う。笑った時に細く、丸くなる目に胸が鳴った。


「ほんとに見つかっちゃうとは思わなかった。赤い糸とか繋がってたりしてね?」


 おどけた調子で細い小指を立ててみせる仕草に顔が熱を持つ。


「なーんて。俺たち『トモダチ』だもんネ」


 小さく、距離を取られたと悟る。簡単に舞い上がる単純な心が憎かった。どうかこの熱が伝わりませんように。祈りながら、掴んだままだった手を離す。風で乱れた前髪を治すフリで俯いて、上目遣いに『その人』を伺う。


「はじめまして、っていうのもなんか変だけど。改めまして、俺は金松創かなまつそう。よろしく」


 さっき離したばかりの右手を差し出されて、短く呼吸をしてから握手に応じる。


「ぼくは、生田空いくたそら。えと、改めて、よろしくお願いします」


 創の手はやっぱり少し冷たく感じて。


 その冷たさが空の手が熱いからなんだってことには、どうか創だけは気づかないで欲しかった。にこり、と微笑んだ創に勝手ににやける顔で笑みを返す。


「空、思ってたよりちっちゃいんだね」


 腰を曲げて顔を覗き込まれる。その拍子にすっかり覚えてしまった甘やかな香りが鼻先を掠めていく。思わずドキリと反応しかけた甘さを意識の外に追いやりながら、ちょっとだけ不貞腐れた顔を意識して創を見上げる。


「そ、創が大きいんだと思う」


「あはは、ごめん。別に馬鹿にしたわけじゃないんだよ。かわいーなと思っただけ」


 口角だけあげて微笑む、その顔が思っていたよりずっと大人びて見えて、呼吸が止まるかと思った。その茶色の瞳の奥、揺らめく炎が見えた気がしたのは、たぶん、絶対、妄想だ。


「空は、今日どこ行きたいの? なんかやりたいことある?」


 創が背筋を伸ばしたせいで少し遠くなった顔を見上げながら、首を横に振る。


「創のこと知りたいなと思って、だから、創の好きなとこ、行きたい」


 ぱちくり、とわざとらしく瞬きをしてから創は顔を綻ばせた。


「空、俺のこと全力で口説いてる?」


 揶揄うような言葉に、せっかく引いた熱が勢いよくぶり返す。真っ赤に染まっているだろう顔を隠したくて俯いて、けれどこんな反応をしては思う壷だと気が付いて、視線を、あげて。その先に居る創が少しだけ頬を染めて、笑っているから。


 人前なのに泣きそうだった。


 だって、そんな顔は。


 まるで、空に恋をしているような、そんな反応は。トモダチだもんネって、わざわざ突き放したくせにあんまりだ。


「口説いてない」


 どうにか震えないようにそれだけ言葉を返して、ぐいぐいと創の腕を引く。


「ほら、どこ行くの。時間無くなっちゃうでしょ。早く行こう」


 掴んでいる腕から熱が伝わって、そのまま火傷にでもなって、そうして一生消えない傷になってしまえばいいのにと。誰にも言えないから、欲望は心の中に仕舞いこんで息を吐いた。



「空、見てみて、パンダ」


 子供みたいに顔を輝かせて、創は目の前の白黒のクマを指さす。土曜だけれどお昼時だからか、人は思っていたより多くない。入園してすぐに創が買ってくれたアメリカンドックの最後の一口にかぶりつきながら、空はパンダの前に張り付く創にゆっくりと近づいた。


 パンダの動きに合わせてふらふらと揺れる頭が可愛くておかしかった。思わず零れた笑いに耳ざとく気が付いて、創が振り返る。


「今馬鹿にしたでしょ」


「あははっ、してないしてない」


 否定しながら、ふと思いついて創の顔を覗き込みながら言葉を続ける。


「可愛いなって、思っただけ」


 ぱち、と今度こそ本当に驚いた顔で、創が固まる。


「へへっ、創の真似」


 自分で言っておいて少し気恥しくて、視線をパンダに逸らす。笹をむしゃむしゃと頬張る姿が可愛くて口元が緩んだ。隣の空気が揺れて、甘い香りが近づく。


「可愛いね、パンダ」


 視線を白黒のクマに向けたままで言えば、小さな沈黙が落ちる。何かまずい事を言っただろうか、と思わず創の方を向いた。


「かわいーのは、俺じゃなかったの?」


 どこか不貞腐れたような表情で小首を傾げる創と真正面から視線が交わる。自意識過剰、とか。パンダと張り合うなよ、とか。言いたい事はいっぱいあるのに、微笑みを浮かべる創は確かに可愛いから、何も声にならなかった。


 悔しくて、ぷい、と視線をパンダに戻す。


「あれ、自意識過剰とかって怒られると思ったんだけど……さすがに引いた?」


 逸らした視線を追うように顔を覗き込まれる。肩に触れる左手が熱かった。心臓が痛いくらい高鳴って、泣きそうで、それなのに幸せだと断言できて。


「ごめん、ちょっと距離感見誤った」


 しゅん、と肩を落とす創はやっぱりずるいくらいに可愛くて。


「引いてない。創の方が、その、ええと」


「俺の方が?」


「創の方が、かわ、いいよ、と思う」


 歯の浮くような口説き文句なんて、とても思いつかないから、今の精一杯を言葉にのせる。してやったり、と悪戯の成功を得意げな顔で喜ぶところも可愛くて文句のひとつも出てこない。


「はは。ひっでー顔」


 空のゆるみ切った頬を親指でなぞって、眉を寄せた創が掠れた声で呟く。それは空に向けた言葉というより、創の内側を引っかくような響きがあって、何も言えなかった。


 手紙だったら、もっと簡単に踏み込めたはずなのに、目の前にいるだけで、こんなにも遠い。躊躇っている間に指先が、甘い匂いが離れて、眉間に皺を寄せたままで創は笑う。


「ご飯でも食べね? 俺、腹減っちゃた」


(あぁ、君は)


 胸の内側を抉られたような痛みと共に、心の中に言葉が落ちる。


(取り繕うのが、下手くそだなぁ)


「うん。食べよう。創は何が好き?」


 踏み込む恐怖に押し負けて、空も同じように愛想笑いを浮かべた。


 こんな風に臆病風に吹かれて、嘘と世辞を塗り重ねるために会ったわけではないのにな、と創から見えない位置で強く拳を握る。食い込んだ爪が、そのまま皮膚を突き破って本当の傷になってしまえば、本音の言葉を吐けるだろうか。


 馬鹿らしい思考が頭を過って、空はそれを振り払うように小さく息を吐いた。




 楽しい時間ほど過ぎるのが早いというのは、どうやら本当らしかった。さっき会ったばかりの気がしていたのに、すっかり日は暮れて、街はオレンジ色に包まれている。


 雨で散りゆく桜のように、落ち始めた日が夜に時間を明け渡すまでは一瞬だ。終わりが近くて、それがたまらなく苦しい。


 こんなに時間が過ぎるのが早いなら、もっと朝早くから集まれば良かった。そんな後悔をしても、時間が朝に戻ってくれるわけでもなく。ぽつり、ぽつりと言葉を交わしながら、駅までの道を歩いていく。


「創は、食べ物だと何が好き?」

「今日の昼食べたコロッケパンは美味しかった」

「ご飯よりパン派?」

「どーだろ。空は?」

「僕はご飯かな。パンも総菜パンは結構好きだよ」

「あー、アメリカンドック嬉しそうだったもんね」

「美味しかったです、ご馳走様でした」

「はは、いーえ。気にしなくていーよ」

「創は、ああいうの好き? 嫌い?」

「そんな食べたことないかも」

「もったいない。美味しいから、今度絶対食べてみて。というか、今日、僕の一口あげれば良かったな」

「いーよ。帰り道にでもコンビニで買って食べるから」

「僕おごろうか?」

「いーよ、ありがとう、気持ちだけイタダキマス。そうだ、空は、色だったら何が好き?」

「色? そうだなぁ、朱色、かな」

「へえ、朱色。赤じゃないんだ」

「うん、朱色。ちっちゃい頃に買ってもらった三十色の色鉛筆に入っててさ。クラスメイトのにはない、僕だけの色だって思って、それがすごい嬉しかった」

「絵描くの好きなの?」

「昔はいろいろ描いてたけど、今はそうでもない」


 つま先で石ころを蹴りながら、伝えたいのはこんなどうでもいい昔話ではないと必死で言葉を探している。この、心臓の奥で暴れまわる感情を、的確に表してくれる言葉を求めている。


「創は? 子供の頃、何が好きだった?」


 つま先から視線を創へと向ける。足を止めた創に二歩遅れて立ち止まり、振り返る。夕日でちょうど影になって、その表情はよく見えなかったけれど、なんとなく、泣いているような気がした。


「俺、俺かぁ」


「うん、創。創のことが聞きたい」


 口元に手をあてて、創は視線を伏せたまま言葉を探している。長いふわふわの前髪が風になびくさまが、すごく綺麗だと思った。


 夕日に溶けるような白い肌も。

 口元に添えられた細く、長い指も。

 なにより、風にのって香ってくる甘い、香水の匂いが。


 金松創が、どうしようもなく、好きだった。


「おれ、は、母さんに褒められるのが好きだった、かな」


 感情の剥がれ落ちた顔の向こうで、泣きじゃくる子供を見たような気がした。


「創」


 思わず手を伸ばして、その頬に触れて、名前を呼んだ。


「僕、ぼくは、君が好きだよ」


 だから、そんな世界の全部から拒絶されたような、悲しい顔はしないで。


「字がちょっと角ばってて、季節の変化に鈍感で、パンダと競っちゃうようなところがあって、そういう君が、好きだよ」


 目を見開く創が近くで見えた。いつの間にか、二歩分の距離を詰めていたらしいと気が付く。


「君の、まだ知らないところを知って、もっとたくさん好きになりたいなって思うくらい、ぼくは、君が、」


「あーあ」


 低く、創が言葉を吐く。まだ彼のほんの表層しか知らない空にも、それが拒絶の声だと分かった。分かったから、理解出来なかった。


 だって、創の顔はほんの少しも空を拒絶なんてしていないから。下がった目じりも、眉間の皺も、噛みしめられた唇も。


 ぜんぶ、苦しそうだけど、空を拒絶しているようには見えなかったから。


「だから、『トモダチ』だもんネって言ったのに」


 今度は創の方から二歩分の距離を取られて、匂いが遠くなる。


「俺ねぇ、人間じゃないんだよ」


 唐突な言葉に飲み込むのが遅れる。


「空は、一度もおかしいと思わなかったの? 時代錯誤の文通趣味、君は一体どうやって俺を見つけたのか覚えてる? 最初の手紙を出す前、顔も名前も知らない俺と、どうやって知り合ったのか」


「そ、れは」


 答えようとして、そこに何もないことに気が付いた。そうだ。生田空は、最初の手紙を出す前から、金松創を知っていた。


「それは、俺が君の願いが引き寄せた、何者でもない『誰か』だからだ。君は願った。自分を理解してくれる人間が欲しい。自分が理解できるトモダチが欲しい。言葉を交わせる『誰か』が欲しい」


 言葉が不協和音になってコンクリートの上を転がっていく。


「そういう願いが、痛みが、俺を引き寄せるんだ」


 例えば、息子の死に耐えられなかった母親とか。

 例えば、恋人に愛されたい女子高生とか。

 例えば、まっとうな保護者を求めた少年とか。


「そういう痛みを抱えた『誰か』が、『誰か』を願ったとき、俺はそこに引き寄せられる。願いを叶えるため、泡沫の夢を見せるため」


 ────俺は『誰か』になるんだ。


 密やかに、囁くように、告げられた最後の言葉が頭の中でぐるぐると回る。言葉が出なかった。そんな事を言われたって、どうしたらいいか分からない。


 はいそうですか、これは全部夢なんですね、なんて言って、引きさがればいいのだろうか。


 こんな、爆弾みたいな感情を、植え付けられたままで?


 こんな、台風みたいな激情を、抱いたままで?


「理解できた? 俺は夢。君はただ、自分にとって都合のいい、夢を見ているだけ。そして、君の夢は、今、限界点を迎えた」


 パチン、と創が長い指を鳴らす。


「だって、夢だからね。進展も未来もありはしないんだよ。君が『トモダチ』以上を俺に求めた瞬間、好きだなんて嘯いたあの瞬間に、君の夢は弾けた」


 だから、と創の甘い声は続く。


「だから、さよならだよ。空」


 その声は優しくて、甘やかで。


 そうであるから、いっそ残酷だった。


「いやだ」


 お別れなんて冗談じゃない。だってじゃあ、この体に根付いてしまった感情は、金松創への激情は、一体どこに捨てたらいい? 一体、どうやって忘れたらいい?


「ぼくは、きみが居なきゃ、やだよ、創」


 君だって、そう思っているはずでしょう。そう思っているから、そんな風に眉間に皺を寄せて、無理やり笑っているんでしょう。


 滲んだ涙を創の長い指先が拭っていく。


「こんな傷ひとつくらいは、君に残ればいいのにネ」


「それって、つまり」


「そうだよ、察しがいいネ。安心していい。金松創は消えない。ただ、手紙が届かなくなって、世界はそこに勝手な言い訳をねじ込んで、君がそれを信じ込むようになるだけ」


 例えば、母親が息子は一人立ちしたのだと信じ込むように。

 例えば、女子高生が恋人は遠い国に留学に行ってもうすぐ帰ってくるのだと信じ込むように。

 例えば、少年が保護者はいつか必ず迎えにくるのだと信じ込むように。


「君は、俺のことなんか、俺のために泣いたことなんか、綺麗さっぱり忘れて、金松創との優しい想い出だけ抱いて生きていける」


 相変わらず眉間に皺を寄せたままで、創はゆっくりと口角をあげた。


「良かったネ、ハッピーエンドだよ。空、好きでしょ」


 溢れる涙を拭いとる指先が震えているから、余計に涙が止まらなかった。良かったね、なんて。そんなこと、創にだけは言われたくなかった。


 全然良かったね、なんて顔をしていないくせに、そんな強がりで誤魔化さないで欲しかった。


「嘘が下手くそすぎるよ、創は」


 涙を拭う指先を捕まえて、ぎゅっと握りしめる。


「分かるよ、だって僕は君の理解者を望んだんだ。分かるよ、君、今、泣いてるだろ」


 眉が下がって、目が潤んで、けれどその一粒が溢れるのを嫌がるように、創はきつく唇を噛んだ。不器用で、強がりだ。そんなところまで好きだと思った。


 なにを知ったって変わらないくらい、変えられないくらい、金松創が好きだった。


「知ってるよ、君、僕が大好きなんだろ」


 泣きながら、それでも空は得意げに笑う。ポシェットから香水瓶を取り出して、泣かないように堪えている創に向かって吹き付ける。


「俺を見つけてって、君が言ったんだ」


 匂いを覚えて。


 俺を、見つけて。


「あの一度きりの奇跡になんかしないよ。奇跡だったなんて言わせないよ。何回離れたって、何回君を忘れたって、僕はこの香りを忘れたりなんかしない」


 最初の一回、練習もなしに出来たことが、二回目には出来なくなるなんて。そんな馬鹿な話はないだろう。


「君の形が変わっても、声が変わっても、その香りが一緒なら、僕には分かるよ。分かるから、」


 ついに零れた雫を拭いながら、続ける。


「これだけは、すてないで」


 神様が気まぐれで結ぶ赤い糸なんて信じない。運命を待っているお姫様では居られない。


「迎えに行くよ。何回だって、君の香りを頼りに」


「空は、馬鹿だね」


 ぎゅっと強く抱きしめられる。忘れてしまわないように、その甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。終わりが近いと、直感で分かる。背中に手を回して、神様にだって引き離せないように、強く、強く、縁を結ぶ。


「そら」


 涙で濡れた声で名前を呼ばれる。


「好きだよ」


 知ってる、と返した声は創の胸に吸い込まれて、きっと神様にだって届きはしない。耳元に寄せられた唇が、そっと、小さく言葉を吐いた。白んでいく視界の中。朧気になっていく感触の中。その声だけが、鮮明だった。


「まってる」


 その、たった三音だけで、どこまでだって探しに行けると、思った。




 無機質なアラームに叩き起こされて、空は欠伸を繰り返す。土曜の朝、街はまだ起きていなくて、ほんのりと静けさに包まれている。部屋着のまま外に出た空の吐き出した息は一瞬だけ白く濁って、そのまま世界に消えていった。


 きらきらと光る朝焼けに染まった街並みを見て、空の顔が綻ぶ。そういえば、こんな時に、こんな景色を教えたい誰かが居たような。指先を掠めた記憶は掴み損ねた風船のように、簡単に遠くへ逃げてしまう。


 まあいいか、とぐっと伸びをして、深く息を吸い込んだ。


 そのとき香った、甘い香りを辿って、つい、と視線を右にずらす。大きな犬を連れた十歳くらいの子供が、こんにちは、と小さな声で挨拶をしてから通り過ぎていく。子供にしては随分大人っぽい香水を使っているな、とすれ違って、振り返って。


 衝動的に、その手を掴んでいた。


 どうして、なんて分からない。


 何がしたかったのかも分からない。


 ただ、この香りだけは、離してはいけないと知っていた。


「そう」


 小さく、唇が勝手に名前を呼ぶ。子供の姿が光に包まれて、弾けて、目の前に青年が立つ。ふわふわの茶色の髪。透き通った茶色の瞳。憎らしいくらい長いまつ毛に、整った顔立ち。あぁ、知っている、と思う。離さないと誓った大事な人を思い出す。


「創、おかえり」


 茶色の瞳が涙で溶けて、強く抱き寄せられる。


「空、そら、空」


 まるでそれしか言葉を知らないみたいに、創が空の名前を繰り返す。


「創」


 呼びかけを返して、続く言葉を声にしようとして、やっぱり名前を呼んでしまって困った。愛してるとか、好きだとか、大切だとか、全部まとめて言おうとすると、どうしたって名前を呼んでしまう。


「もう、離せないよ」


 縋りつくように、背中に回された手の力が強くなる。この期に及んで少しだけ怖気づいているらしい創が可愛くて、空は笑った。


「離さないでよ」


 できれば一生。もっと我儘を言うなら、来世でも、その次でも。


 神様にも、運命にも、死にさえも、引き離されてしまわないように、どうかもう二度と、その手を離さないで。

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