第2話 プロローグ及び第一章

プロローグ


 その街には不思議な都市伝説があった。


 オフィス街の癒しスポットとして、あるいは駅利用者のショートカット通路として知られる中央公園。真ん中にある噴水広場の脇には小高い丘が広がり、その頂上には一本の柳の古木がある。柳と言っても幹は太く、大人五人が腕を回さなければ届かないほどの大木なのだが、その幹に、洞があるのだ。


 一般的な大人の頭より高く、腕を伸ばさなければ届かないところにポッカリ開いた小さな洞。これが都市伝説の中心である。


 人間には誰しも消し去りたい過去や秘密があるものだ。もしこの柳の洞に自分の血で自らの名前を書いた人形を放り込めば、その過去や秘密が消し去れるかも知れない。


 この柳の木の洞は異界に繋がり、向こう側には鬼が住んでいるといわれる。ここに血染めの人形を放り込むと、世にも美しい鬼が現れるらしい。そしてその鬼に願いを伝えれば、それがどんな過去であれ未来であれ、秘密であれ悩みであれ、すべて「喰らい尽くして」くれるのだそうな。


 無論、タダとは行かない。代償は求められるものの、それさえ払えればどんなモノでも喰らえないモノはないのだという。深夜この中央公園に来る者のうち幾人かは、小さな人形を抱えていると噂は伝える。ただし、この柳の古木の洞に人形があるのを見た者は、誰一人としていない。



第一章


第一話


 塩鳥五月は二十五歳、大学を出て三年目。社会人として仕事に慣れた頃だったろう、「普通の人生」を送っていたならば。


 子供の頃に夢らしい夢はなかった。普通に大学を出て、普通に就職し、普通に会社勤めを続け、後は普通に結婚出来れば何の問題もないだろうと漠然と思っていた。それが普通の人間の普通の生活だと何の疑問も持たずに成長し、その通りに生きてきた。三年前までは。


 しかしいま、五月は真夜中の中央公園を急ぎ足で歩いていた。胸には自身の血で名前を書いた小さな人形を抱えて。消してもらうのだ。全部喰らってもらうのだ。この三年間にこの身に起こったすべてを。


 月のない夜、ポツンポツンと立つ街灯の明かりを頼りに公園を急ぐ。静かだ。世間は五月の思いなど知らず、安穏と眠りについているのだろう。それが苦しく悲しかった。だがそんな思いももうすぐなくなる。柳の鬼に喰われてしまうのだから。


 三年前、就活が上手く行かずに五月は焦っていた。もはや履歴書を見るだけで吐き気を催す始末、とにかく正社員で採用してくれる会社なら何でもよかった。だが希望企業のランクを落としても採用はされない。


 超有名大学を抜群の成績で卒業した訳ではないのだ、ある程度の不利は承知していたが、まさかここまで狭き門だったとは。書面やメールで返って来る「お祈り」の文章は社会からの自身に対する拒絶であり、自分の生き方や考え方に対する全否定だとしか思えなかった。


 そんなとき、偶然知人の紹介で知り合ったのが四郷賢三。世界に冠たる超有名大企業とまでは行かないものの、地元ではかなり名の通った大会社の社長である。期待してしまった五月を一概に責められはしないだろう。


 非正規雇用で二年働けば正社員として雇うという四郷の言葉に五月は飛びついた。二年の間も別に無給で働く訳ではない。給料をもらって仕事を覚えながら働き、二年後に正社員になれるなら十分だと考えたのだ。


 ただし。四郷の言葉には付帯条件があった。平たく言えば愛人になれということだ。過去に男と付き合った経験がないでもなかったし、セックスが嫌いな訳でもなかった。何よりそのときの五月の頭は正常な判断力を失っていた。それほど悪い条件ではないとさえ思ったほどだ。


 だが四郷が愛人として五月を扱ったのはせいぜい一年ほど。翌年にはまた若い女に乗り換えた。そしてさらに一年が過ぎたが、五月が正社員として雇用されることはなかった。こんな約束、信じる方がどうかしている。彼女が冷静にそう思えるようになったのは、追い出されるように会社を辞め、さらに半年ほど経ってからのことだった。


 いまの五月には何も残っていない。いや、一般論としてまだやり直すことの可能な年齢であることはわかる。だがもう他人も企業も世の中も信用できない。出会う人すれ違う影、みんなが自分のことを馬鹿にしていると思えてならない。汚らしい売女と蔑み嗤っている気がして仕方ないのだ。


 そんなとき、五月は中央公園の都市伝説を知った。血文字で名前を書いた人形を洞に放り込めば鬼につながり、代償さえ支払えば「どんなモノでも」喰らってくれるという。無論、信じた訳ではない。そんなオカルト話を真に受けるほど夢見がちな人間ではなかった。


 だがそれでも、いまの五月は何かにすがらなければ崩れてしまう。こんな思いをしてまでこの世界で生きていたくはないという悲しみと、それでも死にたくないという恐怖、そして何故自分だけがこんな理不尽な目に遭わなければならないのかという怒りがないまぜになって空中分解しそうだった。


 ダメでもいいんだ、嘘でもいいんだ、ただこの気持ちをぶつけられる何かがそこにあるのなら。五月は百円ショップで見つけた小さな人形に、指先を針で刺して血文字で名前を書いた。自分は何て馬鹿なことをしているのだろうと思いながら。


 そして今夜、月のない夜。五月はとうとう中央公園にやって来た。丘の上の大柳はライトアップもされず黒く闇に沈んでいる。小さなペンライトを手に、周囲に誰もいないことを確認してその根元に近づいた。


 別に丑の刻参りではないので誰かに見られても困りはしない。しかし、いまの自分の姿を誰にも見られたくはないのだ。こんな惨めで情けない姿を。


 ペンライトで照らせば、洞はすぐに見つかった。だが手を伸ばしても、あと二十センチは上にある。人形を放り投げて入るだろうか。ポンと投げ込んだが跳ね返って戻ってきた。もう一度投げ込んだが、また戻って来る。まるで五月を拒絶する社会のように。三度目の正直、今度は幾分そっと投げ込んだところ、人形は返ってこなかった。


 それだけ。


 何も起こらない。


 五月は不意に笑いだした。自分のやっていることが酷く馬鹿馬鹿しく思えたからだ。声を上げず、肩を震わせて笑った。ただ両の目からは涙が落ちていたが。


 しばらく笑った後、五月は肩を落として振り返った。とにかく部屋に帰ろうと。だが。


 あれ? 空を見上げて五月は首を傾げた。


 月が出ている。血のように真っ赤な三日月が。


 そしてその真下に人影がある。


 まるで月光の如きおぼろで儚い輝きを身にまとった少年は、何かを手に持ち熱心に見つめている。理解には数秒を要した。少年が手に持っていたのは、いまさっき五月が柳の洞に投げ込んだあの人形だったのだ。


 そのとき、少年の顔が五月の方を向いた。心臓の鼓動が鼓膜の奥を打つ。その触れたら壊れそうな美しくも悲しげな笑顔は、五月がいま紛れもなく生きているのだということを実感させた。


「塩鳥五月さん」


 顔だけではなく声も美しい。まるで夜の空気をリンと鳴らすかのような。


「は、はい」


 五月は自分の声がかすれているのを酷く恥ずかしく感じた。だがそんな些細なことなど気にする様子もなく、美しい少年はこう言葉を続けた。


「君は何を望むのかな。何を『喰われたくて』ここにやって来たのかな」


 五月はしばし迷った。少年を疑った訳ではない。それどころか、こうも美しい少年が鬼でないはずがないとさえ思った。ただこんな美しい少年に、醜く汚らしい自分の過去を話すのは気が引けたのだ。しかし少年は静かに待っている。


 五月は心を決めて口にした。


「過去を、私のこの三年間の後悔を食べてしまってほしいんです」


「三百万円」


 少年は指を三本立てている。


「え?」


 そのあまりにも現実的に過ぎる言葉は、五月を戸惑わせた。しかし少年は平然と続ける。


「地獄の沙汰も金次第って言うよね。お金は使い道が多いし、いくらあっても邪魔にはならないんで。一年あたり百万円、三年で三百万円用意できるかな」


「三百万円用意したら、本当に過去がなくなるんですか」


「うん。綺麗さっぱりね」


 方法や根拠の提示はまったくない。信じられる理由など何もなかった。ただ一つ、少年の笑顔を除いては。


「……わかりました。用意します」


「ハイ、契約成立。じゃあ早速こちらは動きだすから、しばらくはニュースとか気を付けておいてね」


「ニュース?」


 どういうことだろう。意味がわからない。しかしその疑問をぶつける訳には行かなかった。すでに少年も、そして赤い三日月も姿を消してしまっていたから。



第二話


 社長専用車がリムジンである必要性はまったくない。普通のセダンで十分だし、広さを求めるならワンボックスでいい。それくらいは四郷賢三にもわかっている。そこを敢えてのリムジンである。


 四郷を後部座席に乗せた白い社用リムジンは、夜の湾岸道路を走っていた。今日は何かあったのだろうか、珍しく車線に車の姿が少ない。ほとんど貸し切りの様相だった。


「明日の予定は」


 四郷がつぶやくと、進行方向に背を向けて四郷と向かい合わせに座っている秘書が、膝上に置かれたタブレット端末を操作する。


「はい、十一時より甲建鉄鋼の樹原部長様を招いて昼食会……」


 秘書の声が止まる。スカートを押さえて。その閉じた両脚の間に、四郷の爪先が割り込もうとしていた。


「あの、社長」


「どうした。予定は」


「昼食、昼食会は十三時まで、十、四時、から」


 秘書は必死で脚を閉じようとするが逃げ場はない。背後の運転手に助けを求められないものかと振り返るが、リムジンの後部座席は運転席と完全に切り離されている。四郷の足先に一層の力が加わった瞬間。


 リムジンに急制動がかかる。シートベルトをしていなかった四郷は思い切り前のめりになり、秘書の膝に鼻をこれでもかと打ちつけてしまった。


「何をしている!」


 四郷は怒鳴ったものの、それが運転手に聞こえているかどうかすらわからない。席に戻り、肘掛けにあるマイクのスイッチを入れて改めて怒鳴った。


「いったい何があった!」


 マイクの故障でもない限り、これは聞こえているはずだ。しかし、やはり反応がない。様子を見に行かせるべく秘書に声をかけようとしたが、打ちどころでも悪かったのか気を失って倒れている。


「クソッ、どいつもこいつも」


 悪態をつきながら四郷はドアを開けリムジンを降りた。外はしんとしている。車の通る気配はない。空には真っ赤な三日月が煌々と輝き、そしてリムジンのボンネットのノーズには、身長二メートルを超えているであろう筋骨隆々の巨漢が片足を乗せていた。


「な、何だね君は」


 思わず口に出してしまってから四郷は一歩後ずさった。暴漢や強盗の類なら刺激するのはマズイと気付いたのだ。しかし三日月の光を背にした巨漢は激高する様子もなく、ただ四郷を見下ろしているだけ。


 と思いきや、不意にこう口にした。


「なあクロード、コイツ食っていいよな」


 すると仲間がいるのだろうか、背後の闇の中から笑う声がした。


「ダーメ」


「生かしてたって面倒くせえだけだぞ、こんなの」


「面倒くさいことが価値を生む場合もあってね」


 闇の中から現れたのは、まるで月光のようにおぼろで儚げな輝きを身にまとった、美しく小柄な少年。その手に小さな人形のような物を持ち、ゆっくりと四郷に近付く。


「四郷賢三さん」


 自分の名前を知っている。この状況で。つまりこれは自分を狙っての行動なのだと四郷は理解した。いけない、すぐに逃げなくては。いや、走っても追いつかれる。ここはリムジンの中に立てこもって警察を呼ぶのが確実だ。


 四郷の頭はそう考えている。なのに体は動かない。その目はまるで魅入られたように、歩み寄って来る美しい少年を見つめ続けた。


 少年は微笑む。


「別にあなたに恨みがある訳でもないんですけどね、約束しているのでちょっと『喰わせて』くださいな。大丈夫、死にはしませんから」


 何を言っているのだ、この少年は。私を喰う? どこを。何を。


「あなたが他人から奪った時間を、ちょっとだけ利子をつけて」


 そう言うと、あーん、と口を開けた。


 ばくり。


 頭の中で音が響いて、四郷賢三はその場に卒倒した。



◇ ◇ ◇



 偶然現場を通りかかったトラックの運転手が救急車を呼び、四郷賢三は病院に搬送された。以後三日間昏睡状態が続いている。女関係で問題は多かったものの、会社の経営が順調なのは四郷の強引かつ思い切りの良い方針があってのこと。家族や会社の関係者が本人の体調より今後の仕事のことを心配したのはむべなるかな。



◇ ◇ ◇



 診察室で担当医は憔悴した家族に向かってこう現況を述べた。


「いったいどのような事が起こったのかは不明なのですが、事実だけを申しますと、賢三さんの脳は損傷しています。あ、いや、命に別状はありません。脳の損傷は必ずしも生命の危機に直結するものではないのです」


 医師はパニックになりそうな四郷の家族を落ち着かせた。


「もちろん重体ですし、今後の経過を注意深く観察する必要はあります。しかし現在の状態を維持できるのであれば、いずれ社会復帰も可能となるはずです」


 この説明に家族は安堵の表情を見せたが、医師はこう続けた。


「なかなか原因を考えにくいことなのですが、今回の損傷は脳に傷がついたというより、まるで脳の一部が取り去られたかのように見えるのです。理由はまったくわかりません。ただ一つ間違いなく現段階で言えるのは、賢三さんには重度の記憶障害が残ります。こればかりは避けられないでしょう」


 そう言い終わったのと、診察室の内線電話が鳴ったのはほぼ同時。ナースステーションからの連絡は、明るい看護師長の声だった。


「先生、四郷賢三さんの意識が戻りました」



◇ ◇ ◇



 空には赤い三日月。中央公園の大柳の下で塩鳥五月は少年に封筒を差し出した。受け取った少年は封筒の中身をざっと確認しうなずく。


「はい、キッチリ三百万。ありがとうございます。銀行振込でも良かったんだけどね、やっぱり現金は重みが違うなあ」


 この三百万円をどうやって工面したのか、そんなことはたずねようともしない。でも五月はそれで良かった。


「ニュースで見ました、四郷賢三のこと。もう意識は戻らないの?」


 この問いは、そう願っているという意味だろうか。だが美しい少年は平然と首を振る。


「意識は戻るよ。もうそろそろ戻っている頃かも知れないね。ただし」


 不安げな五月の顔に、少年は伸ばした手でそっと触れた。


「彼はもう、君の知ってる彼じゃない」



◇ ◇ ◇



「四郷さん、わかりますか。ここは病院です」


 医師の問いかけに、ベッドの四郷賢三はまだ焦点の定まらぬ目を動かしながら返事をした。


「病院……どうして」


「車で事故に遭ったのです。四郷さん、ご自分の名前がわかりますか」


「名前……四郷……賢三」


 ベッドを取り囲む医師と家族は、笑みを浮かべうなずき合う。これは思ったより早く回復するかも知れないと。


 医師はさらに問うた。


「四郷さん、ご自分の歳は、年齢はわかりますか」


 すると四郷は小さくうなずき、こう答えた。


「うん。八歳」


「……は?」


 唖然とする医師と家族を不安げに見回しながら、四郷賢三はもう一度答えた。


「四郷賢三。八歳」



◇ ◇ ◇



 赤い三日月の下、少年は微笑んだ。まるで美しい天使のような顔で、しかし絶対に天使のものではない言葉を口にしながら。


「四郷賢三は残りの人生、死ぬまで八歳で生き続ける。だから二度と君のことを思い出したりはしない。彼にとって君はもう存在しないに等しい。君の過去はほぼ消失したんだ。後は」


 少年は両手で五月の頬に触れ、あーん、と口を開いた。


 ばくり。



◇ ◇ ◇



 何をしているのだろう。塩鳥五月は辺りを見回した。月もない暗い夜、ここは中央公園だろうか。何故こんな場所に立っているのか、意味がわからない。酒を飲んだ記憶はないのに。とにかく家に帰ろう。


 ああ、それにしても三百万円か。自分がサラ金に借金をするなど考えてもいなかった。借金を返すための借金。一本化と言えば聞こえは良いのだが、果たしてこれから自分はどうなってしまうのか。


 まあグダグダ考えても仕方ない。借金は増えているのに、何故か気分は前向きなのだ。自分には明るい未来が待っている。きっとそうに違いない。よーし、明日から頑張るぞ! 五月は丘を駆け下り、駅へと向かった。明日が来るのは当たり前のことだと信じて。




第三話


 この匂い。生き血の匂い。死の匂い。


 破滅と苦悶と絶望の匂い。


 心惹かれる。心震える。


 呼び起こされる彼方の記憶。


 父さん、あなたは立派な方でした。


 それに引き換え私はまだ、未熟、不足、満たさず。


 おお、神よ。名もなき異界の暗黒神よ。


 このか弱き無能なる存在に御力を。


 さすればこの力なき穢れた身は己に鞭打ち、聖なる供物を捧げましょう。


 そしていつの日にか、穢れなき「贄」を捧げる際には、我が積年の願い叶え給う。


 

◇ ◇ ◇



 安アパートの一室に、スーツ姿の刑事が三人。五人の鑑識課員と共に歩き回っている。狭いがよく整理されている部屋なので足の踏み場はあるのだが、鑑識が作業中なため、どこでも踏んでいい訳ではない。何かの宗教舞踊のような有様で、持ち上げた爪先を下す場所をウロウロと探している時間が長い。まったく、こんなことをするために現場検証に来た訳じゃねえぞ。係長は胸の内でそう一人ごちた。


 そのとき、部屋の外から戻ってきた刑事が一人、ドア前の三和土に立ってこちらを見た。


「係長、害者の身元が確認できました。えー、塩鳥五月、二十五歳。現在は無職のようですね」


「無職でアパート借りてたって、親からの仕送りはあったのか」


「その辺は別班が調べてます。塩鳥五月自身は去年まで工場で派遣社員をしてました。この工場時代に何かあったか、調べにやってます」


 係長は了解したというようにうなずいた。怨恨、知縁、男女関係、物盗り。いまの段階では何だって考えられる。しかし金のあるようには見えないし、室内が荒らされた様子もない。被害者に性的暴行が加えられた形跡はないから、おそらくは殺すことが目的だったんだろう。だが近隣住民から怒鳴り声や悲鳴を聞いたという話はなかった。


 心臓を刃物で一突きにされながら。


 そして極めつけが、これだ。意味がわからん。


 壁に押しピンで貼り付けられたコピー用紙。そこには一言、GAMEの四文字が。これは何を意味するのか。いったい誰が貼り付けたのだろう。もし被害者自身の手によるものでないとするなら、犯行声明という可能性もある。「これは殺人ゲームだ」とでも言いたいのだろうか。


 係長が首をひねっていると、入口に気配が。振り返ればスーツ姿の刑事らしき二人連れが入って来ている。だが彼の同僚でも部下でもない。


 手前の短いボサボサ髪でそばかす顔の女――たぶん女だ――が係長を見つけてチョコンと頭を下げる。


「すんませーん、特遊ッス。お邪魔しまーす」


 係長が許可もしていないのに勝手に部屋に上がる。その後ろに続く背の高い、ちょっとしたモデルにも見えるイケメンが、やれやれと言う顔でため息をついている。


 若い刑事が不審げな顔で係長の隣に立った。


「誰ですか、アレ」


「何だおまえ、知らんのか。県警本部長直属の特殊遊撃任務班だよ」


「特殊……遊撃」


「墓荒らしだ。聞いたことあるだろ」


「あ、ああ! なるほどアレが」


「シューマツんとこの『よもすえコンビ』だ。関わり合いになるなよ、馬鹿が移る」


 吐き捨てるように言うと、係長は背を向けた。



◇ ◇ ◇



 そばかす顔の女刑事は、部屋の角に立って室内全体を見回している。


「ねえ、ポンコツ先輩」


「その呼び方はやめろ、四方よも


 慣れているのかモデル顔のイケメンは、いちいち腹を立てないようだ。しかし四方と呼ばれた女刑事も表情を変えない。


「普通、人が殺された直後の現場ってこう、霊が騒ぐもんでしょう、ポン……末永さん」


「俺には霊感なんてないからな、そういうのは理解できん」


「おっかしいなあ。静かすぎる」


 部屋をグルリと見回した四方は、壁に貼られた紙に目を止めた。


「GAMEか……どう思います、末永さんは」


「どうもこうも。殺人をゲームとして考えているシリアルキラーか、さもなきゃ何らかの理由でそう見せかけたいヤツなんだろう、犯人は」


 末永が真面目な顔で答えると、四方はニッと笑った。


「ゲームってゲームとは限らないんスよ、知ってました?」


「おまえの日本語は意味がわからん。わかるように話せ」


 すると、やれやれといった顔で四方は説明を始める。


「いまゲームっていうとテレビゲームとかボードゲームとかカードゲームとか思い出すじゃないッスか。もしくはスポーツの試合とか。でも本来的にゲームって言葉には『狩猟』って意味があるんスよ。さらに言えば、狩猟で獲った『獲物』のこともゲームって言うんス」


 これに末永は困惑した面持ちで答えた。


「言葉の意味がそうだとして、この件にシリアルキラーが関わってる可能性は変わらんだろう」


「相変わらず頭固いッスねえ。可能性は変わらなくても種類が変わるじゃないスか。人殺しそのものを楽しむヤツと、別の目的のために平然と人を殺すヤツは同じ行動を取らないッスよ。この犯人がどっちなのか、判断は難しいんじゃないスか」


 そう言う四方の目はギラギラと輝いている。もしおまえが犯人だったらどっちなんだよ、末永はそうたずねかけてやめた。



◇ ◇ ◇



 仕事帰りに馴染みの居酒屋でビールを三杯ほど。唐揚げとサバの煮つけで小腹を満たしていい気分。なんてのは昔なら当たり前だったんだがな、いまどき新聞記者、それも大手全国紙じゃない地方紙の記者の懐にそんな余裕があるはずもない。


 今日はおとなしく家に帰って冷凍コロッケをチンして――これもたまの贅沢だ――缶ビールをわびしく飲むとしよう。ああ、景気のいい話はないものかねえ。


 なんてことを夜道を歩きながら考えていると、胸ポケットのスマホが振動した。何だよ、まさかいまから呼び出しか? 勘弁してくんねえかなあ。


 ため息をつきながらスマホの画面を見れば、非通知ときた。おいおい馬鹿かよ、こんなもん誰が出るか。だがスマホはいつまで経っても振動を止めない。面倒くせえ、電源を落としてやろうかとも思ったものの、何だろうこの嫌な予感は。


 違うな。嫌な予感じゃない。寒気がする、怖気立つ、そんな感じだ。とにかく出ないと後悔しそうな気がしてならない。


 仕方ない、とりあえず出てみるか。


「……もしもし、誰だ」


 すると電話の向こうから聞き覚えのある声が。


「やあこんばんは、湖東さん」


「おっ! お、お、おまえクロードか?」


「へえ、声だけでわかるもんなんだね。意外に記憶力がある」


 えらく失礼なことを言われている気がするが、いまはそれどころじゃない。


「何でおまえ、俺の番号知ってるんだ」


「まあそれはこの際どうでもいいとして」


 いや、良くはねえだろ。突っ込みたかったがクロードの話の方が気になる。


「湖東さんにちょっと聞きたいことがあってね」


「俺に聞きたいこと?」


 俺の方がおまえに聞きたいこと山ほどあるんだぞ、そう言いたいのを我慢しながら話を聞いた。


「今日アパートで死体が見つかった事件、湖東さん知ってるよね」


「アパートで? ああ、二十五歳の女が死んでたってヤツか。アレなら紙面に書いてある通りだぞ。有料記事じゃないからネットでいますぐ読める」


「うん、読んだ。でも書いてないことあるよね」


 首の後ろの毛がチリチリと逆立つような感じ。


「詳しいこと教えてくれないかなあ」


「詳しいって言われてもな、俺も現場まで行った訳じゃないし、警察の発表は記事の通りだ」


「その警察発表以外のことを」


「いや、あのなあクロード」


 確かに警察発表だけが事件のすべてじゃない。だけど俺だってマスメディアの端っこにいる人間だぞ、確認もしてない情報を勝手に関係者以外に話すとか。


 するとクロードはいきなりこんなことを言ったのだ。


「いま湖東さんの口座に五万円振り込んだんで」


「なっ……いや、おい」


「で、何があったの」


「何って」


 ダメだ、ごまかし通せる自信がない。俺は一つ大きなため息をついた。


「これはまた聞きのまた聞きだから、大間違いの可能性もあるぞ」


「うん、いいよ」


「被害者の部屋の壁に紙が貼ってあったんだそうだ。アルファベットでGAMEって書かれた紙がな。警察はシリアルキラーの可能性を考えてるって話だ」


「なるほど、わかった。じゃ、また何かあったら連絡するんで」


「いやいや、また何かっておまえ」


 電話は切れた。俺は思わず空を見上げたが、赤い三日月はかかっていない。もう一度ため息をつくと、俺はスマホで銀行口座を確認した。唐揚げでも買って帰るか。



第四話


 深夜、路地から見上げるアパートの二階の一室にはまだ規制線が張られていた。塩鳥五月が殺された部屋。別段思い入れのある人間だった訳ではない。いつものように勝手な願いを口にして代償を支払っただけの人間。クロードはただ喰らっただけ。それ自体は生活の一部である。


 誰かに願われなくてもクロードは何かを喰らっている。そこに目的を持たせたからといって本来感謝されるようなことではないし、代償を求めるような話でもない。それでも代償を支払わせるのは、半分は興味本位の試しであり、残り半分は人間がそれを望むからだ。


 代償を支払うことによって人間は満足する。おかしな習性だとは思うが、昔からそういうものだった。もちろんときには代償が大きすぎると文句を言ったり、オマケしろと主張する者もいたりするが、代償を一切支払わない者は滅多にいない。代償を伴わない行為を信用していないのかも知れない。そのくせ「無償の愛」などという言葉に夢を見るのだから不思議なものだ。


 小さく苦笑したクロードの背後に突然大きな影が立った。


「どうだった、タマ」


 振り向きもしないクロードの問いに、筋骨隆々の浅黒い巨漢は面白くなさそうに答える。


「何にもなかったぞ。紙なんて貼ってなかった」


「そうか、やっぱり警察が回収したんだね。他には」


「いやだからよ、何にもないんだ、あそこの部屋には」


 クロードは不思議そうな顔でようやく振り返った。


「何にも?」


 巨漢タマハガネはこれにうなずく。


「人間が殺されたら残留思念だの何だのあるはずなんだがな、そういう霊的なもんが一切残ってない。家具はあるけど誰も住んだことのない部屋みてえだったぞ」


「ふうん、そりゃおかしいね」


 いま「何もない」ということは、「何かあった」ことの裏返しである。いったい何があった。自分の知らないところで何かが起こっている。それはクロードにとって知的遊戯への誘いだった。


「よう、クロード」


 一方のタマハガネの顔には少しばかりの不快感がある。


「何か見られてるぞ」


「みたいだね」


 クロードは足元に目をやった。街灯の明かりの中、アスファルトの端のひび割れから雑草の葉が伸びている。


「へえ、こんなことができるんだ」


 そうつぶやいたとき。


 暗い路地の奥から足音が聞こえる。一人。光の中に現れたのは袖の膨らんだ純白のワンピース姿。長い髪を後ろでまとめた若い女。左手に持つ四角い白い板は小さなキャンバスか。そして右手には絵の具のついていない絵筆。


 女は立ち止まり一礼する。


「お迎えに上がりました」


 しかし突然の申し出にもクロードは笑顔を返す。


「何で一人なのかな」


 困惑する女に向かって、さらにこう続けた。


「僕は君たちにお迎えされるいわれはないし、二人で来ながら一人しか顔を見せないのも気に食わない。そもそも、君たちには興味が湧かない」


 白いワンピースの女は口元に静かな笑みを浮かべる。


「失礼いたしました。説明は移動の道すがらにと考えておりましたので」


「面の皮が厚いのはいいことだよ。人間はナイーブに過ぎるからね」


 クロードは言外に告げている。これ以上話すことはないと。女は困った顔を浮かべた。


「手荒な真似は本意ではないのですが」


 そう言うと女はキャンバスに絵筆を走らせた。絵の具のついていない乾いた筆、何も描けるはずはないのだが。


 クロードはやれやれという風にため息をつく。


「タマ、食べていいよ」


「よしきた、任せろ!」


 意気揚々と駆け出したタマハガネだったが、突然体の動きを止め、そのままバタンと倒れ込んでしまった。


 女の手にしたキャンバスには、どうやって描いたのだろう、体を鎖でグルグル巻きにされた写実的なタマハガネの姿が。


「申し訳ございませんが、お仲間を封じさせていただきました」


 女の顔にはいささか得意が浮かんでいる。


 これにはクロードも少し驚いたようだ。


「ゲームなら状態異常系ってとこか。へえ、厄介だね」


「これ以上の荒事はこちらも望んでおりません。ですから」


「でもそんなんじゃダメだよ」


「は?」


 不審げに眉を寄せる女に、クロードは微笑んだ。


「うちのタマは脳筋だから」


 その瞬間、女の視線はクロードを離れ、自らの左手にあるキャンバスに向けられた。震えている。キャンバスがビリビリと音を立てながら震えていたかと思うと、突然バリッと大きな音を立てて破け去った。


 唖然とした顔の女の目の前で、タマハガネは悠々と立ち上がった。ニッと牙をむき出して。


「さあ、食わせろ!」


 猛然と走り出す巨躯。女はいったいどこから取り出したのか新しいキャンバスを手にしていたが、いまから何かを描ける時間などありはしない。普通なら。


 しかし何かがタマハガネの足首に巻き付いたために盛大に転倒し、その隙に女は岩に押しつぶされる巨漢を描いた。


「ぐえぇっ」


 タマハガネは見えない岩に押しつぶされている。その足首には道路脇から伸びた雑草の葉が巻き付いていた。


「植物使い、か」


 クロードのつぶやきに応じた訳ではないのだろうが、闇の向こうから緑色のワンピースを着た、黒い肌の小柄な少女が飛び出してきた。


「ホワイト!」


「グリーン、出て来ちゃダメ!」


 白いワンピースの女は叱るように振り返ったが、緑の少女は知らぬ顔で、白い女をかばうように立った。


「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないでしょ、コイツらの動き止めなきゃ」


 そして両手を前で交差して叫ぶ。


「絞めろ!」


 すると四方八方の雑草が風の速さで葉を伸ばし、クロードの体に巻き付く。


「いまのうち。完全に封じちゃって、ホワイト」


「わかった!」


 白いワンピースの女がさらに新しいキャンバスを取り出した、そのとき。


 ばくり。


 音を立ててキャンバスが消えた。


 ばくり。


 女の足元に置かれた、岩につぶされるタマハガネを描いたキャンバスも消えた。


 ばくり。


 クロードに巻き付く草の葉も消えた。


 両の目に怒りの炎を燃やしたタマハガネが立ち上がった向こう側で、クロードは口をモグモグさせている。


「いやだねえ、不味いモノを食べるのは」


 タマハガネは振り向かずにたずねる。


「ようクロード、二人とも食っちまっていいよな」


「いいんじゃない。僕は興味ないし」


 口が裂けるように耳元までニイッと吊り上がり、身構える二人に向かって駆け出そうとしたタマハガネだが、不意に顔面を抑えて悲鳴を上げた。


「ぐおぉあああっ!」


 そこに誰もいなかったはずの闇から声が。


「二人とも、逃げる!」


「え、バイオレット?」


「いいから逃げる!」


 その声に促され、白と緑のワンピースは背を向けて走り去った。残されたのはクロードと、唸り声を上げてのたうち回るタマハガネ。


 ばくり。


 クロードがまた口を閉じると、タマハガネの唸り声は止まった。「痛み」を喰らったのだろう。


「何があった」


 問うクロードに、タマハガネは胡坐をかいて座り込みながら答える。


「畜生、何かが俺の目を焼きやがった。あの野郎」


「野郎じゃなかったけどね」


 クロードはクスッと笑い、夜の闇を見つめた。この闇の中で何かが動きだしている。おそらくは面白いことと、そうでもないことの二つが。さて、どうしたものやら。

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①悪食の喰鬼(クロード) 柚緒駆 @yuzuo

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