第42話 昇天

 温泉場の空き地に人だかりがある。10年ほど前に雉女たちが神楽を演じた場所だ。中心にいるのは笛を吹き、太鼓をたたいて陽気に人形芝居を演じる傀儡子たちだった。取り囲む武士や百姓が、大人も子供もやんややんやと歓声を上げて興じている。


 音楽を聞きつけた雉女の子供たちが一目散に走りだし、見物客の中に分け入った。一番下の娘だけが、サトの腕の中でスヤスヤと寝ていた。


「雉女か? 雉女だな」


 人形芝居を終えた爽太がやって来て雉女を抱きしめた。その後に伊之介の顔もあった。


「元気にしていたか?」


「お蔭さまで……」と挨拶した後、城に入った勝之介が他界したこと、逢隈川の流れが変わって家が川向こうになったことなど、感情を殺して短く伝えた。


「そうか、勝之介が死んだか……」


 爽太と伊之介の声が沈んだ。しかし、それもわずかな時間だった。傀儡子は死を受け入れるのに慣れている。


 みんなで湯に浸かって思い出を語り合うと、離れ離れに過ごしていた10年もの歳月が一瞬で埋まった。その後は宴会になり、太鼓を打ち、歌を謡って騒いだ。


 夜が更けても若い男女は火を囲んで宴会を続けたが、雉女は幼い子供2人を連れて熊蔵と梅香の小屋に入った。


「雉女は昔と変わらないなぁ……」


 そう言う熊蔵と梅香はすっかり歳を取っていた。


「ワシは兄者が死んでから気力をなくした。瞳も灰色に濁り、ものもぼやけて見える。足腰も弱り、今では馬に乗せられて旅をする始末だ」


 熊蔵がぼやいて苦笑した。


「こんな田舎にいると世の中のことがわかりません。蔵之介さまの話では、ずいぶんと乱れているとか……」


 雉女は熊蔵の好みそうな話題を持ち出し、昔、会津の山奥で出会った小さな神主を思い出した。自分は彼と同じことを訊いているではないか……。彼のことを都に憧れる阿呆だと思ったが、自分も世間知らずの阿呆なのだ、と思った。


「そうよなぁ。頼朝公亡きあと、鎌倉は疑心暗鬼……。北条ほうじょう比企ひき和田わだ三浦みうら……、権力に魅かれる鬼どもが右往左往している。その隙をついて、京の連中も幕府に手を突っ込んでいると聞く。全くりない連中だ。クワバラクワバラ、権力などというバケモノに近づくものではないぞ……」


 昔なら声をあげて笑った熊蔵が、眼をしょぼしょぼさせてなげいた。


「でも、蔵之介さまは、その権力が好きそうです」


「分かるか? 残念ながら、あいつは狐だ。虎の威を借りる、なぁ……。兄者の背中を見て何を学んだのか……。傀儡子も宗旨しゅうし替えすべきかもしれないが、何分、ワシはこの歳だ。その気力さえない」


「力蔵さんの後、熊蔵さんが長者になれば良かったではありませんか」


「今言ったばかりだ。ワシには気力も体力もない。第一、蔵之介を後継者にしたのは兄者だ。ワシがどうこう言ってよいことではない」


 彼は言葉を切って小さなため息をついた。


「……ワシもなぁ、とっくに兄者が逝った歳も過ぎた。こんなおいぼれが、蔵之介に捨てられないのが不思議だわい。それだけはアイツも兄者から学んだのかもしれないて……」


 彼が苦笑いを浮かべる。


「そのような弱気では、若い者たちが困りましょう」


「ワシの話など、年寄りの愚痴にしか聞こえんのよ。特に蔵之介にはなぁ。他の連中も似たり寄ったりだが……」


「そんな言い方をするから、年寄りのひがみだと笑われるんだよ」


 梅香が注意するのを、熊蔵は無視する。


「どうだ、雉女。ワシらとまた旅をするか? そうしたらワシの気力が戻るかもしれん」


 そこで熊蔵が目尻を下げた。その様子に梅香が「今日はよくしゃべるね」と笑った。


「旅ですか……」


 義経を求めて冬山を越えたことを思い出す。そこには最愛の勝蔵がいた。


「いや、冗談だ。……貴族は衰えた。鎌倉がもめているとはいえ、武士の世であることは固まった。彼らの領地を出入りする旅は危険極まりない」


「私は傀儡女です。旅を恐れません。……そうですね。一緒に参ります。連れて行ってください」


 三郎太に対する失望がそう言わせた。


「おうよ。雉女が立派な傀儡女だということは、誰よりもワシがよく知っている。この地を離れられるということは、勝蔵の魂からも解放されたということだな?」


「いいえ。……どれだけ多くの英雄と床を共にしようと、勝蔵さまのことは忘れられませんでした。あの人は、死んだ後も洪水で死にかけた私を救ってくれたのです。きっと今でも羽山の空から見守っていてくれる。ですから、この空の続くところなら、私は大丈夫です。それに、子供たちにも広い世界を見せてあげたい」


「そうか……。まだ、雉女の中で勝蔵は生きているのだな。ワシは勝蔵が羨ましい……」


 そこで熊蔵は態度を変えた。柔和な顔を真顔に作り替えると灰色の瞳が雉女を見つめた。


「しかしなぁ。これからは武士同士が争う時代だ。敵味方で戦う彼らの領地を歩くのは、狼の群れの中を歩くようなものだ。土地の行き来が難しくなり、これまでのような傀儡子が自由を楽しめる時代は終わるだろう。雉女の息子たちが広い世界を知ったところで、命を失っては元も子もない。このままここで伊達の保護を受け、村の者たちと喜びを分かち合うほうがいい」


 雉女は、お前は傀儡女ではない、と言われたようで面白くなかった。それを察したのか、熊蔵が言葉を続けた。


「なあに……、ひと所に住んだとはいえ、これまで立派に傀儡女をしてきたではないか。あのように子供たちも多い。太郎やサトまで養っている。ワシは雉女を見て悟ったのだ。旅をするから傀儡子ではない。他人のげんを恐れず、己の力で大地に立ち、仲間と幸せを分かち合う。それこそが傀儡子の生き方だとなぁ」


 熊蔵が薄い笑みを浮かべた。


「雉女よ。ワシを抱いてくれ」


「エッ……」老齢の熊蔵が女を抱けるのか、と驚いた。が、すぐに自分の早合点に気づいた。


「さあ、近くに寄れ……」


 手招きされ、熊蔵の隣に座った。次第に彼の体重が雉女の肩に掛かってくる。


「雉女は温かいのう。初めて抱いた時を思い出すわ。まだ白拍子の静のころだ。……あれから雉女は変わっていないが、ワシは老いた。……もうじきなぁ、百太夫が迎えにくる……」


「百太夫さまが?」


「ワシの寿命は尽き、……百太夫がワシの魂を抱いて空に昇るのよ。空から見る地上は、どんなだろうなぁ。……早く見てみたいものだ」


 笑ったのだろう。熊蔵の肩が揺れた。


「冗談はお止めください」


「なんだ。案じているのか……」


 今度は、唇の端だけで笑った。


「死人の魂は天に帰る。白装束の使いが天からやって来るのだ。……古今東西、そのことに違いはない。ワシは国中を回ってそれを知った。……傀儡子の元に来るのは百太夫よ。偽りではないぞ」


「熊蔵さまは物知りですねぇ」


「知っただけでは足らんのだ」


「はい。信じます」


「いや、実践するのだ。……何事も実践しなければ意味がない」


 熊蔵の身体は更に傾き、雉女の膝を枕にして横たわった。


「熊蔵さま。天に昇る実践など、必要ありませんよ」


「スマン……。雉女は弁才天。既に実践しておったな。……ワシの負けだ」


「そんなことはありません。私は好き勝手に生きているだけですから」


「いやいや……」


 熊蔵の声が止み、スースーという静かな寝息に変わった。赤子のような寝顔をしている。


「寝たようだね。膝から下ろすといい」


 梅香に促されたが、雉女はそうできなかった。動かしたら、熊蔵の魂が身体から転がり落ちそうな気がしたのだ。彼の肩を撫でながら、伊之介や太郎たちが奏でている太鼓や笛の音に耳を傾け、うとうとと時を過ごした。


 ――ホー、ホー、ホッホー……ふくろうが鳴く。遠くで鳴りつづけていた太鼓や笛の音が止んでいた。それで、自分がいつのまにか寝ていたのだと気づいた。どれだけの時が過ぎたのかわからなかったが、膝の上には、まだ熊蔵の頭があった。


「熊蔵さま、そろそろ床で休みましょう」


 肩を揺すってみたが返事がない。不安を覚えて顔を寄せた。身体には温もりがあるのに息はなかった。


「熊蔵さま……、熊蔵さま、どうしたのです? 息をしてください」


 肩を揺すると、目覚めた梅香が熊蔵を抱いて叫んだ。


「あんたぁ!」


「熊蔵さま!」


 呼びかけても、身体を揺すっても、微笑を作った熊蔵が目覚めることはなかった。


「なんとも気持ちよさそうに逝ってしまったねぇ。若い女の膝で逝くとは、この人らしい……。無事にお行きよ」


 梅香が夫の頭を撫でた。


 ひとつの時代が終わった。……雉女は境川で死にぞこなった昔を懐かしく思いながら紙人形を熊蔵の懐に入れた。

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静 ――義経を捨てた白拍子―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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