第5話:天の龍、橘を恋ふこと(壱)

 王宮の最上階から何の命綱もなしに飛び降りて顔面強打。なのに鼻の頭が赤くなるだけとは、龍族はいったいどんな肉体をしているというのか。

(これはただの得物ではとうてい歯が立たないだろうな)

 なるほど、この国の始祖に龍族の伴侶がいたというのは、敵対国にとっては悪夢のような話だったろう。なぜか私が落とした拳は効いたらしくたんこぶになった、というのは意味不明だが、まあ、ヒトの常識で推しはかろうというのがそもそも間違いなのだ。多分。こういうことは深く考えるとドツボにはまる。

 えぐえぐ泣きべそをかきながら人の服の裾を掴んでどこに行くにもついて回られる苛立ちも、十日もすれば慣れた。十日経ってまた元の幼女と見紛う姿に戻ったせいだろう。自分より頭ひとつデカい男にべったり貼りつかれていた時の精神的苦痛とは比べるべくもない。

 そういえば、元の姿に戻ったこのエセ幼女を見て、当代皇帝が愕然としていた気がするけれどアレは大丈夫なのだろうか。当代殿がやば、とか小さく呟いていた気もしたけれども。

(……まあ、結局は他国の事情だからな)

 龍君がエセ幼女に戻った日の夜から、陛下の寝室の扉に当代殿がべったり張り付いて大謝罪大会状態になっているとか、根負けするまであと幾晩かかるか一部官吏たちが賭けをしているだとか、聞いたような聞かなかったような気もするが、きっと気のせいに違いない。はははまさか、妻を寝室から追い出し籠城戦など、うぶな生娘めいたことを陛下がなさるはずがないとも。御歳三桁に迫ろうかという御二方だぞ?

 見ざる聞かざる言わざるの精神は尊いものである。既にこの国の最重要機密に引っ付き回られているのだ。これ以上のもめごとなどご免被る。

「橘は冷たいのじゃあ……なにゆえ妾をこんなに邪険にするのじゃ……」

「自分の胸に手を当ててよっく考えてみたらどうっすかね」

「け、敬語に戻っておる……!」

 ぶわ、と天龍の瞳に涙がたまる。

 敬語に戻って、とは言われても、我ながらずいぶん適当な敬語であるのに、この天龍には相当な衝撃だったらしい。雨が降っても風が吹いても、ついでに日が落ちただけでよよよと泣き崩れる故郷の手弱女たちを彷彿とさせる繊細さである。

 面倒くさいな、という心情を隠さずにため息を吐くと、「橘、め」と幼い主君にたしなめられた。

「君が表裏のない気持ちの良い性格をしているのは知っているけどもね。世の中には歯に着せねばならない衣もたくさんあるんだよ」

「すみません、つい」

「うん、その返事もちょっと棒読みすぎるよね」

「根が正直なもので」

「だめなおとなのお手本みたいなこと言い出した……」

 頭痛ですか、主君。御歳十二にしてご苦労なことですね。

 元服を済ませたばかりの主君、常陸の宮は陛下の末子であらせられる。そして、故国においてはそれなりの地位を占める橘一門、その総領娘である私がこの国に留学することになった理由でもある御方だ。

 何を隠そう、この幼い主君は今しばしこちらで学を修めた後、我が国の次期女王陛下に婿入りすることになっている。我が国にお越しになられた際、ご苦労の少なくなるように、次期橘当主である私がこちらに呼び寄せられているというわけだ。次期王配の側近として仮にも女の身である私が任じられるとなった時に起きたそこそこ面倒な事態はできれば思い出したくもない。

(外海を越えての渡航に怖じ気づいたのは連中だというのに、まったく)

 こちら側から祖国に渡る際には、潮の流れと季節さえ読み間違えなければ問題なく渡航できる。一方、祖国からこちらへはどの季節だろうと困難な旅路になるというのは有名な話だ。命を落とす渡航者の数もけして無視できるものではない。

 だからこそ。一度婿入りすればおそらく二度と帰郷することが叶わないだろう未来の夫君のためにと、我らが次期女王陛下もわざわざ私などを派遣しているのだが、どうにもその辺りの理屈を理解していない、政争にばかり忙しいボンクラが多いのが実情だ。

「良いですか、主君。駄目な大人、もとい、ロクデナシというのは年齢だけは途方もない数重ねていてなおちょっとしたことでビイビイ泣くそこの龍君のことを指すのですよ」

「……龍君、今度はいったいなにをやらかしたのです。橘の口がいつにも増して辛辣ですよ」

「なにもしておらぬわ、人聞きの悪い。伴侶の傍にいつもいたい、少しでも長く濃厚な時間を過ごしたいと思うのは世の真理であろう」

「ご覧ください、我が君。これが本当の『だめなおとな』です」

「……うん、いや大丈夫。母上で慣れてる……」

 遠い目をして乾いた笑いをこぼす主君は、実年齢の割に達観しておられる。そうですか、母君である天龍君はコレにも増してふわふわした、もとい浮き世離れした言動の多い方でいらっしゃいますからね。主君は父君である今上帝に似て本当にようございました。主に私の精神衛生上。後我らが次期女王陛下の御為にも。

 祖国の次期女王陛下のことを思い浮かべる。あの御方は橘などよりよほど現実主義で思い切りのよい方であるから、常陸の宮もそうご苦労はしない、はずだ。この橘の性格でまずは軽く慣れておいて、そこからの次期女王陛下との接触であればまあ、きっとなんとかなるのではなかろうか。ならなかったらその時である。

 母后を反面教師にしたのか、常陸の宮は押しが弱く、引きこもりがちでもっぱら書庫にばかりこもっている。我が国の次期女王陛下は暇さえあれば弓矢片手に野駆けだ狩りだと忙しい、真逆の性質でいらっしゃるので、なかなか良い組み合わせではないだろうか。

「良いように言ってもらってるけど、つまり彼の国の東宮殿はかなりお転婆、ってことだよね」

「ものは言いようですよ、主君」

「それは龍君に対しても発揮してほしい才能だね、橘」

 ははは。なにを馬鹿な。これ以上ないほど気を遣って言葉に衣着せた結果が今だというのに。

 軍部というのは基本的に柄が悪いのである。心のままに素直な言動など取ったら、即日龍族への不敬罪で拘束される自信しかない。野盗の方が数倍お上品だ、と揶揄される豪放磊落な父親に育てられ、祖国であってもなかなか正しい性別を認識され難いこの橘、なけなしの慎み深さを遺憾なく発揮しているつもりだ。異論は認めない。

 主君も納得していただけたのだろう。つー、と顔を私と天龍ふたりからそらしつつ、「それで、頼まれてくれるかい」とようやく話が本題に戻る。

「御意。妖退治こそ橘が本業。腕が鳴りまする」

「ええっと、まだ本当に妖の仕業と決まったわけじゃないし、そもそも退治しなくとも和解できるかもしれないし、張り切ってくれるのは嬉しいんだけどくれぐれも、くれぐれも穏便に、平和的にね」

「橘、橘、妾も、妾も行くぞ! 初めての共同作業、というものじゃな!」

「龍君の行動を阻むこと、何人たりとてあたわずとの勅許がありますからね。いいんじゃないですか」

 護衛対象が増えるというなら断固として阻止したが、こんなナリをして地上最強の龍族、しかもその長である。手間は増えるが、仕方ない。もしはぐれても勝手に都に帰るだろうし、どうせ断っても勝手について来るだろう。ならばここで揉めるだけ無駄である。

 母后譲りの温和な顔立ちが、再びこちらに向けられる。本当に任せて大丈夫なんだよね? と問う主君の目に、力強く頷いた。

「畑を荒らし収穫物を盗むだけでは飽き足らず、役人のフリをして年貢を掠め取る畜生どもなど、巣から根絶せねばなりますまい」

「殺意が高い……!」

「悪い顔で笑う橘も、いっそう魅力的であるな!」






 常陸の宮からの依頼は、何のことはない。龍君の求愛をバッサリ斬って捨てた異国人こと私が少々宮中で浮きつつあるので、人の噂も七十五日というわけではないが、ひとまず宮廷から距離を置いてはどうだと、ご配慮いただいたのである。

 とはいえ、これでも公職にある身。何の理由もなく主君の傍を離れることはいらぬ邪推を生む。そこでひとまず任されたのが、祖国でもしばしば行っていた妖退治ということである。

 他国に婿入りする公子の常として、常陸の宮は国の中枢に深く関わりすぎる役職に就くことはできない。とはいえ、同盟の証である婚姻に臨む身でありながら無位無官というわけにもいかず、代々皇妃に与えられる直轄地の一部を任されているのだ。

(いずれは東宮殿下の補佐となられることも考慮されてのことであろうが)

 橘がこの二年ほど側で仕えた限り、常陸の宮は折衝役に向いている。困り顔で、実際に困りながらも揉めがちな双方をまあまあと宥め、落ち着かせ、妥協点を搾り出させて合意させる、といった場面を多く見てきた。若干十歳足らずの少年が、である。

 祖国の東宮殿下は、明朗快活、果断即決と言えば聞こえは良いが、その分余計な軋轢が生まれることがままある。常陸の宮には是非その軋轢を宥め治めてほしいと、橘は今から取らぬ狸の皮算用で期待しているわけだ。

「人化けする妖か、ただの悪人か、さて」

 くるり、刀を回す。街道には足の腱を斬られたむさ苦しい男たちがごろごろ転がっているが、龍君に求愛されてからこちら、数えるのも馬鹿馬鹿しいほど繰り返し見た光景であるので、特に何か思うこともない。

 襲撃者たちの中から頭目らしきものを見つけて、龍君がなにやら凄んでいるのを視界の端に捉えながら、さて、と私は幌の中を覗き込んだ。

「片付いた。道を空けるから、もう少し待ってくれ」

「へ、へえ! ありがとうごぜえやす、武官さま!」

「なに、ついでだ」

 むしろこの場合、こちらが彼らを巻き込んでしまった形だろう。

 幌付きの馬車で都を出たのが日の出の頃。馬で行こうにも馬が皆龍君を畏れて足をすくませて騎乗できず、急遽探した乗合馬車に乗り込んだのだ。

 もちろん馬車の馬も龍君に竦んではいたのだが、直接騎乗するわけではないこと、幌に隔たれていることで落ち着きを取り戻し、途中からは何の問題もなく進んでいた。襲撃にあったのは、都の門を潜り抜け人気のない街道にさしかかった時だ。

「ふむ。身元がわかるようなものは流石にない、か」

 しかしこの人数、都まで戻って衛士所に放り込むのも面倒である。

 仕方がないので身包みはいで――下着一枚ぐらいはまあ、慈悲の範囲だろう。そもそも粗末なブツをさらすなど公害である――ほぼほぼ全裸で手足をひとつに縛りぐるりと背中合わせにひとつなぎする。次の街についたらそこの門兵にでも伝えておけばいいだろう。

「なにかわかりましたか、小姐シャオジィ

「ただの雇われのようじゃの。金一両程度で買収されおってからに」

「なるほど、ずいぶんな特売価格で」

 ふんす! と息を吐く龍君。その格好はまさに「裕福な商家のお嬢様」だ。

 宮中ならいざ知らず、流石に天下の往来でコレを龍君、などと呼ぶわけにもいかない、苦肉の策として「小姐お嬢様」などと呼んだわけだが、本当にいいのだろうか、これで。

(まあ、ヒトの思う性別など瑣末事と、当代殿も以前仰っていたか)

 ただのわがままお嬢様と護衛、に見えれば御の字。だがこちらの社会通念上、いくら年端も幼い少女とはいえ、男とふたりきりで出歩くなどあり得ないことではあるので、私は女であることがわかりやすいよう、髪を下ろし僅かに紅を唇に置いている。

(化粧する男がいないわけでもないから、ほとんど気休めだろうな)

 実際には龍君はオス、もとい、男であるため徒労感が否めないが、事実はどうあれそう見えてしまうのであれば、無策ではいられない。

 普段ひとつにくくっている髪は下ろせば鬱陶しい。いっそ切るか、とぼやいたところ、龍君が目にも止まらぬ速さですがり付いてきた。

「いかん、いかんぞ橘! 女子にとって髪は命、呪術的には写し身同然! そのように簡単に切るなどと言うてくれるな!」

「冗談です、小姐」

「八割方本気、という瞳をしておったぞ!?」

「ははは」

 実にめざとい龍君である。

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右近の橘、龍を得る。 北海 @Kitaumi

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