第4話:天の龍、橘を恋ふこと(序)
始祖の龍とは不思議なもので、いずれの獣の胎も通らず、いつの間にか発生しているのである。
世界を構成する力の余剰分が凝って龍という形を成したのだと、そんな言い伝えが龍の間ではまことしやかに囁かれているが、真相は不明。途方もない歳月を生きる龍たちはそもそもあまり細かなことに拘泥する性質でもないので、真相が解明される日は限りなく遠いことだろう。
その龍たちも、番を見つければ他の獣同様に新たな子を成し、ゆるやかな世代交代を続けて、いかばかりか。とうとう最後の始祖龍となってしまった当代龍族長老は、ふむうと不満に唇をとがらせた。
「……橘があまりにつれないゆえ、戻ってしまったではないか」
ぺたり。銅鏡に触れた手はもみじのごとく、ふくふくとして小さく頼りない。
頬紅をささずとも淡く色づいた頬も、ぱちくりと瞬く大きな瞳も、どこもかしこも長年慣れ親しんだ自身の体である。
床につくほどに長い黒髪は龍に転じれば鬣となるものだから、いくら橘に鬱陶しがられても切るわけにはいかない。いかに愛する伴侶──当の橘本人に断固拒否されていることなど問題ではないのだ──の望みとはいえ、龍にも譲れないものはあるのだ。
なにがいけなかったのか。龍族の長は腕組みをして考える。やはりあまりに急ぎすぎたことが敗因だろうか。人の女子はことさらに雰囲気を重視すると聞く。歓喜のあまり誰とも知れない他人の邸で事に及ぼうとしたのは、やはり失態であったのかもしれない。
(そもそも里の子らは妻問いに一番の獲物を捧げておったな。番の好みに合わせ温泉を掘り当てたのはニギハヤの孫じゃったか? ……待て、『番の好み』じゃと?)
龍族の長は愕然とした。思わぬ事態に、自身のあまりの迂闊さに、こぼれそうなほど大きく目を見開く。
「た、橘はどのような者を好むのじゃ……?」
なんということだろう。この龍族の長ともあろう自分が、さっぱりぽんと思いつかない。彼は愕然とした。
もちろん、彼も彼の最愛の人が東国の武家の総領娘だということくらいは知っている。大陸人ではなく、海を隔てた異国の人間だということで、古の約定を持ち出して駄々をこねることもできなかったのだ。無念の気持ちは忘れない。
彼女は古来のしきたりに従って自身の名でなく一族の名を名乗り、真っ直ぐな気性が表れたよい瞳をする娘である。年齢だけを問題とするならば少女と呼ばれてもおかしくはないのだが、いかんせん、留学生という形でこの国にいる彼女の役職は武官であり、平時でも武官として最低限の防具を身につけているため、女性らしい曲線や華やかさ、艶やかな装いとは縁遠い。素っ気無い口調と凛然とした立ち居振る舞いがあいまって、少女云々ではなく貴公子とでも表した方がよほど無理のない娘なのである。
だが、そんなこと、彼女の友人どころか知人、職場の同僚でも知っていることである。何なら密かに想いを寄せる有象無象でも知っているかもしれないと思い至り、龍族の長はこうしてはいられないと王宮に与えられた自室を飛び出した。
バン、と勢いよく開いた扉の向こうでなにやらくぐもった呻きと慌てる複数の人間の声がした気がしたが、構ってなどいられない。
すれ違う女官や宦官は次々と天龍様、何処へと問いかけてきて、それにまとめて「橘のもとじゃ!」と叫び返す。いけません、お戻りを、などという制止の声は全て無視した。
そして、勢いのまま──欄干を蹴り、地上で鍛錬に励む橘めがけて舞い降りる。
「妾に足りなかったのは、番としての甲斐性じゃったのじゃな、橘……!」
「誰がどう考えても人間社会に溶け込むための常識と良識だ」
「ぴぎゃん!」
落ちて来た龍族の長を、東国の娘は受け止めるどころかすっと身を引いて避け、ついでに脳天に痛烈な拳を振り下ろしたのだった。
……長の伴侶(予定)は、彼に対してだけはすこぶる辛辣なのである。
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