過日のこと:ろくでなしの顛末(後)

 行方知れずだった龍族の少女に、口づけどころかあわよくば貞操までも奪わんとされている逸を見た近衛たちの行動は早かった、

 一斉に膝をつき頭を垂れたかと思うと、異様な事態に腰が引けている逸をあっさり王城まで連行し、あれよあれよと言う間に彼は地帝こと人界の王と対面を果たしていた。

 とは言え逸も、ただの下町育ちとはわけが違う。世が世なら王族御用達でもおかしくない一流どころの妓楼で生まれ育ったおかげでそれなりの礼儀作法は心得ており、内心はどうあれ表向きはそつなく振る舞ってみせたのが悪かったのか。

 次期天龍の花婿候補だった男たちから大量の嫉妬と憎悪の視線を浴びながら迎えた王との謁見で、なんと逸は次期地帝の座を約束された。――されてしまった、と言うべきか。

 起きたことは単純で明快だ。龍族の少女が王に「私、自力で己の伴侶を見つけて捕まえて来ましたの!」と高らかに宣言し、玉座の主が無感情に「是非もない」と答えた。当事者であるはずの逸はわけもわからぬ内に、たったそれだけのやり取りで龍族の少女の伴侶として王のお墨付きを得てしまったらしい。

「なにがどうして、こうなっちまったんだか」

 遠い目をして空を見上げる。久しぶりに訪れた何もしなくて良い時間は、けれど逸に安寧を与えてはくれない。

 気を抜けばすぐにあの少女の泣き顔が蘇ってきそうで、逸は意識してあの日からのめまぐるしい日々を思い出していた。

 この国の王は、次代天龍がその伴侶を見出した時に代替わりする。それは建国以来変わらぬしきたりだが、流石に今代は今すぐにというわけにはいかなかった。逸が、施政者としての教育を一切受けたことがなかったからだ。

 天龍以外の女を囲い込むほど愚かだった先王の時代の反動か、今代の王の周りには優秀な人材が揃っている。だが、この国の、しかも政治の場において、優秀とはすなわち野心強いということとほとんど同義である。無知な王が立てばどうなるかなど、火を見るよりも明らかだった。

 当然のように始まったのは、逸を立派とまではいかないまでもそれなりの王にするための容赦ない教育である。そして、それには当たり前のように元天龍の花婿候補たちの嫌味や嫌がらせが付随してきた。

 そもそも天龍に選ばれるべく生まれた時から教育されてきた地龍族の者たちにとって、逸の存在はまさに寝耳に水。踏み込んだ見方をすれば、今までの自分たちの努力が全て無駄だったように感じてしまったのだろう。選ばれたのが同じように育てられた他の地龍の男ではなく、市井で何も知らず過ごしてきた――彼らの言葉を借りれば――凡愚であるなど、これ以上ない侮辱である、と。

 そもそも、ある日いきなり龍族に見初められたから今日から貴方が王ですなどと、そんな事態に陥ってでは王としてしっかり仕事をこなしてくださいなどと、出来るはずがないのである。そのための龍族に好まれる血を集めた地龍族であったのだが、逸の存在でお膳立てが全てひっくり返されてしまったというわけだ。

 とは言え、逸も厳密に言えば地龍族の一員ではあるらしい。自身の父親だと密かに名乗り出てきた地龍族の男は、妓楼の姐たちに教えてもらっていた以上にどうしようもない男だった。それこそ、未だに母親に未練たらたらなところが本当にどうしようもない。

 お前の母を愛しているからこそ、お前が自分の子どもであると信じきれなかったのだと。懺悔でもするように切々と語られたところで逸にはどうしようもない。馬鹿な男だと笑えば良いのか、詰れば良いのか。

(ソレが宰相だってんだから、世も末だな)

 ずず、と鼻をすする。日は傾き始めていた。

 愛していると、過去形で語れなかった男を教育係の筆頭に、逸の教育は昼夜を問わず続けられた。その傍らに、常に天龍の少女を貼りつけて。

 相変わらず妓楼の小妹たちよりも幼い姿をした龍に、逸はさっぱり色恋の意味での興味は湧かず。日々唇やら貞操やらを狙ってある時などは寝所にまで潜り込んで来た少女を、父親よろしく叱りつけるのが日課になってしまっていた頃。

 厳しい一方の勉強に文句を言って放り出せるほど愚かではなかった逸ではあるが、連日続けられるそれに、ふと、里心がついてしまった。

 逸自身の心持ちはどうあれ、彼は既に龍の伴侶と認められた身である。家族に顔を見せに行くだけと言っても、その行先が妓楼というだけで許可が下りるはずもない。

 では、どうするか。逸は市井における物資流通の視察という名目で、数人の護衛を連れて街に下りた。

 生家である妓楼にこそ行けないものの、街を歩けば顔なじみの店は幾らでもある。それらを通じて姐たちの近況やらこちらからの伝言やらをやり取りできればと、そう考えたのである。

 けれど、街に下りた逸が見たものは、緑の柱の建物を飲み込み轟々と燃え盛る炎であった。

 遠目に炎が見えた途端、逸は護衛の制止を振り切って駆け出した。いつの間にか、王城に置いて出たはずの龍の少女まで併走していたが、構っている余裕など逸には残っていなかった。

 水の入った桶を手に駆けずり回る人々と、延焼を防ぐために隣り合う建物を壊す街の自警団と。多くの人間が入り乱れる中で、逸がその男たちを見つけられたのは偶然以外のなにものでもなかった。

 ――憂国の徒を気取る男たちは言う。龍の伴侶に、天龍以外に親しい女人がいてはならぬのだと。しかもそれが妓女風情など、天龍殿どころか地龍族全体に対する侮辱にも等しい、と。

 激情に駆られ剣を抜いた逸を、いったい誰が責められようか。

 地龍族は、人界にあってかつての王族のような扱いを受ける特別な一族である。ただの貴族相手でさえ、刃を剥ければ極刑は免れない。ましてそれが地龍族相手となれば。

 かつての同僚たちが必死に逸を取り押さえ、やめろ落ち着けと怒鳴りつけられても、彼らを引きずってでも男たちを斬り殺そうとした。

 そんなくだらない理由で。逸は吠える。こんなくだらない奴らに、蔑まれていい姐たちではないのだと。

 焼け出された妓女たちはかろうじて皆一命は取り留めていたものの、煙を大量に吸い過ぎて昏倒し予断を許さぬ状態の者がほとんどだった。特に、体の小さな者ほど煙の回りが早い。最後まで残って逃げ遅れた妓女がいないか確認して回ったという楼主など、全身にひどい火傷を負っていた。

 普段、狸だの豚だのと、妓女たちに散々にこき下ろされている楼主ではあるが、楼主自身は妓楼の主らしからぬ温厚な性格で、年季の誤魔化しも妓女たちからあくどい部屋代の巻き上げもしない、お人好しな主人であった。

 そんな楼主であったから、逸もまた母親の手元で育つことが許されたのだ。成人した後も用心棒として雇ってくれた。家族と慕う妓女たちと、恩人である楼主の無残な姿を見て、逸が冷静を保てるはずもない。

 気づけば地面に引き倒されていた逸の前に、龍族の少女が立っていた。

 炎を背にしているためだろうか。影が落ちた横顔からは表情を窺うことはできず、また逸に彼女のことを慮ってやれる余裕もない。

『願って、逸』

 轟々と燃え盛る炎。男たちの怒号。ようやく追いついた護衛が、抜き身の剣を手に何人もの男たちに拘束された逸を見て、ぎょっとして駆け寄ってくる。

 その全てが、その時の逸には紗幕を隔てた向こう側の出来事でしかなかった。

 ぎらぎらと睨み据えるのは、すっかり腰が抜けて地面に這いつくばる男たちだけ。悪徳の館に火をつけてやったのだと自慢げに胸をそらしていた姿はもうそこにはない。

 願って。もう一度、顔も体も男たちに向けたまま、龍族の少女は場違いに静かな声で言った。

『貴方の龍に、命じて。ひと言でいいから。アレを消せ、って』

 ぱきぱきと、少女の腕が硬質な音を響かせる。

 煽られて靡く髪はざわりざわりと波打って、不穏な気配に空気が揺れる。

 袖から覗く桃色の爪が、まるで刃のように尖り、伸びていくのを見て、――逸は、怒鳴った。

「『やかましい、関係ねえガキは黙ってろ!』……ってのは、流石にどーかと思うよ」

「うるせえよ……」

 笑い含みにかけられたあばら家の主からの声に、逸は力なく悪態を吐く。

 だが、そんな弱弱しい反抗に堪えるような家主ではない。つい最近親子と判明しただけのにわか父のクセに、いずれ至高の身分となることが約束された逸に対し、まるで粗相をした悪童を揶揄するように「そもそもねえ」と言葉を続ける。

「仮にも未来の夫の家族の一大事に、『関係ねえガキ』呼ばわりはないでしょ」

 ま、天龍殿に復讐を命じなかったとこだけは、評価してやらなくもないけど、と。

 苦笑する父親の冗談めかした口調とは裏腹に、どこまでも真剣な瞳を一瞥して逸はふんと鼻を鳴らした。

「あんなガキに手ぇ出させるほど、腐った男じゃねえんだよ」

「おや。でも、八つ当たりしてしまう程度には腐っているのかな」

「……別に、アイツのせいなんざ思っちゃいねえ」

 責めるのは、いつだって自分自身のことだけだ。

 妓楼が焼かれたのは、火をつけた男たちが悪い。ご大層な大義名分を掲げたところで、彼らの行いはただの放火と殺人未遂である。その相手が次期天龍の伴侶、その身内となれば、たとえそれが妓楼と妓女であろうとも、男たちが考えたように無罪放免では済まされない。

「『もしも』を考えたところで無意味だよ、我が息子」

「うるせえ、ロクデナシ」

 なんでもないような顔をして自分を「息子」と言ってのける男の厚顔さは、海千山千の狐狸妖怪が跋扈する宮廷をまとめる宰相であるからか。

 都の外れ、母親が妓楼に売られる前に過ごしていたあばら家を買い取って移り住むくらい酔狂な老人は、妻を娶るどころか逸以外には子もおらず、僅かな使用人だけを抱えて日々を淡々と過ごしている。

 その未練がましさはいっそ見事なほどで、年季が明けた母親がどこぞの男――妓楼に売られる前から想い合っていた幼馴染――と都を出たことを知ってもなお、妓女と客として送られてきた商売用のご機嫌伺いの手紙を、後生大事に取ってあると聞けば、筋金入りのどうしようもなさだった。

 逸の父親は、身請けする金はあったが母親からの愛は得られず。どこぞの男は互いの愛しか持ち合わせていなかった。

 再三の身請け話を断り続け、他の男の子を産んで、それでも年季が明けるまで仕事を続けたのは、母親にとってはそうすることでしか大手を振って好いた男の元へ帰る手段がなかったからなのだと。知っている逸は、自身の父親だという男に同情とも憐憫とも、あるいは仲間意識ともつかない感情を抱いていた。

(単純に恨めれば、俺も幾らか楽だったのかね)

 父親だという男のことを。もしくは、母親だったあの人を。

「彼らを不安にさせたのは、天龍殿が未だあの幼い姿のままで、いっこうに成長の兆しを見せないからだそうだ」

 龍族は、自身の伴侶を見出すことで幼体から成体へと変化する。

 龍族同士ならば当たり前のことなのだろうが、真っ当な性癖を持つ逸にとって、いくら見目麗しい少女とはいえ、年端もいかない子どもを伴侶として見なすことなどできるはずもなく、従ってあの少女が幼いままである理由は明白過ぎるくらいに明白であった。

 実の母に対しても、育ての母たる妓女たちに対しても、常に言いようのない罪悪感のようなものを抱いてきた逸にとって、全身で好きだ愛してると伝えて来る龍族の少女が厭わしいはずもない。ないが、それと彼女をそういう風に見られるかというのは、まったく別の話なのである。

 好意まではいかない好感。だからちょこまかと小さな手足で後を追いかけて来る様も口ではどうあれ内心微笑ましく思っていたし、抱き付かれても余程のことがない限り無理に引き剥がすこともしなくなった。同じ妓楼の小妹たちに向けるものに似た感情を、持ち始めていなかったと言えば嘘になる。

 だからこそ、怒りのあまり冷静な判断ができなかったとはいえ。あの少女にぶつけた「関係ない」の言葉がどれだけ無神経であったかを思い出すたび、あの一件以来パタリと姿を見せなくなった少女に対する罪悪感で胃の腑がしくしくと痛むのである。

 わかんねえ。ぼやく逸に、老人はつと視線を向けた。

「代々天龍ってのは、アイツみてえな幼体で来たんだろ? それでどうして、今までのヤツらは自分の妻だなんだって思えたんだ」

「身も蓋もないことを言ってしまえばね。そういう風に育てられるからだよ、地龍族の子どもは」

 出逢いがたとえ幼体であっても、互いに伴侶と認め合えばすぐに龍族は成体に変ずる。

 故に幼体姿の龍族を見て子どもだ何だと気にする地龍族はおらず、むしろこれが成体に変ずればどのような姿になるだろうかと、想像を働かせる方に忙しい。

 ある意味、このような逸の反応は真摯に今ある龍族の少女と向き合っているからなのだと、老人は思う。お前の息子は防御が硬すぎると龍族の少女に怒鳴り込まれた際、それだけ貴女様を大切に思っているのですよと舌先三寸丸め込んで帰したのだが、どうやらそれもあながち的外れな弁護ではなかったらしい。

「妻だと思うから抵抗があるのなら。家族になると考えてはどうだい?」

「家族、だあ?」

「そう、家族。どうせこの先、気の遠くなるくらい長い時間、共に過ごすことになるのだから」

 ねえ、天龍殿?

 老人の言葉が終わるか終らないか。ふわりと庭院に降り立った龍は、一瞬で逸の見慣れた少女に変じた。

 いつもならすぐに飛びついてくる少女が、降り立った場所に立ち尽くしたまま、あ、だの、う、だの言葉に詰まっているのを見やり、逸はがしがしと頭をかいた。

「……遅かったな」

「そ! ……んなことないわ。これでも私、逸の書き置きを見てから最速でここまで飛んで来たもの」

「んじゃ、気づくのが遅かったってことだな」

 家出を仄めかす書き置きを書くなど、逸にとっては生まれて初めての経験である。

 それもこれもうじうじと互いに気まずさで歩み寄りかねているふたりを見かねた宰相らの画策によるものなのだが、こうでもしなければ龍族の少女は絶対に逸に自分から近づいて来なかっただろう。

 龍族は総じて情が深い。だがそれは相手を顧みないものではなく、情が深いからこそ気持ちを傾けた相手に嫌われたくないと思う感情も大きいのである。

 怯えるまではいかないものの、こちらの出方を窺う視線に逸は内心自身を激しく罵倒した。それをしている相手の外見が幼女であることも相まって、完全に逸はろくでなしの悪漢でしかない。

 だが、逸が小さくくしゃみをしたことで、龍族の少女はそれまでの警戒も忘れてパッと逸に飛びついてきた。

「逸、風邪を引いたの? もしかして、だからそんなにもこもこ着膨れして、顔が真っ赤なの?」

「あー、いや、違う。違うから、少し落ち着け」

「ダメよ、逸! 貴方はまだ私と契りを結んで――命を繋げていないのだから、油断してうっかりぽっくり逝ってしまったらどうするの!?」

「逝かねえよ! 縁起でもねえこと言ってんじゃねえ、このガキ!」

 ぺたぺた、ぺたぺたと額と言わず頬と言わず触れて熱を測ろうとする少女に、最初は堪えようとした逸も堪え切れずいつもの調子で叱りつけてしまう。

 首根っこを掴まれてぶら下げられた少女は、でもでもだってと潤む瞳で逸を見上げた。

「だって、だってヒトはとっても脆くて儚い生き物なんだって、長が教えてくれたんだものお……」

 ぶわ、と少女の瞳に涙が溜まる。逸はぎょっとして慌てて少女を床に下ろした。

 助けを求めて視線を転じれば、先ほどまで父親がいたところにはもう既に誰もおらず。逃げやがったなと歯噛みしたところで、目の前の現実は変わらない。

 えぐえぐとしゃくり上げる幼女を前にして、逸は困り果てて頭を抱えた。

 売られてきたばかりの小妹たちなども、よくこうして泣きべそをかいてはいたけれど。彼女らを慰めるのは、いつも同じ境遇だった姐たちの役目で。つまり逸には泣く子どもの面倒を見た経験は皆無なのである。

 とにかく見様見真似で膝に乗せ、おっかなびっくり背を叩いてやれば、龍族の少女はひしと逸に抱き付いてきた。

 耳を澄ませてみれば、しゃくり上げる中に紛れるのは途切れ途切れの謝罪であって。ごめんなさい、私のせいで、ごめんなさいと謝られて、逸はすっかり弱り果ててしまった。

「何言ってんだ。お前のせいだったことなんざ、今までひとつもねえだろうよ」

「でも、でも……逸から私、家族を奪っちゃったもの……」

「ばか、られちゃいねえよ。みんな無事だったろうが」

 大火傷を負って半身包帯塗れとなった楼主など、泣いて縋りつく奥方に「これでちょっとは男前になったかな」と笑って言ってのけたほどだ。支払われた賠償金で残っていた借金を払い終え、年季が明けて晴れて妓女を引退した者もいる。

 この少女と出会ってから起きた全てがよかったとは言えないけれど、物事の良し悪しに関わらず、その原因を少女に求めるほど狭量でも愚かでも逸はないつもりだ。

「ほんと、俺みてえなロクデナシのどこがいいんだか……」

 ほとんど無意識にそう口にして、その途方に暮れた響きに逸自身が驚いた。

 女を泣かせる男を最低なロクデナシだと常々思っていた逸だが、今こうして幼い少女を泣かせてしまっている自身を顧みれば頭が痛いなどという話ではない。本当にどうしようもないロクデナシに成り下がった気がして、逸は自分自身に辟易した。

 だが、そのロクデナシの胸に顔を目一杯押し付けて、龍族の少女はふるふると首を振った。

「逸がいいの、逸じゃなきゃダメなの。……どうしてわかってくれないのお」

「あーもうわかった! わかったからもう、泣くな!」

「ふええええ」

 とうとうぼろぼろ泣き出してしまった少女に慌てて、逸はあたふたと意味もなく腕を上げ下げした。

 唐突に少女の薄着が目に入り、覚悟を決めて羽織っていた上着を何枚か脱ぎ、少女に着せ掛けてやる。途端に寒風がびゅうと背中に突撃していったが、ぶるりと身を震わせたところで幼気な少女を放ってひとり談を取る気にはなれなかった。

「ったく、だから俺は、泣いてるガキのお守は苦手なんだって……」

「ガキじゃないのお、えぐ」

「ばーか。鏡見ろ、ませガキ」

「ひーどーいいいいい」

 ぐりぐり、ぐりぐりと額を擦り付けられて、逸は思わず噴き出した。子どもじゃないと言いながら、行動はまるきり子どもだ。

 そうして見れば、伴侶だ夫だと突進してきた姿も何やら微笑ましくて。家族として見てみれば、なるほど、妹ができたようなものかと逸は自分自身を納得させた。

 そうしてみれば、すとんと、不思議なくらい違和感なく合点がいく。生来女性には滅法弱く、ましてそれが一旦庇護すべき相手だと納得してしまえばどこまでも寛容になってしまうのが逸という青年である。

「俺は、お前を伴侶だとか……そういう風には見れねえけどよ。家族だとかそういう風に、一緒にいてやるってんなら、約束してやれるから」

 だから泣き止めと。そう続くはずだった言葉は、がばりと勢いよく上げられた少女の顔に驚いて途切れる。

「……ほんとお?」

「あ?」

「ほんとのほんとに、逸は私と一緒にいてくれる?」

「……お前が嫌って言うまでは、な」

「ずっと? ずうっとよ、逸」

「ああ、わかったわかった。いてやるよ、一緒に」

 すると、涙で潤んだ琥珀の瞳はゆるゆると笑みの形に細まり――やにわに、黄金色に染まった。

「やったあ! これで、逸は私の旦那様ねえ!」

「は? おま、なんでいきなりでっかくなって……ちょ、待て、脱がすな、脱ぐなー!!」



      *



 ぱちりと目を開いた時、覗きこんでいた琥珀の瞳がにこにこと笑んでいるのを見て、逸――人界の王となったかつての青年は、がしりと手のひらで瞳の主の顔をわし掴んだ。

「……なにしてんだ、お前」

「ちょっと若い子たちとお話してきたら、なんだか自分の時を思い出して懐かしくなっちゃったのお」

「で?」

「懐かしいついでに、寝込みを襲いにきちゃった」

「――きちゃったじゃねえだろ、こんの色ボケ娘!」

「いたいいたいいったーい!」

 両の拳でぐりぐりとこめかみを押してやれば、天龍は情けない悲鳴を上げた。人型を取っている時の急所は龍族といえど只人と変わらないのである。

 ごめんなさいの言葉を自主的に出させたところで、王はようやく天龍をおしおきから解放してやった。涙目のまま恨みがましく睨まれているが、もう八十年の付き合いである。今更その程度のことで動揺する王ではない。

「橘の娘は、逃げきれなかったのか」

龍族私たちの執念深さと周到さ、舐めてもらっちゃ困るわあ」

「胸を張って言うな」

 だからこそ、文字通り先人の知恵よろしく王直々にあの娘に細かな忠告を与えていたのだが。

 幸い次代に気に入られた橘の娘は、かつての逸ほど情に脆くはないようで。既成事実の作成は拳ひとつで阻止したらしいとの兵部尚書の報告に、王が遠い目をしたのはつい先ほどのことである。

 同じ既成事実の阻止という名目であっても、男が龍族の女に手を挙げるのと、娘が龍族の男に手を挙げるのでは他人の心象は大違いだ。理不尽さを感じないでもないが、それ以上に成体の龍族を拳ひとつで地に沈めたという橘の娘に戦慄を覚えた王である。

 東国の娘は皆このように逞しいのだろうか。龍族の男に追い回される人間の娘と聞いて想像する危うさや心配など、一瞬で吹き飛ばしてしまうほど衝撃的な事実であった。恐らく、あの娘は自分と比べてもあまり心配する余地はないなとわかってしまい、安心するやら情けないやらで王は内心複雑極まりない。

「いーつ。どうしたのお、難しい顔しちゃって」

「……同病相憐れむ、と言うんだろうな、これが」

「ひどおい。熱烈に愛されてる幸せ者のくせにい」

「いい年齢して阿呆なことしか言えないのはこの口か、あ?」

「はにふんのほお」

 それを言うならば、私的な時間になった途端不良中年よろしく言葉遣いが崩れる王もどっちもどっちなのではあるが。

 先の年明けで記念すべき統治八十年目を迎えた王は、せいぜい初老にさしかかった程度の外見をしている。天龍に至っては、年齢不詳の美女姿を、少なくともこの三十年は変えていない。命を繋げ正式に龍の伴侶として契りを交わした結果である。

 ようやく王に引っ張られていた口を解放されて、赤くなった頬を摩りながら「でもお」と天龍は首を傾げる。

「あの子、長さま。伴侶がいない時間が長かったものだから、ちょおっと暴走気味なのは心配よねえ」

 次期天龍としてやって来たどう見ても美幼女にしか見えない龍族が、長命を誇る龍族において最年長である「長」であると聞いた時以上に、王は盛大に顔を顰めた。

「……いくら龍族の長でも、娘の同意なく無体な真似をしたら容赦しねえ」

「伝えておくわあ」

 王は、今も変わらず女に甘く、故に女に狼藉を振るう男に頗る厳しい。

 王の治世において目覚ましく女性の社会進出と地位向上がなされた一端を垣間見て、天龍はにこにこと機嫌よく微笑んで王に擦り寄った。

「私、逸のそういうところ、だーいすき」

「ああそうかい」

 なにはともあれ。

 王と天龍は、今日も仲睦まじく寄り添って眠るのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る