過日のこと:ろくでなしの顛末(前)

 華にたとえられる都の外れ。塀どころか壁も崩れ、まともに雨風も遮られそうにない家で、男はくあ、と大口を開けてあくびをした。

 よく晴れた小春日和。冬の冷たい風が隙間風となって入り込む家は、昼寝をするのに適しているとは言えない。だが、男は寒さに耐えるために火鉢をいくつも持ち込んで、ひと回りもふた回りも大きくなるほどもこもこに着膨れしてまで、この家に来る理由があった。

「あー……どうすべ」

 ずず、と赤くなった鼻をすする。

 ぼんやりと薄い雲が広がり白っぽい青空を見上げて、男はもう何度目かわからないため息を吐いた。

 今も昔も、妾の子というものは大概不自由なものだ。

 それが妾どころかただの妓女の子となれば、まず胤が誰かを疑われる。金にあかせて売れっ子妓女を半年独占しておいても疑うのだから、なるほど、男というもののどうしようもなさは貴賤を問わないらしい。

 そんなわけで、逸と名付けられた男は姓を持たないまま育ち、年季があけた母がどこぞの男と都を出た後も、生まれ育った妓楼の用心棒や使い走りをすることでなんとか日銭を稼いでいたのだ。……ほんの七日前までは。



      *



「逸坊も女なら、客の一人や二人に貢がせて遊んで暮らせたのにネエ」

 楼でも年嵩、後一月で年季が終わる妓女が言う。それに、逸はよせよと鼻頭に皺を寄せた。

「俺が女だったら、水揚げ前の小妹シャオマイたちに手を出そうなんてクズをぶっ飛ばせねえだろ」

「よく言うよ、このろくでなしが。聞いたよ、アンタ、華翆楼の二番目を袖にしたそうじゃあナイか」

「誰だよ、姐さんにそんなガセ教えた奴ぁ」

 華翆楼は、逸が生まれ育った妓楼舂翡楼に何かと張り合ってくる些か面倒な妓楼だ。

 楼主の奥方同士、妓女時代からたいそう仲の悪い姉妹だったことが影響しているらしいが、それに振り回される従業員たちはたまったものではない。

「華翆楼の奥方が怒鳴り込んできたのサ。逸に袖にされて、二番人気の妓女が使い物にならなくなった、って」

「俺のせいかよ」

「アンタのせいだろ、お人好しのろくでなし」

 誰彼構わず良い顔してるから、そうなるんだ。

 姉代わりの妓女に笑い含みに諭されて、わかってるよと逸はぶすくれる。

 舂翡楼に限らず、どこの楼でも妓女が客の子を孕むことは、楼主だけでなく他の妓女からの顰蹙を買う。客足が遠のくからだ。

 妓楼も一流どころになれば、抱える妓女に客との床入りを断る権利を与えてくれる。これは単純に妓女の価値を上げるためでもあるが、それ以上に、妓女が客の子を孕まないようにするためである。

 子を孕めば、当然ながら客は取れなくなる。逸を身ごもったことで、彼の母の年季は二年も延びた。それだけでなく、迂闊に妓女に子を孕まさせる妓楼も妓女も、妓女の腹から庶子が生まれることを疎むお上品な客たちに敬遠されるのだ。

 がしがしと乱暴に頭をかく。逸の頭に焼き付いて離れないのは、この妓楼を出て行く時の母の晴れやかな後姿だ。

 道端に転がっているようなありがちな悲劇とは違い、逸が母に邪険にされたことはない。特別愛情深く育てられたわけではないが、妓女の仕事をしながら手のかかる赤子の面倒も見ていたのだ。母のことながら、なんと人間ができた女だろうと逸も思う。

 ――逸が三つにも満たぬ年の頃、隣の楼で情夫の子を孕んだ妓女は、冷え込む冬の早朝に水を被って子を流した。そうして、子を孕んだこと自体をなかったこと・・・・・・にした。

 妓女仲間たちは何も言わなかった。咎めもせず、彼女の行為を肯定もせず。誰も何も言わなかったが、皆知っていたのだ。その妓女が泣きながら、かつて小さな命だったものを、庭院の隅に埋めていたことを。

 そんな話はこの界隈のどこにでも転がっていて、逸は恐らく、普通の男よりも随分と女側の立場になって考える癖がついてしまった。

 もちろん、泣く女がいるのと同様に、男を食い物にしてのし上がる女の汚いところも嫌になるほど目にしてきた。だが、それでも女の側に肩入れしてしまうのは、きっと自分を育ててくれた母やその仲間の妓女たちの存在があるのだろう。女には逆らわない方が無難だと刷り込まれているんだと、揶揄う同僚にはそう笑って返したが、それもあながち嘘ではない。

 泣いている女がいれば声をかけて話を聞く。他の楼のことであっても、客が妓女に暴力を振るおうとすれば割って入って取り押さえる。そんなことを繰り返していれば近所の楼だけでなく界隈一帯に名が知れて、揶揄い混じりに誘われることも増えていった。

 とはいえ、逸自身はただの用心棒であり、誘われたからとほいほい遊びに出かけられるほど稼ぎもない。中にはお代はいらないと言ってくれる相手もいたが、それは逸が丁寧に断った。たかだか一晩自分と過ごすために、自分の年季を無駄に延ばす必要はないと、そう言って。

「愛麗は、このまま働きゃ後半年で年季が明ける。俺みたいなヤツの相手をして、一晩無駄にさせるわけにゃいかねえだろうが」

「それで都中の男が望む一晩を不意にしたのかい。そんなんだから、そんなナリして筆下ろしもまだなんだよ」

「てめっ、なんでんなこと知ってやがる!」

「……呆れた。冗談のつもりだったんだけどネエ」

 言葉通り、本当に心底呆れたっぷりの瞳で見られ、逸はぐっと言葉に詰まった。

 妓女の母を持ち、都でも一、二を争う妓楼で生まれ育ち、界隈の妓女たちから可愛がられておきながら――男女の経験は皆無。嘘だろう、本気か、病気かと、以前用心棒仲間に散々揶揄われ終いには生暖かい瞳で同情するように肩を叩かれた記憶が蘇る。今目の前にいる姉代わりの妓女は、あの時の同僚たちと似たような表情をしていた。 

「はあ。どうしてアタシら皆で育てて、こんなに奥手なヘタレに育っちまったんだか」

「奥手はともかく、ヘタレは余計だ!」

「奥手の方も否定しないか、このダメ息子」



      *



「姐さん達は人使いが荒くていけねえ」

 ぶつぶつ文句を言いながら、逸は帳面片手に通りを歩いていた。

 妓楼の用心棒というものは、妓楼が門を閉じている昼日中は暇なものである。それをいいことに、妓女たちからあれもこれもとお使いを押し付けられ、比喩でなく都中をあちらこちらと駆けずり回る羽目になったのだ。

 どうでも良いことだが、客には万事控えめで奥ゆかしいと言われている妓女が、一番遠慮なく大量の御使い物を言いつけ、何かと逸を顎で使う筆頭なのだから、自分が未だに誰ともそういう事をする気分になれないのは、女たちが如何に顔を使い分けするものか熟知し過ぎたせいもあるのではと密かに疑う逸である。特にまだ若く何かと夢見がちな同僚の話を聞いたりなどすると、目を覚ませと両肩掴んで揺さぶってやりたくなる衝動に駆られる時もある。

 だが、悲しいかな。一等若い妓女ならまだしも、舂翡楼に今いる妓女はそのほとんどが逸が鼻水垂らしておねしょしていた時代を知っている相手ばかりである。中には自分のおむつを替えた相手もいるというのに、どうして逸が歯向かえようか。

 こういうところをヘタレと言われるのかと、思い返してため息を吐く。ついでに、足蹴にして引き倒した男の腹にぐっと踵を押し込むのも忘れない。

「ったく、西も東も頭が潰し合いしておっ死んだってごたついてんのが悪ぃのか? あ?」

「っぐ、あ!」

 ぐりぐり、ぐりぐりと、執拗に踵を押し込んでいる内に男が白目を剥く。そこでようやく、やっとオチたかと男の腹から足をどけた。

 危なっかしいガキが前を歩いてんな、と思った矢先、その子どもの腕を掴んで路地に連れ込もうとする破落戸がいれば、姐さん達に口酸っぱく言われた忠告など記憶の彼方に吹っ飛んでしまった。

 駆け出して最初のひとりを蹴り飛ばした時はまだ、こりゃあまた姐さん達にどやされるなと考える余裕もあったのだが。無精髭の男たちの中にひとり、特徴的な刀傷を頬につけた男を見つけた後は、こうして全員のしてしまうまでまったく思い出しもしなかったのである。

 黙っていればわからないだろうという考えは甘い。一流妓楼の妓女たちの情報網は無駄に高性能なのだ。遅くとも明日の朝には再びの吊し上げという名の説教大会が待っているなと、逸は深く深くため息を吐いた。

「よーう、韓志。てめえ、いつ都に戻って来たんだ? あ?」

「く……てめ、逸、よくも……!」

「西どころか東の頭からも締め出し食らって、よくもまあのこのこと顔を出せたもんだなあ、おい」

 或いは、その頭がどちらも死んだと聞きつけてほとぼりが冷めたと思って戻って来たのか。まあ、逸にはどうでも良いことである。が。

「手前の金払いの悪さと横暴っぷりが過ぎて姐さん達に嫌われようが、もぐりの商売女から梅毒をもらおうが、正直どーでもいいんだよ。東西の頭どっちも怒らせて裏の幹部からただの破落戸に身を落とそうがな。――だが」

 がっ、と腰の近くに勢いよく足を落としてやれば、韓志はいっそ情けないほど怯えた悲鳴を上げる。

 俺はな、と、逸はいっそ穏やかな調子で言った。

「水揚げどころか客への顔見せもまだの、うちの可愛い可愛い小妹たちを手籠めにしようとしたことだけは、どーっしても許せねえんだわ」

 あの時はまだ韓志が裏の幹部だったから、逸は顔に傷を残してやることくらいしかできなかった。

 日向を歩けない後ろ暗い連中の間にも、不文律くらいはある。それを破ったことで韓志は東西の纏め役――頭をどちらも怒らせ、即日で幹部の地位を取り上げられて都を追われた。今度姿を見せたら容赦はしないと、脅しもされていたはずなのだが。

「あん時ゃその小妹に命だけは助けてやれって懇願されたが……やっぱり息の根、止めておくんだったな」

「っひ、ひいいいぃぃっ!」

 一目散にまず韓志が逃げて行き、その後を体のあちこちを庇いながら他の男が追いかけて行く。

 彼らが「二度と容赦はしない」と言い渡した西の頭の縄張りに入り込んだところまで見届けて、逸はやれやれと肩を回した。

(慣れねえことはするもんじゃねえな)

 生来、逸は穏やかな気性の男だ。少なくとも、本人も育ててくれた妓女たちもそう思っている。

 だがそれだけでは妓楼の用心棒などやっていけないことも確かで、昔に比べはったりや脅しの類はずいぶん手馴れてきた自覚がある。……最も、先ほどの言葉は半分以上は本気ではあったが。

 あ、とか細い声が背後で上がる。そこでようやく、助けたはずの子どもの存在を思い出して逸は振り返った。

「悪ぃ悪ぃ、怖がらせたな。もう大丈――」

「見つけた、私の運命の人!」

「ぶうっ!?」

 んばっ、と飛びかかってきた小さい何かを、逸は咄嗟に半歩横に動いて避けた。が、すぐにまずいと手を伸ばす。

 果たして、地面に落ちる前になんとか襟首を取っ捕まえたはいいものの、ぶらんと下がる子どもをまじまじと見て、逸はひくりと頬を引きつらせた。

「おま、まさか……天龍?」

 きらきらと、輝く瞳で逸を見つめる、琥珀の瞳。

 人間ではあり得ないその色彩は、あまりにもこの国の守護神と酷似していた。



      *



「どこで拾って来たんだい、ソレ」

「うちじゃ飼えそうにないから、元の持ち主に返して来なさーい!」

「わかってらあ!」

 それができたらそうしている。そう怒鳴らなかっただけ、逸は自制が効いていた。

 どう見ても五つかそこらの幼女は、逸の肩に腰かけたままずっとにこにこ笑っている。そのせいで彼女の瞳の色が姐さん達には見えないのだろうかと訝しんだ時、あれまあと一番近くにいた妓女がまん丸に目を見開いた

「裾がほつれてるじゃないのさ。逸坊、アンタまーたやんちゃしてきたのかい」

「げ、まじか。……ってそうじゃねえ!」

「なんだい、喧しいねえ。頭に響くよ、やめとくれ。まだ昨夜の酒が抜けてないんだ」

「姐さん、昨夜は特に呑み過ぎよお。樽ひとつ空けさせたんでしょ?」

「なあに、大姐に比べりゃまだまださ。ほんとは店中の酒空にさせるつもりだったんだけどねえ」

 店の売上は、引いては妓女の売上に繋がる。商売熱心な姐たちがいつものようにきゃいきゃいと話に花を咲かせる前に、逸はなんとか割り込んだ。

「その大姐はどこにいんだ?」

「もう来るよ。さっき小妹のひとりが呼びに行ったから」

「ええ。『大兄が女の子かどわかしてきたー!』って、顔真っ青にして走ってったもの」

「かどわかしてねえ!」

 そこだけは譲れないと大声で否定すれば、当たり前じゃないのと異口同音に返ってきた。

 その信頼に迂闊にもほろりとしたのも束の間、今度は口々に「ヘタレだから」だの「奥手だから」だの、果ては「女に興味ないんだもんねえ?」と揶揄たっぷりににやつかれれば、からかわれているとわかっていても逸は「姐さん!」と抗議せずにはいられない。

「こらこら。皆、逸坊を可愛がるのも大概におし」

 そこに、ちょうどよく大姐がやって来る。そして、未だに逸の肩に乗る少女を見て苦笑した。

「逸坊。犬猫と違って、龍はうちじゃあ面倒見切れそうにないから、とっとと元いたところに返しておいで」

「だから! そうしようにも離れねえんだって!」

 それどころか、無理に引き剥がそうとすれば全力で首にしがみつかれて危うく意識が落ちるところだった。げに恐ろしきは見た目の幼さとは釣り合わない龍族の膂力の強さか。

 結局こうして連れて帰って来る羽目になったのだが、それを聞いて大姐どころか他の妓女たちまでもが揃って大きくため息を吐いた。

「こりゃあ、アレだね」

「いつか絶対厄介なの引っかけてくるとは思ってたけど」

「よりによって一番の大物引っかけてくるなんて」

「本当に、どこで育て方を間違ったのかしら、私たち」

 口々に嘆いてみせるものの、その口調は内容に反して実に軽やかだ。

 遊ばれている。そのことにぶすくれてみせる逸の頬を、肩に乗った少女がつついた。

「んだよ」

「あなた、逸っていうの?」

「あー、まあ、そう呼ばれちゃいるが」

あざなじゃなくて、名で呼ばせてるのねえ」

 対外的な呼び名であるあざなと、家族やごくごく親しい身内にしか明かさない名。そもそもその両者を区別するようなお上品な生まれではないのだが、それをこの小さな龍に言ったところで仕方がない。

 曖昧に濁して応とも否ともつかない返事をする逸に、龍はきょとりと瞬いた。

「もしかして、わたしの真名が気になるの? そうよね、わたしは逸の名を知ってるのに、逸が私の名を知らないのは不公平よね、わかるわ。夫婦ってそういう小さな不公平の積み重ねが大きな亀裂を生むものだものねえ」

「逸坊、あんた……」

「誤解だ! おいこら、お前なんてこと言いやがる」

 ふっと妓女たちの目つきが変わったことに敏感に気づき、逸は慌てて龍の頬を片手でむんずと掴んだ。

 そうすれば、自然、龍の唇はタコのように尖る。なにするの、とふがふが問われるが、逸にそれを構っている余裕はない。

「そういう冗談は、せめて後十五年以上経って出るとこ出てから言いやがれ」

「なんかその『十五年』、って数字がいやに具体的っていうかあ」

「やーん、逸坊ったら今から美少女の将来を予約しちゃうの?」

「よっ、このむっつり助平!」

「姐さん!」

 きゃあ、と妓女たちがわざとらしく悲鳴を上げる。と、窓辺にいたひとりが素っ頓狂な声を出した。

「ねーえ、下になんか、近衛っぽいのが集まってるよお?」

「ありゃりゃ。こりゃ、逸坊もとうとう年貢の納め時ってやつかね」

「いや待て。待て待て待て。これは俺か? 俺が悪いのか?」

 罪状は幼女誘拐か、それとも天龍誘拐か。前者ならとんでもない濡れ衣と不名誉だが、後者ならば冗談でなく首が飛ぶ。

 流石に血の気が引いて青褪める逸に、妓女たちはどこか、困ったような表情で顔を見合わせた。

 そうして、自然と視線が集まった先。大姐は咥えていた煙管から唇を離し、ふうと白い煙を吐いた。

「安心おし。ホントならアンタが産まれる前に来てなきゃならなかったお迎えなんだから」

「はあ?」

 何を言っているのか。逸が眉をしかめるのと同時、龍がすぽんと彼の手から逃れ、今度は頭によじ登ってくる。

「ごめんなさい、逸のお母さんたち。わたしが龍じゃなかったら、逸のお嫁さんになれたんだけど」

「なれねえよ。鏡見て自分の年齢をじっくり確認してから来い、このませガキ」

「逸はちょっと黙ってて!」

「って!」

 ぺし、と額を叩かれる。音の割に衝撃と痛みは強く、冗談じゃなく脳がぐわんと大きく揺れた。

(っの、ガキ……!)

 力加減を間違ったのか、わざとなのか。揺れる視界にえづきそうになるが、その場にいる女性陣は皆逸ではなく彼の頭に乗った龍に注目していたので、気づいてすらもらえなかった。

「仕方ないとは言わないよ。アンタはアタシらから理不尽に息子を奪ってくんだ。そのことをよーっく覚えておきな」

「まあねえ。アタシらはともかく、他の楼の娘からどれだけ秋波を送られてもちらとも靡かないって聞いて、もしかしたらとは思ってたけど」

「まさか本当に逸坊がねえ」

「あの姐さんの子だもの。面倒なのに限って引っかけてきちゃうのは、こりゃもう血かもね」

「違いないわあ!」

 女三人寄れば姦しい。そう言われているのに、十人を超える妓女が一同に集まればどうなるか。

 しんみりとした口ぶりでこそあるものの、それが全員一斉に喋るとなれば、姦しいどころの騒ぎではなかった。

 頭を撫でられ頬をつねられ。妓女全員から揉みくちゃにされるのは成人して以降経験のないもので、逸は「うわ、おいやめろって……姐さん!」と言葉で反抗するしかない。

 襲い掛かってくる――姐たちの勢いは、まさに「襲う」という言葉に相応しかった――彼女たちを、押しのけようと思えば逸には簡単なことだっただろう。だが、意図してかどうかは知らないが、そこかしこに押し付けられる彼女たちの肢体は柔らかくふわふわとしていて、少し力を入れ過ぎただけで簡単に壊れてしまうのではないかと逸は恐怖した。故に、押しのけようにも押しのけられない。

 そういうところを指して姉代わり母親代わりの妓女たちは彼のことを「ヘタレ」と呼んでいるのだけれど、その光景に面白くないのはまだ幼い姿をした天龍の少女だった。

 ぷくっと頬を膨らませた彼女を見つけ、大姐はおやおやと片眉を上げる。龍族の悋気は確か激しいのではなかったか、と。

(それでも黙ってみている辺り、アタシらが逸坊の「女」じゃないってのは、なんとなくわかってるんだろうねえ)

 この楼の妓女たちにとって、逸は息子や兄弟のようなもので、逸にとってもそれは同じこと。血の繋がりの有無はともかく、互いに家族としか思っていない相手に、悋気は起こしてもそれをぶつけようとしない程度には、龍族というのは自制が効く種族らしい。

 関心する大姐を知ってか知らずか。目の前の光景にふるふる拳を震わせていた龍族の少女は、俯きかけた顔をきっと上げると、意を決したように床を蹴って飛び上がった。

「逸、私も撫でてー!」

「うわ馬鹿、やめねえかこのくそガキ――!!」

「――ここにおられたか、天龍殿!」

 果たして、王城から脱走した次期天龍を探して辿り着いた近衛たちが見たものは。

 夜の世界で華やかに着飾っている姿しか見たことのなかった美女たちにあられもない姿で詰め寄られながら、幼くも美しい次期天龍に今まさに唇を奪われんとする、どことなくくたびれた風情のひとりの青年であった。

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