ひきコウモリ・風呂Nティア

斎藤秋介

ひきコウモリ・風呂Nティア

 風呂から上がると、妹が偶然やってきた。

 おれの目のまえに立っている。

「ユリカ、そこで服脱ぐなよ……?」

 言いながら、もしもここで“おれのほうが”立ってしまったらどうなるんだろうかと考えた。そんなことがあったら炎上案件になるのが現代だ。

 ところで、風呂の目のまえの空間ってなんていう名前がついているんだろう。まあとにかく、どっちにしろ我が家はボロアパートだからそういう空間がない。風呂のまえはすぐにリビングだ。仕切るものは薄いカーテンしかない。

「じゃあお兄ちゃん早くどいてよっ! わたしもう三日もお風呂入ってないんだからー!」

「だったらいまじゃなくていいだろ……わざわざかち合わせなくたって……」

「だってわたしお風呂の沸かしかた知らないんだもーん!」

「だいじょうぶだ。おれも知らない。だから湯船は入れないよ。シャワーの出しかたはわかるだろ?」

「それはさすがにわかるってばっ! 蛇口ひねるだけでしょっ!」

 そう、おれたちは社会不適合者だった。

 歯の磨きかたもわからなければ、髪を洗うときに爪を立ててはいけないということも知らない。

「じゃあおれ菓子パンあさっとくから。あとで一緒に食べよう」

 キッチンの引き出しを開けると、ドボドボっと菓子パンが大量に落ちてきた。

 すべてに『値引きシール』が貼ってある。

 母さんが数日に一回、大量に買ってくるんだ。

 なんだか食事をするのもめんどうくさいので、けっきょくあんまり食べることがない。だからこのうちのけっこうな数が、実は賞味期限切れだ。中には緑色に変色したものもある。

 まあそういう毒味はユリカにさせればいいだろう。毒をもって毒を制すというやつだ。腐りきった心を治すには腐りきったパンが一番だ。

 相変わらず隣の部屋から「パンパン!」という音が響いてくる。思考を盗聴されているようで気味が悪い。日常茶飯事だ。壁が薄いから隣人の生活がわかりやすい。産まれてくる子どもは必ず悲しい思いをするだろうな。

「おにいちゃーん! 上がったよー!」

 5分くらいして、ユリカがリビングに顔を見せた。

 パンツ一丁ということはなく、きちんと上下ジャージ姿だ。

「早いな」

「めんどくさいからシャワーだけにしちゃったー!」

「髪は洗おうよ。臭いよ。だからゴミ虫がたかるんだよ」

「まあまあ。ごはん食べよ」

「うん」

 おれはピーナッツクリームのはさまったコッペパンをユリカに差し出した。もちろん、ところどころが緑色に変色している。

 ユリカはきちんとその部分を切り捨てて、食べられるところだけを食べていく。ダメじゃないか、そんなことをしたら……ここで“耐性”をつけておかなくちゃ、これから生きのびていけないぞ……。

「さみしいなぁ」

 ユリカがぼやいた。

「いいじゃないか。頭のおかしい母親なんていないほうがいいぞ。いつもキレてるし。おれは父親が欲しいな」

「男なんて人のこと殴って借金してパチスロやるだけだよ! 絶対お母さんのほうが平和だよ!」

 意見の相違だった。

 おれは母親の連れ子で、ユリカは父親の連れ子だった。

 おれたちは奇妙な血縁で結ばれている。

「だからっておれのことを『お兄ちゃん』だなんて呼ぶのはいいかげんやめないか? おれはお父さんのかわりじゃない」

 そう、おれたち兄妹は同い年だった。

「だってお兄ちゃん欲しいんだもん」

「ユリカは欲しがりちゃんだなぁ。ワガママだなぁ」

「パパ活するよりマシでしょ?」

「だいじょうぶだ。ユリカには需要がないだろ。ひきこもりで風呂にもろくに入らないあやしげな女の子を買ったって、リスクしかない。イチゴしたら間違いなく性病にかかるだろ」

「ひきこもりに言われても説得力ないなぁ……」

 そう、おれたちはひきこもりだった。

 どちらも中卒で、高校に通っていない。

「でもおれはちゃんと勉強してるしな。文部科学省のサイトで過去問見てるぞ。高認は超簡単だから無勉でも受かるらしいからな」

「えらいなぁ……」

 ユリカが頭を撫でてくる。

 一緒に暮らしていなかったら襲っていただろうな。共依存の恋愛関係になっていたかもしれない。まあ、ひきこもり同士が出逢う可能性はゼロだけど……。

「おれたち、これからどうすんのかな。一生このせまい家の天井見ながら生きていくのかね……? 20歳になっても……? それは嫌だなぁ……」

「わたしいつも泣いてる。床に寝っ転がって、天井見てると涙止まらなくなるんだよね」

「まあでもやっぱり、ユリカはいつかそういう世界に行くよ。見た目は悪くないんだから。苦しくても、いまよりはマシだよ、きっと。そんで、ちょっと“エピソード”を語ってやったらいい。理解ある彼くんもできるよ、きっと」

「パートナーなんていらないよ。わたしが信頼してる男の子はお兄ちゃんだけだから」

「それ、そういうコンセプトのお店でお客さんに言ってやったらいい。ああいうサイトの女の子が書く日記みたいなのがあるんだけど、お客さんのこと必ず『お兄さま』って呼んでるからさ。妹系はロリコンにウケるみたいよ」

「まあ、ぶっちゃけさ、わたしに需要があるならそれでもいいのかなって思ってる……どうせ……無理だし普通の仕事とか……無理だよね……?」

「うん、絶対不可能だと思うよ」

「そっか……」

「否定してほしかった?」

「ううん。いつもそうやって背中押してくれてありがとう……」

 飽きたなぁ……チョコチップスナック。

 カップラーメンとか食べたいなぁ。電気ケトルとかないし、やかんの使いかたも火のつけかたもわからないし……あったかいものが食べたい。ユリカにも食べさせたい。

「でも……」

 ユリカが泣きそうな声を出す。

「わたしが遠くに行ったら、お兄ちゃんはどうするの……? お兄ちゃんがここにいるのに、わたしは贅沢になっていいの……?」

「ばーか。いいんだよ。どんどん好きなことしたらいい。世の中お金じゃんか。それはおれたちが一番よくわかってる。貯金なんてすんな。すんなよ。まずは金を使うことを覚えるんだよ。そのときは自分のことだけ考えてさ。欲しいものも、食べたいものも、全部手に入れたらいい」

「そしたら……わたしがしたいことは……お兄ちゃんと旅行に行くことだよ……この世界から飛び出して……」

「うん。そのときは遠慮せずに招待されようかな。ユリカがそうしたいことを邪魔したくないから」

「わたし絶対変わらないから。お兄ちゃん、わたし絶対変わらないから。どんなところに行ったって、この悲しい気持ちは忘れたくない。忘れたら……負けだと思う……っ!」

 きっと忘れるんじゃないかな。

 これは口に出さないけど。

 だって、お互い親を見ていればわかることじゃんか、そんな現実。

 外の世界はこんなちっぽけな世界より大きくて、個人の意志なんて簡単に飲み込んでしまう。だからおれたちはひきこもっているんじゃないか。おれたちがなにを表現したって、80億人の世界には届かないよ。

 ……そしたらさ、ユリカはユリカじゃなくなって、80億人のひとりになるんだよ。そうしたら、きっと生きていける。それは最初辛いと思うかもしれないけど、思いを失ったあとにはゆるやかで、静かで、そこそこ楽で、平穏な毎日が待っている。気がついたら80歳とかで寿命だ。そこにはもうおれはいないし、おれにかかわる気持ちもない。

「寝よっか」

 おれは隣を向く。

 ユリカはいつものように、無言で涙を流している。

「N……N……」

 その嗚咽は、なんだかアルファベットに聞こえた。

 意味はよくわからない。数字をかぞえる練習でもしているのだろうか。ただ、ユリカがなにかを決心したのはわかった。いつだって人生は唐突に回り始める。ただその摩擦が小さすぎて、気がつかなかったりするだけだ。人はいつだって変化し続けている。

 すー、すー、と、やがて寝息が聞こえてきた。

 おれはいつも、ユリカが眠りについたのを確認してから、あとに眠るようにしている。

 おれは、すー、すー、と寝息を立て始めた。

 ギシッ、と床のきしむ音がした。

 ユリカが身体を起こしたのだろう。

 足音は少しずつ小さくなる。

 反面、ユリカの世界は広がっていくようで――ガタッ、とドアの開く音がした。

 ガタッ、とドアの閉まる音がした。

 これでもう、誰もおれを見ている人はいないんだ。この世界には、たったひとり、おれがここにいるだけ。

 おれはしばらくのあいだ、生まれてからこれまでのことを思い返していた。無性に泣きたかった。そういう気分にひたりたかった。でも、涙は出なかった。おれのなかにもう、『悲しい』という感情は失われているようだった。

 おれは電気をつけ、紐に中学時代の制服のベルトを巻きつけた。強度が不安定だったが、締まる力のほうが強ければ問題ない。

 おれもすぐに行ける。新しい世界に。ユリカ、待ってやれなくてごめん。おれはおれとして、ちょっと違う世界に行くよ。そこは80億人のひとりの世界ではなくて、おれがおれとして存在する世界だ。

 重みで、電気が消える。


 パチリ。


 まるで、コウモリが夜の闇にぶら下がっているようだった。

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