プロローグ〜序章 中盤まで

 Prologue ――――くらいあお。


 吐く息は白く、無数の泡となって天へと昇る。左右の感覚は既に無く。ただ、天井への光が遠ざかるのみ。


 下に、下に。ゆっくりと、静かに。だが確実に。暗く深い闇へと沈み行く。


 通り過ぎる生物は、まるで自分など意に介さない。そういえば、手足の感覚は深い蒼に溶け込んでいる。


 降りるだけのこの身体には、とうに必要なくなった付属品に過ぎない。


 ――――まさにこれは一つの回帰である。生まれた生命が、その恩を生まれた場所へと還す。交換では無い、返還だ。


 であれば、つまり自分はこの大きな揺らぎに、生命そのものへ帰ってきたのだ。何を恐れることがあるのだろうか。


 もう一度息を吐いた。先程より少し減った泡が、光とともに天井へと向かい、消える。もうどうやら、光を掴むことはできないみたいだ。


 美しい景色は充分に堪能した。身体を反し、自分が往くべき方角を見定める。


 見えるものは、終わりのない、視界いっぱいの濃紺。どこに向かうのか、終着点は、誰にも分からない。


 恐怖は無かった。大いなる生命へと回帰できたことが、ただ純粋に、生物として嬉しく、誇らしかった。


 少しづつ、感覚の無くなった手足を伸ばす。その濃紺へ触れる為に。その闇へ。その深淵へ。その真髄へと伸ばし続ける。


 溶け出した自分と、誰の物かもわからない手足が一つになった。濃紺が手足に触れ、自分の内に入り込む感覚が、確かにある。


 ――――闇を掴んだはずの自分は、もう既に、どこにも無かった。





 序章 無法市街



「ハァ――――ハッ! ……ハァッ!」


 夜の闇に紛れ、男は一人逃げ惑う。走り回った身体は煮えたぎったように暑く、真冬の寒さを感じさせない。


 自分が狙われている理由は、男には痛いほど理解出来ている。の掟に背いたのだ。厳罰が免れないことは、長年粛清役を引き受けていた己の骨身に刻まれている。


 ブツをこの目で見た時に、これは革命が起きると思った。ほぼ水のような代物で、効果もしっかりとある。値段も闇ルートの物より数段安い。


 後悔しても、後の祭りだ。人生はいつもそうだと、男は嘲笑する。


「……ここまで、来れば。何とか――――」


 ここは某県一葉市内唯一の歓楽街、幾度となく逃げたネズミを自分の手で屠って来た。逃げる為の場所も、袋小路も、全て頭に入っている。


 ただの追手なら、男の影を捉えることすら難しかったのだろう。


 ――――男にとって不運だったのは、追手が組の懐刀であったことだ。


「ッ!?」


 走り回っていた身体が、流れるように地面へと向きを変える。男はそのまま額からコンクリートへと激突した。


 すぐさま身体を起こし、警戒姿勢になる。次に感じたのは、左太腿の内側にある、強烈な熱であった。


「うぁぉぁぁぁああぁあ!!!!」


 しとどに溢れる血液。擦りむいたものでは無い。生命ごと流れ落ちるような、取り返しのつかない傷である。


「……うるせぇな。動脈狙ったんだからそりゃ出血するだろうが」


「て、テメェは……! ぐぅっ!」


 姿を表した追手に、拳銃を向ける男。発砲するつもりで構えた腕には、鋭い痛みと、いつの間にか穴が穿たれていた。発砲音は聞こえていない。だが確実に、銃弾は男の腕を貫通していたのだ。


「どうやって……」


 男は、それなりに修羅場を潜り抜けてきた極道である。発砲音には人一倍敏感であった。そうでなければ、彼は生き残って来られなかったのだから。


 しかし、発砲音は事実として無かった。例えサプレッサーが着いていたとしても、男は音を聞き逃さないという自負がある。


 男は追手の姿を見る。月明かりに照らされて、次第にそのシルエットが、実態を伴い始めた。


 追手が手に持つモノは、現代では明らかな骨董品と化したリボルバー。第一次世界大戦の頃のようなアンティーク。確か、世界的な基準となった二十六年式拳銃のように見える。


「さて、そろそろ仕事に取り掛かるか」


 追手は男の身体に馬乗りになって、拳銃を首に突きつける。


「誰の差し金だ、言え。粛清班のお前が自らヤクに手を出すはずがねぇ」


 追手の声には、明らかに何かの期待があった。それを察した男は喋らない。追手は無感情な眼で、男の指先を撃ち抜いた。やはり、無音であった。


「ぐっ!」


 焼けるような痛みに呻く。指先には、神経が集まっているのだ。その痛みも計り知れない。


 ふと指先があった場所を見ると、血の他に、何か別の液体が飛び散っている。それらを確認する時間は、自分には遺されていない。


 ――――この追手。拷問を知っている。痛みの中でも、男は冷静であった。太い動脈に穴があるのだ。拷問されようが死は確定したようなものだ。それよりも解せない事は、追手は冷酷であるが拷問には慣れていないという事である。


「チッ、手順を間違ったか」


 追手は拳銃を仕舞い、腰元に吊るしてあった鞘からサーベルを引き抜いた。海賊が持つような、片刃の剣である。時代錯誤としか言いようのない武装は、男にとってこれ以上無い程の恐怖を与えた。


「早く言え。指から順に切り落とす」


 男は何も言わない。言わなくても死ねることが分かっているからだ。どうせ死ぬなら、義理程度は果たしておきたい。裏切った癖に、極道としての矜恃はまだ残っていた。


「……チッ。面倒くせぇな」


 追手は深いため息を吐き、男の腕を掴む。予期せぬ行動に、男の頭に疑問符が浮かび上がるが、追手は構わず腕の傷跡から何かを注入し始めた。


「何を……している?」


「見てわかんねぇか? あんたの体内に水を入れてる」


 どこから水を持ってきているのか。傷を塞ぐのならば、太腿の傷が効率的であるのに。質問したい事は増すばかりである。


「一体、何を?」


「なぁ、あんたは知らねぇだろうけどよ。水にも致死量があるんだぞ?」


 ――――理解、できない。本能から、この男の言い分を受け入れたくない。


「だいたい六リットルだ。お前は逃げ回った時の発汗と出血の分があるから……七から八リットルもぶち込めばもう助からねぇな」


 いくら何でも、その死に方は無いだろう。


 男は極道だった。ある程度の悪行は果たして来た。当然、自分がまともな最期を迎えられるとは思っていない。組のために鬼にも悪魔にもなって来た自分だ。地獄行きもやむ無しだろう。


 だが、せめて、死に方ぐらいは極道らしくありたいものだ。


「この死に方は……無いだろう」


「だよな、俺もそう思うぜ。だったら早く話してくれよ。それでお互い解決だ」


 男は何も喋らない。追手は口を開かず、ただ、男が音を上げるのを待っている。夜の街の中で、二人の周りだけが静寂であった。


「……プランBか」


 追手が、ふと呟いた。言葉の意味を男が考えるよりも先に、答えがやって来た。男はそこで、自らの終わりを理解する。


「……よォ。鼠は捕まえておるか?」


 親の声より耳にした、威厳ある声音。男は無意識に、小刻みに震え始める。声は自分ではなく、上に跨る追手に向けられていた。


「瀕死だが、確かに一匹いるぜ。タイガー」


 その返答に声を上げて笑うタイガー。彼は満足そうに頷き、男へと視線を変えた。先程とは打って変わって、冷たく、鋭い目をしている。


「まさか、お前さんが鼠だったとはのう」


 心底驚いた様子で、顎をさするタイガー。口調は優しいが、目は全く笑っていない。


「アクア。どうじゃったか?」


 男にとっては初めて聞く名前である。アクアと呼ばれた男は、無言で首を振った。


「ほうか。腿と腕、指先を撃ち抜かれても割らんかったか」


 根性はあるらしいのう、と言外に伝えてくるタイガー。まだ彼は若々しいが、何年も修羅場を潜り抜けてきた風格が彼には確かにある。


 どこからか来た流れ者であった彼が、クスリを使わずに組を潤わせた。その手腕から暴虎組をあっという間に掌握し、組長からも信頼されているタイガーだ。


 前任者がお世辞にも有能とは言えなかった若頭就任も、妥当であった。


 だが、それに納得できないメンバーも確かに居た。元々、暴虎組は麻薬などの違法商売で生きてきた。それを封じられ、居場所を無くした者達は、面目も何も残って無かった。


 ヤクザは、面で飯を食っている人種である。面子を、何よりも大事にしなければならない。一度潰された以上、反抗しか生きる道は無かったのだ。


 男は、最後の抵抗者であったのだ。男が消えれば、タイガーの地盤は磐石なものとなり、完成する。寧ろ、タイガーが居なくても回るように組織化されていた。


「おい、連れて行け。何としてでも吐かせよ」


 若頭は後ろの部下たちに命じ、男は両脇を抱え上げられる。抵抗は、する気が無かった。意味などないし、理由も、大層な反逆の意思があったわけでは無い。


 男は少し歩かされ、タイガー達が乗ってきたであろう車に乗せられた。ドアの近くで一度立ち止まり、長く生きてきた一葉市を見回した。


 ――――まさしく自分は糞の掃き溜めのような世界と人生であった。だが、男は最後に、タイガーと対等であった自負を持って車の中に消えていった。


 *


 路地裏には、アクアとタイガーの二人だけである。


「ったく、相変わらず拷問は下手じゃのう」


 葉巻に火をつけ、紫煙を撒き散らしながら、タイガーはぼやいた。俺はそれを無視し、リボルバーの手入れに移る。


「……ふぅ。なあアクア。ワシの見立てじゃと、彼奴は何も関わっとらんぞ」


「なぜそう言い切れる」


 俺は答えを知っている。だが、タイガーにそう問わずにはいられなかった。


「ワシに対する反抗じゃ。多方、新参者が若頭になった事が気に食わんのじゃろ」


「確かに、お前が今の立場になってから、俺の仕事も増えた気がするな」


 時代錯誤とはこの事と言わんばかりに、乱暴に息を吐くタイガー。粛清だの、闇討ちだの、物騒な事を頼まれるのは嫌いじゃ無いが。


「で? タイガー・アイはどう判定したんだよ?」


『アイ』という言葉に、先程の目付きになるタイガー。周りを探るように見回し、俺へと視線を向けた。


「ワシが正しいようじゃ。全く、こういう時はムカつくのう。この力」


「文句言うな、それだけ便利な力だろうが」


「じゃが、お前のような戦闘力は無いぞ?」


 大嘘こきやがって。少し走り回った疲労から、路地裏の壁に座り込み、手持ちの煙草に火をつける。湿気っていなかったのか、火は一発で点いた。


「てめぇこそ、年下の癖に杖なんかぶら下げやがって」


 そもそも、タイガーには隙が無い。武人の佇まいと言っても過言では無い。これで戦えないとは、手酷い冗談だ。


「……どうやらワシらは、現状含め一度話し合った方が良さそうじゃのう」


「構わねぇが、お前持ちだろうな? タイガー」


「泥水で良ければ奢ってやるわい」


 俺は返事とばかりに煙を吐き、腰を挙げた。交渉成立である。俺たちは煙を辺りに漂わせながら、歓楽街の灯りの中へ歩き出した。


 *


 俺たち行きつけのバーは、直ぐに個室を用意した。俺はともかく、暴虎組若頭であるタイガーを無視することはできないのだろう。そういう事だ。


「しかし、お前んとこの組織はもうお前が居なくても回るじゃねぇか」


 適当な酒を飲みながら、俺は責め立てるように言う。自分の居場所が無くなるかもしれない状況で、タイガー・アイは全く焦っていない。不思議に思うのも無理はないだろう。


「ワシが何もせんでも金を得られる構図。組に入ってからずっと思い描いてきた絵図じゃ」


 キープしていたボトルから並々と液体をグラスに注ぎ、そのまま呷るタイガー。はっきり言って五月蝿いことこの上ない。


「っかぁ〜! キくのう。ここの酒は」


 反対に俺はグラスに入った酒を少しづつ飲んで行く。別に、酒に余り強くないだけである。


「まず、現状を確認するぞ」


 豪快な飲みっぷりとは打って変わって真面目なトーンになるタイガー。釣られてしまい、こちらも身構える。


「ここ一ヶ月で、ワシらのシマに入るヤクが増えた。間違いなく敵対勢力の仕業じゃな」


「組の裏切り者のせいじゃ無いのか?」


「阿呆。組の者は利用されただけじゃ」


 俺が口を割らせるのはその為であったのだ。勿論知ってはいたが、改めて口に出されると感じる物がある。


「……だろうな。口を割らねぇって事は、それなりにバックはデカいぞ」


「うむ。だから今の拷問で諦めてくれるといいのじゃがのう」


 先程捕まえた粛清班の男の事だ。多方、俺の時よりも相当えげつないモノになっているのだろう。


「何としてでも割らせろ。最悪、俺が引き継ぐ」


「ほう。リベンジか?」


「別に。仕事は途中で投げ出したくないだけだ。それに、『タイムマシン』の事もある」


 そうじゃないと、俺はお前たちと対等とは言えない。汚れ仕事も引き受けなければ嘘だ。俺のプライドが許さない。


「『タイムマシン』……か。本当に近づけると思っておるのか?」


「当たり前だ。俺の勘に賭けて、そいつはある」


「元軍人の、誇りかのう」


「とにかく、さっさと奴らの根城へ向かうぞ」


 場所はわかってんだろうな、と釘を刺すように睨みつける。タイガーは真っ直ぐこちらを向いて、頷いた。


 俺たちは外へ出る。当然、金は払っていない。客が客だからだ。


「ほれ、こっちじゃぞ」


 気配は消しつつも、先導していくタイガー。奴も、後方とは言え戦場を経験している者の足取りだ。断じて並の極道ではない。


「しかし、お主は殺気を消すのが上手いな」


 いや、もしかしたら緊張感がないだけかもしれない。なぜなら、こんな的外れな指摘をしているのだから。


「そもそも、俺は殺す気は無いぞ」


 暴虎組では色々内紛があったのかもしれないが、あくまでも俺には預かり知らぬ所だ。目的の情報さえ得られれば、後は煮るなり焼くなり好きにする。


「つまり、優先順位が違うと言う事かの」


「……そういう事だ。お前には悪いが、使えそうだったら協力者にするつもりだ」


「まぁワシは構わんがの。クスリの流しだけ止めさせればのう」


 ……これは言外に、『交換条件』を提示しているな。タイガーを敵に回すのは得策ではない。良いだろう。その誘いに乗ってやるか。


「あぁ。事の発端がそこにある以上、俺も蔑ろにするつもりは無い」


「うむ、その言葉を待っておったぞ」


 タイガーは、敵と味方の線引きをしっかり付けるタイプだ。コイツとの関係性は長いが、ここでどっちに着くのか今みたいに聞いてくるのだ。これ以上の領域から出たら敵、内側にいる以上は味方。ハッキリしていてわかりやすい。


 おまけに、義理人情もあると来た。扱いやすいことこの上ない。まぁ、向こうも俺を敵にする気は全く無いようだし、長年何だかんだやって来たからな。気心も知れている。


『情報』関連の仕事は俺に回ってくる。当然、普通の組員じゃ任せられない物ばかりだ。そういう時に、若頭の『食客』の出番となる。


 組員の間では『犬』だの、『ゴマすり』だの散々な言われようだが、仕事だけはキチンとやる分、誰も文句は言ってこない。そもそも、俺は『情報』を得るのが目的だ。それ以外の事に気を割く余裕は無い。


「おい、聞いておるのか。着いたぞ」


「……ん? あぁ、大丈夫だ」


 いつもの間にか、着いていたみたいだ。場所は歓楽街から少し外れた海沿いの倉庫。ガキの集まりやらなんやらで、おあつらえ向きの場所だ。


「こんなガキの集会所見たいな場所に居るのかよ」


「そうじゃな、流れ者の根城じゃの」


「……まるで、かつての俺たちみてぇだな」


「じゃから突き止められるんじゃよ」


「……結局、最初に行動した奴の勝ちだ。俺も、お前も。先に始めたから、今が在る」


 先程の意趣返しでは無いが、言外に同情するなと釘を刺しておく。タイガーには意味の無い行為だろうが、これは俺の意思表示の問題だ。倉庫内の人間を叩き潰すという攻撃開始のサイン。


「もちろんじゃ、少しはワシもやるぞ」


「流石だ、相棒」


 ――――そして、俺たちは倉庫の扉を蹴破った。


 中には、誰も居ない。だが、気配はある。おかしい。何かある。誰も居ないのに気配があるということは、『罠がある』に違いないのだ。


「相棒! 気をつけろ!」


 名前を呼ばずにタイガーに危機を教える。返事と言わんばかりに、コツコツコツと三回、その後、杖をカツンと鳴らす音が聞こえてきた。


 ――――これは、俺とタイガーが決めたサインの一つ。意思表示の様に、口に出す物もあれば、口が使えない時。つまり喋られない時に使うサインとして音を鳴らすという物がある。今回は自分の考えを悟らせない為に使っている。


 今のは小三回と大一回。アルファベットのSとTだ。つまり、stay(留まる)という意思表示になる。当然だ。直ぐに対応できるように、意識を倉庫内に張り巡らせる。


 場所は二時方向。俺はリボルバーを構え、目を閉じた。当然、暗闇に目を慣らす為だ。その間に、踵でSとHのモールス信号を鳴らし、shoot(撃つ)意思表示をする。返事はOK。


 目を開け、二時方向へ向けて一切の躊躇無く発砲した。音は全くしない。なぜなら、これは『水圧銃』であるからだ。


 厳密には、音は鳴っている。だがそれは、水音に過ぎない。『発砲音が来る』と思っている相手には、さっぱり撃ったタイミングが分からなくなるという代物だ。貫通力も大きく、撃ち抜く場所で拷問にも始末にも使える。


 特に暗殺には向いている。玉が残らない以上、証拠は出ない。血混じりの水さえどうにかすれば良いが、そんなのは俺の『得意分野』だ。どうとでも偽装できる。


 だから、今回も相手を撃ち抜いて終わり。後はタイガーと尋問して喋らせればミッション完了だ。普通よりも楽だと言っていい。


 ――――しかし、水圧の弾は何も貫通することなく、『何か』に阻まれた。


「何だ――――」


 続いて、足元に起きた違和感、条件反射で首を前に倒し、目に集中を込める。異形な大顎が、俺とタイガーそれぞれの足首に狙いを定め、今まさに顎を閉じようとしていた。……タイガーは、まだ目を閉じている。


「飛べ!!」


 力の限り叫び、跳躍する。タイガーにも聞こえていた。顎は空を切り、まるで初めから居なかったかのようにその存在を消していた。


 飛び上がった上に現れたのは血生臭い生き物と荒い息遣い。首を無理やり後ろに倒し、見上げると。


「GUOOOOOO!!!」


 太古の地表の王者。古の化物。肉食恐竜の顎が、俺の首を喰い破ろうと待ちわびていた。





 序章 その二


「GUOOOOOOO!!!」


 二度目の咆哮。狙いを定めた合図だ。恐竜の顎は迷うことなく、上に飛び上がる俺の首を狙っている。


 俺は片目だけ動かし、タイガーの方を見る。あちらは何もおらず、飛び上がる奴だけが見えた。


 つまり、これが意味することは何か。


 当然、この技は連発、もしくは同時展開は使えないという事だ。とにかくこの恐竜が決め手。第四の手は無い。


 ならば簡単。一か八か、サーベルを引き抜いて恐竜の口に向けて刃を振るえばいい。自ら肘までの腕を恐竜に差し出す形だ。自棄になったと見えるだろう。


 だが、これでいい。銃で脳天を撃ち抜いたところで、『俺を噛み殺す』という脳の命令は出たままだ。確実に殺せばするが、俺も死んでしまう。それではまさに犬死だ。


 俺が狙うのは、上顎と下顎を繋ぐ筋肉の繋ぎ目。つまり左右二つの腱だ――――。


「うおおおおぉ!」


 自らを鼓舞するため、大声で蛮勇を呼び覚ます。後は腕を食われる恐怖に打ち勝つだけ。それに勝てば、この博打も確定した未来に繋げられる。


 腕を振り抜く。顎が閉まる。二つの境界線のギリギリを、俺の刃が駆け抜けた。


 腕は無事。首も勿論付いている。その証拠に、顎は何も餌を得ることなく、ただ重厚なかみ合わせの音を響かせていた。完璧な無傷であるが、避けられないダメージは、『これから』である。


「ぐっ!」


 恐竜の勢いに任せた顎の突進を片腕で受けた。流石に威力は殺し切れず、腕と背中から異音を立てて地面に叩きつけられる。上に飛んでいて、顎はこちらに勢いよく向かっている。計算上戦闘不能にはならないダメージとして判断し、受け入れた結果だ。


 どちらがマシかは五体満足な身体が証明していると言っていい。


「無事か」


 タイガーが、目を閉じたまま聞いてくる。大声と揉み合う音で、状況が分からないのだろう。俺は踵でOKを示す。奴は納得したのか先程までと同じように口を閉じた。


 顎の追撃に備えようと、行動を見るために上を向いたが、黒い異形な大顎と同じように、恐竜の頭は綺麗に露と消えていた。


 少し待つが、敵は攻撃して来ない。つまりそれは、これ以上の攻撃は正体か手の内がバレることに等しい。初めから罠を張っていた事を考えると、俺の攻撃に合わせて能力が発動した可能性が高い。


 ――――後は、奴の推理を待つだけだ。


「相棒! 情報は集まった!」


 その言葉に呼応するかのように。タイガーは杖を一度鳴らしてから、ようやくその閉じていた眼を開けた。


「よぉし! 待たせたのう! それでは、『タイガー・アイ』の出番じゃな!」


 こいつの最も凄い点は、その推理、洞察力にある。俺が集めた情報を元に、正解を導き出してしまうのだ。流れ着いた時に探偵のような仕事をやっていて身に付いたと言っていたが、奴本来の『能力』かもしれないな。


 俺は集めた情報を伝える。相手に聞こえていい。アクションを仕掛けてこないという事は、基本戦術は『待ち』なのだ。攻撃意志を見せなければ何も出来ないと見える。


 渡した情報は、基本戦術が『待ち』である事。防御、助攻、主攻の三つが同時展開できる最大の罠をである事。そして、昆虫の大顎と恐竜の顎を使って来た事である。


「アクア。ワシはこやつが能力者であると見ておる。そして、お主であればワシと同じ答えにたどり着いておるじゃろ?」


「あぁ。だが、名前までは知らない。解るのは能力までだ」


「それで充分! アクアよ! 下手人にその力の根源を叩きつけよ!」


「……この能力。甲殻類、昆虫、恐竜の三種を同時に扱う異能。答えは、『琥珀』。宝石に封じられた生物の力を一時的に顕現させる能力だ!」


「重畳! ……さて、決着と行こうかの」


 俺の答えに満足したのか、タイガーは葉巻を加え、火をつけた。辺りに紫煙が立ち込め、朧げな仄明かりに彼の姿が僅かに見える。


「『琥珀』の能力者、アンバー・オレンジよ。『虎目石』、タイガー・アイと……」


「『水』のアクアが首を取る!」


 タイガーの言葉に続き、ここに宣言した。二人で敵の首を取る事を。名前はアンバー・オレンジ。琥珀の宝石に封じられた生物の力を一時的に顕現させる能力者である。名前は知らなかったが、俺とは戦線や時間が違うのだろう。


 ――――能力者が、自らの根源を示して名乗る時。それは、この戦場から決して逃さないという不退転の誓いである。能力の開示には、それなりのリスクが伴うからだ。名前と性能が相手に知れ渡る恐れがある事は、俺たち全員が知っている。


 だとしても、そのリスクを負ってでも、成し遂げたいコトがある時、俺たちは名乗る。それが、暗闇から始まった自らの運命に抗うために必要であるからだ。


 深い意味は無いが、東洋のサムライの名乗りに等しい。つまりは心の持ちよう、矜恃だ。そしてそれは、アンバー・オレンジにとって宣戦布告と同義である。


 警戒は当然怠らない。倉庫内の全てに意識を張り巡らせ、どこから生物が飛んできてもいいように身構える。


「さて、アンバー・オレンジよ。お主の魂胆は分かっておるぞ。ワシらの名乗りにも応じず、ただこちらが仕掛けるのを待つ算段なのじゃろう」


 相棒は淡々と語る。お前の考えは看破しているぞと。


「じゃが、甘い。そんな安い挑発に乗るほど、ワシらは死地を乗り越えて居らんぞ?」


 タイガーは持ち前の殺気を更に強めた。一般人であれば、思わず身を隠す程の威圧。……あいつ、多分結構キレてるな。


「お主も男なら、何か一つくらいは言い返してみよ!」


「黙れ!!」


 俺の声でも、タイガーの声でもない怒声。方角は十八時。真後ろ、出入口の方向だ。


 タイガーは葉巻を加えたまま、器用にニヤリと笑うと、一言アンバーに告げた。


「待っておったぞ、お前がしゃしゃり出て来るのをのう。……アクア!」


 奴の方を見ず、特定した方向目掛けて奔る。眼は充分に慣らした。身体も先の戦闘で暖まっている。ゼロ距離からトップスピードで相手の喉元に肉薄し、手に持つサーベルを突き出す。


 亜音速の突き攻撃は、そのまま未だに顔も見えない相手の喉元に突き刺さる――――。


「……っぶねぇ!」


 寸前で躱された。いや、反射で動いたと見た。自分の意識以外の面で、勝手に判断した様子だ。アンバーの様子が見て取れる。ポーカーフェイスがまるでなっちゃいない。


 その様子だと、敵に『能力だから躱せた』と言っているような物だ。


「タイガー! こいつを『視ろ』!」


「そいつはアンバーじゃろうが!」


「奴なら、俺の攻撃を『琥珀』の力で護るか迎撃する! 敵は二人組だったんだよ!」


 タイガーは何も言わずに頷き、相手の観察を始めた。後は俺が戦って、相棒に情報を与えるだけ。


「行くぞ、伏兵野郎。名乗りもせずに高みの見物決め込みやがって。引きずり下ろしてやるよ」


 伏兵は何も言わずに、ナイフを引き抜いた。軍用のサバイバルナイフと見て間違いない。それを戦闘開始の合図として、俺は二度目の肉薄を試みる。


 ナイフ攻撃の場合、初撃は重要じゃない。そこから、どうやって二撃目、三撃目に繋げていくかが大事だ。奴の構えから察するに、どう見ても素人に毛が生えた程度だ。訓練期間が短かったのか、驚異には到底なり得ない。


 初撃が来る。中段の薙ぎ払いだ。身を軽く屈めて難なく躱し、大振り後の無防備な土手っ腹にサーベルを突き刺す。


 が、後ろに引っ張られるようにして躱された。こいつ自身の動きじゃない。明らかに、ここまで来ると『能力』の範疇だ。


「さっさと制圧してやる」


 少し狙いを変えて、手や腕を中心に無力化を図る方針に変更してみるか。異常な反射速度も、何がしかの『条件付き』と見た方が良さそうだ。


 肉薄する事三度。今度は向こうもナイフを顔の前に構え突進してくる。切り抜けはさせねぇ。交差し、激突する直前に俺はスライディングの体勢に移行。


 そのまま相手の足元に移動し、ヤツのナイフが空を切った所を見計らって脚ごと巻き込んで地面を転がした。


「ぐあぁっ!」


 地面を転がる相手の上に素早く飛び上がり、片手でナイフを抑えてヤツの喉元にサーベルを突きつけた。これにてゲームセット。後は、この首の頸動脈を掻っ切れば終わりだ。


「無駄だと思うが質問する。お前らの目的は?」


「……答えはくたばれ、だ。過去の遺物が」


 返答に満足した俺は、無感情にサーベルを手前に引き抜く。その直前に。


「待ってください!」


 今まで黙りきっていた若い女の、倉庫内に響く声が聞こえてきた。


「お前は、アンバー・オレンジだな?」


 確認するように再度問う。サーベルを一度動かしてカチャリと『相手に聞こえるように』鳴らした。これが脅しであることは伝わっているはずだ。


「えぇ。『琥珀』の力を持つ、第三世代の流れ者です」


 ですからどうか、その男を放してください。アンバーはそう言わんばかりの眼で俺とタイガーに訴えてきた。


 月明かりに照らされた彼女の姿は、長い琥珀色の紙に、目立つローブを羽織っていて、まさに御伽噺の魔法使いそのものであったのだった。


 タイガーの方を一度見る。奴の眼は変わらない。冷酷な、軍人としての眼のままである。つまり、それは『決して放すな』という事と同義である。


 俺も同じくそう思う。話した瞬間、二人がかりで襲ってくる可能性もある。自分の姿を明かした以上、不意打ちや待ちの戦法は使えない。後は玉砕あるのみの特攻程度しか考えられないからだ。


 ……一番手こずる相手は、いつ何時も変わらない。覚悟を決め、死を受け入れた者たちである。それを知っている以上、放すワケにはいかないのだ。


「そいつはできねぇ相談だ。何せお前らには聞きたいことが山ほどある」


「何を話せば宜しいのでしょうか?」


 やけに素直だ。駆け引きなどあったものでは無い。俺はタイガーに確認せず、まず知りたいことから聞くことにする。


「お前らの名前と、能力を明かせ」


「私はアンバー・オレンジ。能力はお二方が暴いた通り、琥珀に秘められた生物の力を一時的に顕現させる能力です。使えるのは、同時に三つまで」


 俺はタイガーに声をかける。奴の返答は無い。アンバーにそのまま続けるよう促した。


「? ……そこで貴方に組み伏せられているのがジェイド・アタパイト。能力は――――」


「言うな! アンバー!!」


 アンバーが喋り出した瞬間、俺の下に居るこの男は何かを言いそうだったので警戒していた。力を入れてどうしようも無い程に拘束する。ジェイドは暫く暴れていたが、やがて諦めたのか力を抜いた。


「続けろ。ジェイドについて話せ」


「ジェイドの能力は、『致命傷を自動で避ける』能力です」


 タイガーは何も言わない。つまり、コイツらの言っている事は正しいのだ。嘘偽りの無い、真実である。


「なるほどな……」


 合点がいった。初撃の躱し方や、三撃目の後ろへの飛び退きも、ジェイド自身の力じゃ無かった。能力による自動防衛と捉えれば、何も問題ない。


「じゃが、おかしいのう」


 タイガーは警戒を解かぬまま二人を見据える。俺も同じだ。一つだけ、納得いかない事がある。俺やタイガーと、アンバーやジェイドは同じ『能力者』という括りがある。


 だが、その戦闘能力には大きな差を感じずには居られなかった。待ちの策はともかく、直接やりあったジェイドは間違いなく素人に毛が生えた程度であった。


「お前ら……まさか」


 ここで俺は一つの過程に至る。コイツらは俺たちと同じ『強化人間』だ。であるのに力の差があるということは、つまり。


「――――従軍経験が無いのか?」


 アンバーとジェイドは眼を見開く。やはりそうだ。つまり、この二人は『第三世代終盤に造られた』という事であるのだ。


 俺は少し考える。つまり、この二人ならば、俺が欲しい情報を持っている可能性がある。


 ――――そう、『タイムマシン』についての情報だ。

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① ネイビー・ラグーン 中樫恵太 @keita-nagagashi

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