第2話「初潜入!闇に葬られたパーティ」

 あんなことがあったから、用意される寝床はさぞ貧相で厳しいものだと想像していたが、目の前に広がる部屋はどこの貴族ですか?というような華やかさだった。




「えっと…私がこの部屋使っていいんですか?」




「…」




 あ、返事は無し、と。あはは、イケメンに無視されるとダメージ大きいですね。


 ダメなことは言われるだろうと思い、案内された部屋の中央に置かれたキングサイズのベッドめがけてダイビング。


 


 最高!!


 高反発のような厚みがあるが、いざ寝転がってみると体を包み込んでくれるような低反発。体を起こせば私の重みで沈んだ部分がくっきり。




「風呂はそこの扉を開けたところだ。明日の朝、時間になれば起こしに来る。飯は冷蔵庫に入っている」




 それだけ言うとミスター無口王子こと石田は部屋を後にした。


 言われた通り、この部屋には何でもそろっていた。ベッド、風呂、テーブル、冷蔵庫、トイレ、着替え、テレビ。必要最低限という言葉が世界一に合わない部屋の広さと備品である。


 


 心なしか、女性用に作られたような気もする。クローゼットには多くは無いが女性ものの洋服がハンガーにかけられていた。




「なんでもてなしをされているの…」




 勘違いしそうになるが、ここには遊びに来たのではない。むしろ人生で1度も経験することなく生涯を過ごす人がほとんどであろう、「誘拐」をされているのである。




 それとは裏腹に、あまりの待遇に眩暈がしてしまう。




「最後の晩餐ってことかな」




 明日「囮」とやらになるということは、最悪の場合命を落とす可能性もあるということだろう。死ぬ前くらいはもてなしてやろうという魂胆だろうか。


 今のうちから構えていても仕方がない。この部屋を少しばかり堪能したら寝てしまおう。




 テレビをつけると普通の情報番組や夜のバラエティー番組が放送されていた。もちろん、私が行方不明といった報道は一切ない。それもそうだ。私の身寄りはどこにもいない。




 特に見たい番組もないため、部屋を探索してみる。隅々まで見て回ったが、監視カメラのようなものは無い。




 もしかして、逃げられる…?




 私を捉えておくにしては、無防備すぎると思ったが、明日死んでしまう可能性があるなら、逃げられるうちに逃げておきたい。




 まだ、死ぬにはやり残したことが多すぎるのだ。


 私は部屋の扉に手をかけると、息をひそめて静かに取っ手をひねった。


 築年数が浅いのか、綺麗な扉はきしむ音ひとつ立てずに開いていく。


 鍵もかかってない!


 ここが何階かは分からないが、部屋を出ることが最初の試練である。ラッキー、と心の中でガッツポーズをしたとき。




「あ、何してんスか?」




「わっ!?」




 扉の横に背を預け佇んでいた男の目が開かれた。金箔をまぶしたような美しい黄色の瞳が私を捉えている。


 男は私に向き直ると、その綺麗な人差し指を自身の唇に立てた。




「逃げちゃダメっスよ。今のことは内緒にしとくんで、部屋に戻って寝ちゃってください」




 男は怖さを感じさせないように優しく微笑むと、「さあ早く」と背中を押した。私はされるがまま部屋に押し戻され、扉が閉まる音を背中に聞いていた。


 びっくりした。




 が、佐久間とかいう怖いお兄さんに見つかったのではなくてよかったと、大きく息を吐いた。心臓がバクバクと激しく脈打っている。




 しばらく立ち尽くしていた私だったが、部屋をノックする音でハッとなる。




「は、はい…?」




 振り返るとそこには先ほどの黄色い瞳の男が扉を開けて立っていた。




「あー…」




 男は困ったように頭の後ろを搔きながら、次に出す言葉を考えているようだった。




「こんな状況で急に寝ろって無理だと思うから、眠くなるまで相手しようかと思ったんスけど」




 私は目を丸くしてしまう。




「あ、余計なお世話だったかな…」




「いや、あの!よければ…お願いします」




 踵を返そうとした男の腕を掴む。見た目の細さからは想像のつかない筋肉質な腕を掌に感じる。




「それなら良かった。部屋、失礼しますね」




 私と男は大きなベッドの上に隣同士で座る。




 とととと、殿方と二人きり、かつベッドの上…!?




 私は今置かれている状況(誘拐されている)をそっちのけに脳内お花畑になっていたが、そんな私とは異なり男は低いトーンで語り始めた。




「急にこんなことに巻き込まれて、正直怖い思いでいっぱいなんじゃないか、って。すんません。組織代表して俺が謝ります」




「え?」




 男は座ったまま頭を下げる。




「今日何があったか佐久間さんから聞きました。姉さんの財布盗もうとしたのは確かに悪いことなんスけど、女の子をこんなことに巻き込むのは正直違うと思うっつーか…」




「あ、あの、私ってそんなヤバい状況なんですか?」




恐る恐る男の顔を覗き見る。男は苦い虫を噛んだような複雑な表情をしていた。




「ちゃんと、嘘偽りなく言うと、明日生きて帰れるとは…」




 あ、そうなんだ。




 男が苦しそうな表情を浮かべる一方で私の脳はなぜか冷静だった。まぁ、こんな誘拐された状態で脅されている時点でそれ相応の覚悟はしていたつもりだったが、こうもハッキリ「明日死ぬだろう」と告げられると180度回って驚きすら生じない。




 悲しみすら感じる前に、脳が考えることを放棄したような、すべてを諦めてしまった感じだった。




「明日、私に何が起こるのでしょうか」




「俺の口からは言えません。すんません…」




「いえ、そうですよね、私は部外者ですし…ははは」




「すんません」




 男がもう一度謝ると、私の瞳を見つめた。




「けど、1つだけ、言えることもあります。佐久間さんの命令は絶対です」




 あぁ、なるほど。この組織の主従関係は明確であるということか。




「だから貴方は私に同情はしても逃がしてはくれないんですね」




 皮肉に聞こえただろうか。男はまた俯いた。




「そうです。でも、それは「俺が」佐久間さんに逆らえないだけで」




 再び彼の瞳が私を捉えた。今度は、黄色の中に私の影が鮮明に映り込む。




「貴方は関係ない。部外者だからこそ、囚われの身だからこそ、佐久間さんの言うことに従う必要はない」




「佐久間さんに従わないと、私殺されそうなんですけど」




「従ってるふりでいいんです。いざとなった時、自分の命を最優先に行動してください」




「…」




 どうしてこの人は私にこんなことを言ってくれるのだろう。初対面の、組織に首を突っ込んできた女ひとりに、ここまで情が湧く理由が分からない。




『ピコピコッ』




 突如、重苦しい雰囲気を壊すような可愛らしい通知音が響いた。


 男がポケットから携帯を取り出して、その画面を数秒見つめた後、腰を上げた。




「噂の佐久間さんがお呼びっス。俺はこれでお暇させてもらいますね」




 それだけ言って扉に向かって歩いていく。瞳と同じ淡い黄色の髪が風に揺れている。


 私は思わずその背中に声をかけた。




「あの!なんで、私にそこまで優しくしてくれたんですか」




「…」




 足が止まり、少しの沈黙が流れた。


 彼は何を考えているのだろうか。口を開いては言葉を飲み込むような呼吸が聞こえた。




「…せめて、名前だけでも教えてくれませんか」




 もし、明日生き延びて、お礼ができたなら。とは言わないで彼の背中を見つめる。


小さな吐息が聞こえた後、彼が顔を少しだけこちらに向けた。




「……また会えたらその時に」




 それだけ言い残して、扉がパタリと閉じた。


 横から見えた彼の表情は、明日私の身に起こる不幸を示唆しているようで、胸が苦しくなった。
















「で、何ですかこの格好は」




 翌日、私は佐久間さんと石田さんに挟まれて大きな屋敷、ともいうべき場所の近くまで来ていた。




「うん、馬子にも衣裳だよね~」


 


 目の前の佐久間さんは愉快そうに私の頭の先からつま先まで視線を移す。




「ね?石田」




「…あ、はい」




 私は長い髪をこてで綺麗にまかれ、履きなれないピンヒールを両足にまとい、背中がら空きの真っ赤なドレスを着ている。




 これ、胸見えちゃうんじゃ…。という文句も言わせてもらえず、今に至る。


 佐久間さんと石田さんは出会った時と同じように、簡易的なスーツを着ており、私だけ派手に着飾られている。




 あ、佐久間さんって太陽の下だと髪の毛赤く見えるなぁとか現実逃避も虚しく。




「じゃあお嬢さん、最後の確認だよ。今から君の名前は」




「た、田中凛」




「そうそう、で、やらなきゃいけないことは」




「えっと、山岡組の山岡大樹さんの注意を引くこと…ですよね?」




「大正解~!どんな手を使っても良いから、この時計で15時まで山岡大樹を2階から遠ざけること」




 私に「囮」として課された任務は、山岡組の若頭が主催のパーティで山岡大樹の注意を引くこと。佐久間さんによると、山岡組とは裏社会で大きな力を持ち始めているヤクザらしいが、その若頭が大の女性好きで定期的に女性だけを招いたパーティを開いているという。




 そのパーティで気に居られた女性のみが夜のパーティに招待され、その後はどうなるかは皆言うまでもないだろう。


 その昼のパーティで私が気を引いている間に、佐久間さんと石田さんが2階の部屋にあるという情報を盗むというものらしい。




「これ、私が15時まで気を引けなかったらどうなるんですか」




「え?」




「え?」




 佐久間さんも私もお互いに目を丸くする。何かおかしなことを聞いただろうか。




「何言ってんの、面白い子だね~」




 佐久間さんは面白いと言いながら目が一切笑っていない。つまり、言わなくても分かるでしょ、ということだろうか。




 つまり、失敗しても、山岡組に疑心感を抱かせても、どちらにせよ私は死ぬというわけですね。


 自分の物分かりの良さに絶望した。




 深くため息をついて、左腕の時計に目を向ける。今は13時55分。あと5分で潜入である。




「14時になったら、あの正門から入ってね。受付には偽のこのIDカード見せれば通してもらえるはずだから」




「はず、って…。この潜入役、私である必要あったんですかね」




「そりゃそうでしょ、うちには男しかいないんだし」




 あなたの彼女は危険に晒せないってことですか、はいはいそうですか。と先日見た酔っ払いの女の人を頭に思い浮かべる。


 どうせ私は使い捨てで扱いやすいですよ、と悪態をついた。




「じゃ、そろそろだね。15時になったらテキトーに逃げてね」




「え、迎えに来てくれないんですか!」




「男子禁制のパーティに俺らが堂々と顔を出すわけにいかないでしょ、バカだねぇ~」




「ば、…」




 この人に何言っても仕方ない。私は大人。そう、この人よりも精神は大人なんだ。と自分に言い聞かせ、深呼吸をする。


 そうこうしている間に時計が14時を示す。




「いってらっしゃーい~生きて帰ってこれたらいいねぇ」




なんていう、恐ろしい言葉を背中に浴びながら私は重い足を進めた。


















「わ、わぁ…」




 偽のIDカードはきちんと作用したようで、屋敷の中に案内された私の目の前にはどこぞの豪華客船ですか、と言いたくなるような光景が広がっていた。


 生のシャンデリア、初めて見た。


 足も胸もさらけ出した若い綺麗な女性たちがシャンパンを片手に、談笑している。


 


 こんな美人たちの中に私がいたら、相手にもされないじゃん…


 


 と弱音を吐きそうになりながら、自分の任務を思い出す。もし、失敗したら死ぬ。




 それならば、いくら美人たちの足元に及ばずとも、全力を出すしかない。私の持てるものすべて、さらけ出してやる!




 どうやら会場中央に人だかりができていた。その中心となっているのは、やはり山岡大樹だ。今朝資料で見せてもらった顔と完全に一致した。


 とりあえず、中央に近づきながら部屋の全体像を確認する。入口から最も奥に2階に続く階段があるようだ。その手前には女性用トイレと、その横には5つ部屋が並んでいる。


 何用の部屋なのか、は考えたくもない。




 私は使用人と思われる女性からシャンパンを受け取ると、美人たちを押しのけながら山岡に接近する。


 あと数メートル、のところで誰かの足に私の足が絡んだ。




「うわっ!?」




 反対の足で踏ん張ろうにも、慣れないピンヒールで体の重心がずれる。そのまま私は盛大に転んでしまった。


 その拍子に手に持っていたシャンパンを山岡にかけてしまう。パシャッという液体が服にかかる音がした。




 あ、死んだ…




 私はしでかしたことの恐怖で床と対面していた顔をあげることができなかった。


 ごめん、昨日の私。やすやすと死んでたまるか、と意気込んでたけど、ダメでした。と脳内でオリジナル走馬灯を再生させる。




「きゃぁ、山岡様大丈夫ですか!?」




 周りの女性陣は私など見えない塵のように、ドカドカと踏み散らかし、山岡に駆け寄っていく。




「うっ、げっ…ごふっ…」




 背中はがら空きのドレスなため、女性たちのハイヒールが肌をえぐっていく。




「こらこら猫ちゃんたち、そこのレディーが可哀想ではないか」




 山岡は濡れた服をそのままに、床と仲良くしていた私の目の前でしゃがみ込むと、私の手を取る。


 …ふりをした。




「っ!?」




顔をあげた私の頭上から、アルコールの匂いが降ってきた。瞬時にシャンパンをかけられたと気付いた。




「あーあ、俺の華麗な衣装をダメにしやがってよォ…。しかも、不細工なメスが…」




 私は絶句してそのまま動くことも、口を動かすこともできなかった。あまりの衝撃に涙すら出てこない。




「猫ちゃんたち、俺の着替え手伝ってくれる?」




「はーい!」




 山岡の後を追うようにその場にいた女性たちがぞろぞろとはけて行く。取り残された私は床に這いつくばったまま、遠くにいた人たちからも冷ややかな視線を浴びる。


 そのままじっとしているわけにもいかず、ゆっくりと立ち上がった。




 あー、メンタルに来た。




 何で私はこんなことに。そもそも今なら逃げられるのではないか。何も佐久間さんの言うとおりに任務を完遂する必要はないし、私がこんな酷い目に合う必要はない。


 やけくそになり、来た道を戻ろうとすると、見たことのある女性が私に手を差し伸べていた。




「よかったらこれ、お使いになって…?」




 白い肌に、柔らかそうな表情、緩く巻かれたサラサラな髪と、大きな胸。彼女は先日、佐久間さんに肩を支えられていた女性だった。




「あ、ありがとうございます…」




 反射的に渡されたハンカチを手に取る。




「でも、お気持ちだけで大丈夫です。このハンカチ返せないかもしれないので」




 もう、裏社会の人たちに関わりたくないし。


 受け取ったものを彼女に返し、頭を下げた。


 他の女性は皆私のことを遠くからクスクスと笑っている。このままだとこの人まで悪口を言われてしまう。


 そんな私の考えを見抜いていたのか、彼女は優しく微笑むと、私の手を握った。




「奥に、タオルのある部屋がありますの。こんなひどい目に遭ったのだから、勝手に使ってもいいと思いますわ」




「で、でも…」




「私は山岡さんに気に入られようという彼女たちのような浅はかな考えでこのパーティに参加しているわけではないんですの」




 意外と毒舌…?


可愛らしい顔から吐かれる言葉の要所要所にとげを感じる。それが今の私にとっては、味方だと言ってくれているようでうれしかった。




「ここですわ」




 招かれるように部屋に入る。ソファーとクローゼットしかない部屋だった。


 彼女はクローゼットを開けると、タオルを一つ取り出し、私の頭にやさしくかぶせた。




「レディーに酷いことをする男なんて、くたばってしまえばいいのに、ねぇ?」




「あ、あはは…ですね」




 だんだん彼女の口から毒が明確に表れてくる。


 うーん何かに似てると思ったら、佐久間さんだ。佐久間さんも、笑顔で毒を吐いてくる。その雰囲気が似ているのだ。




「そのカーテンの奥に、試着室がありますの。あなたにはこのドレスが似合いそうね。良かったら着替えなさって」




 彼女はクローゼットの中からドレスを一つ取り出すと、私に渡した。今私が来ていた赤と似ているドレスだ。わざわざ私のために似たものを選んでくれたのだろうか。


 有難く受け取ると、カーテンの奥に身を隠し、ドレスを着替える。




 ひとりで脱ぐのも着るのも慣れておらず、時間がかかってしまう。しかしその間も、彼女はどうやら待ってくれているようだ。彼女の呼吸がうっすらとカーテン越しに聞こえる。




 恥ずかしいくらいに手こずってしまい、やっと着替えが完了した時、扉が開いた音がした。




「おやおや、なんて美しいレディーがこんな部屋にひとりとは…ふむ、せっかくだから今から楽しんでしまおうか」




 聞いたことのある声に、本能で嫌悪感を抱く。この声は山岡だ。




「あら、山岡様ですわね」




 どうやら山岡は私に気付かずに目の前の彼女に気を取られているらしい。


 どうしよう。出るタイミングを完全に失った。




 パタリ…と扉が閉まる音に続いて、ガチャ。と鍵が閉められたらしい。




「山岡様…?」




「あぁ、麗しきレディーよ。君は最高だ、美しい曲線美。ううん、たまらないね。君も私の恋人になりたいのだろう?遠慮するな」




「や、山岡様近いです…」




 カーテン越しに聞こえるやり取りは、完全に山岡の暴走だと分かった。あまりの嫌悪感に逃げ腰になる。バレないうちに、どうにか逃げないと。




 いやいや、逃げるって何。わざわざ私を待っていたせいで、私に声をかけたせいでこんなことに巻き込まれている彼女を見捨てるわけにはいかないでしょ。


 両手で自分の頬をはたくと、勢いよくカーテンを開けた。


 彼女に覆いかぶさっていた山岡がこちらに気付く。




「き、君は先ほどの…あぁ、萎えた。最悪だよ」




 よ、よかったこれで解放…




「そもそも、君みたいな不細工で貧乳をこの俺が招待リストに登録したかなァ…?お前、名前は」




 彼女の上から起き上がり、山岡が私に歩み寄ってくる。




「田中です、田中凛…」




「君、私の好物を知っているか」




 し、知らねぇ!!と目を泳がせていると、山岡の後ろから彼女が口パクで何かを言っている。




「う、ん?まるふぃ、…ん?」




「おい、何をしている」




 私の視線に気づいた山岡が彼女を振り返った。




「貴様ら、最近俺たちの周りを嗅ぎまわっている奴らの一員か?」




 明らかに山岡の声色に疑惑の念が浮かぶ。




「ち、違いますよー嫌だな…私は山岡様にお近づきになりたくて今日おめかししてきたんですよ」




 どうにか笑顔を繕い、山岡と彼女の間に割り入る。その隙に、彼女に小さく「逃げてください、私も後で逃げます」と伝える。




「で、も…」




 彼女は戸惑ったように立ち尽くしている。




「あ、そういえば先ほど若いお姉さんが呼んでましたよ、瑞樹さんっ、早く行かれた方が良いのでは?」




 瑞樹さん、なんてデタラメだ。名前の分からない彼女をとりあえず部屋から追い出そうと必死に目で訴える。


 私の必死の訴えを受け取った彼女は、扉に手をかけた。




「そ、そうでしたわ、お食事を一緒に取る約束がありましたの、シャンパンも貰いに行かなくては」




「な、逃がさないぞ」




 彼女を捉えようとする山岡の手を、反射的に掴む。




「何をする!?」




「逃げて!!!」




 私が叫ぶと、彼女は全力で扉の奥に駆けだした。きっと彼女はそのまま屋敷を後にすることだろう。




 さて、問題は私だ。どの道私は死ぬのだ。そう、もう計画は失敗。ここで山岡の手を離せば屋敷中に隠れているだろう護衛達が私だけでなく彼女をもとらえようとするだろう。


 もう少し、彼女が逃げるだけの時間を稼がねば。


 助けてもらったお礼をしたかったのにな、と頭の中では死を覚悟する。が、こんな野郎に捕まって殺されるのは無性に腹が立つ。時間を稼ぐだけ稼いだら、どうにか逃げ切りたいところだ。




「貴様ッ!!生きて帰れると思うな!」




 山岡が大きく手を振り、私の手は簡単に離れてしまう。その反動で私は尻をついた。




「っ」




「何者だ、吐け」




 ドレスの襟を掴まれる。流石、ヤクザの息子。それ以上形容の使用が無い威圧感に思わず息をのんだ。




「何が目的だ」




「言っておくけど、私だって知らない。むしろ、私が知りたいわよ!!」




「あ?」




 私は佐久間さんの言うとおりに連れてこられただけで、何が目的かなんて私だって知らない。私に聞くな。


 恐怖で手足が小刻みに震えている。が、ここで弱みを見せてはいけない。大きく息を吸い込んで、山岡をにらみつけた。




「私に、シャンパンをかけたことを後悔するべきね」




 少しでも時間が稼げるように、胸倉を掴んでいる山岡の手に自身の手を重ねる。




 私が長年習ってきた合気道は、どこまで通用するだろうか。おそらく、習い事程度の合気道の知識では、本物のヤクザには太刀打ちできないだろう。


 それならせめて、殴られたときは受け身くらいはとれるように構えておきたいものだ。




「誰に、口きいてるか分かってんのかァ?」




「さぁね、だって私は『何も知らない』んだから」




「てめぇ!!」




「ッ!?」




 左頬に、一発。口の中に血の味が広がった。


 痛い。痛すぎる。


 泣きそうになるのを必死にこらえ、山岡を見上げる。




「女が好きなくせに、女に手をあげるのね」




「まだそんな口を利く余裕があったか」




 再び振り上げた右わきを狙って、腰をひねり、左足で蹴りを入れた。


 グッと小さなうなりを上げ、山岡が一瞬、手の力を緩めた。


 その一瞬をついて、胸元の拘束から逃れる。すかさず、身をかがめ、山岡から数歩の距離を取る。




「…ってぇなァ!」




 もう容赦しないぞ、と山岡の目が訴えていた。


 冷汗が額から落ちる。


 山岡が私に飛びかかろうと、地面を蹴った。




「若頭!!」


 突如、部屋に男が入ってきた。サングラスをかけ、耳にはインカムをつけ、真っ黒なスーツをまとっている。




「あ?」




 山岡の動きが止まり、入口に視線が動く。私もつられてその人物に目を向けた。




「先ほど、不審な人物が屋敷を駆けているのを目撃し、拘束いたしました。3階の書斎横にて護衛を付けた状態で捉えております。どうやら…」




 その男は一瞬こちらを向くと、鼻で笑い、続けた。




「そこの娘は本当に何も関係のないレディーだそうで、拘束している女は武田組の手下だと吐きました。そこの女は…山岡様に手を出しているようなので、私が処分いたします」




「あ、あぁそうか…。じゃあ俺は一回手を洗ってから3階に向かう。ご苦労」




 山岡は私をにらみつけると、そのまま部屋を後にした。




 男は扉が閉まるのを確認すると、私に歩み寄ってきた。




「な、なによ…私を殺そうって!?いいわよ、私がか弱いその辺の女だと思ったら痛い目にあうわよ!」




 先ほどの一撃のせいで左頬がジクジクと痛んでいるが、それどころではなく、男を威嚇した。




 男は微塵も怖くない、と言うように鼻で笑い、サングラスとインカムを床に投げ捨てた。




 パニックのあまり、分からなかったが、その顔は見慣れた佐久間さんだった。




「え、…」




「まったく、時間になったら帰ってきてって命令したでしょ~」




 呆れた、とでも言わんばかりにため息をつかれる。どうやらとっくに15時は過ぎていたようだ。




「あ、あの…あ!!女の人!佐久間さんが一緒にいた、あ、昨日いた、…」




 自分でも何を言っているのか分からないが、脳を落ち着かせている余裕はない。




「あーはいはい、分かってるからそのうるさい口閉じて。その人ならちゃんと生きて帰ってるから安心しなよ。さっきのはハッタリだし、山岡は3階に向かうだろうから、ハッタリだと気付いたところでその頃俺たちは屋敷の外」




「じゃ、じゃあ早く逃げなきゃ…」




 と、足を進めようと思っても膝が笑って全く力が入らない。急に安心したせいだろうか、あはは、と笑ってごまかすしかない。




「この屋敷を全力で駆けても相当な時間かかるから安心しなよ。護衛達も気絶してるし、早く歩けるようになってくんない?」




 生まれたての小鹿じゃないんだから、と付け加えられる。


 どこまで鬼なんだ、この人は。




「まぁ、生きてるとは思わなかったかな」




 私の目の前に立つと、私の顔を見下ろした。




「この潜入で、君は死んで、その死体を回収して俺と石田は逃げる、が一番あり得る展開だと思ってたけど、意外としぶとかったね」




「さ、最初から成功するとは思ってなかったんですか…」




「そりゃぁ、君、バカでドジそうだしね~」




「わ、私が、佐久間さんたちのことをバラす可能性あったじゃないですか。それなのに何でそんな賭けを」




「君が、人を裏切れなさそうな、バカみたいな正義感持ってそうだったから」




 バカバカバカ…何度私をバカ呼ばわりすれば気が済むのか。




「まぁ………」






 佐久間さんが、ふざけたいつもの空気感から、急に真顔になる。私の顎を指で持ち上げると、殴られた左の頬を人差し指で優しく撫でた。






「さ、佐久間さん…?」




「…」




「あの…」




 思ったより近い顔の距離に、思わず鼓動が早くなる。


 ただ真顔で顔を凝視されている。


 私は訳が分からず、瞬きをするしかない。








「………顔に傷、作るくらいなら死んどいたほうが良かったかなぁ」




「……はい?」




「いやぁ~その頬のあざ、きっと治るまで時間かかるよ~可哀想にねぇ」




 一瞬にしていつもの佐久間さんに戻る。




「はぁ!?」




「なに?」




「そこは優しい言葉をかけるのがセオリーじゃないですか!!」




「はぁ、そうなの?…で、歩けるようになった?俺に無駄な時間取らせないでもらっていい?」




 む、ムカつく!!!!


 キーっと佐久間さんをにらみつけた。歩けるようにはなったけど。




「えっと確か、そこ、奥に隠し扉があるからここから逃げるよ~」




 それだけ言って壁に手をあて、体重をかけると壁だと思っていたところが動き、奥に通路が見えた。


 すごい屋敷だ。




「こ、こんなとこに隠し通路が!?」




「多分あの人も、それが分かっててこの部屋に連れてきたんだろうねぇ」




「…?何の話ですか」




「いーや、こっちの話。行くよ」




 つられて、佐久間さんの後を追っていく。なんか、もう色々ありすぎた1日だった。


 薄暗い通路を歩きながら、ドッと疲労感が襲ってくる。




 しゃがみ込みたくなるような気持ちを抑え、外の空気が据える場所まで出た。




「さ、あそこの車に石田も居るから、そこまでは気を抜かないでね」




 まぁ、もちろんその道中で何かあるわけでもなく、車に乗り込んだ瞬間に急に瞼が重くなる。








「生き…て…た」




 それだけ、生きて帰れたこと、たったその事実と安堵から意識が遠くなっていった。




「泣くでもなく、逃げるでもなく、姉さんを助けた上で生き延びてたんですね、こいつ」




 すやすやと眠っているお嬢さんをバックミラー越しに一瞥した石田が口を開いた。




「そうだねぇ、変わってるよねぇ」




 もう助けは手遅れだと思っていたし、泣いて怯えているかと思えば、開口一番に俺を威嚇してくるとは。




「か弱い女だと思ったら痛い目に合うわよ、か…ふっふふふ」




「佐久間さん、楽しそうですね」




「勘違いすんなよ、石田」




「…はい」




 サイドミラー越しに石田を睨みつける。




 横で寝息を立てている少女の前髪をすいた。指と指の間から汗で少ししっとりとした髪が落ちていく。




 今日1日で、解放する予定だったこの女。もう少し遊んでみようか、という好奇心が生まれていた。


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