本文(プロローグ+1章最序盤より抜粋)
――拝啓、今日もお仕事が忙しいであろうお母様。
思えば、名前も顔も知らない、生きているのか死んでいるのかも分からないクソ親父に変わり、母さんは今日まで俺を育ててくれました。
仕事と子育ての両立がどれだけ大変なことか、母さんが俺を産んだ時と同じ21歳になる俺にもよく分かります。
託児所で迎えを待っていた幼稚園時代。
眠い目をこすり帰宅を迎えた小学生時代。
ご多分に漏れず反抗期を迎え困らせてしまった中学生時代。
バイトに明け暮れ自立を目指した高校生時代。
いつも母さんは俺のことを第一に考え、一緒に笑い、一緒に泣いてくれました。
俺がひねくれず、グレず、まともに成長できたのは、ひとえに母さんのおかげです。 友人の中には俺をマザコンなんて言う奴もいるけれど、恥ずべきことではなく、むしろ誇りにさえ思っています。
彼女ができなくても泣いたりしません。
いくら感謝しても足りないくらいのものを、母さんからもらってきました。
辛い大学入試を乗りきれたのも、いつか必ず貴女への恩返し……親孝行をするんだという想いがあってこそのことです。
でも、ごめんなさい。
もう俺の想いは、叶いそうにありません。
いま俺が思い返している母さんとの思い出の光景は――明らかに走馬灯なのだから。
重いまぶたを上げれば、春とは思えないほどに青々とした空が目に入る。
軽い浮遊感と共にその空がわずかに近づき、すぐに緩やかな重力感と共に離れていく。
バイザー越しの視界の端には、苦労を重ねバイトをして、ローンを組んでまで買った自慢の大型二輪車が、中央分離帯を超えてきたダンプカーに四散させられる光景が映っている。
それが、先程まで快適な海岸線の旅を提供してくれていた、生まれて数ヶ月の愛車の最期だった。
そして俺の体は、重力という残酷なまでに絶対の力でガードレールの向こうの海へ引き込まれる。
水面の向こうに揺れる太陽へと手を伸ばすが、海水を掴むだけだ。やがてフルフェイスのヘルメットは冷たい海水で満たされ、俺は深い藍色の世界へと沈んでいく。
――ごめんな、母さん……先立つ親不幸者を許してくれ……。
それが俺――海堂八色の21年間の人生の最期だった――。
穏やかな日差しが映し込む水面に、緩やかな波紋が立つ。
10メートル四方ほどもある空間を満たす水は神聖ささえも感じるほどに透き通り、空の青と四辺を囲む社の朱柱をよく写している。
町娘達が使っているものとは違う、社に祀られている御鏡の神器ように綺麗な鏡面はしかし、幾度と無く押し寄せる波紋に夢幻の如く揺れ動いてしまう。
波紋を起こしている主は、水で満たされた空間の中心に在った。
清水に腰まで浸かった滑らかな肢体を包むのは、陽の光を浴びて純白に輝く白衣と朱の袴。白衣との境界線がぼやけるかように透き通る瑞々しい肌。袴に絞められて浮き出るのは、触れれば折れてしまいそうなほど華奢な腰と、そこから連なる女らしい曲線。黒錦のごとく流麗な黒髪は背へと流され、清水の中で広がって不思議と藍色がかった輝きを返している。
清水の中に溶けこむように佇む黒髪の乙女の姿は、誰もがこの聖域の女神であると形容してしまうような美しさがあった。
だが同時に、誰が見ても乙女の格好は“巫女”そのものであり、彼女自身が女神なのではなく、万物の神々に仕える存在であることを示していた。
右手に握られた神楽鈴が流麗な動作で振られ、シャン……と澄んだ高い音が鳴る。
純木にいくつも結えつけられた鈴の鳴る音は洗練された動作により一つのものとして聞こえ、巫女が半身を委ねる清水と共鳴するように耳に残った。
「…………」
桜の花びらを合わせたような可憐な唇から細く長い息が吐き出され、それに合わせて彼女の四肢が水中に流麗な神楽を刻む。
周囲に人影はなく神楽を目にする者はいないが、そもそも神楽とは目には見えない神聖な存在へと捧げられるものなのだ。
自身の一投足に向けられる巫女の深い藍色の瞳には、この上ないほど真剣な色が宿っている。
まるで、目に映らない誰かに語りかけるかのように……。
――拝啓、これよりわたくしが身籠るであろう宿子さま。
お初にお目にかかります。
わたくしは、第七色国『ニーホン』の巫女、藍にございます。
ここでない何処かの世界からお出でになる貴方さまには、何のことだかご存じないことかもしれませぬが、どうかご容赦下さいませ。
わたくしの神楽をご覧いただいておりますか? 声をお聞き下さいますでしょうか?
……残念ながら、昨年と一昨年の誕生日に奉納させていただきました神楽はどなたにもご覧いただくことが叶わず、わたくしは宿子様を身籠ることはございませんでした……。
成人を祝っていただいた社仕えの皆様や民に、二年間も不安な日々を強いてしまいました……。
わたくしは夢見ておりました。七色巫女として生を受けた日から、成人し“宿子の儀”にて貴方さまを我が身にお迎えすることを。
身篭った宿子さまに良き母として最大の愛情を注ぎ、お世話をさせていただくことを。
我が子の、名前を呼ぶことを。
何卒、わたくしの夢と想いをお聞き入れ下さいませ……! 何卒、貴方さまの御力をお貸しくださいませ……!
――トクンッ
「……っ!?」
それは、小さな温もりだった。
清水に浸った下腹部に感じる、確かな温もり。
そしてその温もりに反応するかのように、清水が仄かな光を帯びている。
去年と一昨年の神楽ではついぞ起こらなかった、待ち望んだ反応。
しかし、温もりも光もどこか悲しげに明滅していて弱々しい。
今にも消え入りそうなそれらを見て、巫女は神楽を続けながら目を閉じ語りかける。
「(悲しいことがあったのですね……でも、もう大丈夫ですよ。母はここにおりまする。貴方さまを愛し、育む母が……)」
目を閉じた意識の中、はるか彼方にあった温もりが近づくのを感じる。
近づくにつれ、身体の奥から優しい気持ちが溢れてくる。
その気持ちがやんわりと手を伸ばし、温もりを包み込むように念じた。
「(さあおいでませ。母はこちらですよ……)」
包み込んだ温もりを、そっと引き寄せる。
ゆっくりと慈しむように、抱きしめた。
すると、巫女が半身を浸からせている清水が閉じた瞼を透かすほどの白光を放ち、意識の中でも光が暗い世界を温もりで満たした。
やがて光は巫女の胎内に吸い込まれるようにして収束していく。
同時に神楽を締めくくる最後の鈴の音が一際大きく響き渡り、巫女は静かに神楽鈴を清水に沈めて納めた。
そしてそっと下腹部へ手を添え、そこに宿る暖かさを確かめると、巫女は自然と慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「今はゆっくりお休みくださいませ……“宿子”さま」
それは、まごうことなき“母の顔”であった――。
■第一章
温かい……。
まどろむような意識の中で最初に感じたのは、どこにでもあるような当たり前の感覚だった。
それでいてその温もりは、すべてを包み込むような慈愛に満ちていて、詩的な例えをするならば、“母なる海に包まれているような”という安らぎを覚える感覚だった。
覚えているわけもないほどに遠い昔に感じたことがあるような、そんな……。
柔らかな温もりにつつまれて、※の意識はふわふわぷかぷかと浮き沈みを繰り返す。
心地良い感覚に身じろぎをしようとして……※は違和感を感じた。
いや、温もり以外を感じることがないという違和感を感じた。身じろぎのために動かしたはずの手の先からつま先まで、※という存在を作っている感覚が、とてつもなく希薄なのだ。
喪失感に似た強烈な違和感は、すぐに不安となって※の意識を散り散りにしてしまいそうだった。
――※は……おれ、は……?
上下左右の感覚もないまま、意識だけが存在するような空間の中、もがいてももがいても俺の手は何にも触れることはなく、光も闇もない空間で一人ぼっち。
それはまるで、冷たい海に沈んでいくような――
――っ……いや……だ、しにたくない……いやだ嫌だ嫌だっ……!! 俺はっ……!
『大丈夫ですよ……』
子守唄を聴かせる母親のように、それでいてか細い少女を思わせる澄んだ声が、冷えていく俺の意識を温めるように包み込んだ。
その温もりを感じているだけで、俺を苛む全てのものから守られているという安心感を覚え、再びまどろみへと誘っていく。
『そうです、今はもう少しだけお休みなさいませ。悲しいことは、わたくしが払って差し上げまする……』
――キミ、は……?
意識の瞼が落ちる寸前に投げかけた問いに、声の主が微笑んだような気がした。
『ふふ、あなたの母上でございますよ……』
ふと、瞼を上げる。
いや、正確には目を開いているのか閉じているのかわからない。パチパチとまたたいても、つまりは目を開けていても閉じていても、どちらも眼に入るのは濃い藍色の空間なのだ。見ていてとても落ち着く色なのだが、今はもっと他のことが問題な気がする。
寝起きのようにはっきりしない頭のままで、視線を巡らせる。
俺は何か柔らかくて温かいものの上に、まるで赤ん坊のように膝を抱えて丸くなって寝ていたようだ。
ただし、ハダカで。
――……えっ?
思わず声にならない驚きを漏らしてしまうが、驚くことは他にもあった。
身体が透けているのだ。スケスケである。
――ええええええーーっ!?
特に下半身に近づくほど薄れていて、さっきまで抱えていたはずの膝から先など、ほとんど見えなくなっている。
極めつけは……浮いていた。
驚いて身を起こした反動のせいなのか何なのか、温かいクッションのような地面を離れて俺の身体は藍色の空間に浮かんでしまっているのだ。
藍色の空間――というしかないこの場所――は、直径が約10メートルほどのほぼ円形でできていた。場所によっては俺が寝ていたような平らに近い場所もあるようで、どの壁面?も同じような素材?でできているようだった。
透明の身体……特に足が薄くて、おまけに浮いている。
身体を動かしてみても重さというものを感じない。
――身体という容れ物を抜けだしてしまったかのようだ。
「俺は……死んだのか……?」
こんな状態は、俺の知る限りでは幽霊以外の何物でもない。
ここが死後の世界とやらなのか……?
何が起きたのかを思い出そうとして……すぐに思い当たることがあった。事故だ。
俺は海岸線を眺めながら愛車と二人きりでのツーリング中に、暴走ダンプカーに跳ね飛ばされて海に落ちた。
おそらく、そのまま――。
「くそっ!」
――ドンッ!
『――きゃぅんっ!?』
感情のままに、近づいてきていた壁を殴りつける。反動でまた身体が飛んでいった。
自分が死んだ。
そのことに思い当たって頭に一番最初に浮かんだのは、憤りだった。俺が死ぬ原因となった事故を起こしたダンプの運転手にではない。
何も成さないままにあっさりと死んでしまった自分自身にだ。
「くそぅっ! 俺はまだ母さんに何も返していなかったのにっ! 大学を出てバリバリ働いて――」
――びよ~んっ。
「ってなんだこの腹に繋がったビラビラはっ!? ふわふわ浮かんでるところに管みたいなビラビラとか、宇宙飛行士かっつーの!」
今の今まで気づかなかったのだが、ちょうどヘソの部分から伸びるバンジージャンプのヒモのような半透明のビラビラは、何もない空間の中心に向かって伸びていて、俺を何かと繋いでいるようだった。
「何か」が何なのかは分からないが、なぜだか明確にそこには「何か」があると感じられた。
管を触ってみると、人肌のように温かい。藍色の壁もこんな感じに生温かったな。
「ふぅ……」
死を自覚してから胸の中で渦巻いていた憤りを落ち着かせながら、しばらくの間その管を弄っていたが、完全に俺の腹にくっついているようで外れそうにない。
少し強めに引っ張ってみることにしよう。
そう思った俺はビラビラの管を両手で掴み、腹から引き剥がそうと思いっきり引っ張った。
すると、なぜか藍色の世界が揺れた。
『い、いたたっ!? 痛うございますっ! おいたはおやめくださいませっ!』
そして、半泣きになった女の子の声が聞こえた。
「へっ?」
『ひぐっ……逞しくてお元気なのは大変結構なのですが、朝からナカでそんなにやんちゃをされてはわたくしの身がもちませぬ……』
右を向き左を向き、上を向いたところで――青少年の耳には微妙に卑猥に聞こえることを言っている――声の主を発見した。
発見して、また驚いた。
先ほどまでとは違い、藍色の空間の壁が透けるようにしてその向こう側が見えている。 身体を曲げてこちらを覗きこむようにしている女の子は、俺がこれまでに見たこともない美人だった。
サラサラの黒髪と、同じ色をした大粒の瞳。先ほど痛がっていたせいか目の端には涙が浮かんでいたが、俺を見ている表情の方は穏やかに微笑んでいる。
しかし、黒髪少女が超と絶が付くほどの美人であることは、俺の驚きの3割程度しか占めていない。
まるで自分の腹部の方を覗きこむかのようにして身体を曲げている女の子は、どう見ても顔の大きさだけで俺の身長の2倍はあろうかというものだった。
俺の中の理性とか現状把握能力とかそういう類の物が、一斉に首を横に振り……つまり俺はパニックに陥った。
③ナナイロハハイロ ゆきのこ @Yukinoko0808
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