再会

三奈木真沙緒

「過去」が「思い出」に変わるとき

 秋が深まりゆく空は、気持ちがいいほど晴れあがっていた。おかげで、ブースの順番待ちが尋常な数ではない。私はわざと離れたところで様子を見ながら、責任者に、買い足してきたレモンウォーターのペットボトルと紙コップの束を渡した。秋とはいえまだ気温は高い。お待たせするお客様にサービスとして用意しておいた分は、予想を蹴とばす勢いで消費されていった。そのため私が急遽使い走りに出たのである。


 私を女手一つで育てつつ、店を切り盛りしてきた先代社長が、急病で倒れたのが6年前。そのときから私は、洋菓子店の4代目社長となった。ゆくゆくは「そうなる」だろう時期がいきなり襲ってきたので、てんやわんやの代替わりだった。ようやく慣れてきたかと思えば、今度は世界規模の伝染病。人類は生活様式の再構築を余儀なくされた。飲食業は直撃をこうむり、うちばかりかどの店も苦しんだ。しかし、世界を蝕んだ病もようやく下火となり、今ではマスクを外す人の方が多い。こうした6年の間に、妻が二人目の子を出産し、母を見送り、私や店の将来を悲観した職人が去り、若手の職人が急成長を遂げ、新商品のケーキが話題となり、地域のお菓子業者の協会で騒動が起こって後始末に苦労し、いくつかの得意先に背を向けられ、日本各地からうちを名指しで買いにきてくださるお客様が増え……外食が白眼視されるような、そしてお土産を買って帰ることがはばかられるような、そんな時期になり。


 いろいろあった。


 まだダメージから立ち直りきってはいない。けれども、山は越えたように感じている。小さな店だが、これでも地域では名の通った洋菓子店の看板を、今のところどうにか守り切っている。市内の和菓子洋菓子の店が集まるイベントにも、こうして無事に出店することができた。しかも盛況だ。ブースの責任者が戻ってきて、現在の洋菓子の売れ行きのメモをくれた。……予想と少し違うようだ。補充計画に支障はなさそうなので、その場をまかせ、私は一般客にまぎれてぶらぶらと、ほかのブースを覗きながら会場を歩いていた。みんな、思い思いのお菓子を買って、とてもいい笑顔になっている。マスクをつけていた時期は、それすらわからなかったものだ。


 呼びかけられて、私は足を止めた。肩書ではなく、名字に「くん」付けだ。……私と同じような年齢の、きれいな女性がいる。うちの2人の子どものちょうど中間くらいの年齢の子と、手をつないでいる。もう片方の手には、……うちの店で購入してくださったらしいケーキの紙箱を下げていた。

 ……あれ、この人、知ってる……。思い出した直後、近づいてきた女性は「あ、やっぱり」と笑って、名乗った。姓も名もありふれたものだ。だが顔と下の名前で、それは確信に変わった。中学のときの同級生だ。一緒にすごしたのは中学時代だけで、高校から先は知らない。もうすっかり忘れていた。結婚して姓が変わったようだ。

 マスクをしていたら、気づかなかったかもしれない。


「がんばってますねえ、社長」

 聞き覚えのある口調で、女性はそう言った。

「あれ、知ってるのか」

「お店のホームページに名前出しといて、何言ってんの」

 あ、そうか。

「このご時世じゃ、苦労が多いでしょ、社長」

「んーん、まあね。けど、それはどこも同じだからね」

 ……本当いうと、つい先日まで心臓をわしづかみにされるような日々で、生きた心地もしなかったが、それはただの愚痴だし、峠を越したからこそそんな言い方もできるというものだ。


 彼女の方は、県外の大学に進み、地元へ戻って結婚し、しばらく育児に専念していた。最近、地域の伝統文化を啓発する情報誌の編集に携わっているのだという。今日も子どもを連れてはいるが、半分仕事のようなものらしい。


「今度、古くからある町のお菓子屋さんについて特集組むの。近いうちに、インタビューに伺ってもいいかしら? このイベントの話題も含めて。担当はわたしじゃないかもしれないけど」

「ああ、もちろん……そういうことなら」

 私たちはささっと、名刺を交換した。

「じゃ、改めて連絡するね」

「ああ、よろしく」

「頑張ってね」

 軽くケーキの紙箱を振って、彼女は子どもと一緒に、人混みの中に埋まっていった。


 ……あの眼差しと口調は、ほとんど変わっていなかった。

 充実して、いるのかな。

 お買い上げありがとうございますと、言いそびれてしまった。



 空を見上げた。薄い雲が、ゆっくりと流れていく。

 少し寂しいけれど、心が妙に澄み渡って、ふっきれた思いだった。


 さよなら、おれの初恋。


 ――今度、妻と子どもたちを、ちょっと豪勢なディナーに連れて行こうかな。

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