暗鬼

飯田太朗

暗鬼

 兵十には鬼が見えた。

 それは、あまりに儚くおぼろげな、まるで寝床の夢のような存在だった。肌の色はただ黒いが、どこか炭のように深い灰色で、角が一本、額にあった。腰にはボロボロの汚い布を巻きつけていて、腕の毛でさえ蛇のように長く、いや、全身が毛深かった。腰には一本の、聖柄の細い太刀を据えていた。腕はまるで丸太のようで、神社の御神木の大枝より太かった。その表情はどこか親しげがあるようで、同時に恐ろしかった。鬼はただ黙って兵十を見つめているだけだった。何をするとでもなく、じっと、見つめていた。

 兵十には妻がいた。二年前に結婚した嫁だ。賢く優しく器量もよく、本当に、よくできた嫁だった。兵十は村の男みんなにうらやましがられた。いいなぁ、別嬪さんが嫁に来て、いいなぁ。いっつも、そんなことばかり言われては、からかわれていた。

 兵十は小さい頃から人気者だった。小さい頃から、村の同い年の小さい子供や、少し歳の離れた子供からおまんじゅうや山菜をもらうことが多かった。いつも兵十がよくしてくれるから、と人は言うのだが、兵十は自分ばかりがお菓子をもらえるのが不思議でならなかった。兵十はみんなから愛されていた。素直で、いい子だと。幼い兵十は、時折悪ふざけをしてみんなを笑わせた。みんないっそう、兵十を好きになった。やがて兵十は大人になった。

 大人になって、多少喧嘩や衝突は経験したが、それでも兵十は、人並みには人に好かれた。だから畑仕事が終われば仲間の家で酒を飲んだし、仲のいい友達と、この村の将来について語り合うこともあった。租税がどうだ、反物の売り上げがどうだ。

 しかし、そんな日常にも鬼は姿を現した。兵十は鬼に呪われていた。しかしそれは、同時に、自分を呪うのと同じだった。これは兵十と鬼の物語であり、また、兵十自身の物語である。


 兵十が初めて鬼を見た時は、彼がまだ小さい頃だった。歳にすると、ちょうど七つの時だった。その頃、兵十は村の畦道にある小さな地蔵のことが苦手で、あの前を通る時だけは、いっつもご近所のお鈴ちゃんと言う女子に手を引いてもらいながら歩いていた。お鈴はたいそう兵十をかわいがり、まるで自分の弟のように面倒を見た。

 その日もたまたま、お鈴は家の方で手に入った茶菓子を兵十に渡していた。兵十はありがたくそれを受け取ると、家に帰って一人で食べた。兵十の親、特に父親は、そのことを見逃さなかった。

 兵十は親父さんに叱られていた。

「茶菓子だなんてお前、贅沢だなぁ」

 兵十の父親は、皮肉を好んだ。まっすぐ兵十を叱るようなことをしないで、皮肉に、ちくりちくりと針で刺すように兵十を叱った。おかげさまで褒め言葉も褒めているように聞こえないほど、兵十の生活は皮肉で溢れていた。親父さんは畑仕事でたまった鬱憤を晴らすかのように皮肉を言いまくった。「いやみ重兵衛」とご近所で噂されるくらいで、兵十はその噂もたまらなく嫌いだった。

 兵十が鬼を見たのはそんなある晩のことだった。父に持っていた茶菓子を馬鹿にされ、本当は近所のお鈴ちゃんからもらっただけなのに何で怒られないといけないんだろう、だなんて思っていた時だった。兵十は布団を抱きながら、縁側の向こうに広がる夜の闇を眺めていた。夜は当たり前に真っ暗だった。明るい夜なんてない。

「黒いな」

 急に、男の低い声でそう言われた気がした。兵十は驚いて辺りを見渡した。しかしただ、目の前には夜の当たり前の闇が広がるばかりで、親父さんのいる居間の辺りから漏れてくるろうそくの光だけが、単調に闇を割いていた。

 確かに幼い頃の兵十は、外で泥だらけになって遊んでいたから、全身すすけたみたいに真っ黒だった。しかし声は続けてこう言った。

「禍々しいほどに。真っ黒だ」

 それは親父さんの声ではなかった。兵十にも、それは分かった。やがて、怖くてじっと抱えていた布団の陰から、こんな景色が見えた。

 縁側に立つ、鬼。さっきまで、まったく気付かなかったほど、夜の闇に溶け込んだ、鬼。

 その全身は真っ黒で、力強く体を捻っていて、手の上には、畦道にあるお地蔵様を乗せていた。大人の男が腕に青筋を浮かべて持ち上げるような地蔵を、鬼は軽々と片手で持っていた。

 やがて鬼はひょいと地蔵を捨てると、言った。軽く放っただけなのに、地蔵は蹴飛ばされたみたいに吹っ飛んで行った。

「おれが見えているんだな」

 幼い兵十が答えないでいると、鬼は言った。

「おれが見えるのだな」

 兵十はじっと鬼を見ていた。肯定するわけでも、否定するわけでもなく、ただ、じっと、鬼を見ていた。

 やがて、朝が来るまでずっと、兵十は鬼と睨めっこをしていた。鬼は朝になると霧のように消えて行った。

 それから、幼い兵十はことあるごとに鬼を見るようになった。近所の六ちゃんとちゃんばらをして遊んでいる時、お鈴ちゃんとお話をしている時。鬼は、昼夜問わず現れ続けた。

 ある日、鈴ちゃんに聞かれた。

「ねぇ、この間、お地蔵様を蹴っていなかった?」

 身に覚えはなかった。しかし、お鈴ちゃんは続けた。

「あたし、見たんよ。この間の夜中、兵十ちゃんが、おうちの近くの畦道にあるお地蔵様を蹴っているところ。暗くてよく見えなかったけど、月明かりで見えたのは、何だか兵十ちゃんにそっくりだった。もう怖くないの? 素直でいい子の兵十ちゃんが、あんなことをするとは思えないんだけど……」

 兵十に鬼が見えた。

 鬼は、お鈴ちゃんの真後ろに立っていた。兵十は声が出なかった。しかしどうやらお鈴ちゃんにはそれが、いわゆる悪人の取る黙秘と言う態度に見えたようで、怪訝そうな顔をするばかりだった。お鈴ちゃんの表情が曇るほどに鬼ははっきりと見えてきた。鬼はじっと、兵十のことを見下ろしていた。鬼は村で一番背の高い一本杉と同じくらい背が高かった。

 しかし、兵十はずっと鬼を見つめていた。ずっと。何も怖くない、とでも言いたいかのように。それはまるで睨めっこだった。鬼は、腰の刀を抜くわけでもなく、お鈴ちゃんを襲うわけでも、何をするわけでもなく、ただ、じっと、兵十を見ていた。そして言った。

「見えるんだな」

 お鈴ちゃんにはごめんなさいと言って許してもらった。本当は、自分が蹴った覚えなんかなかった。しかし鬼が放った、と言っても信じてもらえないだろうし、兵十はとにかく、自分のせいにすることで話を終息させた。以来、兵十はお鈴ちゃんの顔が曇ってばかりいるような気がした。鬼はその度に、彼女の背後、木の影、夜の田んぼに現れた。兵十は鬼が怖かった。当たり前だ。

 それからしばらくして、お鈴ちゃんが何者かに襲われて死んだ。村はずれの山道で、冷たくなった死体が発見されたのだ。お鈴を見つけたのは兵十だった。兵十が、村中にお鈴の死を知らせた。村の者は、鬼の仕業だ、なんて言いあったりしたが、その時やはり、兵十の目には、あの黒い鬼がじっとこっちを見ている姿が映っていた。


 それから、兵十はことあるごとに鬼と遭遇し続けた。その度に、兵十は鬼と睨めっこをした。鬼はただじっと彼を見ているだけだった。腰には立派な刀があるのに、それを決して抜こうとはしなかった。しかし兵十は、同時にその刀が怖くもあった。あの長さ。あの細さ。きっと、俺の体を串刺しにできるに違いない。

 やがて兵十は、鬼に見られながら大人になった。

 ある日、酒に酔った兵十は、村の大通りで潰れているところを人に見られながら、やはり鬼を見た。この頃になるともういくらか鬼にも慣れてきて、兵十は話しかけるようになっていた。

「またお前か」

「うむ」

「何なんだ、お前は」

「うむ」

「鬼か? 妖怪か? おれを化かすのか?」

「うむ」

「おれをとって、食っちまうのか」

「うむ」

「けっ、勝手にしろ」

「うむ」

 しかし鬼は、じっと兵十を見ているだけだった。鬼は兵十の後についてきた。村の大木一本杉を通り過ぎたところで、兵十はついに怒った。

「お前、どこまでついてくるんだ」

 しかし鬼は低い声でこう答えた。

「うむ」

 この時兵十の中で何かが爆ぜた。それはもしかしたら、たらふく飲んだ酒か、もしくは不作だった作物への嘆きなのかは知らないが、とにかく兵十は、木の根元に転がっていた石をつかむと、思いっきり鬼へと投げつけた。

 しかし鬼は、片手でそれを払うと平然としていた。鬼の腕には傷ができていた。鮮やかな血が流れていた。鬼も怪我をするのかと思った。すると鬼は、すっと煙のように消えてしまった。

 兵十は自分の投石が鬼を追い払ったのだ、と思ったが、何故か兵十の腕からは血が流れていた。つい先ほど、鬼が石を払ったのと同じ方の腕が、ひどい怪我を負っていたのだ。兵十には何で自分が怪我をしているのか分からなかった。しかしそれでも、ズキズキと痛む手を引きずって帰るよりほか仕方なかった。酔いはすっかり醒めていた。

 翌日、腕の怪我を手当てして畑仕事に出た兵十に、幼馴染の六ちゃんこと六輔が、こう言った。

「お前、何で昨日の晩、木に石を投げてたんだ?」

「木に石?」

「ああ。何だかおっかねかったぞ」

 それから兵十は、独りそっと、怪我をした腕を撫でた。傷はズキズキと疼いていた。


 兵十は結婚した。

 隣の村の別嬪さんが、どういうわけか兵十のところに嫁ぎに来たのだ。

 村の誰もが兵十を羨ましがった。兵十は、それはそれはうれしかったのだが、ただ一つ、気になることがあった。それは、村の男と会うたびに、あの鬼が見えることだった。

 今度の鬼は凶暴だった。

 あの刀を抜いていた。キラリと、まるで魚の腹のように光る美しい刀を見せつけて、兵十の嫁を睨んでいた。

 兵十は鬼を恐れた。鬼がいつ、自分と自分の嫁を襲ってくるのか分からなかった。だからなるべく、村の男とは会わないようにした。幼馴染の六輔とも疎遠になった。しかし、それは仕方のないことだった。たとえ六輔でも、村の男であれば鬼はその姿を現し、あの刀を見せつけるのだった。キラリ、キラリと。

 ある日。兵十の家を村の男どもが訪れた。

 収穫の日で、大酒を飲んで酔っ払った男どもが、兵十ンところの別嬪さんに酌してもらうべぇ、と突然押しかけてきたのだ。兵十は収穫祝いの宴会でさえ断るような付き合いの悪さで、村の男たちに疎まれていた、というのもあった。男どもは兵十の困った顔と、その嫁の綺麗な顔が見たかったのだ。

 兵十は玄関先で男どもの姿を見た時、戦慄した。

 鬼が、いたからである。刀を抜き、牙を剥き、目をカッと見開き、殺意に溢れ、長い長い全身の毛を、まるで海水に漂う藻のようにくゆらせた、あの鬼が。

 兵十は気が付くと、玄関先にあった鍬を持って襲い掛かっていた。鬼に。やられる前に、やらなければ、と思い。使い古して錆びだらけで、ずっしりと重たい鍬を、まるで毒百足に噛まれたかのように、狂ったように、振るい出した。

 気が付けば、兵十は村の男どもに押さえつけられていた。

 屈強な若者三人が、兵十を押さえ込んでいたのだ。若者はみんな頭から血を流し、肩で息をしていた。頭を押さえたまま道端で転げる奴もいた。六輔だった。兵十は、気が付けば幼馴染を傷つけていた。兵十はひどい罪悪感に苛まれた。まるで、沼の底で泥にまみれ、時折鼻の穴の泥を掻き出しながら、やっとのことで息をしているような苦しさだった。

「兵十、お前、どうした」

「急に暴れ出したぞ」

「酒でも、飲んどるのか」

「それは俺たちだべ」

 兵十は、狼狽えながら言った。

「いや、鬼が……」

 しかし、あの真っ黒な鬼の姿は、もうどこにも見えなかった。落ちかけた日の残り香のような明るさだけが、ぼんやりと山の端辺りを紫色に染めていた。

「鬼? ……もしかして、昔お鈴ちゃんを殺したとかいうあれか?」

「あの優しい子を殺した?」

「ああ、ああ」

 兵十は、じっと記憶をたどった。確かに、お鈴ちゃんは善意の塊のような人だった。いつも俺に優しくしてくれていた……なのに、なのに。

 すると、その時、さっきまで地べたに横になって唸り声を上げるばかりだった六輔が、不意に口を開いた。

「お、お前がやった。俺は見ていた」

 一瞬、誰もが、何を言っているのか分からない、というような顔をした。

「あれは、お前だった……お前だった。ずっと、言うまいと思って口を閉ざしていたんだが、やっぱり、お前は……」

 そこまで言ったところで、六輔は不意に崩れるようにして意識を失った。兵十はただ、魂が抜かれたかのように立ち尽くしているだけだった。

 膝ががくがく震えていた。


 それから兵十は、六輔に怪我をさせた罪で村八分にされてしまった。

 美しい嫁は実家に帰り、兵十は、その次の日には鍬や鋤を持った仲間たちに家を追い出されてしまっていた。兵十は仕方なく、村はずれの寺、琴南寺へ向かった。あそこなら、きっと自分をかくまってくれると思った。もう村のどこにも居場所はなかった。

 それはもう村人たちに歓迎されなくなった、という意味でもあり、他の意味ももちろんあった。やはり、鬼が見えるのだ。村のどこに行っても。鬼はそこかしこにその姿を現した。そして姿を現しては、じっと、何をするでもなくじっと、こっちを見ているのだった。ただ、聖柄の太刀だけはやはり、すらりと抜かれたままだった。

 寺の和尚は快く兵十を受け入れてくれた。泥だらけ砂だらけの兵十は、和尚にかくまってもらえて心底安心した気分になれた。だから本堂の、仏像の目の前に着くや否や、急にとてつもない眠気に襲われた。その時、話しかけられた。

「気を休めているのかね」

 兵十は振り返った。その声は、その声こそは、自分を散々苦しめた、あの鬼の声だったのだ。

 兵十はとっさに出そうになった悲鳴を何とか噛み殺した。弱っていると知られてはならないと思ったからだ。

 しかし、振り返った先にいたのは、さっきの和尚だった。和尚は、まるで幼子を見るように柔らかく微笑みながら言った。

「どうした。そんなに怖がって」

「い、いや……」

「まるで、鬼にでも会ったような顔をしておるぞ」

 兵十は和尚の言葉にゾッとした。それから、ビクビクと、まるで殿様にでも話しかけるかのように恐れ多いといった感じで、話し出した。

「鬼が、人を襲おうとするのです」

「ほう」和尚はつまらなそうに答えた。それが彼の癖なのか、顎をそっと撫で、剃り上げた頭をペタペタと叩いた。

「鬼かね」

「ええ、鬼です」

「それは本当に鬼かね」

 兵十は自分に見える鬼の様相を伝えた。真っ黒で、額に一本角があって、険しい顔、鋭い牙が見えて、腕は御神木の大枝みたいに太くて……。

「お前さんには、それが見えるんだね?」

 和尚は、兵十の説明を叩き斬るかのように遮った。兵十は、ちょっと気を悪くした。

「今も、それで逃げてきたのかね」

 兵十は二度頷いた。すると和尚が、真剣な顔をしてこう言った。

「逃げているならそれでいい。人は、時に逃げないと自分で自分を殺してしまうからね。けれどね、兵十。例えば虎に一度睨まれたら、人は何故か目を離せなくなってしまうものなんだよ。逃げるなんて以ての外さ。足が動かないんだ」

「どういうことですか?」

「見つめるあまり、視界が狭くなっていないかね」

 それから和尚は、あっかんべえをした。

「見えるってのも、案外面倒なことなんだよ」

 そりゃあそうだ、と兵十は思った。兵十は現に、鬼が「見える」から苦労していた。兵十は何だか騙されたような気分になりながら首を傾げた。和尚が言った。

「それが見るべき相手なのか。もし見るべきなのだとしたら、見えるそれは本当に見えたままの姿なのか。よくね、私のところに悪霊の類で相談に来る人は、木に引っ掛かったぼろ布をお化けに間違えたり、中には、自分の嫁さんの素顔を化物と勘違いした人もいるくらいなんだよ。それくらい、人の目ってのは頼りにならないものさ」

 和尚はくっくっくっ、と楽しそうに笑った。兵十は全く笑えなかった。

「しかしそれはね、決して枝にかかった布が悪いわけでも、その嫁さんが悪いわけでもない。かと言って、その人たちの目が悪いわけでもない。何が悪いと思うね?」

「さあ」

 兵十は首を傾げた。和尚はにやりといやらしく笑った。その時一瞬、兵十の目にあの鬼の姿が一瞬、見えた。驚いて飛びのきそうになったが、その前に和尚がこう言い切った。

「心だよ。心が、それを見せている」

「こ、心」

「そうさ。……今、もしかして見えたのかい?」

 和尚は兵十の目線を追うように、すっと自らの背後に視線を流すと、からかうようにそう言った。兵十はとにかくそのことが頭にきて、生臭坊主め、と思ったところで、またあの鬼がまた視界にちらついた。真っ黒い、不気味な、鬼の姿が。

「鬼なんてどこにもいやしないよ」

 その一言だった。兵十を驚愕の彼方に放り投げたのは、たったその一言だった。

 鬼なんてどこにもいやしない。鬼なんてどこにもいやしない。

 何だか目が覚めたような感覚だったが、それは実体がなく、結局つかみきれないまま、兵十はただ狼狽えるしかなかった。和尚は、そんな彼の様子を見て言った。

「慌てることはない。むしろ、慌てると、見えてしまうかもしれない」

「慌てると……」

「いや、慌てることが原因じゃないのかもな。今は見えるのかね」

「いいえ」

 すると和尚は少し、今度こそ真剣に、悩むような顔になると、こう言った。

「言葉を探してみなさい。自分の心を表す言葉を。言葉ってのは心を表すにはちょっと不自由で、使いにくいものだが、だからこそぴったりくる言葉を見つければこれ以上ないくらいしっくりくるもんなんだ。言葉が難しければ、自分がずっと不満に思ってきたことを話してみなさい。……いや、私にじゃない。自分自身に、だ。いつから不満に思っていたか、どれくらい不満なのか」

 兵十は言われた通り、自分自身の気持ちを探ってみた。自分の深いところに、感情のより根深いところに意識を向けようとした。しかしそれは、向けようとすればするほど、遠く、薄くなっていった。それはまるで鰻の手づかみのようで、一向に、しっかりと手にすることができないような作業だった。

「駄目かね」

 しばらく様子を見ていた和尚がそう聞いてきた。兵十は答えた。

「はあ、どうにも」

「不満や嫌な思い出が何もないのかね?」

「嫌な思い出は、あります。それこそ、ここに逃げてくる理由になったものです」

「話してみなさい」

「その、村の男どもと、喧嘩したのです」

「それはどうして?」

「どうして、って」

 鬼が、見えたからです。

 兵十は、思い切ってそう言った。和尚なら、頭から否定するようなことはないだろうと思ったからだ。

 しかし和尚は、あからさまに困ったような顔をした。そしてへの字に曲げた口をもごもごと動かして言った。

「お前さん、それじゃ解決にならないだろうに」

「え?」

「いいかね。今はこういう考え方をしているんだ」それから和尚は、兵十に諭すようにこう言った。「鬼はおそらく、嫌な思い出が原因で見えているのだろう。では、嫌な思い出とは具体的に何か。喧嘩だ。ではなぜ喧嘩をしたのか。鬼が見えたから。これじゃあ、堂々巡りだ。何で鬼が見えたのか、を考えないといけない」

「そんなの、私にも分からないです」

「……ふむ。これは異なことだな」

 和尚はすっかり呆れ返ったようだった。

「思ったより根深いな。よろしい。少し姿勢を正しなさい」

 兵十は言われた通り座布団の上で尻をもじもじさせると、姿勢を正した。

「お前さんはある感情を切り離している。それはお前さんが日常的に感じてきていた暗い気持ちだ。その暗い気持ちが鬼になってお前さんの目の前に現れる」

「し、しかしそれじゃあ……」兵十はやっとのことで口を開いた。

「鬼とは、私自身の気持ち、つまりは、私自身なのですか?」

 この時、和尚は会心の微笑みを見せた。

「そうだよ。鬼とは、お前さん自身のことだ。他の誰でもない。純粋な、お前さんの心が鬼、なんだ」

「私の心」

「そう。鬼が見えるのはどんな時だったか、話すことはできるかね」

 兵十はとても怖かった。何だかそれを話すという行為は、まるで自分自身を深い谷底に突き落とすような、そんな行為に思えたからだ。

 しかし、兵十は鬼と闘わねばならないと思った。あの鬼を倒さないことには、自分はもう村で生きていけなくなる……。それは非常に差し迫った問題だった。死ぬか、それとも鬼と闘うか。あの日の夜、幼い頃の夜に出会ったあの怪奇と、自分は闘わないとならないのか。恐ろしかった。とても、怖かった。

 ふと、また一瞬、和尚があの鬼に見えた。兵十は、これはいよいよまずいと、時々どもりながらも懸命に、鬼が見えた時のことを話し始めた。

「親に怒られた時……お、お鈴ちゃんに地蔵のことで責められた時、酒に酔っ払ってふらふらしながら帰った時、よ、嫁と結婚して、男どもにうらやましがられた時……他にもいっぱい、あるけれど、こんな、ところです」

「ふむ、ふむ、なるほど」

 それから和尚は、少し考え込むように目線を伏せると、兵十にこう訊ねた。

「そういえば、お前さんの親父さんは、確か『いやみの重兵衛』だったね」

「はい」

「なるほど。ちょっとお待ちなさい」

 それから和尚は、すっと立ち上がると、そのまま本堂前の廊下を歩いてどこかへ行ってしまった。しばらくして、遠くの方で井戸の水をくむような音が聞こえてくると、やがて和尚は、手に茶碗一杯の水を持ってきて、兵十に手渡した。それからこう言った。

「茶碗の中を覗きこんでみなさい」

 兵十が言われた通りに杯の中を覗いてみると、そこには一匹の蛇がいた。白くて小さい、まるで泥鰌のような大きさの蛇が。その蛇は兵十を見つけると突然牙を剥いた。真っ白い頭が割れて、真っ赤な口と舌が兵十の鼻先に向けられた。兵十は思わず茶碗を放り投げた。すると和尚が聞いた。

「どうしたのかね」

「へ、蛇が」

「蛇?」

「白くて小さい毒蛇が……あんな水飲んだら、病気になっちまう」

「蛇が見えたんだね?」

 和尚は確認した。

「お前さん、それを何と言うか知ってるかね」

 兵十には訳が分からなかった。だから、首を横に振った。すると和尚が言った。

「杯中の蛇影」

 和尚は目を細くして兵十を見据えながら言った。

「人の心に巣食う疑念が、そこにいもしない蛇を茶碗の中に見せると言った諺だ。私もお前さんといっしょに茶碗を覗き込んでいたが、蛇なんか見えなかったよ。清らかで澄んだ一杯の水だ。その証拠に、ほら」

 和尚は床に投げ伏せられた茶碗をそっと取り上げた。畳は水を吸って変色していたが、蛇なんかどこにもいなかった。

「おそらく、お前さんが切り離し続けた感情と言うのはこういうことなのだと思う。お前さんが今までずっと目を逸らし続けた暗い心が、今、白い蛇になって椀の中に現れた。とすると、鬼もきっとその類だ。私にはもう当てがついたよ。いいかい、『杯中の蛇影』と同じ意味を持つ言葉を、思い出すことはできるかね」

 兵十は首を振った。これでも、そこらの百姓仲間よりはよっぽど書を読むし、書くし、ずっと言葉には詳しいつもりでいた兵十だったが、ただの一文字も「杯中の蛇影」と同じ意味を持つ言葉なんて浮かんでこなかった。すると、和尚が、しびれを切らしたかのように……しかもまるで人を殺すかのような残酷な響きを含ませて……こう言った。

「疑心暗鬼」

 ゾッとした。兵十はゾッとした。この時兵十は、鬼に、あの鬼に抱きかかえられたような気持ちになった。あの太くて黒い腕の中に、すっぽりと包まれてしまったような。

 言われてみればそれ以上にないくらいしっくりとくる言葉だった。まるでずっと失われていた己の片腕のように、身にぴったりと張り付く言葉だった。それは言葉というより、兵十そのものを映している鏡のようだった。疑心暗鬼。疑心、暗鬼を生ず。

 一番皮肉なことは、兵十はその言葉をずっと前から知っていて、特に難しい言葉なわけでも何でもないということだった。和尚にわざわざ説教を受けなくても、どんな意味かは容易に想像がつく言葉だった。

「お前さんは人を疑っておる。人を信じられずにいる。いや、お前さん自身はそんな気はなくても、鬼が見える、ということはそういうことだ。何でもない他人の気持ちが、いや、ややもすれば、他人の善意や心配や、時には感謝でさえ、全部敵意に見えるのだろう。お前さんは敵意や悪意に対して敏感なんだ。その理由はもしかしたら、親父さんが『いやみの重兵衛』だったからかもしれんな。嫌味や皮肉は、ちょっと見ただけでは悪意とはとりにくい。言葉の裏に隠された意味を知って初めて悪意だと気づく。生まれてからずっとそんな嫌味や皮肉に包まれてきたお前さんは、ついつい人の気持ちの裏を読み過ぎて、そこには存在しないはずの悪意や敵意を、勝手に見出してしまうようになったんだろうな」

 兵十は父のことを思い出した。親のことは悪く言いたくないが、そう言えば、生まれてこの方嫌味しか言ってないような人間だった。

「善意や心配や感謝が敵意に見える。皮肉と同じだね。皮肉は、一見すると善意や感謝だったりして、裏に悪意がこめられている……お前さん、誰かに心から『ありがとう』と言ったことがあるかね?」

 なかった気がした。兵十は、いつも誰かに優しくされると、馬鹿にされているだとか、見下されている、いつか見返りを要求される、とばかり思っているような人だった。だから口にする感謝の言葉も、父の皮肉と同じように、裏に「余計なお世話ありがとさん」という意味がずっと息をひそめていた。そして兵十は、たった今、その息をひそめた悪意に気が付いたのだ。

「お前さん、小さい頃は、素直でいいやつだと人気者だったね。この頃は籠りがちだったようだが、お前さんの評価はずっといい人間だ、素直なやつだ、純粋なやつだ、で固定されている。これは、お前さんがお前さん自身の中にある敵意だとか悪意だとかを切り離したからだろうね。そうした暗い感情を、全部鬼に押し付けたんだ。だからお前は、純粋な、素直な人間でいられた……その腹の中は、真っ黒だったわけだが」

 その時、兵十は初めて鬼にあった時のことを思い出した。

「黒いな」そう言われた記憶があった。「禍々しいほどに。真っ黒だ」

 あれは、そう言うことだったのか。

「その鬼……そうだな、『疑心、暗鬼を生ず』だから、『暗鬼』とでも名付けようか……その暗鬼は、お前さんに何か危害を加えたのかい? 襲ってくるだとか、飛びかかってくるのだとか」

「はい……いや、いいえ」

「どっちだね」

「つけ回してくることはありました。私がそれに怒って、石を投げつけたことはありました。……思えば、村の男と喧嘩した時も、鬼は刀を抜いていただけで、襲い掛かったり、切りかかったりはしてこなかった……」

「うむ。それが暗鬼の特徴なのだろう。実際には存在しない鬼なんだから、人に危害を加えるわけでも、傷つけるわけでもないんだ……ただ、『見える』だけの妖怪なんだ。しかしね、厄介なのはこの見える、ということなんだよ」

 和尚は不意に、兵十がかつて鬼に石を投げて怪我をした腕を取り上げた。兵十は少しびっくりしたが、和尚は平然と続けた。

「鬼が見えたら、人は普通じゃいられない。何らかの手を打ちたくなってしまうものだ。これがもしお侍かなんかだったら、きっと切りかかっているのだろうね。しかしね、さっきも言ったけれど、その暗鬼って言うのは、お前さん自身なんだ。つまり、暗鬼に切りかかるということは、自分で自分に切りかかることになるんだよ」

 兵十は痛めた腕をじっと見つめた。傷はあの時のまま、兵十の腕にずっと残っている。何だか鬼の牙みたいに歪んだ形をしていて、兵十は嫌いだった。そしてその傷は、紛れもなく暗鬼が負い、また兵十自身が負った傷でもあった。

「自分で勝手に敵を作り、勝手に闘い、勝手に自分を傷つける。暗鬼って言うのは、そういう鬼なんだよ。お前さんが相手の善意を敵意と受け取って、攻撃をする。すると相手は怒る。優しくしたのに、何で攻撃をしてくるのかと。相手はお前さんに仕返しをする。結果、傷つくのはお前さんだ。そしてその仕返しの原因は何かと言うと、そもそもお前さんが善意を善意として受け取れなくて、攻撃をしてしまったことが発端だ。ちゃんと善意として受け取っておけば、ありがとう、いえどういたしまして、で済んだのだから。暗鬼は、その過程をもっと短く簡潔にしたに過ぎない。つまり、自分で自分自身を直接攻撃するような、ね」

 しかし、兵十はここで顔を上げた。

「じゃ、じゃあ、もう鬼は見えなくなるんですかね? 私は自分こそが鬼だったと知った。知ったらもう、見えなくなるんですかね?」

「いや、それは、あり得ないな」

 兵十は和尚の顔に戦慄した。今、兵十自身が迫ったその男の顔は、紛れもなく、暗鬼そのものの顔だった。額には一本角が生え、牙を剥き、恐ろしい目をした……。

「今話したこれはお前さんの言葉じゃない。白湯で薬を流し込むようにして無理やり飲み込ませた仮初の言葉だ。お前さんはこれを自分の言葉にしないといけない。自分で『疑心暗鬼』という言葉をしっかりと飲み込めた時、お前さんは初めて、鬼から解放される」

「自分で……」

「そう。どこかで鬼と向き合う必要がある。どこかで、鬼と対面しなくてはいけなくなる。……どこでなら会えそうかね」

「さあ、いつも勝手に現れて消えていきますから……」

「ふーむ」

 和尚はしばらく考え込んだ。やがて言った。

「敵意、を感じられればいいのだな。……親父さんの墓はどうだ?」

「墓、ですか」

 兵十の親父は二年前に他界していた。しかしそれでも、兵十は何かと理由をつけては墓参りを拒んだ。それは無礼なことだったし、体裁的にもあまり良くないことだったから、嫁や仲間は何とか無理やりにでも行かせることが多かったのだが、それでも、兵十は墓場の入り口から先には行きたがらなかった。

「親父さんとも、随分疎遠なんだろう」

 和尚はさすがによく知っていた。

「はい」

「よし、なら、今から私が花とお供え物を取ってきてあげるから、それを持って親父さんの墓場まで行ってきて、お供えをしなさい。それから、自分を育ててくれた父に、心からありがとう、と言うんだ。いいね」

「父と闘うのですか」

 すると和尚はにやりと笑った。

「違う。お前自身とだ。父、とは言ったが、本質的にそれは、今まで無視してきた自分だ」

 兵十には何が何だか分からなかった。しかし和尚は立ち上がった。

「もう、暗くなる。花と供物を用意するから、待っていなさい」

 それから兵十は、暗いお堂に一人取り残された。


 この村の墓場は、寺から伸びる山道をずっと登って行ったところにあった。

 兵十の親父の墓場はその墓地の一番奥の暗いところにあって、そのくせ小さな墓だった。以前、嫁が手入れをしてくれて以来、何もしちゃいなかったから墓は薄汚れていた。

 兵十はそこで、鬼に出会った。

 相変わらず、暗闇に溶けそうなほど真っ黒で、口からは牙が飛び出し、冷たい目をしていた。腕は太くたくましく、一突きで墓石なんか簡単に壊してしまいそうだった。腰には鋭い太刀を一本据えていて、兵十の親父の墓の上に、胡坐をかいて座っていた。随分とふてぶてしい態度で、じっと、兵十を見据えていた。

「見えるのか」

 鬼はやはりそう訊ねてきた。それがまるで、存在証明であるかのように。鬼は続けて言った。

「おれが、見えるんだな」

「ああ、見える」

 兵十はお供え物の花と菓子とを持ってそう答えた。できるだけ、はっきりと。そして力強く。

「そうか」

 意外にも、鬼は答えた。笑うように、そして、歌うように。それはまるで、兵十の死んだ父を彷彿とさせる仕草だった。

 兵十は、言った。

「怖かったな」

 自分が鬼の父になったつもりで、優しくそっと、語り掛けた。

「どれが本当の褒め言葉か分からなくて、頭がぐちゃぐちゃになったこともあった。皮肉ばかり言われて馬鹿にされて、嫌な思いをすることもあった。だからにやついた顔の畦道の地蔵が大嫌いで、地蔵にまで馬鹿にされていると思ったこともあった。人の言葉が信用できないから、お鈴ちゃんも六輔も、本当は死ぬほど怖かったんだよな。だって、裏ではどんな悪口だって言えるんだから。でも、もう大丈夫だ。何も怖くなんかない。今まで我慢してきたお前は、ずっと立派な男だった。だから怖がらなくていい。恐れなくていい。一緒に帰ろう。一緒に帰って、村のみんなに頭を下げよう」

 それは、ここへ行く前に和尚から言われた言葉だった。鬼がどんな態度を取ろうと、鬼の気持ちを理解し、鬼の側に立つように意識すること。間違っても非難しちゃいけない。お前が、お前さんの親父さんにして欲しかったことを、鬼にしてあげればいいんだ。抱きしめて欲しそうにしてたら抱きしめてやれ。泣きそうにしてたら慰めてやれ。自信がなさそうなら励ましてやれ。話したそうなら聞いてやれ。不安そうなら撫でてやれ。とにかく、鬼を傷つけることだけはやめてやれ。それはお前さん自身を傷つけることになる。逆に言えば、鬼を受け入れることができれば、お前さんが受け入れられることになるんだよ。

「お鈴は」

 鬼は言った。

「六輔は、お鈴の一件も、お前のせいだと思っているぞ」

「それが不安なんだな?」

 兵十は聞いた。鬼は黙っていた。

「お前が恐れたのは、お鈴ちゃんを殺した事実か、それとも六輔の目か」

「六輔の目」

「お前は、お鈴は殺してないんだな?」

「殺してない」鬼は言い切った。

「ただ、あの時、おれとお鈴ちゃんは一緒にいた。するとお鈴ちゃんが、道にあった石に躓いて転んだんだ。打ち所が悪かった。お鈴ちゃんは動かなくなった」

「それなのに、お前は俺の前に姿を現した」

「一番最初に死人を見つけた人間が真っ先に疑われることくらい、分かるだろう」

「なるほど。そういう敵意を敏感に感じ取っていたわけか、お前は」

 それから兵十は少し、薄暗い空を見上げると口を開いた。

「すまんな。さっきからお前、だなんて、余所余所しいよな。お前さんは、俺なんだから。だから、その、俺は……」

 それから兵十は、まっすぐ鬼を見据えて、言った。

「俺は、六輔が怖い。お鈴ちゃんの一件で疑いを持たれるのが怖い。嫁を羨む男どもの目も怖い。人の目が、心が、怖い。怖くて怖くて、鬼を見た。そうだよな」

「そうだな」

 鬼は笑った。兵十は、そんな鬼に花とお供え物を与えた。

「茶菓子とは、贅沢だな」

「和尚さんはそれしかお供え物になるものがなかったんだと」

 今度は、ちゃんと言えた。風が流れ、二人の間の空気も流れた。沈黙も、同様だった。

 鬼は急に、表情を険しくした。兵十をじっと睨み、供え物を投げ捨てると腰の刀に手を添えた。兵十は少しぎょっとしたが、それでも和尚の言いつけどおりしっかりと鬼の方を向き、逃げ出そうと震える足を懸命に踏ん張ってその場に留まった。鬼が言った。

「一度向けた敵意は、そう簡単には消えぬ。同様に、お前が見た俺も、いや、俺が見たお前も、なかなか消えぬ。親父の嫌味のようにしつこく、心に残り続ける」

 鬼はすっと、刀を抜いた。細くて長くて鋭くて、しかも、真っ白で美しいそれは、闇夜のわずかな光を受けて輝いた。

「この恐怖にも臆せずにいられれば俺は帰ろう。しかしそれが出来なければ、俺は帰らぬ。消えぬ。いつでもお前の心に、姿を現してやる」

 暗鬼は、刹那、ろうそくの火が消えるようにして姿を消した。兵十の肩から血が噴き出たのはその直後だった。

「お前を刻んで、食ろうてやろうぞ」

 兵十は歯を食いしばり、何とか、目だけはつぶらぬよう必死に瞼に力を入れると、思い出した。和尚が言った言葉だ。

「暗鬼は『見える』鬼じゃ。だがそれ以上のことはしない。だから暗鬼が見せたものは、全部幻だと思え。決してやり返したり、ましてや、暗鬼に対して敵意を抱いたりしてはならぬ。何をされても、子猫がじゃれついているのだと思え。事実、そのようなものなのだから」

 随分派手なじゃれつきだと兵十は思った。血の噴き出る肩は実際に焼けるように痛かったし、血が足りなくて意識も遠くなった。しかし兵十は耐え続けた。耐えて、風のように動き回る鬼を必死になって見つめた。鬼の中にかすかに残る、善意の欠片を追い求めて。

 兵十は口走っていた。自分がずっと抱えていた不満を。恐怖を、不安を。それらは、まるで念仏のように低く長く、辺りに響いた。

「怖かった……! 嫌だった……! 本当はもっと優しくしてほしかったし、迎え入れてほしかった。愛してほしかったし認めてほしかったし笑いかけてほしかった。気にかけてほしかった。応援してほしかった。そんな目で見てほしくなかったしちゃんと向き合ってほしかった。寂しかった。見下されていると思ったし馬鹿にされていると思った。自分なんていらないと思ったし死にたいとも思った。お鈴ちゃんには怒られたくなかったし、六輔にくらい本当のことを話したかった。嫁をそんな目で見てほしくなかった。勝手に羨まないでほしかった。人を信じられなかった。信じられない自分は最低だとも思った。消えてなくなりたかった。最低だ最低だ最低だ。最低だ。だけど……」

 兵十の一言ごとに刀を振り下ろしていた暗鬼の手が、ぴたりと止まった。いつの間にか兵十は、立っていられるのが不思議なくらいズタズタに切りつけられていた。血は出尽くしかけていたのか、体中の切り傷から、小便のような細い血がちょろちょろと溢れ出ていた。兵十は、それでも暗鬼を見つめ、言った。

「だけど、俺はずっとそんな気持ちをお前に押し付けていた。悪かった。どれも俺の本当の気持ちなのに、無視したりして悪かった。俺がずっとされてきたことを、お前にしたりして悪かった。だけど一言だけ、一言だけ言わせておくれ。お前だけは、こんな俺の暗い気持ちをずっと、ずっとずっと受け入れていてくれた……だから、一言だけ……こんな俺の、こんな気持ちを受け入れてくれて……」

 鬼は石のように動かなくなった。兵十は、最後の力を振り絞って言った。

「ありがとう」

 そして、いつの間にか、暗鬼はすっかりその姿を消していた。


 幼馴染の心配をして墓場まで訪れた六輔が見たのは、放心して座り込む兵十だった。

 幸い怪我一つなく健康的だったが、何故か兵十の目は、涙にしっとり濡れていた。

 その目にもう、暗鬼は映ってはいなかった。

                                  

  了


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暗鬼 飯田太朗 @taroIda

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