第3話 芽久瑠
一年と少し後の三月末。まだ風は冷たく時折雪は降るけれど、晴れた日の日射しに少しずつ春の気配が感じられる。
芽久瑠は駅から自宅に帰り、段ボールだらけの自分の部屋に入った。胸に風穴が空いたような気持ちだった。スマホでSNSアプリを立ち上げると、そらこにDMを送る。
<そらこさん、今、通話できますか?>
パソコンで執筆中の小説ファイルを開いている間に、いいよと返信があり、芽久瑠は通話アプリでそらこに繋げた。
「るるちゃん、どうした?」
そらこの優しい声が冷えた身体に染みこむように聞こえてきて、芽久瑠はようやくほっとした。
「今、駅で<ミツ>を見送って帰ってきたところです」
「いよいよミツちゃんが旅立ったんだ」
ミツというのは睦のアカウント名で、ムツミから芽久瑠が名付けた。ミツはほとんどSNSで発言することはなかったものの、そらこにはミツがリアルの親友であると知らせている。
「るるちゃん、寂しくなっちゃったよね。大丈夫?」
そらこに労りの言葉を投げかけられた瞬間、芽久瑠の瞳からこらえていた涙が流れた。
「寂しいです……」
「そうだよね、高校時代からずっと一緒にいたんだもんね」
ぽたぽたと涙が机に落ち、乾いた木の上で繋がった。睦と通った高校の校庭も、雨の日にはこんなふうに水たまりができていったとふと思い出す。雨の日も晴れの日も雪の日も、いつも睦は芽久瑠の横にいた。ふたりで一体何度、春に降り積もる桜の花びらを、夏の夜空の花火を、秋の燃えるような紅葉を、世界の全てを包み込むような冬の雪を見ただろう。永遠に続くように思えた日々。その睦が自分の意志で芽久瑠から離れ、遠くへと飛び立っていった。芽久瑠は嗚咽した。
「るるちゃん我慢してきたんだね、たくさん泣いていいよ」
「す……みません……っ」
ひとしきり涙を流して喉を絞り上げるような痛みをやり過ごすと、芽久瑠はぽつりと話し出した。
「でも、いいんです。ようやく私はミツを解放することができて、ほっとしているんです」
「解放?」
「私は結局、ミツの気持ちを利用して、縛り付けていたんです」
「どういうこと?」
「ミツは私をずっと好きでした」
わかっていた。
真っ赤な顔で「星の雫」を読んでいるよと初めて声を掛けてくれたあの日。
私だけの呼び名で呼びたいの、と思い詰めたような表情で言ったあの日。
中学時代の辛い思い出を打ち明けた時、誰よりも傷ついたような顔をしたあの日。
ペンネームを夢坂るるに決めたと告げた時、感激して泣いたあの日。
うたかたの言動に苦しんでいる芽久瑠に、大丈夫、私がなんとかすると力強く言ってくれたあの日。
――睦は一度も芽久瑠を好きだと口にしなかった。
それでも、何度も何度も、睦はその存在の全てから芽久瑠を好きだと告げていた。
「だけど、るるちゃんは恋愛対象として見られるのが嫌なんだよね?」
そのことについては、SNSでも端的に公表している。
「そうです。一方的な感情を向けられるのが怖いし、追い詰められる気がして逃げたくなります。うたかたさんの時もそうでした。でも睦はそんな私のことを理解していたから、気持ちをずっと抑えていてくれたんだと思います。だから睦だけは大丈夫でした。一緒にいて心地良い大切な人でした。けれど私では睦の気持ちに応えられないから、睦は本当は苦しんでいたと思います」
「……苦しいだけだったら、ずっと一緒にはいなかったと思うよ。それだけるるちゃんもミツちゃんを大切にしていたからでしょう」
「そうでしょうか……」
「じゃないと、ミツちゃんはうたかたと直接対話なんてしなかったと思う」
*
一年前の一月、芽久瑠がうたかたの言動に苦しめられていた時、最初に芽久瑠の異変に気づいたのは睦だった。
賛美から始まったうたかたの言葉は、批判を繰り返しながら次第に支配的になっていった。
中学の先生の時と同じだ。好意的な振りをして近づいて来て、芽久瑠が一番大切にしている「書くこと」を支配しようとする。それは芽久瑠の心そのものを支配しようとするのと同じだった。
「るる、辛いんでしょう?」
そう睦に聞かれた時、芽久瑠はすでに思うように書けなくなっていた。
「私に何か理由があるのかな? いい人でも豹変させてしまうような、何か」
睦にもそらこにも、何度もうたかたの相手はもうするなと忠告されていた。でも、もうこれで返信を辞めようとすると、うたかたはまるで読み取ったかのように<私なんて迷惑なだけですよね。もう辞めます。姿を消した方があなたのためですよね。申し訳ありませんでした>などと書いてくるので罪悪感に苛まれ、<そんなことを言わないで下さい>と返信してしまう。すると、<また誤字を見つけました。無視してもいいですが、読者のためにも直した方がいいのでは?>などと放置するのも難しい書き込みをしてくるので、ありがとうございます、と返信すると再び際限のないコメントとDMが始まる。芽久瑠はすっかりうたかたに振り回され、消耗していた。
「――るるには人を引きつける力がある。それは確か」
睦の薄い茶色の瞳がまっすぐに芽久瑠を見つめる。ああ、この迷いのない瞳にずっと力づけられてきた。
「それは素晴らしいことだよ。その引力におかしな人まで引かれちゃうだけで、るるは悪くない。るるを傷つけるなんていい人じゃない、それまでいい人の振りした変な人」
「そうなのかな……」
「るる、書けてる?」
「書けない……書こうと思っても、あの人の言葉が浮かんでしまう。期待外れだ、こんなのどこかで読んだことがある、先が見えた、がっかりだ、って」
張り詰めていたものが破れ、こらえきれずに芽久瑠が泣き出すと、睦は優しく背中を撫でた。
「そんなひどい言葉をるるに浴びせるなんて、許さない。るるが一番大切にしているものを傷つける人は許さない」
その声も震えている。見ると、睦もまた泣いていた。
私のために泣いてくれている。
そこまで深く私を想ってくれるのは、睦だけだ。
「私がなんとかする。るるが一番大切にしているものを、今度こそ私が守りたいから。私、うたかたと直接話す」
今度こそ――。睦は芽久瑠の中学時代の辛い思い出のことを言っていた。
睦がうたかたとDMでどんなやり取りをしているのか、芽久瑠は心配だった。しかし咲良は、心配ないと言った。その言葉通り、うたかたは姿を消した。
――咲良。
芽久瑠にとっては眩しい光の粒を集めたような存在だった。
三年になってから、学部委員でこんな子が入ってきたよと睦がよく話したのが咲良だった。睦が誰かのことを熱心に話すのは初めてだったから、どんな子なのか芽久瑠も興味を抱いた。ただ、隅カフェにまで連れてくるとは思わなかった。そこは芽久瑠と睦のふたりだけの場所だと思っていたから。
しかし、思いがけない咲良の登場は芽久瑠の心に変化をもたらした。
食べたものが美味しければ満面の笑みで美味しいと言い、楽しければ手を叩いて笑い、好きになれば頬を染めて相手を見つめる、素直な子。
咲良の話を聞いていると、それまでの睦との日々がいかに閉ざされたものか、そして外の世界でどれだけ睦が慕われ、頼りにされているかがよくわかった。咲良と話している時の睦を見て、芽久瑠は懐かしさを覚えた。
そうだった、出会った頃、睦はこんな顔をして笑っていた。口を大きく開けて、手を叩いて、目尻から涙を滲ませて。いつから睦はあんな顔をして笑わなくなったのだろう。
やがてひとつの疑問が生まれていった――私は睦を自分の都合で縛り付けているのではないか。睦の可能性への羽ばたきを、恋し愛されるときめきを、小説と同じように芽久瑠のスノウ・ドームの中に閉じ込めているのではないか――。
大学三年。守られ、用意されてきた道が終わりを迎えようとしている。社会へ向かう道を自分の責任で見つける時が近づいて来ている。
芽久瑠は自分の道はすでに見つけていた。書いて生きていく、それ以外には考えられないし、できない。最終選考に残った文学新人賞の担当者からは課題と励ましをもらい、新作を提出するように言われている。
しかし、睦は――。
いつも芽久瑠の側で、芽久瑠を傷つけるものから守り、書きたい物語のアイディアを聞き、一番に読み、共に考え、美術や映画を一緒に見て心を豊かにしてくれた睦は、自分の道を見つけているのだろうか。芽久瑠は睦がその道を見つけることすら、許してこなかったのではないか。
夏と共に学祭が終わる頃、咲良は姿を見せなくなり、隅カフェに睦とふたりきりの静けさが戻った。咲良に睦が連れて行かれずに済み、どこかほっとしたのも事実だったけれど、睦は浮かない顔をして考え込むことが多くなった。
冬になると、睦は本格的に始まる就職活動のために髪を黒く染め、黒いパンツスーツ姿でインターンに参加するようになった。
「睦はどんな業界を目指しているの?」
「うーん。まだちゃんと決めきれていなくて、とりあえず、ここにいられたらいいと思っているんだけれど……」
睦の瞳に迷いを感じてまた芽久瑠は不安になった。
「ここ」に睦がしたいことはあるのだろうか?
本当は睦は芽久瑠の側を離れてでも、自分の道に向かって歩き出したいのではないか。
――行ってもいいよ。
今までずっと一緒にいてくれたのだから、もう睦は自由になっていいんだよ。
そう思っても、芽久瑠にはどうしてもその言葉が言えなかった。
あまりにも睦に守られる時間が長すぎて、睦なしで書いていけると思えなくなっていた。でも、そんな関係は親友ではなく、ただの依存だ。このままではいられない。来年大学を卒業すれば社会人になるのだから。
何より、睦にあんな顔をさせていてはいけない。睦は本当は日だまりのように、みんなに慕われる人なのだから。
そんな時、思い浮かんだのが咲良だった。
咲良なら、きっと睦が本当に行きたい方へと背中を押して、羽ばたかせてくれる。
睦を幸せにしてくれる。
そう思って、芽久瑠は咲良を呼んだのだった。
また咲良と睦が近づくように、と。
*
今日、睦はひとりで駅の改札前のベンチに座り、芽久瑠を待っていた。
「お待たせ。咲良は?」
「先に空港へ行くって。ゆっくりふたりで話してきてって言ってたよ」
「……咲良らしい」
「そうだよね」
就職活動時代、真っ黒だった睦の髪は高校時代のような自然な焦げ茶の髪色に戻っている。シャツに黒いデニム、黒いジャケットを着て、濃紺のスーツケースを横に置いていた。
「荷物はそれで全部?」
「大体のものは社宅に送っちゃったから」
「いよいよ出発なのね」
睦は東京本社のコンテンツビジネス会社に就職し、名古屋支店に配属になった。
それが睦が選んだ道だった。そして睦はもうひとつ選んだ――咲良を。
*
睦に隅カフェに呼び出されたのは四年生になってすぐだっただろうか。
三年までに単位のほとんどを取り終えた芽久瑠はゼミの時くらいしか大学に行かなくなっていた。睦はまだ授業もあり、就職相談センターにも行くので大学にはよく通っている。
いつもLINEでは連絡を取り合っているし、少しずつ元のように書けるようになった小説は今まで通り一番に睦に見せているけれど、改めて会おうと誘われるのは珍しかった。
時間通りに芽久瑠が隅カフェへ行くと、睦はいつもの席で待っていた。スーツを着て髪をきっちりと後ろで結んだ睦が内側から輝いて見えて、芽久瑠は睦の話の内容が予想通りであることを感じ取った。
「るる、わざわざ来てもらってごめんね」
「ううん、教授にも用があったし。会うのは久しぶりだね。今日も就活?」
「面接に行ってきたよ」
「そう。順調?」
「うん。あのね、次の面接で東京に行くことになった」
「東京? 本社が東京の会社なの?」
「私ね、ようやく自分がやりたい仕事を見つけた。コンテンツビジネス。Webで人とサービスがもっと簡単に快適に希望通りに結びついて、暮らしがもっと豊かになるような仕事」
その会社のパンフレットを差し出しながらはつらつと話す睦が、芽久瑠には眩しかった。人は、自分の進むべき道を見つけた時、こんなにも輝くのか。
「素敵な仕事だね」
うん、と頷いた睦が不安げな表情になり、口ごもる。だから芽久瑠は話しやすいように会社概要のページを指差した。
「本社が東京なんだね。あと支店が大阪と名古屋、福岡なんだ。じゃあ、睦はここのどこかで働くってこと?」
できるだけ穏やかに、いつも通りの口調で聞いたつもりだった。睦はほっとしたように頷いた。
「もし正式に内定もらったら、ここを離れることになる。次の面接が東京本社の役員面接だから、通れば内々定なんだって。だから今の段階でるるに話しておきたかったの」
「……睦が……」
何度も思ってきたことなのに。声が掠れてしまい、芽久瑠は一度言葉を切った。
「睦が見つけた道だもの、私は応援するよ」
「ありがとう。できれば今までどおりるるの側にいられたらと思って、たくさんの企業セミナーに参加してみたけれど、心からやってみたいと思った仕事、入りたいと思った会社はそこだった」
「睦の人生だもん。きっとうまく行くよ。私だってもう子どもじゃないし、大丈夫。そらこさんたちもいるしさ」
「――うん、そうだね。るるは今だって人気作家だけれど、すぐに商業デビューして書店に本が並ぶようになるよ」
「そうなったらいいけれど。頑張るよ」
「でもまた変な人が出たらすぐ言ってね。自分だけで溜め込まないで」
芽久瑠はふふっと自嘲気味に笑った。
「そらこさんに、あんなの気にしちゃだめだって言われたよ。する方もたまたま目に付いた人をターゲットにするんだし、これからもいくらでもあることだから流さないとって」
「そうかも知れないけれど。そうできたらいいけれど、でも、傷つく心があるからこそ、るるはあんなに繊細で夢みたいな物語が書けるんだと思うよ。だから、るるはるるのままでいていい」
睦はまっすぐに芽久瑠を見つめていた。
そうやって、睦は私を根本から力づけてくれる。
「私ね、この会社を志望した理由のひとつに、Webの誹謗中傷問題に取り組んでいるという点があって。学校に出向いて生徒たちにネットリテラシーの講習会を開催したり、各SNSと連携して人を傷つけるワードを監視して即座に表示させなくしたり、誹謗中傷するアカウントをいち早く特定させて凍結させたりするの。そうしたらもっとるるが創作しやすくなって、傷ついたりしない世界を作れるんじゃないかと思って」
微笑んでいる睦の顔が涙で歪んでしまう。ちゃんと、今のこの瞬間を目に焼き付けておきたいのに。芽久瑠は慌てて指で涙を拭った。
「すごい……すごいね、睦は。私なんかよりずっと、先を見ている」
「たとえ離れても、私は私なりにこれからもるるを支えたいと思うから」
いつの間に、睦はこんなに頼もしく凜々しくなったのだろう。やはりそれは……。
「……そんなこと言ったら、咲良にやきもち妬かれるよ」
「え?」
戸惑う睦の耳が、さっと赤くなる。
「咲良と付き合っているんでしょう?」
ぶんぶん、と睦は慌てて首を振った。
「まだ……いや、あの。るるには敵わないな。――そのことについても、話したいと思っていた。私、咲良ちゃんが好きなんだ。近いうちに告白したいと思ってる」
「まだ付き合っていないの? だって、咲良は睦を好きなんでしょう? 両想いじゃない」
芽久瑠の問いに、睦の顔はますます赤くなっていく。
「いや……さ、前に、るるが咲良ちゃんのこと好きかも知れないって言ったでしょう? だから、勝手に私が告白したりしたらだめだろうと思って」
「ああ、それは――、そう言ったら睦が咲良を意識するかもって思ったの」
「ええ……?」
「誰かに好かれている人は魅力的に見えるってそらこさんの小説で読んだから」
睦は弾かれたように笑った。高校時代のような明るい笑い方だった。
「るるったら、そんなこと企むんだ! なんだもう、気にして損した……」
「まあ、私も咲良に会いたかったのは事実だよ。あの子と話していると、どんな時でも気持ちが明るくなるから。ちょうどうたかた事件の頃だったしね。私のおかげであなたたちも再会したんでしょう? 私、いい仕事したわ」
確かにね、と睦は笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら頷いた。
「るるは私と咲良ちゃんが付き合えばいいと思っていたの?」
「前々からそう思っていた。咲良は、睦を睦の行きたい場所に連れ出してくれる子だって、睦を幸せにしてくれる子だって思っていたから」
「……私はるるとふたりでいた時だって、ずっと幸せだったよ」
芽久瑠は目を細めて睦を見た。
――わかっていない。やりたい仕事を見つけて、咲良を好きだと自覚した睦は、私が見たことがないくらい、輝いているよ。こんな表情、私は睦にさせられなかった。
喜びが確かに勝るのに、どうしても切なさが胸に広がるのを振り払うように芽久瑠は明るく聞いた。
「いつ、咲良を好きだと気づいたの?」
「そうだね……。るるが咲良ちゃんを呼んで、また話すようになったのがやっぱりきっかけかな。たまに学食で一緒に食べたり、咲良ちゃんがバイトを始めたカフェが私がレジ打ちしているスーパーと近かったから一緒に帰ったりすることが多くなってね。あの子がまだ、私を好きだとわかって、そんなに一途に思ってくれているのかと感動して……。それと、私がやりたい仕事を見つけられるようにいつも励ましてくれた。面接に落ちまくった時期も、睦さんならきっと合う会社があるはずだって、全国各地の会社を調べて情報をくれて。その中に今志望している会社もあるんだよ」
「さすが咲良だわ。一途だし睦のことをちゃんとわかってる」
「あはは、一年生なのにしっかりしているよね。そのうち、少しずつ意識するようになっていった。恋愛対象になんて見ていなかったのにね」
「私、恋なんて自分勝手な気持ちの押しつけだって思っていたけれど、そうじゃないね。咲良の一途な気持ちや行動は本当に睦のためになって、睦の心を動かしたんだもの。でも遠距離恋愛になるのは寂しがっていない?」
「自分は片思いのプロだから大丈夫なんだって言ってたよ。私に振られても、会えなくてもやっぱり好きだったから、これからも応援し続けるだけだって。咲良ちゃんは私が彼女を好きだってこと、気づいていないんだ。私とるるの間には入れないって言ってたよ」
「私たち、そんなのじゃないのに……」
「ね。友だちなのに、ね」
お互いに念を押すように、確かめ合うように言う。
「それじゃあ睦が告白したら、咲良はどんなに喜ぶかな。見たいわ、その場面」
「やめてよ。るるが見ていたら私、恥ずかしくて何も言えなくなる」
「それもそうね。――告白する前に話してくれてありがとう」
「この先、私と咲良ちゃんが付き合っても、そして私がどこか遠くで働くことになっても、るるは私の特別のままだから。私が一番守りたくて、誇りに思う――親友だから」
頬に赤みを残しながら睦が優しく微笑むから、芽久瑠は泣きたくなった。
「親友」という芽久瑠が望んだ儚い枠を、六年以上も睦はひとりで守ってきてくれた。
どれだけ自分を律して。どれだけ思いを押し殺して。
そんな睦の優しさと強さに、ただ甘えてきてしまった。
芽久瑠は涙をこらえて微笑んだ。
「ありがとう。でも、これから睦の一番は、咲良じゃなきゃ。いつも元気いっぱいに見えるけれど、どれだけ咲良が睦を思ってきたか、こんな私でもわかったから」
「そうだけれど」
「ねえ、いつ咲良に告白するの? ちゃんとシチュエーションは考えているの?」
問い詰めると、睦は再び顔を真っ赤にして苦笑した。
*
「るる?」
駅のざわめきの中で睦に顔を覗き込まれ、芽久瑠ははっとした。睦の右手の薬指に光る咲良とお揃いの指輪を見つめたまま、ぼんやりと思いを巡らせてしまっていた。
春休み中の咲良は睦と共に名古屋へ行き、引っ越しの手伝いをするのだと言っていた。大丈夫とは言っても、遠距離恋愛が始まるギリギリまで一緒にいたいというのが咲良の本心なのだろう。だから今日、芽久瑠はふたりを見送るつもりでいたけれど、咲良が気を利かせて睦との最後の時間をくれたのだ。まったく咲良の方が一枚も二枚も上手だと思う。けれど、せっかくのその時間ももう終わりが近い。
「大丈夫、疲れた? また昨夜も遅くまで書いていたんでしょう」
「うん。もうすぐ文芸賞の締め切りがあるから」
「そっか。完成したら読ませてくれる?」
「もちろん、最初に見せるよ」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
睦はベンチから立ち上がると、スーツケースに手を掛けた。
「それじゃあ、私そろそろ行くね。あと十分で電車が出るから」
芽久瑠も立ち上がり、一緒に改札へと向かう。
「もう咲良は空港に着いたかな。LINE来てないの?」
睦はポケットからスマホを取り出すと、確認してふふっと笑った。
「来てない。空港に私が来るまで邪魔しないって言ってたし」
「いい彼女だね」
「いい彼女だよ。――それじゃ、行ってきます」
改札前で止まった睦は晴れ晴れとした笑顔で芽久瑠に向き合った。
「行ってらっしゃい。身体に気を付けて、ちゃんと食べて寝てね。そんなに無理しないでね。パワハラとかセクハラとかあったら相談してよ」
「るるったら、お母さんみたい」
「だって、心配だもの」
「……るるの側を離れるなんて、七年前に出会ってから初めてだから落ち着かないよ」
私も、そう呟きかけた芽久瑠は、睦の長い腕でふわりと柔らかく抱き締められた。
そんなことは初めてだった。常に睦は、友だちなら当然あるようなスキンシップすらしないように気を付けていたから。
いつも横で感じていた、睦の柑橘類のような甘酸っぱく心が安らぐ香り。肩に当たる細い顎。背中を優しく抱き締める十本の骨張った指。暖かな体温を伝える薄い胸。その中で心臓が躍るように鳴っている。それは芽久瑠の心臓も同じだった。
「今までありがとう、るる。私はずっと……ずっとるるのことを……」
――大好きだったよ。
その言葉が抱き締められた身体から直接染みこんでくるようだった。
しかし、睦はその言葉を飲み込んだ。
「……るるは、春になったね」
「春?」
「高校に入学して初めて会った時に、冬みたいな気配がする子だと思っていた。周囲に心を閉ざしていたからだったんだね。そんなるるがあまりにも綺麗で、私は目が離せなかったよ。でも今るるは、大好きな書くことでたくさんのファンを喜ばせている。今までるるが経験した辛いこと、悲しいこと、楽しいことの全部がるるの物語になっている。もうるるは物語を無限に生み出せる春だよ。だから私は安心して行けるよ」
「睦がずっと一緒にいてくれたからだよ」
涙があふれる。けれど、旅立つ睦に涙を見せてはいけないと芽久瑠は思い、唇を噛んだ。
――だから私も、行かないでとは言わないよ。
「るるに会うまで何一つ成し遂げられなかった私が、七年間もるるの側にいることだけはできたよ。これから私がどんな自分の人生を作っていくか、見ててね。――親友として」
「うん。親友として」
芽久瑠はそっと睦の背中を撫でた。どうか睦らしく羽ばたいてと願いながら。
*
「親友、かあ」
そらこがため息をつくのが聞こえた。
「なんていうか、出会って七年経ってこうして離れて、ようやく本物の親友になれた気がするんです」
「親友がるるちゃんにとっては一番安心できて、大切な関係なんだもんね。――でも、結局言わなかったの? 東京に来るってこと」
芽久瑠は部屋のあちこちに積まれた段ボールを見渡した。
睦にも内緒で、芽久瑠は東京に移り住むための準備をしてきていた。美術や舞台に触れる機会を増やしたかったし、創作イベントにも出やすいし、文芸出版社との打ち合わせやWebライター業も増えてきたので、思い切って東京に出ることにしたのだ。定職に就かないままの上京を両親はもちろん心配していたけれど、なんとか説得した。
「言いませんでした。もう、ほんの少しでも睦の心を揺らしたくなかったし、私自身も睦への依存から卒業したかったんです。そのうち、私がひとりでも創作や生活を成し遂げられるようになったら言うかも知れないけれど」
「なんだか聞いているとさ、るるちゃんのミツちゃんへの気持ちは、恋じゃないかも知れないけれど、愛だよね」
「愛……」
「恋愛の愛情というより、友愛や家族愛に近いのかも知れないけれど」
「私は恋も愛もよくわかりません。たとえ愛だとしても――昨日までの愛ですよ」
それは強がりかも知れなかった。けれど、睦との永遠のような日々を芽久瑠自身も過去のものにする時が来た、そう思っていた。
――私もまた、自分で作る人生を睦に見せるために。
そらこの笑い声が聞こえた。
「るるちゃんのそういうところがいいんだよね。これからるるちゃんがどんな物語を書くか、私すごく楽しみ」
「私もです」
微笑んだ芽久瑠の指が、パソコンのキーボードの上を踊り出した。
<終>
昨日までの愛 おおきたつぐみ @okitatsugumi
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