第2話 咲良
試験前最後の授業が終わってスマホを触ると、大学から与えられているアドレスに芽久瑠からメールが来ていることに気づき、咲良は息を飲んだ。
<咲良、久しぶりです。
よければちょっと話しませんか? 私は相変わらず授業の後は
ちなみに、睦は月水金はバイトが四時からなので、三時半にはいなくなります。
私は五時頃までいます。
それでは、会えるのを楽しみにしています。
坂口芽久瑠>
「一体なんで……」
思わず呟くと、隣に座っている美沙が「何?」と驚いて咲良とスマホを交互に見た。
「芽久瑠さんから呼び出し。何だろう、怖い」
「なんかやらかしたの? 小坂先輩とふたりでいるところを見られたとか……」
「何もしてないよ。睦さんのことは避け続けているし」
「そっか……咲良もわりと引きずるよね」
意外そうに言う美沙に咲良は呆れた。大学に入学して最初のガイダンスでたまたま隣り合って座って意気投合した美沙は、何事もあまり深く考えない性格だ。そこに腹が立つこともあるけれど、救われることもよくあった。睦に失恋したと美沙に打ち明けた時、咲良が泣きやすいようにと美沙は一晩中カラオケボックスで失恋ソングを熱唱した。聞いているうちにだいぶ心が軽くなって、明け方には笑えるようになったことを思い出しつつ咲良は言った。
「わりとって、まだ四ヶ月だよ。本気だったんだから引きずるのも当たり前でしょう。ねえこれ、私が睦さんに振られたって芽久瑠さんも知ってるってことだよね」
「あのふたりには秘密はないのかもね。どうするの? 呼び出し行くの?」
「うん、もうこの後行く。モヤモヤしていたくないし、私もちょっと気になることがあるから」
咲良は美沙と別れて芽久瑠がいる隅カフェ――大学の隅っこにあるので、正式名称「カフェ・ラッキー」ではなく隅カフェと学生たちは呼んでいた――に向かった。時刻は三時を少し過ぎたところだから、このまま行くと睦がまだいるかも知れなかった。
遠くからでもいいからこっそり眺めたい、咲良はそう思った。
もうずっと睦を見ていなかった。
振られた四ヶ月前のあの夜から。
*
睦とは大学に入学して一ヶ月と少し経った五月、美沙に誘われて入った学祭の文学部委員のオリエンテーションで二年上の先輩として出会った。
学祭は、各部の委員がそれぞれの部の伝統やカラーに合わせて企画を進めていく。学部委員は一年生から三年生までで成り立ち、各学部委員の代表が学祭代表委員となって全体運営を行う。
「あの人知ってる。小坂睦先輩だ。同じ高校の先輩で、坂口芽久瑠先輩っていう超美人といつもふたり一組で行動していたんだよ。ベタベタしているわけじゃないんだけれど、誰もふたりの間に入れない感じで、友だち以上の雰囲気だったなあ」
美沙がそう囁いてこっそり指差した睦は、ひょろりとした長身にオーバーサイズのシャツと細身のジーンズを身につけ、ふわふわの茶髪をショートボブにして穏やかに微笑んでいる人だった。
「そのもうひとりの先輩はここには来ていないの?」
美沙は講義室をぐるりと眺め回して首を振った。
「いないな。ていうかこういう集まりに来るようなタイプじゃないもん。でも小坂先輩がひとりでいるということは、坂口先輩から卒業したってことなのかな?」
美沙の口ぶりからすると何やら訳ありの人物のようだったけれど、当の睦は髪型も相まってタンポポの綿毛のようにふんわりした人のように見えた。
一年生が担当を決めるための一通りの説明が終わった後、美沙は咲良を連れて睦の側に行った。
「和泉高校にいた小坂先輩ですよね! 私、二年後輩の加川美沙といいます。この子は同じ日本文学科の伊藤咲良です。よろしくお願いします!」
睦は眩しそうな目で咲良と美沙を見た。薄い茶色の瞳が印象的だった。
「へえ、和泉高校なんだ。よろしくね」
「はい!」
そう元気に返事したくせに、美沙はまもなく「新しく始めたバイトが忙しくて学部委員行けないわ」と言ってさっさと辞めてしまったのである。
「まだ活動も本格的じゃないし、咲良も辞めてもいいんじゃない?」
なんて美沙は言ったけれど、咲良は一度始めたことは続ける性格だったし、先輩たちとも仲良くなれそうだったし、何より睦のことが気になってそのまま委員にいると決めた。
睦はシャイで前に出るタイプではなかった。学部委員の活動は三年生が中心となっているけれど、睦は幹部と呼ばれるリーダーたちの指示を慣れない一年生たちに伝えたり、ぽつんとしている子に話しかけたりとさりげなくサポートしていた。
初日に高校の後輩・美沙に紹介されたというだけの繋がりではあったけれど、他に知り合いもいなかった咲良は睦がいる時は側に寄り、睦も気さくに咲良に話しかけるようになった。
聞けば睦も一年生の時、友人に強引に委員会に連れてこられたのに、やはりその友人もさっさと辞めて別のサークルに入ったのだと言う。私たち似たもの同士だね、と睦が微笑んだ時、咲良の胸は高鳴った。笑いのツボが似ていて、その日あった面白い話を咲良がすると睦は涙を流して笑った。それが嬉しくてもっと話をしていたいと咲良は思うけれど、委員会が終わるや否や睦は「それじゃまたね」と言って消えてしまう。飲み会の誘いにもほとんど乗らなかった。
「睦さん、いつも委員後にどこへ行くんですか?」
ある日思い切って聞いてみると、睦は「友だちが隅カフェで待っているんだ」と言った。
「恋人さんですか?」
「ううん、そんなんじゃない。高校からの親友」
困ったなあと言いたげな睦の表情を見て、美沙が言っていた「高校時代にいつもふたり一緒に行動していた先輩」のことだとピンと来た。
でも大学生にもなって、親友とそんなにも毎日一緒に過ごそうとするだろうか?
「あの、図々しいと思いますけれど、私も連れて行ってもらえませんか」
どうしてもその相手を見てみたいと思った。けれど睦は明らかに戸惑っている。怯みながらも引かずに黙っていると、睦は仕方ないなと言うようにため息をついた。
「人見知りする人だから愛想はないし、話も弾まないと思うよ」
「あ、えーと別に長居はしません。もうすぐバイトなので、ご挨拶だけできれば」
それなら……と頷くも、睦はまだ不安げに“隅カフェで待つ友だち”について説明した。
一見にこやかにしているけれど、踏み込まれることを嫌がるので余計な詮索はしないで欲しい、人嫌いなので何かきついことを言われても気にしないで欲しい、パソコンで文章を書いている時はあまり話しかけない方がいい……など。
友だちなのにずいぶん気を遣うんだな、と咲良は思ったが黙って聞いた。
閉店直前の人気のない隅カフェの、さらに二階の薄暗い端の席にノートパソコンを開いた芽久瑠がいた。そこだけ空気が変わって学内のざわめきが突然遠ざかったように思えた。
「芽久瑠、この子、学部委員の後輩で伊藤咲良さん。ちょっと同席してもいいかな」
呼ばれて坂口芽久瑠が顔を上げた。
この人が。高校時代、ずっと睦さんと一緒にいて、ただならぬ仲だと言われたという、超美人の坂口芽久瑠さん――。
確かに芽久瑠は美しかった。睦のことをタンポポの綿毛のように可愛らしいと咲良は思っていたけれど、芽久瑠はまるで咲き誇るカサブランカの大輪のようだった。漆黒の長髪。薄暗い店内で青白く発光するような肌。目も鼻も唇も完璧な位置に完璧な形で納まっている。薄いブルーのシャツワンピースを着て化粧も控えめなのに、まるで女王のようだ。芽久瑠の黒真珠のような目で見つめられ、咲良は緊張して喉が一瞬でカラカラになったのを感じた。横では睦がはらはらしている様子で見守っている。来なければよかった。やっぱり睦さんと坂口さんの間には入っちゃいけないんだ……。
その時、ふわっと芽久瑠が微笑んだ。
「ああ。前に睦が言っていた元気が良くて人なつこい後輩さんね。名前まで可愛らしいのね。よろしく、法学部三年の坂口芽久瑠です」
たった一度の微笑み。それだけで人の心を鷲掴みにする魅力が芽久瑠にはあった。
そして睦が芽久瑠に心を奪われていることも、その時咲良は悟ったのだった。
睦の心配をよそに芽久瑠はなぜか咲良を受け入れ、またカフェに来るように言い、実際に行くととても喜んだ。何気なく咲良が「どんな文章を書いているんですか?」と聞くと、夢坂るる名義で小説を書いていることを小説投稿サイトを見せながら教えたので、睦は仰天した。それまで芽久瑠が小説を書くことは睦とふたりだけの秘密だったという。睦が少し不満そうな顔をするのを見て、咲良は慌てたほどだった。
咲良が隅カフェへ行くと芽久瑠はパソコンから目を離し、話を聞きたがった。
「小説家の芽久瑠さんからすれば、私の話なんて平凡すぎて面白くないと思いますけれど……」
「面白いよ。私は睦とふたりきりで過ごしてきたから、普通の高校生とか大学生の女の子が毎日何をしているか知りたいの」
「わかった。小説のネタにするんですね」
「まあ、そういうのもあるかも。それで、放課後はどんな所に行くの? 友だち同士で旅行に行ったりした?」
朗らかに笑う芽久瑠を見ていると、睦から聞いたように人嫌いとは思えなかったけれど、そのうち咲良は気づいた。
芽久瑠の瞳から一切の熱を感じないことを。
「咲良、すごいじゃん。坂口先輩と小坂先輩の間に入れる人物なんて、初めて見たよ。一体どうやって取り入ったの? コミュニケーションの鬼なの?」
と美沙は絶賛したけれど、咲良は複雑な思いを抱いていた。
睦は委員会ではリーダータイプではないものの、ふんわりした笑顔でみんなをサポートし、信頼を集め、慕われているのに、芽久瑠の前ではひたすら彼女の顔色を窺っているのだ。
芽久瑠の小説は趣味の範囲を超え、アニメの二次創作や創作百合のアンソロジーへ次々に参加している以外にも、個人支援サイトで毎月支援者限定の小説を公開しており、締め切りに追われている時の芽久瑠は神経を張り詰めていた。そんな時、睦は飲み物や芽久瑠が欲しがった資料などを届けたりする以外はほとんど喋らず、自分も読書や課題をしながらそっと彼女を見守っている。芽久瑠を見つめる目は明らかに心酔しているものだった。
最初感じた、ふたりは恋人同士なのではないかという疑いは消えたが、睦はまるで芽久瑠という蜘蛛の巣に囚われているかのように見えた。芽久瑠が睦に向ける目は、咲良や他の人を見る目とそう変わらないというのに。
確かに芽久瑠は睦以外を寄せ付けなかった。昼間、講義の合間に見かけることはあったけれど、そこにいながらひとり異次元を歩いているようだった。もちろんクラスメイトたちに話しかけられたら明るく返しているけれど、見えないバリアを張り巡らせているようだった。きっと彼女はこうして生きてきたのだ。美沙は咲良が芽久瑠と睦の間に入っていると言ったけれど、決してそうではない。咲良はあくまで周辺にいるだけであり、芽久瑠の内側に入るのを許されたのは睦だけなのだろう。
でも、睦さんは芽久瑠さんの影のような存在のままでいいのだろうか――そんな疑問が大きくなっていくにつれ、咲良は芽久瑠と睦がふたりでいるのを見るのが辛くなっていった。
九月の学祭に向け、委員会は本格的に忙しさを増していった。咲良は睦と共に渉外担当となり、卒業生のいる企業を中心に協賛金を募ったり、パンフレットに載せる広告を印刷会社と調整したり、学長や歴代の委員長からの祝辞原稿を集めたりと内容は多岐に亘った。それだけ睦と一緒にいられる時間は長くなり、咲良は嬉しかった。
普段シャイで物静かなのに、睦は企業訪問する時はスーツを着て、紹介された担当者へ学祭や協賛広告枠についてのプレゼンを堂々と行うので、咲良は感心した。
「睦さん、本当にすごいです。もう社会人みたいです」
感激した咲良が言うと、睦は途端に恥ずかしそうに顔を隠した。
「そんなそんな。私も去年までは先輩がしてくれたのを見ていただけ。今年は私が一番上だし、咲良ちゃんが来年後輩に教えられるように頑張らないと」
学祭委員は三年生までで終了する。こうして一緒に活動できるのもあと少し、そう思うと咲良の胸はズキンと痛んだ。
九月の学祭は木曜日の前夜祭に始まり、日曜日まで盛大に開催された。
人嫌いの芽久瑠は当然ながら一度も姿を見せなかったので、咲良はたまに美沙が顔を出した時以外は、睦にくっついて回った。
前夜祭では何十年も受け継がれてきた、学祭の象徴であるキャンドルツリーと呼ばれる巨大な古木が体育館中央に置かれ、各学部委員の代表が百本以上ものろうそくを取り付け、順に火を灯した。古めかしい蝋だらけの巨木が幻想的に揺らめき、まるで生き物のように見える。委員たちは自分たちの仕事の合間にシフトを組み、短くなったろうそくを取り替えながら火が消えないように夜中も番をした。
咲良はもちろん睦と同じシフトを希望した。ふたりの担当は土曜の夜中だった。時間より早く体育館に集合してキャンドルツリーの様子を見ていると、遅れてもうふたり別の学部委員が来たものの、咲良と睦が真面目に火の番をしているのを見ると隅に座り込んでスマホゲームに興じていたので、結局ずっとふたりでツリーを囲んでいた。
薄暗闇の中、揺らめく無数の火を囲んでいると、自然と語りたい雰囲気になっていく。
「今まで伝統とか受け継ぐとかあんまり考えたことがなかったけれど、このキャンドルツリーは時間の重みが感じられて……今の時間もツリーの時間に重ねられていくんですね。本当に素敵だと思います」
「咲良ちゃん、ここまで本当によく頑張ったからそう思えるんだよ。初めての活動だったのにすごく成長したと思う」
「そんな。私は睦さんについていくだけでしたから」
「ううん、咲良ちゃんってすごくしっかりしているし、視野が広くて空気をさっと読むから、私、一緒にいて何度も助けられたよ。きっとたくさん気を遣ってくれたんだよね。来年はもう幹部にもなれると思うよ」
「来年……」
その時、睦はもういない。
もう二年早く生まれていたら、同級生としてもっと仲良くなれたかも知れなかったのに。
せめてもう一年早く生まれていたら、二年間一緒に活動できたのに。
「でも先輩として言わせてもらうと、そんなに空気ばっかり読んで、自分の気持ちを押し殺しちゃだめだよ。時には自分のやりたいようにしたっていいんだよ」
咲良は突然こみ上げるものを感じた。
「――それは睦さんじゃないですか」
「え?」
涙声の咲良に驚いて睦が覗き込んでくる。でも暗くてその表情はよく見えなかった。
「今のままでいいんですか? 芽久瑠さんに囚われているままでいいんですか?」
ああ、言ってはいけないことを言っている、そう咲良は思ったけれど止められなかった。
「本当の睦さんは学部委員での睦さんだと思います。みんなのことをよく見ていて、困っている子を助けてあげて、交渉する場では綿密に準備してプレゼンして、自分の意見もきちんと言えて、頼りがいがあって、みんなに慕われる……それが本当の睦さんの姿です。だけど芽久瑠さんといる睦さんはいつも気を遣って、まるで影になったみたいで……自分の気持ちを押し殺しているのは睦さんじゃないですか」
「な……に言っているの……私とるるの間のこと、何も知らないくせに」
睦の身体は震えていた。
「はい、知りません、でも――睦さんが芽久瑠さんを好きなのはわかります」
「!」
息を飲んだ睦の顔が青ざめたのが薄闇の中でもわかった。
「それ以上言わないで……」
消え入りそうな声で言う睦の姿が辛いのに、咲良は黙ることができなかった。
「芽久瑠さんは誰も好きにならない。だから睦さんは芽久瑠さんが好きなのに、ずっと自分の気持ちを押し殺してきたんですよね? でも、それでいいんですか? 睦さんは幸せなんですか?」
睦は無言で立ち上がった。その目から怒りがあふれていた。
ああ、怒らせてしまった。こんなに大好きなのに。
去ろうとする睦の手を咲良は必死で握りしめた。
「私は睦さんが本当に好きなんです」
握りしめた睦の手がびくりと震えた。
「わかっています、睦さんは芽久瑠さんだけを好きなんだって。私を好きになってくれなくてもいいんです。でも、睦さんは芽久瑠さんから自由になるべきです」
睦は咲良の手を強引に振り払うと、足早に体育館を出て行った。
それきり、睦は委員で咲良と顔を合わせても彼女を避け、そのまま引退を迎えた。そして咲良も隅カフェに行くのを辞め、ふたりが会うことはなくなった。
*
隅カフェに続く通路で、咲良は立ち止まった。
ちょうどカフェから睦が出てくるところだった。太ももまでのダウンコートと足首までのファーブーツに挟まれたデニムの脚が、以前より細く見えた。黒く染められ、前より伸びた髪は就職活動用だろう。咄嗟に物陰に隠れようかと思ったが、先に睦が咲良を見つけて意外にも気さくな様子で近づいて来た。
「久しぶり、咲良ちゃん」
「お……お久しぶりです」
「るるに呼ばれてきたんでしょう? 上で待ってるよ」
「ありがとうございます」
「それじゃ、私はバイトだから」
まるで何もなかったかのように、ふんわりした笑顔の睦はひらひらと手を振りながら咲良の横を通り過ぎた。
咲良の胸が苦しいくらい鳴っていることなんて、睦は気づきもしないだろう。
これだけは。これだけは言わなきゃ。
咲良はスタスタと歩いて行く睦の背中に声を掛けた。
「睦さん、あ……あの時は、ひどいことを言って本当にごめんなさい」
立ち止まった睦はゆっくりと振り向いた。
「よく知りもしないのに睦さんの心を踏みにじるようなことをして、本当に申し訳ないと思っています」
――睦を傷つけた罰を受けなければと咲良は思っていた。
だからもう、睦を視界に入れることすら自分はしてはいけないのだと考え、睦がいそうな場所は徹底して避けてきた。
「いいんだよ、もう。でも、謝ってくれてありがとう。私も黙って置いてけぼりにしてごめんなさい」
睦はそう言うと、近づいてきて咲良に手を差し伸べた。
「もしできるなら、また隅カフェでいろいろ話せたら、私は嬉しい。私もるるも、咲良ちゃんの話を聞くのが大好きだから」
「ありがとうございます……」
咲良は涙をこらえながら睦の手をそっと握って放した。
好き。やっぱり好き。今でも。
「――黒髪も似合っています」
「ありがとう。就活用」
睦は照れくさそうにくしゃくしゃっと髪をかき上げた。
「就活、頑張って下さい」
頷いた睦に会釈をすると、咲良はカフェへと入った。
二階の奥のいつものテーブルに、テキストとレポート用紙を広げた芽久瑠がいた。
「あら、早かったのね。睦に会ったんじゃないの? わざと時間を教えたのに」
「お気遣いいただいたのはわかりましたが、でも私も、久しぶりに睦さんを少しでも見たかったんです」
「見るだけでもよかったの? 本当に健気ね、感動する」
芽久瑠が感嘆したように言った。もし他の人が同じように言ったのなら、バカにされたように感じるかも知れない。けれど、芽久瑠の言葉は心からのものだった。それが本当に彼女が誰も好きにならないことの証明のように咲良は思った。
「睦と話せた?」
はい、と頷くと座るように促され、咲良は芽久瑠の向かいの椅子に座った。
「まだ好きなの?」
「直球ですね。――振られてから頑張って忘れようとしていたんですけれど、そうみたいです」
「私は咲良の一途なところがすごく好き」
「私は芽久瑠さんを好きじゃありません」
「そうそう、私を好きじゃないところも好き」
それは本心なのだろうと咲良は思った。
自分を好きじゃない人が「好き」。
芽久瑠の「好き」は恋という熱を帯びたものではなく、可愛い洋服を見つけたような、好ましい、側に置きたいというものだ。その最たる存在が睦なのだろう。
ただ、睦は芽久瑠には気づかれないように抑えているけれど、恋愛的に好きなのは咲良の目には明らかだった。
自分を好きじゃない人が好きという芽久瑠の側で、睦はどれほど自分の思いを押し殺し、親友としての枠内に留めてきたのかと思うと、改めて咲良は切なくなった。
「はあ、どうも。あの、なんで私を呼び出したんですか?」
「特に何か話題があるわけじゃないの。ほぼ目的は達成したし」
「目的?」
「うん、それにしばらく顔を見ていなかったから会いたいなと思って。咲良は元気だった? 最近はどうしていたの? 話を聞かせてよ」
「愉快な話じゃなくてもいいですか?」
「咲良が話したいのなら」
それなら、と咲良は気になっていたことを切り出す決意をした。
「今日はなんでパソコン開いていないんですか」
芽久瑠は苦笑いして、手元のテキストに目を落とした。
「……テスト前だからだよ」
「もしかして、ですけれど。<うたかた>のせいじゃないですか? 最近、小説の更新、止まっていますよね」
芽久瑠に「夢坂るる」について教えてもらって小説を読み始めてすぐ、登場人物ひとりひとりの心の機微まで丁寧に描く彼女の物語に咲良は魅せられた。もともと小説好きな咲良は初めて読む百合小説に夢中になった。少女たちの切ない恋心に睦に恋している自分の届かない思いを重ね合わせ、両想いになった少女たちの喜びに涙が出るほど感動してそんな未来を夢見た。
無料公開されているものを数日で読み切ると、夢坂るるの支援サイトの有料会員になって限定公開された小説も全て読んだ。アカウントは芽久瑠に知らせているから支援者になったことを芽久瑠は驚き、喜んだ。咲良はブックマーク・星付けはするものの、公の場で感想という自分の思いを公開するのは苦手なので、芽久瑠に会えた時に直接伝えている。けれど、他の人のコメントを読み、共感したり違う視点を得て新鮮に感じたりするのは楽しみで、小説のコメントが増えるとまめに覗いていた。コメントを書く人たちはみな夢坂るるの大ファンでほぼ決まったメンバーなので、咲良でもアカウント名を覚えている。そこに、一ヶ月ほど前に突如「うたかた」というアカウントが現れた。
芽久瑠の目が憂鬱な影を帯びていた。
「……気づいていたの?」
「あんなに執拗にコメントを書くのっておかしいですもん。最近は小説と関係ない内容も多いし。SNSにも来てますよね」
「咲良が気づいていたのがなんだか辛いな。それじゃ、他の読者さんもわかっているよね」
「そうだと思います。睦さんも気づいていたでしょう?」
「うん。相手をしたらだめと言われたんだけれど、うたかたさんも理解してくれる時もあるから、落ち着くように話せばなんとかなると思っていた。他の読者さんも見ているかも知れないし、今までどんなコメントにも返信してきたからできるだけそうしたかったし、いい感想だけを喜んで、指摘を受け入れないなんて狭量な人間にはなりたくなかった……」
芽久瑠は苦しそうに言った。
うたかたが最初に書きこんだコメントは<夢坂るるさんの描く物語、紡ぐ言葉が大好きです。応援しています>という至極好意的なものだった。
芽久瑠は実生活こそ人嫌いだけれど、夢坂るるとしては読者をとても大切にしていた。小説を書くことを大切にしているからこそ、その世界を理解し応援してくれる存在を特別に感じるからだろう。
「私の読者さんはいい人たちばかり」
とよく芽久瑠は嬉しそうに言っていた。
だから、夢坂るるはうたかたの最初の言葉にもとても喜んだ。夢坂るるは、読者が書き込んだコメントには同じかそれ以上の量の文字数で返信する。それがうたかたは嬉しかったのだろう、やり取りは次第に長文になった。
すっかり夢坂るるのファンを自称するようになったうたかたは他の作品も次々と読み、小説を書き始めた当初の今は忘れ去られたアニメの二次創作まで絶賛する感想を書き込んでいき、有料支援者になり、やがて新作には誰よりも早く感想を書き込むようになったので、咲良もその存在に気づいた。
うたかたはコメント内で自分についても事細かに書いていくので、芽久瑠よりずいぶん年上の――親世代と言ってもいいような年代の一人暮らしの女性であることが読み取れた。うたかたは時間があれば夢坂るるのサイトやSNSに現れ、だんだんと良識的なファンの域を超えた書き込みをするようになっていった。
それまでにも批判的なコメントを咲良も見かけたことがあった。けれど、こんなにも偏執的につきまとうアカウントは初めてだった。
<るるさん、今日も更新お疲れさまです。でももっと早く寝ないといけないですよ。昨日も睡眠三時間くらいでしたよね?>と母のように心配する時もあれば、<今日の更新はいつもより少なくて物足りないです>と責めたり、<ちょっとありきたりな展開ではないですか? あなたならもっとうまく表現できると思ったのに期待外れ>と批判したりと発言内容はコロコロ変わり、辛辣な表現も増えていった。
それでも夢坂るるは<お気遣いありがとうございます><これからも頑張ります>などの最低限の返信を続けていたが、一週間ほど前に一切の返信を辞めた。
「もともと熱心に読んでくれたファンだったから、だんだんひどい発言になってきているのはわかったけれど、対話すればわかってくれるんじゃないかなと思っていたの」
「芽久瑠さん。ほとんどのファンはいい人だけれど、うたかたは明らかにおかしいです。話が通じない人とはわかり合おうとしても無理なんだと思います」
「そうかもね。私に限界が来ていることが睦にわかって、もう返信するなって何度も言ったから辞めたの。でもそうしたらもっとひどいコメントが来るようになった」
相手にされなくなったうたかたは察するどころか、コメント内容をエスカレートさせていった。
<何故、無視するのですか?>
<夢坂るるはファンを無視する最低な人間>
<好意的な感想には媚びを売るのに作品を良くするための提言は切り捨てる。そんな人は成長しません>
<あなたはまだ学生だからわからないのだろうけれど、こちらはあなたの活動に金銭を支払っています。その金銭に見合った分を返すべき。それが社会のルール>
<運営に告げ口しても無駄ですよ。私は間違ったことを言っていますか? 私はあなたのために、あなたの誤りを正してあげているのです>
「書き込みだけじゃなくて、DMも来ていた。直接話したらわかり合えるから電話してくれとか、無視し続けるなら大学や自宅を特定して、こんな女同士の破廉恥な小説を書いているとばらしてやるとか言い出して」
「もうそれ犯罪ですね」
「うん。そうしたら、睦が直接話し合うって言って、数日前から自分のアカウントでうたかたとDMでやり取りしている」
咲良は夢坂るるのサイトをスマホでチェックし、「それでうたかたのコメントが止まっていたんですね」と言った。
「うん、DMも止まったよ」
「さすが睦さん……このまま落ち着くといいですね」
「でも睦が心配。あの子、就職活動でストレスも抱えている上に、こんなことまでして。ネットでのやり取りとか慣れていないだろうし」
「睦さんは多分、芽久瑠さんが思うより強くてすごい人ですよ。学部委員の時なんて、社会人相手に堂々とプレゼンして協賛金獲得していました」
渉外担当として企業回りをしていた睦のはつらつとした姿を思い浮かべて咲良は言った。それに、強くなければ六年も芽久瑠に片思いを続けられないだろう。
「そっか。咲良は私が知らない睦を知っているのね」
そう言った芽久瑠は少し寂しそうに見えた。
「睦ね、就職活動が順調ではないみたいなの。でも私は就職しないし、うまく励ませない。それどころかこんなことで睦を心配させている。だから咲良が睦を支えてあげて」
「私なんてまだ一年で、就職活動のことなんて何もわからないです……」
「でも、きっと咲良の方が私より本当の睦の姿を知っていると思う。睦が自分に合う仕事を見つけるアドバイスができると思う」
「私なんかにアドバイスなんてできますかねえ」
「できるわよ。私、咲良の話を聞いているとどんな時だって気持ちが明るくなるの。咲良は不思議な力を持っているんだから。ねえ、またここに来て前のようにおしゃべりしてよ。そうしたら私もまた小説が書けるかも」
「やっぱり、私の話はネタ用なんですね」
大げさにいじけた表情を作って言い返すと、芽久瑠は笑いながら、「そうじゃないったら」と言った。
「私ね、今回のことを通して改めて思ったけれど、創作には意欲とか時間とかネタがあるだけじゃだめなの。心の中にふわふわした、夢を見るような部分がないと小説は書けない。咲良の話がそのふわふわの素になるの」
笑顔なのに、その奥に書けない苦しみがあるのを咲良は感じ取った。
「――私が芽久瑠さんの小説に役に立つならまた来ます。私は夢坂るるさんの小説のファンなんです。るるさんの物語を読んでいると、私もこんな恋ができたらと夢見心地になる。ああ素敵なお話だったと思って、また現実を頑張れる。だからこれからも大切に読んでいきたいんです。もしまた芽久瑠さんを傷つける人が現れた時は、すぐさま離れて下さい。そんな人まで受け入れなくてもいいし、切り離すことに罪悪感なんて持たなくていいんです。みんなを夢見心地にさせてくれる、芽久瑠さんの心を一番に大切にして下さい」
「優しいね、咲良」
芽久瑠の大きな黒い瞳から涙がこぼれたので、咲良は慌ててティッシュを差し出した。
「ごめんなさい、当人じゃないから言えることですよね。ひとりで戦ってきた芽久瑠さんは本当に大変でしたよね」
「ううん、ありがとう」
泣きながら不器用に微笑む芽久瑠が淡雪のように儚く見えて、咲良は初めて彼女を抱き締めたいと思った。
芽久瑠を守りたいと思う、睦の気持ちが少し理解できた気がした。
翌日の昼休み、咲良は期末テスト期間で賑わう学食前で睦を待ち伏せていた。
うたかたとどうなっているのか知りたかったし、昨日の芽久瑠についても報告しなければと思っていたのだ。
睦はひとりで現れ、咲良を見つけて少し笑った。
「昨日の今日で待ち伏せなんてすみません。芽久瑠さんにうたかたと睦さんが直接話し合っていると聞いて、心配になって」
夢坂るるへのうたかたのコメントは止まったままだったけれど、その分睦へ憎悪が向けられているのではないかと思うと、やはり心配だった。
「お昼まだでしょう? 一緒に食べる?」
「はい」
ふたりは並んで学食に入り、睦がラーメンを、咲良は親子丼を注文して向き合って座った。
「るる、うたかたについても話したんだ。咲良ちゃんのこと信頼しているんだね」
「いえ、私から聞き出したんです。るるさんの読者として気になっていたから。今もうたかたとDMしているんですか?」
「もうだいぶ落ち着いてきたよ。やり取り見る?」
もぐもぐと麺を食べながら睦はスマホを操作し、咲良に見せた。
相変わらずうたかたは長文だったけれど、睦は淡々と返信していた。
うたかたが夢坂るるのファンであることはわかっている。
でも、夢坂るるは未来あるアマチュア作家でありうたかたのための存在ではない。ファンだからといって何をしてもいいわけではない。
夢坂のためと正義漢ぶっているが、ただの自分勝手な気持ちの押しつけであり、迷惑であり、妨害である。夢坂が苦しんでいるのを理解できないうたかたの認知は歪んでいる。
うたかたの行為は創作活動を阻害するばかりか本人の学生としての生活を脅かすものであり、これまでの記録と共に投稿サイト事務局に報告済みである。夢坂るるから全ての媒体でブロックするが、今後一度でも別アカウント等で接触するなら警察に相談する。
これは話し合いではなく、うたかたを説得する目的はない。ただ警告するだけのための連絡であり、これ以上言うべきことはないので打ち切りとする。
うたかたはその後も何度か怒りを込めたメッセージを一方的に送ってきていたが、前日を最後にそれも途絶えていた。
「睦さん、すごい……これで終わるといいですね」
感嘆しながらスマホを返すと、睦はため息をついた。
「るるは中学生の頃、男の教師にストーカーされてひどく傷ついたことがあって……その話を聞いたのは高校でるると出会ってからだったから、過去に遡ってるるを助けたくてもどうしようもできなかった。だから今回、るるが苦しんでいるのがわかった時は私がなんとかしたかったんだ。でも……」
――私とるるの間のこと、何も知らないくせに。
告白した時、睦が言った言葉が蘇る。
咲良が黙って待っていると、睦は自嘲気味に続けた。
「でも、うたかたと話していて、私はどれだけうたかたと違うのかと思ったよ。うたかたは本当にるるのことが好きなんだ。だけどるるに拒絶されたから思いがこじれてしまった。私も同じようにるるを好きだけれど、咲良ちゃんに言われたように自分の本心を隠して、ただの友だちの振りをしてるるを独り占めしようとしてきた」
咲良は大きく首を振った。睦は自己犠牲と言えるほど、芽久瑠にひたすらに全てを捧げて守ってきたのだ。
「全然違いますよ。うたかたの好きは独りよがりです。芽久瑠さんを傷つけて大好きな小説を書けなくなるほど追いこむなんて、芽久瑠さんを好きならできない。けれど、睦さんは六年も芽久瑠さんのことも、小説を書くことも支えてきたじゃないですか。睦さんがいたからこそ芽久瑠さんは書いてこれたんだと思います」
「でも私は本当にるるの小説を支えているのかな? ――夢坂るるのペンネームの由来、知っている?」
「さあ……睦さんは芽久瑠さんのこと、るるって呼びますよね」
「うん。高校の時に私が付けた呼び名。みんなとは違う私だけの呼び名が欲しくて考えたら、るるに欲張りねって笑われたっけ。でもるるは私以外にるるって呼ぶのを誰にも許さなかったんだ。だから後で小説をサイトに投稿する時、ペンネームを夢坂るるにするって言った時は、本当に嬉しくてね。<夢>は私がいつもるるの小説が夢みたいに素敵だって言うから、そして<坂>はふたりの名字に坂が付くから。それで夢坂るる。るるにとって何よりも大切な書くことに私がずっと関わっていけるなんて幸せだと思った」
学食のざわめきの中、まるで目の前に高校時代のふたりが座り、感激した睦を実際に見ているかのように咲良にもその喜びが伝わってきた。
「でも、るるはどんどんファンが付いて、読者さんやSNS友だちからるるさん、るるちゃんって呼ばれるようになって、私だけの呼び名じゃなくなっちゃった。――小さいでしょ、私。るるが大好きな小説を書いてたくさんの読者さんに読んでもらえて嬉しい、誇らしいと思う一方で、結局私もうたかたのようにるるを自分だけのものにしておきたいという、やましい独占欲があるんだよ。好きって気持ちはお互いに同じように思わない限りは、自分勝手な押しつけだよ」
独占欲。好きという気持ちには必ずそんな側面もある。咲良が芽久瑠から睦を離したいと思ったのも同じだ、と咲良は思った。睦も芽久瑠もそんなことを望んでいないというのに、睦のためだと理屈を付けて自分の勝手な思いを押しつけてしまった。
「私だってうたかたのように、いつか押し殺してきた気持ちが爆発して、るるを思い通りにしようとして傷つけるかも知れない。それが怖い。私もるるを好きにならなかったらよかったのに……」
「確かに好きという気持ちが強くなると独占したくなるのはわかります。私も睦さんに言ってはいけないことを言ってしまいました。でも、睦さんは違う。そもそも、好きという感情には罪はないはずです、相手を思う気持ちなんですから。睦さんほど好きな相手に何もかも捧げている人なんていません。誰にでもできることではないです」
睦は黙って咲良を見つめた。その瞳が揺れていた。
「睦さんが一度でも芽久瑠さんを傷つけたなら、芽久瑠さんは今まで一緒にいなかったと思います。芽久瑠さんには睦さんが必要なんです。睦さんがいるからこそ芽久瑠さんは書けるんです。何の力もないけれど、私が保証します」
ありがとう、と言った睦の声が掠れていた。
「咲良ちゃんは唯一、るるが会いたい、好きって言った子だから、そう言ってくれると嬉しい」
「私が芽久瑠さんのことを好きじゃないのがいいって言っていましたよ」
咲良が肩をすくめると、睦は苦笑した。
「それ、よく言うよね。SNSで仲良くする人も恋人がいる人ばかりみたい」
「自分を好きにならない人が好きな芽久瑠さんが睦さんを選んでるんです。睦さんは大丈夫、これからも芽久瑠さんを傷つけたりしない。芽久瑠さんを好きな睦さんが、私は好きですから」
勢いで言って、咲良ははっとして口を押さえた。
「あの、今のは告白じゃないです」
睦は吹き出して、親子丼冷めちゃうよと優しく言った。
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