昨日までの愛

おおきたつぐみ

第1話 睦

 ――冬の気配がする子だ。

 それが芽久瑠めぐるの第一印象だった。

 小坂むつみが高校の入学式で初めて出会った坂口芽久瑠は、暖かな春の日射しと期待に胸を膨らませた新入生たちのさざめきの中、ひとり青色の水彩絵の具を水に溶かしたような淡い影を纏っていた。

 すらりと伸びた背筋に、長い髪の一本一本に、繊細な指先に、霜が降りているような彼女の気配に目を奪われたあの時、すでに睦は恋に落ちていたのかも知れない。


 でもその気持ちは芽久瑠には決して知られてはいけなかった。

 なぜなら芽久瑠は誰のことも好きにはならない。それどころか、誰に愛されることも毛嫌いする。

 だから睦はそうと自覚した日から六年経つ今日まで、芽久瑠の横で思いを胸に閉じ込める――るる、大好きだよ。


「私、咲良さらのこと好きかも」

 芽久瑠がその人形のように整った顔を少し傾けて呟いた時、睦は飲んでいたコーラを吹き出しそうになった。

 一月、大学の隅にあるカフェは底冷えするのに、睦はつい冷たいコーラを選んでしまう。カフェと言ってもこんな午後の三時過ぎには売れ残りのフライドポテトとソフトドリンクくらいしか出さず、厨房は店じまいの準備をしており、店内は学生の姿はほとんどない。だから期末試験前で混み合う図書館よりも集中できるらしく、芽久瑠はよく二階でテーブルにノートパソコンを開き、課題論文や小説を書いていた。そんな芽久瑠の横で、バイトまでの時間潰しというのを口実にして本を読んだり課題を片付けたりするのが、睦は一日で一番好きな時間だった。

 その平和な時間を他でもない芽久瑠に突然壊され、睦は言葉もなく紙コップを置いた。動揺していた。

 芽久瑠が誰かのことを好きだなんて口にしたことは、今まで一度もない。

「……どうしたの、急に」

「外見も小動物みたいで可愛いし、元気でサバサバしてるのに性格も一途でしょ。睦のことがずっと好きだよね、あの子」

 芽久瑠は液晶画面から目を離して睦を見つめた。長く艶のある髪がさらさらと肩から滑り落ちた。外に降る雪が舞い降りたかのようなかすかな冷気を放ちながら。

 睦は胸がぎゅっと痛くなった。なぜ芽久瑠は恋と無関係な場所にいながら、他人の恋愛事情について敏感なのだろう。一途――それを言うなら、六年も芽久瑠に片思いしている自分は一体何なのだろう。

「知ってたの?」

「咲良は顔を真っ赤にして睦のことだけ見つめているから、私でもわかったよ。誰かを好きな子って魅力的に見える。でも最近ぱったり姿を見せないよね? ――もしかして振った?」

「……もう去年の夏のことだよ」


 ――私は睦さんが本当に好きなんです。

 わかっています、睦さんは芽久瑠さんだけを好きなんだって。私を好きになってくれなくてもいい。でも、睦さんは芽久瑠さんから自由になるべきです。


 咲良が泣きながら放った言葉が耳に蘇り、胸が痛くなる。

 あの時感じた怒りも、そして悲しみも。


「睦もずいぶん可愛がっていたから、付き合うのかなと思っていた」

「まさか。妹みたいに思えて可愛かったけれど、恋愛感情ではなかったよ」

「――私に遠慮したわけじゃなくて?」

「そうじゃないよ。別に……、好きな相手だったら付き合うし」

 それは精一杯の強がりだった。

 芽久瑠がいる限り、他の誰のことも好きになんてなれない。

 目を逸らし、押し殺してもどうしても消えない思い。

「それならいいけど」 

 芽久瑠は興味を失ったように呟くと、何事もなかったかのようにノートパソコンの画面を見つめながらキーボードの上で指を踊るように動かし始めた。


 芽久瑠はいつも夢のように儚く甘い百合小説を書く。

 読んだ人は誰でも、作者「夢坂るる」はどんなにロマンチックな恋愛をしてきたのだろうかとつい夢想してしまうだろう。

 けれども、本人は一度も誰かを好きになったことはない。

 睦はもうずいぶん前に芽久瑠に恋心を伝えることは諦めている。そうでないと、芽久瑠の側にはいられないからだ。閉じ込めた思いはいつか自然に薄れるだろうと思っていた。

 しかしそうではなかった。

 芽久瑠が男でも女でもいい、誰かと付き合い、幸せになったのを見れば無理に忘れることもできたかも知れない。けれど芽久瑠にはその可能性は皆無だったし、いつでも睦のことを唯一無二の親友として一緒にいたがった。そんな芽久瑠を前にすると、何もかも捨てても側にいて守りたいと思ってしまうのだった。


     *


 高校に入学した日、おそるおそる入った教室で、睦の隣の席が芽久瑠だった。

 春に一斉に飛び立つ蜜蜂のような新入生たちの賑やかなざわめきの中で、ただひとり冬の気配がした芽久瑠から睦は目が離せなくなった。背筋を伸ばしたまま座る長身の芽久瑠は気高い姫のようで、同じく背だけは高いけれど体幹が弱く、中学時代はバレーボール部に入っていたのにすぐ猫背になってしまうことにコンプレックスを抱く睦は、とてもじゃないけれど話しかけることはできないと思った。年を重ねるごとにごわごわして扱いが難しくなったくせっ毛も、男子のように大きな手足も芽久瑠に気づかれたくなかった。睦は自らを隠すようにより一層背を縮めながら、ちらちらと横目で見つめるだけが精一杯だった。

 他のクラスメイトたちは臆することもなく芽久瑠を取り囲んだ。芽久瑠は彼女たちの相手をそつなくこなしながらも深く仲良くならないようにしているようで、放課後や週末の誘いもやんわりと断り、休み時間になるとすぐに文庫本を取り出して読むようになり、だんだんとクラスメイトたちも芽久瑠に話しかけるのを遠慮するようになっていった。そうはいっても浮くわけでもなく、体育の授業などでグループになった子たちとは楽しげに参加するし、掃除や委員会活動などもメンバーとおしゃべりをしながらそれなりにやっていた。


「『星の雫』、読んでるよ」

 入学式から一ヶ月ほど経ったある日、意を決して睦は芽久瑠に話しかけた。

 え? と呼んでいた本から上げたその目の冷気に怯みながらも、睦は自分の持っている真新しい文庫本を芽久瑠に見せた。

「ごめんね、いつも熱心に何を読んでいるのか気になって、タイトルを見ちゃったの。それで週末に本屋さんで探して買って、読み始めたところ」

「そうなんだ」

 文庫本を見つめた芽久瑠の目が和らぎ、睦はほっとした。

「私はもう別のを読んでいるんだけれど……、『星の雫』、どう? 面白い?」

「うん。まだ始めの部分だけれど、主人公が恋愛だけじゃなくて勉強にもバイトにも熱心なところもいいなって思う……」

 言いながら睦は、なんて稚拙な感想なのだろうと恥ずかしく思った。もっと最後まできちんと読み込み、感想をまとめてから話しかければよかったと。

 それまでは必要がある時だけしか話したことはなかった。誰とも仲良くならない芽久瑠ががさつな自分を受け入れるはずはない、嫌がられるかも知れない、そう思っても彼女への関心は日々募るばかりだった。気の利いた話など自分にはできない。それなら、芽久瑠が読む本を読んでみれば近づけるかもと思ったのだ。それまでほとんど読書などしたこともなかったのに。

 しかし、睦の予想に反し、芽久瑠は心から嬉しそうに微笑んで頷いた。

「私もそう思う。百パーセント恋愛のお話って私、あんまり共感できないから。その先もすごく面白いから読んでみて。主人公がだんだんと葛藤を深めて、ようやく親と話し合うシーンが私は一番好き」

「そうなんだ……うん、楽しみに読むね」

「――初めて」

「え?」

「今まで何人にも話しかけられたし、その中には『何読んでいるの?』って聞いてきて、本を教えた子もいたよ。その子たちは『面白そう、私も読むね』って言ってたけれど、本当に読んで感想を言ってくれたのは、小坂さんが初めて」

 冬から一気に春の花盛りになったような笑顔だった。芽久瑠の感激がまっすぐ睦に届いて、睦は泣きそうになった。

「私の名前……覚えていてくれたんだ」

「もちろん。出席番号五番、小坂睦さん。私のひとつ前の出席番号で、隣の席の子。私のことをちゃんと知ろうとしてくれた人」

 友だちになろう、なんて言葉は必要なかった。その時から、芽久瑠は明らかに睦を特別扱いした。


「ねえ、芽久瑠のこと、<るる>って呼んでもいい?」

 暑くなってきた頃、睦が思い切ってそう言うと、芽久瑠は「るる?」と言って、砂糖菓子を見つけた子どものように瞳をきらめかせた。

「なんだかとってもメルヘンで私には可愛すぎない? どうして?」

「みんなが芽久瑠とかめぐって呼ぶでしょう? 私は、私だけの呼び方で呼びたいの」

 手に汗を握りながら必死で訴える睦を見て、芽久瑠は面白そうに笑った。

「睦ったら欲張りだね。いいよ、じゃあ睦にだけ、<るる>呼びを許可するよ」

 だからといって、芽久瑠は睦に同じように唯一の呼び方を望むわけではなかった。自分の思いはやはり一方的なものだと睦は再度認識するしかなかったけれど、胸から喜びが溢れ出そうだった。

 それでも実際に、芽久瑠と睦の会話を聞いた他の子が「え、るるって呼ぶの可愛い。私も呼んでいい?」と言った時、芽久瑠は即座に断った。

「だめ。それは睦専用の呼び方だから」と――。

 その思い出だけで一生生きていけるとまで睦は思えた。

 でもその時は、本当はまだいつの日か、思いを芽久瑠に伝えたいと夢見ていたのも事実だった。


 芽久瑠は文章を書く才能に長けていた。授業で書いた作文がよく褒められ、一年のうちからいくつもの高校生向けコンテストに先生の推薦を受けて応募し、次々に入賞すると、次第に同級生だけではなく上級生たちにも一目置かれる存在となった。

もともと美しさで注目されていたのもあり、校内での存在感が増すにつれ、芽久瑠に恋する生徒が増えていった。告白のために芽久瑠が呼び出される時、そうと感じ取った睦は胸がかきむしられるような思いに苛まれ、彼女が自分の元へ帰ってきてどうなったかを聞くまで一瞬も安心できなかった。

 けれど、告白された芽久瑠は、冬のような気配を一層強くさせて押し黙るばかりだった。


 その日も芽久瑠が放課後に呼び出されたので、睦は玄関で待っていた。

 人気がなくしんとした廊下の先にある体育館からバレーボール部やバスケ部のかけ声やボールの音が聞こえ、四階にある音楽室や屋上からは吹奏楽部がパートごとに分かれて練習する音が響いている。

 もともと睦は高校でもバレーボールを続けるつもりだった。中学に入学した時、背の高さで勧誘され、深く考えずに始めたバレーボールは才能があるとはとても思えなかったけれど、続けていればそれなりにはなっていく。特に他にやりたいこともないし、芽久瑠のように抜きん出た才能もなく、親も継続こそ力と言っていたからバレー部への入部届も書いてはいたけれど、芽久瑠が部活はする気がないと話しているのを聞いた時に入部届は捨てた。

 親からは内申点が稼げないと怒られたし、一緒にバレーをしてきた中学時代の友だちからも裏切りだと責められたけれど、睦は曖昧な言い訳で逃げ続けた。ほとんど芽久瑠に話しかけられなかったうちから、睦は時間が許す限り、彼女をただ見つめていたかった。


 傘立てに腰掛けながら、今日こそ芽久瑠が告白してきた相手と連れだって現れたらどうしようかと睦は考えた。その時は置き忘れられた傘のように見向きもされなくなるのだろうか。

 小さな足音が聞こえてきて、睦はそっと靴箱の影から廊下を覗き見た。芽久瑠がひとりで歩いてくるのを見て、睦はほっとして姿を現した。

「るる」

 目を上げて睦に気づくと、芽久瑠は不機嫌そうに視線を外した。

「待ってたの? 先に帰ってよかったのに」

「また……告白された?」

「うん」

 どうだった、とは聞かなかった。断ったからこそひとりで来たのだろう。こんな苦々しい顔で。

「じゃあ、帰ろうか。自転車取ってくるからちょっと待ってて」

「うん」

 秋の夕暮れは流れるように夜へと色を深めていく。部活に入っていないふたりはいつも、芽久瑠が乗る電車の駅まで一緒に歩いて帰った。自転車通学の睦は自転車を押しながら。芽久瑠は電車で三十分かかる場所から通学していた。


「――なんでみんな、好きって気持ちを押しつけてくるんだろう。そんなに恋は優先すべきものなの?」

 それまで黙っていた芽久瑠が、突然呟くように言った。まるで自分のことを言われているように思えて睦はぎくりとしたけれど、芽久瑠はあらぬ方向を見つめて話し続けた。

「中学の時、先生に好かれちゃったの。担任じゃなかったけれど、二年で国語を受け持たれた先生で、独身でわりと背も高かったから女子たちに人気があってね。最初は文章をすごく褒めてくれて嬉しかったし、他の子に優越感を持ったのも事実。でも、高校受験の特別対策として遅くまで残されて車で送られたり、休みの日にも感性を磨くためだと言って、コンサートとかお芝居に連れて行かれたりするようになって、食事も一緒にして、どんどん負担になっていった。家に送り迎えに来る時に親にもちゃんと挨拶するから、親も信頼しちゃってね。ふたりで出歩いているところを誰かに見られたらどうするのかって先生に聞いても、ニコニコしながら問題ないって言うの。確かに直接手を出すわけじゃない。好きだと言うわけでもない。だから私も逃げたくても、どうしたらいいかわからなかった」

 よどみなく話す芽久瑠は秋夜の下、冷静な表情に見えたけれど、全身を真っ白な霜に覆われたように心を閉ざしていた。

 芽久瑠は睦に向かって話しているのではなかった。ただ誰にも言えなかった苦しい思い出を吐き出しているのだ。


「でも一番許せなかったのは、作文の指導の時に、こういうことを書かない方がいい、こういうことを書くべきだってだんだんとコントロールしようとしてきたことだった。言う通りにすると満足そうだったけれど、私の書きたいものを通そうとするとすごく怒った。でもそんなの私の文じゃない」

 その時の怒りを思い出すかのように、芽久瑠の目は険しく光った。芽久瑠にとって書くことはそれほどに大切なことなのだ。

「それでもう我慢できなくなっていった頃、私と先生が怪しい、付き合っているって噂が流れて、担任に呼び出されたの。洗いざらいぶちまけたら彼も認めたらしくてすぐに辞職した。先生のファンだった子たちからは私のせいだ、誘ったのは坂口だろうとこそこそ言われたけれど、私はようやく先生から解放されてほっとした。でもそれから一ヶ月くらい経った日、塾の帰り道で彼が待ち伏せしていたの。気づかない振りをして通り過ぎようとしたら、今でも大好きだ、なんでわかってくれないんだ、裏切り者ってわめいて追いかけてきて。怖かったけれどなんとか家に帰って親に言ったら、親はすぐに警察を呼んで、私の家の近くをうろついていた彼は逮捕された。実際はすぐ保釈されていたけれど、先生を逮捕させたって噂されて、完全に孤立した」

 だから、芽久瑠はこんな遠い高校へ進学したのか。

「みんな勝手に好きになるくせに、こっちにも好きになれって迫ってくる。けど、私にはその好きっていう気持ちがわからない。いろんな感情がある中で、なんで恋愛感情は相手に伝えるべきだ、成就させるべきだとみんな思っているの? でもそれって自分勝手な押しつけじゃない。告白されて断ると、じゃあ誰が好きなんだって言われる。私は誰のことも好きにならない。そう言うと、そんなはずない、嘘つきって言われる。私はそんな自分勝手な気持ちなんて持ちたくない。好きになられるのも大っ嫌い」

 芽久瑠は肩を震わせていた。

 だから、クラスメイトと深く関わらないようにしていたのか。誰からも好かれないために。だから、いつも冬の気配を纏わせていたのか。冬の気配――それは芽久瑠の傷だったのだ。


 睦にも芽久瑠を恋い慕う気持ちは理解できた。芽久瑠の放つ強い引力のようなもの。誰のことも好きにならないというその性質が、皮肉にも芽久瑠を水晶のように曇りなく輝かせ、人の欲望を呼び寄せるかのようだった。

「――そうだね。恋なんてみんな自分勝手だよ」

 自分の思いをまるで磔にするように、睦は言った。

「るるはそんな自分勝手な思いに巻き込まれなくていい。私、るるには綺麗なものだけ見て、感じて、書き続けて欲しい」

「本当にそう思う?」

 芽久瑠はすがるように睦を見た。うん、と睦は頷く。

「私ができるかぎりるるのことを守る。その先生からも守れたらよかったのに……」

 芽久瑠の目から涙が流れた。彼女が何重にも身につけていた鎧の隙間から、何度も人の勝手な思いに傷つけられ、柔らかな心をへし折られた芽久瑠自身の姿が見えた気がして、睦は胸を衝かれた。

 生まれたばかりの恋は純粋に相手を思うものであっても、次第に欲が膨らんでくる。あふれる思いを伝えたい、同じように好きになってもらいたい、相手に触れたい、自分のものにしてしまいたい。その欲は確かに睦にもあった。

 でも一方で、睦にとって芽久瑠は崇高な女神のような存在でもあった。傷つくことなく、ぬかるみに堕ちることなく、美しい星空を見上げて好きな文を書いて欲しかった。

 自転車のハンドルを痛いほど握りしめながら、睦は心の底まで深く誓った。


 ――好きだというこの思いは、芽久瑠に決して悟られないように胸の奥に閉じ込める。私は絶対に芽久瑠を失望させたり、傷つけたりしない。

 だからどうか、側にいさせて下さい。芽久瑠を傷つけるあらゆるものから守ってみせるから。そのためなら、私は私の思いをなかったことにするから。


 その日から、芽久瑠は常に睦と一緒に行動するようになった。周囲も彼女たちのことはふたり一組と見なし、近寄りがたさもあったのか、芽久瑠が告白されるペースは落ちた。

 もちろん睦に構わず告白しようとする生徒はいたけれど、あえてその場にも睦はついていき、見える所で待つようにした。

 振られた腹いせにふたりの関係を揶揄するような噂を流す生徒もいたけれど、芽久瑠と睦は全く気にしなかった。

「こんなにるると仲良くなれるなんて思わなかった」

 そう言ったのは二年生になった春、また同じクラスになったのを喜び合った頃だった。

「でも未だに私なんかがるるの隣にいていいのかな、とは思うけれど」

「何言ってるの」

 芽久瑠は睦とふたりの時は、その冬のような気配をだいぶ和らげるようになった。

「睦は思慮深い人だよ。私の話を聞いても、一般的な枠にはめたり、こうすべきだったとか余計なアドバイスをしないで黙って聞いてくれた。中学の時に打ち明けた担任や親にはお前も隙があったとか散々余計なことを言われて、私悔しかったもん。だから、睦がそのまま私の話を受け止めてくれて、すごく嬉しかった。睦が親友で嬉しい」

 芽久瑠はそう言って、実は小説を書いているのだとさらに秘密を打ち明けた。今度は少女らしくはにかみながら。その小説は芽久瑠に勧められて睦も夢中になったアニメの二次創作で、主人公である女の子と親友の女の子との恋愛を描くものだった。

 スマホで書いているという小説を一読した睦は興奮を抑えられなかった。

「すごい、るる、プロみたい。面白いしキュンキュンする」

「本当? よかった。小説を人に見せるのは初めてだからすごく緊張した」

「やっぱりるるは文章がうまいね。私にとっては売っている小説と同じ……ううん、それ以上だよ。私もミカとマナが実はお互い好きなんじゃないかってピンと来ていたんだ。でも公式じゃもちろんそんな設定はないから、ほんのちょっとの百合っぽいシーンだけで妄想するしかなかったのに、こうして小説で読めるんだから、最高」

「やっぱり、睦もミカマナ派だと思ってた! ミカがエイジのこと好きになるなんてあり得ないと思うんだよね、あんな筋肉と明るさしか取り柄がないような薄っぺらいヤツ」

「だよね。でも、ちょっと意外……るるが恋愛小説を書くなんて。しかも百合……女の子

同士の」

「ああ、私が恋愛嫌いだから?」

 芽久瑠はクスッと笑った。その表情が大人びていて、つい、ドキリとしてしまう。

「男の人は何考えているかわからないし乱暴だから苦手だし、男女どちらにしても私に向けられる恋愛感情は嫌だけれど、女の子同士が純粋にお互いを想い合う関係は素敵だなと思うの。繊細で、わがままで、一途で、純粋な女の子の気持ちがわかるのは女の子だけだよ。すれ違いもあって、でも強い思いで結びつく、友情のような恋愛のような関係が私は好き。そんな小説を書いている時、手の中の綺麗なスノウ・ドームの中を見ているような幸せな気持ちになるの」


 ――そう、だから期待してはいけない。

 芽久瑠はあくまで小説を書く点においてだけ、女の子同士の恋愛が好きなのだ。

 だからそれからも睦はただ、良き読者として芽久瑠の物語を愛した。


 芽久瑠の書く小説が五本目になった頃、睦はWeb小説投稿サイトで公開するよう勧めた。芽久瑠は最初は腰が引けていたものの、そのサイトで他のアマチュア作家たちの小説を読むうちに自分も小説を発表してジャンルを盛り上げたいという気持ちが強くなり、アカウントを作ることを決めた。

「アカウント名がペンネームになるんだよね? 何にするの?」

 睦が聞くと、芽久瑠はもう考えてあるの、とスマホを操作して画面を見せた。小説投稿サイトの設定画面には、「夢坂るる」と表示されていた。

「るる……るるにするの?」

 驚いた睦に、芽久瑠はにっこり笑って見せた。

「うん、いろいろ考えたんだけれど、ずっと私が小説を書くのを応援してきてくれた睦が付けてくれた<るる>は外せないって思ってた。それに、いつも睦は私の小説を読むと夢のように素敵って言ってくれるでしょ。その<夢>と、私たちの名字に共通で付く<坂>を合わせて、<夢坂るる>。どう?」

「すごくいいと思う……」

 言いながら睦は泣けてきて仕方がなかった。

 どうしたの、と慌てた芽久瑠に聞かれても、その気持ちを表現する言葉がなかなか見つからなかった。ただ、ありがとうと何度も言った。

 芽久瑠にとって一番大切な「文章を書く」こと。そこに、ただ隣にいるだけの自分の存在を刻み込んでくれたことが、本当に嬉しかった。



 その春から四年が経ち、芽久瑠と睦は大学三年の冬を過ごしていた。

 側にいると決めた気持ちは変わることはなく、睦は芽久瑠が志望した大学を共に目指した。同じ学部までは無理だったけれど、それでも必死に勉強したかいがあり、こうして睦は今でも芽久瑠と約束しなくてもほぼ毎日会う日々を続けていた。

 ただ、学部が別になったことで当然それぞれの時間や人間関係は増えた。

 そのひとつが睦が入った学祭の学部委員であり、そこで昨年出会ったのが二年後輩の咲良さらだった。

 芽久瑠はサークル活動には一切興味は持たず、Webライターのバイトをしながら小説を書き続けていた。三年生は就職活動の時期に入っていたけれど芽久瑠は就職はせず、実家で小説投稿サイトでの広告収入と、個人ファンサイトでの支援金、Webライター業で生活しながら商業作家を目指していくと早々に決めていた。「夢坂るる」は今やアニメの二次創作小説に留まらず、創作百合小説ジャンルでもそれなりに人気があるWeb作家になっていた。小説コンテストにも何回か応募し、最近も最終選考まで残ったから、そう遠くないうちに商業デビューもするだろう。

 睦は地元での就職を目指して活動していた。もちろん芽久瑠の側にいるためだ。数社のインターンシップにも参加したけれど、ピンと来る会社はなかった。就職サイトをチェックしているうちに気になる企業がいくつか出てきたけれど、それらの企業は東京採用で全国転勤ありだった。睦にとっては芽久瑠の側にいることが一番大切だった。一緒にいるからこそ、芽久瑠に無遠慮に近づこうとする存在から守り、芽久瑠が気になる映画や美術展に一緒に行って感想を語り合い、芽久瑠が書く小説を読んで感想を伝え、行き詰まるようならアドバイスする。

「睦はただの読者じゃない。<夢坂るる>の編集者だよ」

 と以前、芽久瑠が言ってくれたけれど、離れたらそうはいかないだろう。一緒にいるからこそ睦は芽久瑠にとって意味があるのに、本格的な就職活動の解禁前とは言え、なかなか思うように進まない状況に睦は焦っていた。


 いつも通り夢坂るるの小説投稿ページをチェックし、おかしな感想が付いていないか確認する。夢坂るるの作品に人気が出てくるにつれ、たまに批判的な感想が付くこともあった。あまりにも荒唐無稽な中傷でない限り、どんなコメントにも芽久瑠は丁寧に返信した。批判的な感想はほとんどが一度の書き込みで終わっていたが、一ヶ月ほど前に偏執的なアカウントが現れ、睦は気を揉んでいた。

 芽久瑠を傷つけるような書き込みがないことにほっとしつつ、続いてSNSアプリを開き、DMが届いていないのを確認してからタイムラインを見ると、「そらこ」が春のイベントで出すアニメの二次創作百合アンソロジー本について書いたツイートに夢坂るるがリプライしてやり取りを続けていた。パソコンで小説を書きがてら、SNSにも顔を出しているのだろう。

 そらこは専業百合作家で、芽久瑠とはとあるアニメの二次創作で出会った。三十代の彼女は長年小説を書き続けているベテランで、多くのファンがいる。過去に小説コンテストで入賞し、人気漫画やアニメ作品のノベライズ化も何度か担当し、世界観を大切にしながらもエモーショナルで心を打つストーリー展開は好評を博した。それでいながら気さくな人柄で、芽久瑠がアカウントを作った当初から夢坂るるの小説に目を留め、ファンだと公言して拡散させた。今の夢坂るるの活躍は芽久瑠の才能や努力はもちろんだが、そらこの存在によるところも大きかった。

「そらこさんとまた合同本を出すの?」

「うん、あと真璃杏まりあんさんを誘っているんだって」

「ふうん……支援者限定の小説も公募用の作品も抱えているのに、そんな時間あるの? あなたたちほんと仲いいよね」

 多少の嫉妬を含んでいることを自覚しながら睦が言うと、芽久瑠はパソコン画面から目を離さないまま口元に微笑みを浮かべた。

「そらこさんは彼女と仲良く同棲しているから、私を絶対に恋愛対象にしない。だから一緒に活動していても楽なの。ちなみに真璃杏さんも公にはしていないけれど、長年付き合っている彼女と最近同棲始めたらしいから安心だし」

 

 睦はふと思った。

 もしも咲良や、他の誰でもいい、恋人ができたなら、その時ようやく自分は芽久瑠にとって安心でき、純粋に頼れる相手になれるのではないかと。

 とは言っても、もちろん睦だって好きでもない相手とは付き合えない。睦にとって芽久瑠は初恋だったから、キスはおろか誰かと手を繋いだことすらなかった。

「時間大丈夫?」

 芽久瑠に言われて再びスマホを見ると、スーパーのレジ打ちバイトの時間が迫っていた。

「ほんとだ、行かなきゃ。じゃあ、気を付けてね。そんなに遅くならないうちに帰って」

 芽久瑠にいつもと同じように声を掛けて立ち上がる。

「うん。ねえ睦、私、咲良と話してみてもいい?」

 リュックを背負いかけた睦は、予想もしなかった言葉にはっとした。

「――そんなに咲良ちゃんが気になるの?」

「会えないと思ったら顔が見たくなった」

「……別に私が許可することでもないよ。るるがしたいようにして」

 苛立ちが声に滲んだだろうか?

 そのまま睦は芽久瑠に背を向けて離れた。

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