終章 幸せな順番

その次の日曜日。祥子さんは小田原駅へ向かうため、東海道線の富士駅へ行った。もともと東海道線は人の多い路線であったが、その日は特に人が多かった。

とにかく、着物で遠方へで出るなんて初めてのことだ。お父さんとお母さんは、彼女のこの大冒険を暖かく迎えてくれて、気をつけていってこいなんて行ってくれたけれど、あの祖父は、何も言わないで、祥子さんのことを終始無視していた。聞こえているのか聞こえていないのか、祥子さんの話が伝わっているのかいないのかよくわからないけれど、祥子さんは、祖父の事は、もう無視されてもいいやというつもりで、駅へ行ってしまった。

駅の階段や改札口、ホームへ行く階段など、着物で行くと、全てが新しく見える。階段がどうしても大変そうなときは、エレベーターやエスカレーターなど利用したが、これらがあって良かったとおもうほど、ありがたいものに感じられた。

とりあえず、富士駅発、熱海行の電車にはすぐ乗れた。電車はさほど混雑していなかったし、座席に座ることもできた。人が多かったけど、それはできたので祥子さんは、それはありがたいことだと思った。近くの席に座っていた外国人のおじさんが、可愛いねと言ってくれて、祥子さんの着物姿を褒めてくれた。今日の祥子さんの着物姿は、小さな花がらを全体に敷き詰めた青色の、小振袖だ。振袖の仲間であるが、腰から膝の間に袖が収まっている着物である。小振袖というようになるには、袖が丸みのある振袖の形をしていなければならない。そして、一枚の絵になっているような柄配置をした絵羽柄と、同じ柄を繰り返して入れる小紋柄の小振袖とある。

祥子さんは、熱海駅まで乗った。乗客は、三島駅まではほとんど増えなかったが、三島駅に到着すると、どっと増えた。その中には、洋服の人も要るけど、着物の人が少しいた。みんな立派な柄の着物を着て、一重太鼓をしっかり背中に背負っているので、祥子さんはちょっと尻込みしてしまった。でも、その人達は祥子さんの事を悪く言うことはしなかった。祥子さんは、それでちょっと、ホッとした。

熱海駅に着いて祥子さんは、高崎行の快速電車に乗り換えた。それは思ったより大変だった。洋服であれば簡単に行けるようなところが、着物だと不自由で意外に難しい。急いで階段を駆け下り、別のホームに移動して、電車に乗るという行為がその最たるものだった。当たり前のことが着物では大変である。でも祥子さんは、これで着物を諦めるという気持ちはなかった。だって自分をこれだけ変えてくれた着物だもん。それは大事にしたいと思った。

そうこうしているうちに電車は小田原駅へ着いた。祥子さんは、改札を済ませて、箱根登山線のホームへ行った。そこに香西さん、植松淳さん、聡美さん夫婦が待っていた。

「よくいらしてくれましたね。着物では大変だったのではないですか?」

香西さんが祥子さんに言った。

「いえ、大丈夫です。あたしは、こう見えても着物が好きですし、それは、苦になりません。」

祥子さんは、すぐにそう返した。

「しかし、祥子さん、かわいいわね。やっぱり若い人は違うわあ。小振袖なんて、私にはもう着れないもの。振袖はやっぱり未婚女性の醍醐味よね。結婚しちゃうと、そういう事はできなくなるからね。」

にこやかに笑って、植松聡美さんがそういった。植松聡美さんは素直に感想を言ってくれたのであるが、ちょっとそれは祥子さんの心に刺さった。植松淳さんが、あまりそういう事は言わないほうがいいと注意をしてくれて、聡美さんは、

「ごめんなさい、調子に乗りすぎたわね。でも、今日の着付けはいいわよ。きっと、誰かになにか言われても、きっと大丈夫よ。」

聡美さんは、そんな事を言っていた。

「誰かになにか言われるって?」

と、祥子さんが聞くと、

「ああ、あのねえ、着物ポリスとか、着物代官とかそういう人がたまにいるのよ。帯が着物にあってないとか、着物の季節が合わないとか、着物の格が美術館には足りないとか。」

聡美さんは、大きなため息を着いた。

「人の服装にいちいち手を出すなと思うけどさ。なんか中年おばさんって、いちゃもんつけるの得意よね。中には、勝手に襟を触って、整えてくれる人も要るのよ。全く、着物だったら、他人の服装に手を出していいのかとでも思ってるのかしら?」

確かに着物代官になにか言われる可能性があるのは、祥子さんもよく知っていた。

「人に言われると、困るものよね。なんか、ありがたいって感情はわかないでさ。それより、着物の着付けを直されて、大きなお世話って気持ちになっちゃう。それを、平気でいられる人は果たして居るのかしら?」

「聡美さん、そろそろ、電車の時間ですよ。」

香西さんに言われて、聡美さんは、

「あらやだ。ごめんなさい私ったら。」

と、急いで切符売り場に向かった。

「すみません、着物を着ると、異様に饒舌になりまして。」

植松淳さんが、そう祥子さんにいうほど、聡美さんはそうなってしまうくせがあるようだ。

「いえ、大丈夫です。今日は、着物で出かける日でしょ。特別な日じゃないですか。だから楽しく過ごしましょ。」

祥子さんがそう言うと、

「そうですか。普段から着物を着ていると、特別な日だとは思えないですけどね。」

と、植松淳さんが小さな声で言うのだった。それと同時に、香西さんの合図で、一行は箱根登山線のホームに向かった。箱根登山線は、結構頻繁に走ってくれているものだ。電車に乗り込んで、しばらく揺られていると、終着駅の強羅駅につく。強羅駅も、観光客で賑わっていた。そこの近くにある、カフェでお昼ごはんを食べて、香西さんが呼んでくれたタクシーで、箱根ガラスの森に向かった。運転手は、皆さんは今日なにかあるんですか?と聞いてきたけど、もう祥子さんは、こういうふうに言われて当たり前だということがわかっていたから、嫌な気持ちは起こらなかった。

「それではガラスの森に着きましたよ。ガラスの展示会を、楽しんでください。」

「ありがとうございます。」

香西さんに言われた額を、祥子さんたちはそれぞれ払い、タクシー代を払った。香西さんが帰りも載せてくださいと言って、領収書を受け取り、タクシーはわかりましたと言って、走り去っていった。

祥子さんたちは、ガラスの森にはいった。ガラスの森となっているが、実際にはガラス工芸を中心に展示してある美術館である。中にはミュージアムショップやカフェも併設している。祥子さんたちは、そのガラスを使った生活道具や、装飾品の数々を見て回った。本当に、人間の作る力はすごいものだと思った。着物もそうだけど、ガラス瓶の中に船の模型を入れるボトルシップなども、人間の手先の器用さを、証明するものだった。きっとこんなすごいものを作るには、ものすごい根気がいるに違いない。

祥子さんが、ボトルシップを一生懸命眺めていると、声がした。

「ちょっとあなた。」

中年のおばさんの声である。

「あなたですよ。」

おばさんに言われて祥子さんは振り向いた。

「はあ、何でしょうか?」

「はあじゃないでしょう。今どき、小振袖をこういうときに着てくるなんて場違いでしょ。それに着付け方もちゃんとできてないし。どこで勉強されたの?」

おばさんの格好は、洋服で、スーツ姿だった。それなのに、なんで人の着物のことに、そうやって話しかけてくるのだろうか。香西さんも、植松さん夫妻も別の展示物を見ていて近くにいなかった。文字通り、祥子さん一人だけの状態だった。

「この着付け方、ちゃんと衣紋が抜けてないし、衿芯もはいってないじゃない。それでは、着物としてだらしないわよ。気をつけなさい。」

祥子さんは、なんでこんな事を言われなければならないのか、よくわからないままそれを聞いていた。スーツ姿のおばさんは、祥子さんの着物姿をきれいに直そうとしてくれたのであるが、

「あの、やめてください。」

祥子さんは言った。

「あたしが、師弟関係にあるわけでも無いし、他人の着物にいちいち手を出すことはないと思います。洋服だって、他人の洋服に指示を出したりしませんよね。それは、私だって同じです。だから、指示を出さないで下さい。」

それを、植松さんたち夫妻が、にこやかに見守ってくれていた。

スーツ姿のおばさんは、祥子さんの発言を受けて、

「何て子だろ。」

と小さい声で言って、祥子さんのまえから立ち去っていった。もう、話を聞かないのかと思ったのだろうか。嫌そうな顔をしているけど、祥子さんは、それも気にしなかった。そして祥子さんは、ボトルシップの前を離れ、別の展示物が置いてあるフロアに行った。他の客はこのやり取りを見ているわけでもなく、手を出してくれるわけでもなく、拍手をしてくれるわけでもない。だから、自分だけがよくやったと自分を褒めてやるしか無いのである。祥子さんは、よくやったと、心の中でガッツポーズをした。

思えば祥子さんが他人の反抗するなんて、本当に一度か二度しかない出来事だったかもしれない。今までは従順に、周りの人の話を聞いて、そのとおりにすればいいとしか思わなかったし、そうすることが一番良いことだと思っていた。そのためには、嫌なことでも従わなければならないと思っていた。でも、祥子さんは、今は違ったようだ。本当に自分を守るためであれば、誰かに反抗してもいいと言うことを祥子さんは初めて知った。そういうことも必要なのだと。

祥子さんが、展示物をすべて見終えて、美術館の出口へ出ると、香西さんたちが待っていてくれた。四人でカフェに寄って行こうと言われたので、祥子さんは、カフェに行った。そこでコーヒーを注文してみなで飲んだのだが、祥子さんはこれを、初めて反抗した、勲章のようなものだと思った。そこで飲んだコーヒーは、とても美味しくて、ちょっと大人っぽい味がした。カフェにいる人達も、みな高齢の人たちばかりであったが、祥子さんはそれを全く気にしなかった。

コーヒーのお金を払って、香西さんがもう一度タクシーを呼んだ。数分後にやってきたタクシーで、一行は強羅駅に戻り、祥子さんたちは、また箱根登山線で小田原駅へ戻った。今度は、みなで一緒に帰ろうと言うことになり、祥子さんたちは、同じ電車で富士駅へ戻った。富士駅へ戻る電車に乗るのもまた大変ではあったけれど、祥子さんはもう大変だとか、嫌だとかそういう事は思わなかった。

富士駅に着いて、香西さんたちはバスで、祥子さんは、タクシーで自宅に帰った。この旅は、全て一人でやらなければ、祥子さんは気がすまなかった。なんだか最後は親にやってもらうというのはちょっと気が引ける気がしたのだった。家の近くにあるコンビニでおろしてもらい、祥子さんは歩いて自宅に帰る。えらく歩いたせいでちょっと足が痛かったけど、快い疲れだった。

自宅前につくと、祥子さんは、玄関ドアの前で一つため息をついた。そして、急いで玄関のドアをギイっと開けて、

「ただいまあ。帰ってきたわよ。」

と勢いよく自宅にはいった。家はまた変な雰囲気になっている。祥子さんが急いで部屋に入ると、お父さんと祖父がテーブルで向かい合っていた。お母さんが祥子さんに気が付き、

「おかえり。着替えておいで。」

と言ってくれたけれど、祥子さんは、

「一体どうしたの?」

と聞いてみた。それと同時に、お父さんがこう言っているのが聞こえる。

「だから、いいじゃないですか。石村さんは、そんな事する人ではありませんよ。それより、彼女の就職をお祝いして上げるべきなんじゃありませんかね。それは、お父さんだって嬉しいことじゃないですか?なんでそんなに保証人になることを反対するんですか?」

石村さんという人は、祥子さんも知っている。彼女のお母さんが、フラワーアレンジメントの教室をしていたから、祥子さんのお母さんもそこへ通っていたことがある。そのアレンジメントは素晴らしく美しいもので、コンクールで賞を取ったこともあるくらいなのだが、祖父は、そういうものに打ち込んでいる彼女の家が大嫌いなのだった。そして、その石村さんの娘さんが、祥子さんと同じように、就職に失敗して、自信を失い、引きこもるようになったというのも、お母さんに聞いたことがある。お母さんは、石村さんに、ケーキをあげたりしてお付き合いを続けているようであったが、祖父は、そういうやつは役に立たないから、付き合うなとお母さんに怒鳴りつけていたことがある。

「お父さん、聞こえているんですか?黙ってないでなにか答えてくださいよ。僕が石村さんの保証人になると言ったらああして怒鳴りだして、さんざん困らせて置きながら、僕の質問には答えないなんて、ちょっとおかしいですよ!」

お父さんがそう言っているが、祖父は答えなかった。お母さんが祥子さんに、

「石村さんのお嬢さん、就職することになったんですって。それで、働くから、お父さんに保証人になってくれって、今日電話があったのよ。なんでも、花屋さんで働くことになったらしいわ。それなのにおじいちゃんときたら、いつもの通り、そんな馬鹿なことはやめろと言って怒鳴りだしちゃって。」

と状況を説明してくれた。祥子さんはこれでやっと何が起きたか理解できた。

「おじいさん。」

祥子さんは、そういった。

「私達の事、馬鹿にするのはやめてもらえませんか!私達は、一生懸命やっているんです。生活だって、何だって、みんな私達がしていることです。あなたは、ただ怒鳴れば、なんでも通用するとお思いになっているようですが、そのような事は、絶対にありません。仮にそういうことで通じる世の中であったとしても、そんな時代とうに消え去っています。少しは、自分の思い通りに何でもなるという姿勢を改めてください!」

きっと祖父は、私がこんな事を言っても、感情的になってもならなくても馬鹿にするのだろう。だけど、祥子さんは、着物代官を撃退したときのような気持ちでそういった。祥子さんは、着物を着ていることで、強くなれたような気がした。

やはり祖父は、答えなかった。聞こえているのか、聞こえないのか、それとも馬鹿にして聞こえないふりをしているのか、よくわからなかったけど、答えなかった。それが、年寄りならではのずる賢さというか、悪徳なところだった。年寄りであるからということで片付けられることも多い問題ではあるが、これはちゃんと解決しないと行けないような気がした。

「それでは、お父さん、一応石村さんの保証書は、書かせてもらいますからね。まあお父さんは、きっと精神疾患とかそういう事を理解しようとしてもできないでしょうから、人助けの事なんてできるはずもありませんよ。それはもうそれでいいです。けど、こちらも意思があってそのとおりにさせていただきますよ。いいですね!」

お父さんがそういう事を言った。祖父は、やはり黙ったままだった。

「もういいわよ。書いてしまいましょ。」

お母さんが、お父さんにボールペンを渡した。お父さんは、書類を書き始めた。祖父は、それを自分が敗北したかのように眺めていた。そのようなことが絶対にないと思っていたことが、まるで現実になったような、顔をしている。

「じゃあ、これ明日石村さんのところに届けるわ。良かったわね。石村さんのお嬢さん。でも、これからが始まりよね。彼女、対人関係がうまくできないようだから。そこは、大きな障壁になるかな。」

「うん。まあ、何でも寛大にやっていくのが成功の秘訣なんじゃないのかな?」

お父さんとお母さんは、祖父の顔を無視して石村さんの話をしていた。

「祥子、今日の着物の会はどうだったの?」

不意にお母さんが言った。

「ああ、楽しかったわよ。まあ、着物代官っていうのはどこにでも居るから、人の着物におせっかい出すなと言ってやったわ。着物を着ているとどうしても直してあげたくなるのかしらね。まあ、でも、それも、そのうち、減っていくんだと思うわ。」

祥子さんはにこやかに笑った。

「そうか。祥子も強くなったね。」

お父さんが、不意にそういうのである。いつも居るようでいないお父さんが、そんな事を言うなんて、本当に珍しいことだった。祥子さんはびっくりして、

「今なんと言ったの?」

と聞いてしまう。

「成長しているじゃないか。祥子も、今までの祥子とは全然違うよ。それは嬉しいことじゃないか。祥子、着物を着るようになって本当に明るくなったね。」

お父さんはにこやかな顔で言った。

「また次のイベントも、楽しく行けるといいわね。祥子、その通りよ。着物代官なんて、大したことないわ。人の着物に当たり前のようにおせっかいするなんて、全く大きなお世話もいいところよ。着物は祥子が着たいものを着ればいいんだからね。」

お母さんもそう言ってくれた。この二人は、私が、着物を着るのを応援してくれていると祥子さんは思った。怒鳴ってばかり居る祖父とはわけが違うんだと祥子さんは確信した。

祖父は、お父さんとお母さんが、自分の方を向いてくれなくなったのか、それとも、単に呆れているだけなのか不明だが、テーブルから立ち上がって自分の部屋に戻ってしまった。その姿を見て、祥子さんはまだ年寄りが、元気で居るということがおかしいのだと感じ取った。本当は年を取って、歩くのが不自由になっていく。それが実現していくのは幸せな順番なのかもしれない。

「祥子、ご飯食べてきた?もしまだだったら、炊飯器にピラフがあるからどうぞ。」

お母さんがそう言ったので、祥子さんは、

「ありがとう。」

と言って、炊飯器の中身を取り出すために、椅子から立ち上がった。お母さんとお父さんは、祥子さんが、うまそうにピラフを取っているのを、幸せそうに眺めていた。もちろん、着物という今の時代には合わないものを選んでいるのかもしれないが、祥子さんは、嬉しそうで楽しそうに生活しているのだからきっと幸せなのだろう。




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幸せな順番 増田朋美 @masubuchi4996

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