第五章 着物で得られた幸せ

最近は、涼しくなってきて、外を出歩いて行くのも、楽になったようだ。それでは着物の季節ということになってきて、町中にも着物を着て歩いている人が、ちらりほらりと見かけられる。着物を着て、色んな所へ出没している人が見られるが、みなかっこいい老婦人という感じの人が多いということが共通していることだと言うことだ。

あの楽しい能鑑賞から、数日が経って、森田祥子さんは、いつもどおりに日々をこなしていた。といっても、日々をこなすというのは、意外にきつい作業でもあった。ましてや、働いていない祥子さんにとっては、小さな事が、大きなことになってしまうこともあるのだった。例えばお母さんと祖父がする小さな口喧嘩だって、祥子さんには、それがすごい辛いことでもあるのだった。

今日も、祖父が、病院のこととか、薬の副作用のこととか、やたらうるさく言う。お母さんが、気にしすぎだとか、そういってなだめるけど、祖父の体の事を気にするのは、止まらないらしい。人というのは意思があって、それぞれ思う意思が違っていて、そこを「良い」と強調してくれる人も要るのではあるけれど、祖父みたいに、自分の体のことばかり気にして、他人を巻き込むのは、やめてもらいたい気がする。

なんであの人そうなっちゃうんだろ。よくわからないまま、祥子さんはいつもどおりの毎日を過ごすのだった。

その日も、着付けサークルは行われた。祥子さんは、いつもどおり着物を一式持って、カフェ木下に向かうのであった。カフェ木下に入ると、着物姿の、植松聡美さん、植松淳さんが待っていた。

「こんにちは。今日は、代表がちょっと遅れてくると言うことなので、ここで待たせてもらってるのよ。」

と、植松聡美さんが言った。

「それにしても、祥子ちゃん、きれいに着物を着られるようになったけどさ、この日は、着物の日として、着物で来ればいいじゃない?」

植松聡美さんの言葉に悪気は無いが、その言葉は祥子さんの心を刺した。植松聡美さんたちは、おそらく淳さんと二人暮らしだろうし、二人を邪魔する人もいない。そういうことであれば、誰にも文句を言われることも無いだろう。だけど、森田祥子さんは、そういう事はできないのだった。それは、祖父がいる限り、できることではないと思った。

「いえ、まだ正しく着付けを習っているわけじゃないし。」

祥子さんが答えると、

「ええ、それはちゃんとわかってるわよ。だけど、そんな事言ってたら、着物を着るのは着付け教室の中だけに限られることになるじゃない。それなら、私はちょっと着付けを習う意味が無いと思うわ。着付けは、高価なお免状をもらうためにあるわけじゃないし。それより、着物を楽しんで着るために、あるんじゃないの?」

聡美さんは、明るい顔をしてそういうのだった。

「そうかも知れないですけど、私は、着物で一般道を出るというのはちょっと。」

「はああ、着物代官とかそういう人が怖いの?そんなものは無視すればいいのよ。どうせ格が合わないとか、季節感が合わないとか、そういう事を言ってくる人は、つきものなのよ。それよりも、着物を楽しめるということのほうが大事よね。着物は、こうあるべきだって、概念を持ってたら、知識ばかり頭に詰め込んで、着ていくことなんてできないわよ。私は、少なくともそう思ってるわよ。こうじゃなくては行けないということは、どこにもないの。それより、楽しんで着ることが大事なの。だからそのために変化したって、それでいいと思うのよね。」

聡美さんは、明るい顔をしていった。

「着物を着ていれば、そういうこともわかるわよ。だんだん変わってくるものだから。着ているうちに、だんだん明るくなってくるわ。それは、私も、主人もそうだったから、ちゃんと立証しているのよ。」

「そうですよね。」

祥子さんは、小さな声で聡美さんに言った。

「でも、そういう事は、家族の許可を得ないとできませんよね。家族が、許可してくれて、みんなで納得してないと、先に進めない人だって要るんですよ!」

「そうかも知れませんね。」

と、植松淳さんが言った。

「確かに、家の人達の無理解で新しいことはできないと言うことはあると思います。人にひどいことを言われることだってあると思います。楽しい言うことは、そういう事を犠牲にして初めて成り立つものですよね。それを気にして引き下がるか、それとも、そのまま横車を押して意思を通すかは、あなた次第です。」

「あなた次第って、私にはどうしてもできないこともあります!できないでそのままでいるしか方法もないこともあります。人に話せば悪いことをしていると取られるから話しては行けないし、だから一人でじっと耐えているしか無いこともあります。それに、幸せな人には、幸せな状態がずっと続いて、私のような人には、絶対幸せがやって来ないこともまた事実です。」

祥子さんは思わず抱えていた本音を話してしまった。誰も彼女の発言に手を入れなかったので、彼女は興奮してそのまま話してしまった。

「だいたいね、人間の幸せなんて不公平なんですよ。だって私は、何も悪いこともしていないのに、仕事だってできないし、家の中では、変な序列ばかりあって、あたしはそれに従わなければならない。他の人は自由だし、仕事もできるし、うるさい人もいないし、なんで自分のできることが自由にできるんだろうって羨ましくなった事は、いくらでもありますよ。あたしはなんで、幸せになれないんだろうって、何回も泣きましたよ。なんで、みんなと同じように幸せになれないんだろうって、二方とも考えたことないでしょうね?」

「そうですね。確かにそうかも知れません。いくらそういうことを否定しても、あなたに通じることは無いということもわかります。確かに僕もそう思うことがあって、左手があったらどんなにいいだろうなと思った事は何度でもありました。でも、無いものをねだっても、何の意味が無いから、諦めました。その代わり、手がないぶん、新しい事をしようって決めたんです。だから、こうして出かけられるのが嬉しいのかもしれません。」

植松淳さんが、彼女に淡々とした口調で言った。

「今はどうしても、変えることができないことだってあると思います。ただ耐えているしかできないことだって、あると思います。ですが、それが変わるようになるまで、待つことも大事なことです。制度が変わるとか、季節が変わるとか、そういう劇的な事じゃないかもしれないんですけど、でも変わることはあると思います。それを信じて待つことも大事なことなんですよ。」

「もう私は、疲れてしまって、いっそ、親や他の家族より、先に死んでしまいたい。だってこの先生きていてもろくな事はないし、私の人生は、きっと親を亡き者にしているとか、そういう批判ばかりで、結局ね、私は一生だめな女性であることで、終わるんじゃないかしら。だから、もうそんな事はどうでもいいです。早く世間のきつい目から逃れて楽になりたい。」

祥子さんは、思わずそういったのだった。それと同時に、香西さんが、カフェ木下にやってきた。どこまで彼女の話を聞いていたのかは不明だが、もう私は疲れてしまったという文句は聞いていたのだろうと思われる。香西さんは、

「それだけは、どうかやめてください。」

と優しく言ったのである。

「どうして?」

祥子さんがそう言うと、

「順番通りに、亡くなっていくことができないということは、本当に辛いんです。それは、当事者でなければわからないと思うけど、でも、それは本当に悲しいことなんです。だから、同じ悲しみを、森田さんのご家族に味あわせたくないです。それをさせないためにも、祥子さんも生きて上げてください。」

と、香西さんは、悲しい顔をして、祥子さんに言った。

「そんな事、関係ないじゃないですか。だって、親なんて、私の事はいつもいつも後回しだし、もう私の事なんて、どうでもいいんじゃないですか。私は、世間だって、いい評価をもらったことはないし、死んでしまったほうがいい人間なんですよ。」

祥子さんは、香西さんの言い方が嫌で、急いで言ったけれど、

「そうかも知れないですけどね。子供が親より先に逝ってしまうほど、悲しいことは無いですよ。そんな悲しいこと、おわかりになりますか?きっと、わからないと思うんですが。」

と、香西さんは言った。

「そんな事は、無責任なことじゃありませんか。どうせ、子供が欲しくて、勝手に作って、勝手に願いを託して、勝手に死ぬんでしょ。それでは、ただ大人の勝手なのぞみですよ。それより、子供のほうが後で辛い世の中を生きていかなきゃならないのをもうちょっと、責任持ってもらいたいわね。そういう覚悟がちゃんとできてから、子孫とかそういう事を考えてもらいたいものだわ!私の事は、どうでもいいだけで、全然私の方なんて、向いてくれないじゃない!私の事は放置しっぱなし。私は、もうどうでもいい、ただの親の高望みの飾り物よ!」

「それ、死んだ娘が、そう言ってました。」

香西さんは言った。

「遺書にはそう書いてありました。もう、自分は生きていかれないって、そう言ってました。なんで、これからを生きていかなくちゃならない人が、もう生きていかれないってそういう事を言うんだろうって、予想もしていませんでした。ですが、娘がそういったんです。親としては、なんでそういう幸せな事は、できなかったのかなと随分くやみました。それは、やっぱり、親としてあの子があの子のままでいてもいいんだって事を与えてあげるってことができなかったんだなと思います。」

「香西さん、ご自身を責めなくてもいいじゃないですか。誰かに頼っても良かったんですよ、香西さんは。そういう娘さんを、助けてあげられるような専門家を探して上げることだって、してあげても良かったんですよ。それを今、実現しているんだから、それでいいじゃないですか。」

植松聡美さんがそう言うと、

「いえ、やっぱりね、親として、無責任だとか、勝手だとか言われると、本当に悲しいんですよ。私達はそういう事を言われたくて、子供を作ったわけじゃないはずですもの。子供を作るときは、そんな事、これっぽっちもわかりませんでした。」

香西さんは言った。

「だから、今の言葉、あなたのお父さんやお母さんに向かって投げつけるのは、絶対にしないで上げてくださいね。もし、どうしても辛いことがあるんだったら、こういうところを居場所にしてくれてもいいし、なにか新しいものを見つけてもいいです。そうやって、親御さんに嫌気持ちがあったとしても、どこか新しいところで、のびのびとしてくれたほうが、親としては気が楽になるものです。」

「そんな事、香西さんに何がわかるんです。」

祥子さんは思わずそう言ってしまったが、

「香西さんは、一人娘さんを自殺で亡くしたのよ。それでものすごく後悔しているの。」

と、植松聡美さんはそっと呟いた。

「このサークルを作ったのも、娘さんへの懺悔の気持ちからだったんだそうです。着物を着たい、悩みがある人を助けていくことが、自分に課された宿命だと、以前話してくれたことがありました。そういう人たちに、自分の娘さんを連れて行くことができなかった、美術館や国立能楽堂などに連れて行って、罪を償っているんだと、話してくれたんです。口で言うことは、簡単ですけど、香西さんは、本当に悲しい気持ちで、やっている。それをわかってあげてください。そういうことって口に出して言わないとわからないものでもあるけれど、言えないことですよね。言えないことって誰でもあると思います。誰でもあるんです。そういう事は。」

植松淳さんが静かにそういう事を言った。

「でも、私の気持ちは、誰にも言えないというか、わかって貰えないんですよね。」

祥子さんが、涙をこぼしながらそう言うと、

「確かに、僕も左腕があったらと、何回も思ったけれど、人に言ったってわかってもらうことはできません。ですから、もう、それを口にすることは辞めることにしました。その代わりと言ってはなんですけど、それを音楽に託すことにしました。形になるとかならないとかそういう事はどうでもいいのです。ただ、書きたいというか、書かずにはいられないことでもあるんですよ。」

植松淳さんが彼女にそういった。祥子さんをからかうとか、そういう感じの雰囲気は見られない。ただ淡々と事実を言っているようなのだ。

「たまに、左腕が無いやつに、ピアノ曲なんて書けるのかと、批判されたこともあります。ですが、書かずにはいられないんです。だから、やってるんですよ。」

「そうよ。まあ確かに、多かれ少なかれ、誰かに関してつらい思いをすることはあると思うけどさ。それを無視して、すごく楽しそうにすることも、必要だと思うのよね。変えられない事は無視して、新しいことをやっていくことも、また、人生を生きていく一つの手よね。あたしたちは、着物を着ることでそれを得られたのよ。香西さんはそれを分けてやろうというつもりなんでしょうね。まあ、人に通じるか通じないかはわからないけど、そうしているんでしょうね。」

植松聡美さんが言った。

「誰か、一度でいいから、辛かったねとか、可愛そうだったねとか、そういう気持ちをわかってもらいたいですよ。あたしはなんで、そういう事が得られないのか、なんでこんなに寂しいのか、よくわからないんですもの。」

祥子さんはそういう事を言った。一番ののぞみはそれでもあった。香西さんは、申し訳ないというか、悲しい顔をして彼女を見つめている。そして、植松聡美さんがひとこと、

「大丈夫よ。」

と言って、植松淳さんが、

「なんとかなります。」

と小さい声で言った。

「さあ、前置きが長くなってしまったけれど、着物を着て楽しめる場所を探しましょう。今度は、皆さんの行きたいところをお伺いします。どこか言ってみたいところとか、そういう場所はありますか?美術館、コンサート、食事会、どこでもいいです。どこか行きたいところがある方は、仰ってください。」

香西さんが、涙を拭きながらそういった。植松聡美さんが、もう答えを考えてあったらしく、今度は箱根の美術館とか行ってみたいといった。植松淳さんも、腕がない人間に理解のある場所であれば行ってみたいといった。

「わかりました。じゃあ、箱根ガラスの森とか、そういうところに団体受付をしているかどうか、聞いてみますので、少しお待ち下さい。」

香西さんは、そう言って、スマートフォンを動かし始めた。聡美さんたちも、障害者割引のこととか、調べ始めた。

「それで、小田原駅の近くにレストランがありますから、そこでお昼を食べたらいかがでしょう。そこは、場所が広いから、障害のある方も結構来ているようですよ。」

植松聡美さんが言った。話は決まって、次の連休のときは、四人で箱根ガラスの森に行くことになった。植松さんたちはとても楽しそうだ。なんだかそんな事、なんで楽しめるんだろうかと、思ってしまうのである。ガラスの森のインターネット予約をして、その日は解散ということになったが、祥子さんとしてみれば、何しに来たんだろという感じだった。祥子さんはまた岳南鉄道に乗って、吉原駅経由で、富士駅に帰った。

祥子さんが、家に帰ると、また誰かが来ているようだ。誰だろうと思っていたら、補聴器の調性係だった。祖父が頼りないと言っている調整係だけど、ちゃんと仕事をしていると母は言っていた。居間では、聞こえるとか聞こえないとか、そういう事を祖父が怒鳴っている声が聞こえる。それを覗こうという気持ちは、祥子さんにはわからなかったが

「いい加減にしろ!いつまでこんな不都合を繰り返すつもりなんだ!周りの音ばかり聞こえすぎて、肝心の声なんて何もわからないじゃないか!」

と、祖父が怒鳴っている声が聞こえてきた。補聴器と言っても所詮は機械だ。完璧に聞こえる頃の聴力を再現できるわけではない。だけど、祖父はそこをわかる気がないらしく、怒鳴り続けているのである。補聴器屋のお兄さんだって、こんなことを言われたら頭に来るに決まっている。思わず、

「人間、完璧に聞こえる人なんていませんよ。どうせ聞こえても思っていることなんてわからないじゃありませんか!」

と怒鳴り返してくれた。どうせ祖父には聞こえないだろうなと思われるが、そういう事を言ってくれる人がいてくれてよかったと思った。もし、何でも祖父の思い通りになってしまったら、それは、本当につらすぎることだった。お母さんがそういう事は無理なのよ、と言い聞かせているようであるが、おそらく聞こえることはない。そんな祖父を変えるなんて無理な話だ。

そんなとき、祥子さんは、植松さんたちの言葉を思い出した。

「変えることができないのなら、新しいものをへ方向転換することも一つのやり方よ。」

改めてあの二人が、そう言ってくれているような気がした。

「そうか、新しいものへ方向を変えるというのは、こういうことなんだ。」

祥子さんは思わずつぶやくのだった。そして、今習っている着物というものを、自分の一部として使っていけたらどんなにいいだろうと思った。そうすれば、祖父に怯えている弱い自分は少なくともいないし、香西さんや、植松さんご夫婦という仲間もいる。それだけでも祥子さんは幸せだと思えた。祖父の理不尽なことで怒鳴り散らしているさまを見て嘆くよりも、着物を習って、新しい自分になったほうが、よほどいい。それは、自分のためだけではなく、家族のためでもあるんだ。祥子さんはそう思った。

そこで、祥子さんは次回の箱根ガラスの森への小旅行は、必ず出席することに決めた。この際だから、着物も新しくしたいと思った。着物は、またすごい安い値段で手に入るのだし、もう簡単に自分を変える手段が用意されている。それは本当に幸せなことだ。祥子さんは、そんな幸せができて嬉しいと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る