第四章 花筐を見に行く

その日も寒かった。急に、寒くなるということは、いいことなのかもしれないけれど、同時に悪いことを運んでくることもあるものだ。祥子さんの家でも、また、悪いことも起こる。

祥子さんの家でも、寒さで悪いことが起きた。

祥子さんが、朝起きると、いつもどおりお母さんがいた。お父さんは、その日も仕事ででかけてしまっていて、お母さんにすべてを任せきりだった。お父さんが、遠方で仕事をしているのは、そういうこともあるのかもしれない。単に職場が遠いからではなく、家の事とあまり関わりたくないから。それもあるんだと思う。

「ああ、おはよう。朝ごはんはテーブルの上に用意してあるから、手を洗ってからいただきなさいね。」

お母さんがやさしく彼女に言った。祥子さんは、ハイと言って、急いで椅子に座った。確かに、朝食べるための、ご飯と味噌汁はテーブルに置いてある。そして、小さな焼き魚まで。なんでこんなふうにうちはしっかり焼き魚を置いてあるんだろうと、祥子さんは思った。

「いただきます。」

と祥子さんは渋々ご飯を食べた。いつも朝ごはんが食べられるのはもちろん嬉しいが、でもその内容が、こういうものばかりだと、ちょっと嫌だなという気持ちになる気がする。

「そういえば、おじいちゃん遅いわね。」

お母さんが、朝ごはんを食べながら、そういった。

「ちょっと見てくるわ。」

お母さんはいつもそういう事を言う。なんでそんな事言わなきゃいけないんだろうと祥子さんは思うのであるが、でも、この家にいないと、行けないから、何も言わないで置いた。

お母さんが椅子から立ち上がったのと直後に、祖父がやってきた。なんだかとても苦しそうな顔をしている。

「おはよう。どうしたの?」

お母さんは、いつもと変わらずに言った。こんな顔の祖父を見て、祥子さんは何も言えない。お母さんがいつもと変わらずに言えるのが、すごいと思う。

「苦しい。」

と祖父は言った。

「わかったわ。じゃあ病院に行くから、ちょっと待ってて。」

お母さんは当たり前のように言った。それに対して、ありがとうも言わないし、よろしくねとも言わないのが祖父であった。行って当たり前、やって当たり前の人だから、お礼なんで言わないのだった。そして、お母さんは、実行しなかったら、祖父が親戚中に言いふらして、お母さんが悪人呼ばわりされてしまうのを知っているから、それで渋々祖父に従っている。本当は、お母さんだって、買い物に行かなければならないとか、色々用事があるのに、祖父の言うことに従わないと、親戚から吊るし上げられてしまうのが怖いから、祖父に従っているのだった。それを祖父は当たり前と思ってやっているのだから、もう祥子さんは、嫌で嫌で仕方なかった。

「とりあえず朝ごはんは食べてちょうだいよ。食べないと、力でないわよ。」

お母さんは、そういった。祖父は、いつもどおりご飯を食べた。本当は、そのお皿の中身を玄関先にでもぶちまけたいと祥子さんは思うのであった。

「じゃあ、朝一で病院に行くから支度してちょうだいね。時間に遅れると、また待たさせることになるわ。よろしくね。」

普段は、それを言えば祖父がわかってくれるはずだった。でも今日の祖父は、そうじゃない感じがした。

「いや、もうあそこの病院はやめる。」

「辞めるって、いつも薬もらっているのはあそこでしょ。他に病院なんて無いわよ。」

お母さんがそう言うと、

「いや、他にあるじゃないか。心臓に特化した病院を探すんだ。そして、そこで詳しく心電図とか取ってもらう。そして、異常があればそこに通う。」

と祖父は言った。はあ?という響きがあった。幸い、祖父がインターネットを使わないのが嬉しいところではあった。もし使っていれば、すぐに情報を見つけてここへ連れていけとか言って騒ぐに違いなかった。

「そんなところ、富士市にあるわけが。」

お母さんはそう言うが、

「弟に聞いたところ、今泉にある。」

という。確かに祖父の弟さんであるおじさんは、心臓が悪いのでそこへ通っていると聞いたことがあった。でも、それはあくまでも、心臓が悪いからそこへ通わされているのであって、自分で通いたいといい出したわけでも無い。

「だけど、おじさんは、心臓が悪いのは、健康診断で引っかかって、それで行き始めたの。そんなわざわざどこにも異常が無いのに、心臓の病院に行っても意味はないわよ。それより、いつも通っているところで薬貰えばそれでいいじゃないの。」

お母さんは、そういったが、祖父は、そういうときは、補聴器の電源を切ってしまうので、通じなかった。それでも、心臓の病院に行くと言って聞かなかった。

「この前の健康診断で、何も問題なかったでしょ。それなのに、心臓の病院に行っても意味はないわよ。ただ、診察してもらっても、何も無いからもう来なくていいって言われるだけよ。それに薬だって、どこの病院に行っても同じものが出るんだから結局、同じ結果になるわよ。」

お母さんがそう言っても、祖父は聞かなかった。それとも聞こえないふりをしているのだろうか。それともわざと聞かないで、自分の意見を押し通そうとしているのかもしれない。そんな祖父を見て、祥子は腹がたった。

「どうせ何も問題ないんだから、地元の病院に行けばいいだけじゃないの。薬だって、同じだし。それに今泉は遠いわよ。」

お母さんは嫌だと言うことはできないから、そうやって祖父の考えを変えるように言うのであるが、やっぱり人の話を聞かないし、若いやつの話なんて当てにならんとでも思っているのか、祖父は返事もしなかった。

「いい加減にしてよ!」

祥子さんは、思わず言った。

「いつまで人の話を聞かないつもりなのよ!お母さんだって、一生懸命やっているし、あたしたちはあたしたちで色々あって大変なんだから、もうちょっと人の話を聞いてちょうだいよ!」

「祥子!」

お母さんがそう言ったけど、祥子さんは怒りが収まらなくて、そう言ってしまったのだった。

「お母さんが全部あんたの事やってるじゃない。服を買うのも食べさせるのも、寝るのだってみんなお母さんが手配してるのよ!それに少しは感謝したことある?やって当たり前じゃなくて、少しはお母さんに感謝する気持ちを持ったらどうなの?挙句の果てに、そうやって親戚のおじさんおばさんには何もしてもらってないような事を言って、お母さんや私を悪人呼ばわりして!同じ家族とは思え無いわよ。あたしたちは、お手伝いさんとか女中さんじゃないわよ!」

祥子さんは、がなりたてるような感じで祖父に言った。もし、これが祥子さんではなく男性であったら、祖父の事を殴ったりしてしまっても仕方なかった。それくらい、祖父はお母さんに命令ばかり、馬鹿にしてばかりいたからだ。

「そういう事平気で言うんだったら、お手伝いさんを雇うとかすればいいでしょ。人にはやたら良すぎてものが言えないのにね、お母さんの前だけそう威張れるのよね!お母さんがどれだか苦しんできたか、考えてもないでしょ!」

祖父が人の前ではすごく、人がいいことは本当だ。家族にはやたらうるさいくせに、病院の先生や医療従事者には、素直に弱いところも言うし、何でも暖かく受け止めて、受け入れてしまうのであった。それを断れないので、もしかして家族に当たり散らすのかもしれなかった。

「なんでも家族が思うどおりになんて絶対ムリよ!あたしたちは、介護の専門家でも無いし、何でもあたしたちに押し付ければいいってもんじゃないわよ。なんであたしたちがそういう事を、されなきゃならないのよ!呆れてしまうわね。一体あたしたちを何だと思ってる?ただの付属品?手伝い人?それともお金を貸しているから、ありがたく思え?は?笑わせるんじゃないわよ。あたしたちは、お父さんとお母さんさえ居ればちゃんと破っていける。あんたはもう要らないの。そういう事言うんだったら、死んでくれたっていいわよ!」

「祥子!」

お母さんは祥子さんを止めた。

「お母さんも止めなくていいわよ。だって本当のことじゃないのよ。」

祥子さんはそう言うが、お母さんは、彼女の両手を握って首を横に降った。祥子さんからしてみればお金を借りているからこれ以上反抗するなと言っているようにしか見えないのだ。

「お母さん!」

祥子さんにしてみれば、お母さんがもっと反抗してもいいはずなのに。でも、お母さんはそうしなかった。

「祥子は気にしなくていいから、今日も着物の勉強ちゃんとやりなさい。病院は後でお母さんが連れて行くからね。」

お母さんは結局そういうことで片付けてしまうのだった。

気にしなくていいって、、、。私はお母さんのために役に立ちたくてそういっただけなのになんで?と祥子さんは思うけれど、お母さんは知らん顔して朝ごはんを食べ始める。祖父は祖父で、きっと働いていない小娘の言うことだからと言うことで、馬鹿にしているのだろう。やっぱり朝ごはんを食べているのだった。

「なんでこうなるのかな。」

結局祥子さんの怒りは誰にも受理されなかった。祥子さんは、そういう状況を、一人で我慢するしかなかった。怒りを止めるには、いつもどおり精神安定剤を大量に飲んでフラフラになることしかなかったのである。祥子さんは、ごめんなさいだけ言って、自室に戻った。そして、いつもどおり睡眠薬を大量に飲んだ。それしか彼女には気持ちを切り替える道具がない。リストカットとかもやったけれど、それでお父さんやお母さんが自分の怒りを受け止めてくれるわけじゃないから、祥子さんは睡眠薬を大量に飲むことで、怒りを沈めてきた。祥子さんは、睡眠薬を大量に飲んで、布団に潜り込み、意識がなくなるのをまった。本当は、そのまま死ねたらどんなにいいだろうと思う。それができたら、最高だ。でも今の睡眠薬ではそれは得られないことも祥子さんは知っている。頭がぼんやりして、だんだんに意識が薄れてきたら成功である。その快楽意識は、他の誰にも渡せない、最高の快楽であった。祥子さんは、それで意識がなくなって、何もわからなくなった。

祥子さんが目を覚ますと、もうお昼過ぎていた。お母さんの声はしなかった。多分、病院に行ったんだろう。今泉の病院に行ったのか、それとも地元の病院に行ったのかそれは定かではないけど、きっとまた異常なしで帰ってくるだろう。祥子さんは、寂しいと感じた。なんで、自分はこうなってしまうのか、見当もつかなかった。誰も自分の事を見てくれる人はいないのだ。お母さんも、結局祖父のご機嫌取りばかりで、私のことなんかどうでもいい。それが、彼女の家の現状だった。祖父のことばっかりで、私の事はどうでもいい。それがこの家だった。

ふと、祥子さんのスマートフォンがなった。誰だろうと思ったら、お母さんではなくて、香西さんであった。

「ああ、祥子さん、今度の日曜に国立能楽堂で行われる、能鑑賞会のチケットが取れました。来週の日曜日、新幹線の新富士駅に集合してください。よろしくおねがいします。」

メールにはそう書いてある。祥子さんは、それをすっかり忘れていた。そうだった。みんなで能を見に行く約束をしていたのだった。祥子さんは、気分も悪かったので、お断りしようと思ったが、でもスマートフォンを持ったては、自動的にこう打ってしまった。

「ありがとうございます。日曜日、新幹線の新富士駅に伺います。よろしくおねがいします。」

二本の手は、そう打った。すると、すぐに返信があって

「日曜の九時十分の新幹線で行きますのでお願いします。」

と出た。

祥子さんは、こうなったらもう行くしか無いと思って、

「何の着物で行ったらいいですか?」

と打ってしまう。

「はい。訪問着でも小紋でも、格の高い着物であれば大丈夫です。」

返事はそう返ってきた。とても新しい着物を買う勇気が出なかったので、祥子さんは先日美術館へ行ったときに着た、訪問着で行くことにした。祥子さんは、タンスにかけてあった訪問着を出し、フラフラしながら一階に行って、訪問着にアイロンを掛け始めた。それと同時に車の音がして、お母さんが帰ってきたのがわかった。玄関先で祖父が当然のようにはいってくる音が聞こえる。お母さんが、もう異常は無いんだから、通わなくていいわねという声も聞こえてくるけど、どうせ祖父のことだから、何も聞かないで、部屋にはいってしまうのだろう。無視して、アイロンがけを続けていると、

「あら祥子、どこかに行くの?」

お母さんの声が聞こえてきた。祥子さんは、日曜日に国立能楽堂へ行くと恐る恐るいうと、

「あら、良かったじゃない。じゃあ、新幹線のお代は出しておくから、思いっきり楽しんで行ってらっしゃい。」

とお母さんは行った。まるでそのような長期外出してくれるのを待っているかのようだった。祥子さんは、とても意外な顔でお母さんを見た。

「それでその着物を着ていくのね。それなら、良かったじゃないの。お友達ができてくれて良かったわ。家族では、遠方に出かけるなんてとてもできないことだから、そうやって企画に参加させてもらうことで、祥子はいろんなところにいってね。」

お母さんはそういうのだった。私の気持ちは、誰にも受け入れてもらえないんだと祥子さんは思った。同じに、気にしないというのは、人の事を無視して、なにかを進めていくことでもあるんだと、感じ取った。

「まあ、おじいちゃんの事は心配しないでいいわよ。今日は、何も異常はないって言われたんだし。そのうち大人しくなるでしょ。」

お母さんは何回も同じことをいう。根本的な事は解決しないで、お母さんはそう言い聞かすことで自分を納得させているに違いない。なんでというか、この家で生活していくためには、そうしないと、やっていけないということを祥子さんは知っている。だからものすごく悲しいけれど、そうするしか無い。それを破るんだったら自殺するしか無い。

「じゃあ、行ってくるから。よろしくね。」

祥子さんは、アイロンを掛けて、その日はそう言うだけにとどめておいて、もう祖父の事は口にしなかった。薬を大量に飲んだことも言わなかった。

そして日曜。お母さんから、お金をもらって祥子さんは新富士駅に行った。新富士駅では着物姿の香西さんと、色無地に身を包んだ植松聡美さんと、やはり着物姿の植松淳さんが待っていた。祥子さんは、急いで切符を買い、香西さんたちについて、新幹線に乗った。

「今日はどうしたんですか?」

不意に植松淳さんがそういった。植松聡美さんも心配そうに彼女を見ているのがわかる。

「どうしたって何もしませんよ。」

祥子さんが答えると、植松さんたちは何もそのことについては言及せず、本日の能の演目などの説明をしてくれた。なんでも、ある国の皇子と、女性が愛し合っていたが、皇子は本国に帰ることになる。あまりの寂しさにおかしくなった女性は、狂女となって、皇子を探しに行く。そして数ヶ月たって、皇子の一行は、偶然一人の女性を捕縛する。狂女になってしまった女性は、ダンスを踊って見せる。皇子はそれを見て、自分が以前愛した女性だったと気が付き、二人は結ばれるという、なんだか西洋のおとぎ話にでもありそうな内容のお話であった。どこの世界でも、そういう人間の恋愛とかそういうものは、物語化されてしまうらしい。祥子さんにしてみれば、どうしてそういう話ばかり登場するのか、よくわからないものであるが。

新幹線と、中央線を乗り継いで、祥子さんたちは、国立能楽堂に行った。近くにあるカフェでお昼を食べて、祥子さんたちは、能楽堂の中に入る。能楽堂には着物を着ている人も多く、みな訪問着や色無地などの、立派な着物を着た御婦人ばかりだった。祥子さんは、ちょっと尻込みしてしまったが、聡美さんたちはいつもと変わらずに椅子に座った。祥子さんも恐る恐る座った。

まもなく能の上演が始まった。オペラのような派手な舞台セットもなく、地謡の語りと、仮面をつけた役者さんたちの踊りやセリフなどで、場面を想像するしか無い舞台。祥子さんはとりあえず、狂女となってしまった女性と、その相手をする、皇子の役は判別できたが、あとは、何をしているのかあまり良くわからなかった。セリフも、何を言うのかよくわからない感じだった。ただ、その女性のことを狂女と言っている事は聞き取れた。それにしても、狂女、つまり狂った女性が主役になれるなんて、日本の能はすごいものだ。もちろん、今で言うところの狂女とは違うのかもしれないけれど、能の世界では狂女もちゃんと役割があって、彼女の話もちゃんと他の登場人物が聞く。それに彼女が逆上するのを止める役も居る。そして不思議なことに狂女と呼ばれてもちゃんと幸せになることができるようになっている。祥子さんは、いくら物語の世界とはいえ、そういう場がちゃんと用意されていることは、すごいなと思った。そして狂女が舞う場面では、これは役者の美しさを見せるためのパフォーマンス的なところもあるのかもしれないけれど、笛や鼓などが大きな音を出して、クライマックスを伝えていた。そして、皇子と女性が結ばれたところで、幕切れである。能の世界では拍手をしないというが、全部が終わって、役者さんたちが舞台袖に戻っていくと、祥子さんは大きな拍手をした。能舞台は恋愛映画を見ているより素晴らしかった。それはきっとある程度想像を働かせることが必要だから、それを面白いと感じられたからかもしれない。

「素晴らしい舞台でしたね。花筐、難しかったですか?」

香西さんに聞かれて祥子さんは、

「いえ、とても素晴らしかったです。今日はありがとうございました。」

と、香西さんに言った。

自分は不自由なところに居るけど、こういう高尚な舞台が見られる。

それが気にしないということかもしれなかった。

それが、本当に幸せな瞬間と言えるのかもしれない。私は幸せだ。そう思うことこそ。

今日、花筐を見ることができて、良かった。祥子さんは、そう思った。

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