第三章 訪問着で美術館へ
その日は、寒かった。もう夏は終わって、一気に秋が来てしまったようだ。最近はそうなってしまう日が多いのであるが、いきなり夏のように暑かったのに、急に秋になるのは、困ってしまうこともあるだろう。
秋になったので、着物も袷の季節になってきた。森田祥子さんは、もう夏の着物は寒いということで、初めて袷の着物を買った。本人の意思でかったのであるから、別に押し売りでもなんでもなかった。その着物も、通販サイトで、900円程度しかしない代物だったし、本当に着物って、敷居が高いと思われるけど、それは全然違うんだなと祥子さんは思った。サークルが開講するのは日曜日であったけれど、祥子さんは、そこで恥をかかないように、何回も着付けを練習した。いわゆる柔らか物と言われる染の小紋着物の着付けは難しいものがあったが、でも、頑張ってやろうと思った。お父さんとお母さんは、祥子が、そうやって夢中になってやれるものができて良かったと思ってくれているようだ。祥子さんが、着付けの練習をしているのをにこやかに見てくれるのだった。祥子さんが、長襦袢を着て、着物を着て、作り帯を締めて、新しい世界に向かっていくことが、とても嬉しいとお母さんに言われたこともある。祥子さんは、そうなると、小紋以外の着物を着てでかけてみたいなと思うようになった。
香西さんからメールを貰った。それには、明日、全員が着物を着られるようになったら、みんなで近くの美術館に行こうという内容であった。できれば、いつも普段着感覚で着ている小紋とはまた違う、訪問着か付下げのほうが望ましいという。祥子さんは、パソコンの検索欄に訪問着と入れてみた。どうやら訪問着とは肩と袖と下半身に大きな柄を入れた着物のことを言うらしい。そして、普段着として使うのではなく、美術館やコンサートなど改まったところに行くときの着物のようだ。祥子さんは何の迷いもなく、訪問着を購入した。地色は青で、下半身に大きな菊の花を入れた、友禅染の立派な訪問着であったが、それでも通販サイトで1500円程度。それでは、配送料がもったいないので、500円で羽織とよばれる着物の上に羽織る、赤色の防寒具も買った。
今の通信販売は、配送が速いものだ。着物はすぐにやってきてくれる。3日もしないうちに代金引換でやってきた。梱包された箱から出してみると、何も汚れもないし、リメイクの材料として、販売されているというのにしてはもったいなさすぎる。少し袖が長くて、腰より少し下まで届くというのはあったが、でも、まだまだ使える着物だった。裏地は、古いものらしく黄色になっていたが、それは祥子さんは気にしなかった。訪問着に先日作った名古屋帯を合わせてみると、本当に可愛らしい感じがした。祥子さんは、これを着ていると、自分に自信が持てたような気がした。それに、一緒にやってきた防寒具である羽織を羽織ってみると、またより可愛らしくなった気がした。早く日曜日になるのが待ち遠しくなった。それを目撃したお母さんも、いい格好してるじゃない、と言って褒めてくれた。
そして、日曜日。祥子さんは、不格好ではあるけれど、訪問着を着て、作り帯をつけて羽織を着て、自宅を出ようとした。もう草履も買ってある。草履だって、500円とかで買える。全部合わせたとしても、一万円もしない。そんな金額でこんなおしゃれができるなんてなんて幸せなのだろう、と、祥子さんが思って出かけようとすると、
「いい加減にしろ!」
と、年老いた祖父が怒鳴った。
「いつまでそういう事を繰り返すつもりなんだ!」
祖父は、まずはじめにそういうふうに怒鳴るのだった。そういうふうに怒鳴られてしまっては、自分が悪いことをしてしまうのではないかと思うほど怒鳴るのだった。すぐにお母さんが出てきてくれて、
「まあ、いいじゃないですか。祥子は、やっと楽しみが見つかったんです。それに、着物だって、980円で買ったんですから、洋服よりずっと安いものです。」
と弁明してくれたが、そういうことがわからないというか、耳が遠くて聞き取れないのか、それとも、単に祖父がわかろうとしないのかは不詳だが、祖父は母の言うことなんて聞かないのだった。もともと人の言うことなんて、聞いてこなかったのだろう。お母さんの話だと、職場で働いていたときも、早く上司が他界してしまい、自分で何でもしなければならなかったらしいので、何でも自分が正しいと言ってしまうことがあるらしい。お父さんは、今どきそんな時代ではないから放っておけというけれど、それは関わりたくなくて、逃げているのだと言うのがバレていた。
「だから、いいじゃありませんか。祥子が、一生懸命やりたいことをやっと見つけたんですよ。それに家が破産するような額じゃないんですから、それで良かったことにしてください。祥子、すぐにいきなさい。」
洋服の祥子さんだったら、すぐに部屋に戻って、祖父の言うとおりにしてしまうのだろう。でも、着物を着ている祥子さんは、何故か強い意志がモテるのだった。
「わかりました!」
と祥子さんは、まるで脱獄する囚人みたいに、一目散に自宅を出ていった。着物で走るのは不自由なところもあったけど、祖父は、追いかけて来なかった。母が若い頃は、母の部屋まで追いかけてきて、部屋のドアを蹴破るほどの体力があったらしいが、もうそれはしなくなってくれたから、良かったものである。祥子さんは、バス停まで走っていって、ちょうど来た富士駅行のバスに飛び乗り、自宅を脱出することに成功したのであった。
駅へ行ってからは、まず電車で吉原駅に行って、その後岳南鉄道で岳南原田駅まで行った。そして、徒歩数分でカフェ木下にたどり着く。木下のドアを開けると、香西さんが待っていた。香西さんは、祥子さんの着姿が乱れていたので、また丁寧に直してくれた。祖父から逃げるとき無我夢中で逃げてきたので、多少着物が乱れていたのも、仕方なかった。香西さんは、祥子さんがそんなふうに着付けが乱れていたのを問いただすことなどはしなかった。
「いやあ、いい訪問着を見つけてくれましたね。これは江戸友禅で希少価値があるものですよ。」
香西さんは、祥子さんの訪問着を褒めてくれた。
「そうですか。1500円しかしなかったんですが。」
祥子さんがそう言うと、
「ああ、値段と格の高さは無関係でね。着物は、汚れが少ないとか、そういうものが高くなるけど、こういう古典的な柄で、今あまり使用される見込みが無いものは安くなるんだよ。」
香西さんはそう説明してくれた。
「でも、なんかそれって着物が可哀想ですね。こんな立派な柄なのに、需要が無いから、安すぎるくらい安くて。」
祥子さんは正直にそう言うと、
「まあ、そういうことだねえ。でも、大事なのは使ってあげるということだからね。」
と、香西さんは言った。それと同時におはようございますと言って植松夫妻がやってきた。植松聡美さんは赤に、大きな扇を入れた訪問着に、ピンクの羽織を身に着けていた。夫の淳さんの方は、黒色の男性者の着物にやはり黒色の羽織を身に着けている。これほど着物が似合う夫婦、というのもまた珍しいかもしれない。
「ああ、久しぶりに訪問着出して嬉しかったわ。と言っても、これも5000円もしなかった代物なんだけどね。訪問着はなかなか着る機会が無いし、緊張しちゃったわよ。」
聡美さんがにこやかに言った。
「最もこの人は、片腕であることもあり、着物のほうが好きだと言って、着物のほうが多いけどね。」
ということは植松淳さんのほうが、着物を頻繁に着ているのだろう。日常的に和服を着ている男性は珍しいので、祥子さんはびっくりしてしまった。
「まあ、男物も安く買えるから、気軽に手に入れられるし、安く買ったということで、タンスの肥やしになりにくいんです。」
淳さんが照れくさそうにそう言うのは、なるほどと祥子さんは思った。確かに安く買ったというと、すぐに手が出て着てみようという気持ちになれる気がする。
「じゃあ、全員揃いましたから、みんなで富士美術館に行きましょうか。車はすぐ出します。」
香西さんはにこやかに言って、カフェ木下を出た。店の近くに、カフェ木下の有料駐車場があることに、祥子さんは初めて気がついた。そこには、一台のワゴン車が止まっていて、七人か八人は余裕で乗ることができた。祥子さんたちは、後部座席に乗せてもらった。香西さんが、運転席に座り、カーナビに富士美術館とセットして、車を動かし始めた。車は確かに、着物を着慣れていないと、ありがたい味方であった。聡美さんが祥子さんの隣に座り、ネット通販でおすすめのリサイクルきもののサイトを教えてくれた。いろんなサイトがあるが、どれも3000円出せばもうすごいものが買える。香西さんが、値段と格は無関係であるということは、本当で、フォーマルな着物であっても、柄が古典的であれば安くなるし、カジュアルな着物のほうが高くなっている現象は、リサイクル着物では当たり前のようになっていた。祥子さんが、聡美さんに言われた通り、おすすめの着物をスクリーンショットして保存したりしていると、車が美術館の前で止まった。
香西さんが、車を駐車場に入れると、一行は美術館にはいった。今日の企画展は、片岡球子という女性画家の作品展らしい。彼女は、富士山を描いたことで有名な画家である。入場料を払って、展示室に入ると、たくさんの絵が彼女たちを待っていた。どれも、富士山を描いている。実物の富士山を見るのもまた好きなのであるが、絵というのはそこに作者の感情とか、そういうものがあるので、また印象が変わってくる。写真みたいに写実的な絵ではないけれど、そこがまた美術鑑賞の醍醐味だと思う。どれもそういう意味では素敵な絵だった。富士山が、片岡球子さんの感性でまた違う印象にうつる。植松さん夫妻は、絵を眺めたり、美術館に置いてある解説書を読んだりしながら、とても楽しそうにしていたけれど、祥子さんはちょっと感じ方が違っていた。もし、家族がいなかったら、楽しめるのかもしれないが、祥子さんはそうではない。こういう芸術作品なんて、お金にならないから、見たり聞いたりしてはいけないと祖父が怒鳴っている様が思い出される。
展示室から出て、一行はミュージアムショップに行った。展示会の記念に発行された本や、オリジナルグッズが売っている。聡美さんは誰か上げたい人が居るらしく、すぐにハンカチなどのグッズを買い始めた。淳さんのほうは、展示会の記念ですからと言って、展示会の内容を記した本を一冊買った。香西さんは、主催者らしく何も買わなかったが、祥子さんが、何も買わないので、
「なにか記念になるものを買いませんか?」
と聞いてきた。
「あ、ああ、私は、そういうわけには。」
祥子さんはそれだけいってしまう。
「今日は、皆さんなにかあるんですか?そんなに美しい着物を着られて、結婚式かなんかで?」
聡美さんが、レジでお金をはらっていると、店員が聞いてきた。
「いえ、そんな事ありません。私達は、着物が好きで、こういうところに来るときは、着物で来てるんです。」
と聡美さんがにこやかに笑って返す。こう聞かれてしまうのは当たり前であるようだ。そして、それを交わす方法もちゃんと知っている。
「そうなんですか。片岡球子さんも着物好きな方だったようですよ。」
と、美術館の店員が言った。そういうところであればそうやって返してくれる。美術館の店員などであれば、いろんな芸術家の事を知っているから、そうやって返してくれるのだろう。
「そうなんですね、意外に着物が好きな女性は多いですよね。着物ガールなんていう言葉もあるくらいだし。最近なかなか着物着ないから、こうやって機会を作るのが大事ですよね。」
香西さんがにこやかに言った。美術館の店員さんたちは、それはまた楽しそうですねと言って、聡美さんからお金を受け取った。
ミュージアムショップで買い物したあと、まだ時間があったので、近くの和風のカフェでお茶を飲んでいこうという話になった。また香西さんの車に乗って、カフェ花の舞というところに入る。全員あんみつを頼んだ。あんみつはとても豪華で、味も美味しかった。みんな美味しそうに食べた。その店はちょっと古い感じというか年季のある感じのカフェで、着物にとてもあう感じの雰囲気があった。こういう場所がもう少しあったら、着物で出かけたい気持ちにもなるのにねと、聡美さんたちは言っていた。香西さんを含め聡美さんたちは、とても楽しそうだ。なんでそんなに楽しんでいることができるのだろうか。祥子さんは、こういう楽しいところにこさせてもらっても、なにか悪いことをしたような気持ちになってしまって楽しめないのだった。本当は楽しんでもいいのかもしれないけど、なんか長時間出てしまうと疲れてしまうというか、なんというか、ここにいては行けない、早く帰らなければと思ってしまうのだった。
「あの、すみません、家族が待ってますので、今日はこれで失礼します。」
祥子さんは、聡美さんたちが、話している間にはいって言った。
「ここではタクシーは呼んでもらえますか?」
祥子さんがそう言うと、
「はい。ちょっと待って下さい。今タクシー会社の番号渡します。」
と、水を持ってきてくれた店員が祥子さんに言った。そして、何軒かのタクシー会社の電話番号が書かれた紙を持ってきた。いくつかの会社にしたのは、着物を着た人が乗りやすいタクシー、つまるところのUDタクシーを所持している会社でないとだめだと香西さんが言ったからだ。もしかしたら、UDタクシーは予約でいっぱいだと言うことで、別の会社を当たってくれと言われるかもしれないという理由だった。祥子さんが、急いでその中の一つのタクシー会社に電話して、UDタクシーでお願いしたいというと、10分ほど待ってくれれば行くと言ってくれた。祥子さんは、香西さんや植松さん夫妻に、ありがとうございますと言って、急いで外へ出た。
確かに10分ほどで、タクシーは来てくれた。と言っても、普通のタクシーとはぜんぜん違う、ワゴン車タイプのタクシーだった。ドアのところにみんなのタクシーを表記されていなかったら、これがタクシーとはわからない気がした。祥子さんは急いでそれに乗り込んだ。
「どちらまで?」
と、運転手に言われて祥子さんは、
「はい、富士駅までお願いします。」
と言った。
「運賃は一般タクシーと変わりませんよ?」
と運転手がいうので、祥子さんは、自宅近くにあるコンビニまで乗せてもらうことができた。大きなタクシーだから運賃が高いのかと思ったが、そんな事はないようだった。運転手にコンビニの敷地内でおろしてもらうと、祥子さんはちょっと重い足取りで自宅へ帰った。本当は、自宅に帰るのは、憂鬱になるのだった。
「ただいま。」
祥子さんは、自宅のドアを開けた。お母さんが出迎えてくれて、
「おかえり。楽しかったでしょ?着物仲間とどんな話してきた?」
と、にこやかに迎えてくれた。
「うん、富士美術館に言ってきた。片岡球子さんの展示会はとても面白かった。それに、あんみつもたべて、すごく楽しかったわ。」
と祥子さんは答えるが、それは言わないほうがいいと、すぐに思った。祖父が、すごく怖い顔で祥子さんたちを見ていたからである。
「なんですか。ただ祥子はお友達と、美術館にいってきただけですよ。そんな顔で迎えないであげてください。」
お母さんはそういうのだが、祖父は怖い顔して怒鳴った。
「いつまでそういう事を繰り返すつもりなんだ!」
じゃあ、おじいちゃんの言う正しいことって何!と祥子さんは怒鳴ってしまいたかったけど、そんな事はできなかった。言ったら、更に大きな声で返事が返って来るだろうから。祥子さんは、小さな声で、
「ごめんなさい。」
とだけ言った。
「声が小さい!もう一回!」
祖父は刑務官みたいに怒鳴った。
「ごめんなさい!」
祥子さんは頭を下げて謝罪し、急いで部屋の中に飛び込んだ。お母さんが、何を言っているんですか、と祖父に言っている。本当は祥子さんも、祖父に同じことを言えたら嬉しい。でも、祥子さんはその勇気がなくて、部屋に戻ってしまったのであった。
部屋に戻った祥子さんは、とても泣きたくなった。どうせ楽しんできても、すぐにこうして取られてしまうのだ。もし植松さんたちがしたように、グッズや本を買ってこないでよかったと思う。それをしたら、いくらお金を無駄にしたと怒鳴られるかわからない。他の人が普通にできることが祥子さんの家ではできないのだった。
また祖父に怒鳴られて、祥子さんはわっと泣きたかったが、鏡に、訪問着を着た自分の姿が映った。その画像を見て祥子さんは、それが昔の惨めな自分の姿ではなく、訪問着を着ている自分の姿なのだと思った。これでは、自分のようで自分ではないのではないか。そうなったら、もっと強い人間にならなくちゃ、と祥子さんは思った。その自分であれば、祖父がどれだけ怒鳴っても、洋服姿の弱い自分とは違うんだ。そう思った。それに、強い自分になれるための道具は、1000円とかそこらで買えるのである。大丈夫、買われる要素はいっぱいある。
以前、祥子さんは、祖父に変なこと怒鳴られて、お母さんに気にするなと言われたことがあった。そのときに祥子さんは、お母さんにどうすれば気にしないでいられるか、と八つ当たりしたものだった。それはお母さんも困ってしまっていた。確かに、気にするなと口で言うのは簡単だが、どうすれば気にならなくなるかを言うことは、非常に難しいものである。結局自分で気にしないと思うしか方法は無いのである。
祥子さんは、訪問着姿の自分をじっと見つめた。こんな姿になれたのに、それを祖父が邪魔するからと言って、簡単に捨ててしまうのは、いけないと思った。
「言われたことは、気にしないようにしよう。」
祥子さんは、鏡の中の自分に言い聞かせた。少しでも、この姿で長くいたいとおもった。
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