月下の宴

烏目浩輔

月下の宴

 夜も更けた隅田川の土手道に人けはなかった。

 秋を生きる小さな虫たちが、鈴のような声を震わせている。


 この時間にはよく散歩しているが、今宵はいつになく夜道が明るい。夜空を見あげてそのわけに気がついた。

 白い満月がふたつ浮かんでいる。

 武蔵野は月見の名所と称される地ではあるが、それでも月がふたつというのは稀有なことだ。物珍しさに足を止めて月見に興じようとした。

 するとそのとき、男の低い声がした。

「片目を隠しっせとるのや」

 今しがたまでそばに誰もいなかったというのに、いつ間にか見知らぬ男と女が背後に立っていた。男は灰茶色の着物で、ずいぶん痩身である。女は黒がすりの着物で、口もとに微笑みをたたえている。

 男が片目をてのひらで覆い隠して言った。

「普段はこんな具合に片目を隠しとるが、今夜はっせとる」

 ばんしゅう生まれの知人が〝わすれる〟を〝っせる〟と言う。男はその知人と同郷と思われるが、いったいなにを言っているのか。

 怪訝に思いつつ尋ねた。

 なんの話です?

「ほやから、あれや」

 男はふたつの月を指差した。

「頭のてっぺんが雲まで届く巨大なもうりょうがおってな、ダイダラボッチっちゅうやつなんやが、月はそいつのめえなんや。普段ダイダラボッチは片目を隠しとるが、なぜか今夜は隠しっせとる。ほんで月がふたつ出よる」

 女はその話に頷くも、口は挟んでこなかった。微笑むばかりである。

「にかわには信じられんか? けど、僕の生業なりわいは民俗学者でな、東北のとうに出ばって、あれそれとけんぶんしてきた。そこで得た知識から、月はダイダラボッチのめえやと断言でける」

 男は播州訛りでそう言うと、「ん?」となにかに気づいた顔をした。河原を見おろして呟く。

「これもめえがふたつある影響か……屋台が出よる」

 それにつられて河原を見れば、小体な屋台がひとつ、あかちょうちんをひっそりともしていた。はじめて見る屋台である。

 男がこちらに向き直って言った。

「あの屋台が出るのはめんらしい。せっかくやし一緒に呑まんか?」

 女もこちらを見て微笑んでいるが、口を開くようすはなかった。


     * 


 河原は一帯が草むしていた。

 屋台には木椅子が三つ並び、なぜか店主の姿はなかった。客が引けたのをしおに、席を外しているのだろうか。


 男は素性が知れない人物だ。警戒から呑みの誘いを辞そうかとも考えたが、酒は好きなほうであるし、珍しい屋台というのにも興味をそそられた。

「これもなにかのえんちゅうことで」

 最後は男のその言葉に流された。

 流されたからには酒をたのしむつもりである。


 男は三つの椅子の真ん中に、女はその左隣に腰をおろした。

 空いている右隣の席に腰かけると、隅田川の流れゆく音がそっと耳に染みた。

「まずは一杯」

 言いながら男が一升瓶を差し向けてくる。店主は不在のままだが、いつの間にか目の前の天板に、一升瓶と湯呑みが調ととのえてある。

「ここはまよのひとつでな、屋台自体が客人をもてなしてくれよる。ただ、遠野の迷い家とちごて上等な料理は出んが。出るのは酒のみや」

 男の酌を受けて、こちらも男に酌を返した。

「おおきに」

 それから男は「さ、あんたも」と女にも一升瓶を差し向けた。女は会釈して微笑んだが、やはり口は開かなかった。

 もしかして発語に不自由があるのか。

 しかし、

「彼女は無口やがきいのええ奴や」

 男の言いぶりから察するに、口数が少ないだけで、話はできるようだった。


 つがれた酒に口つけた。きりっとした舌触りがあり、冴えた香りが鼻に抜ける。

 男に酒の感想を告げた。

 辛口の酒ですね。凄くうまいです。

「そりゃよかった」

 二杯目からは互いに手酌で好きに呑もうという話になり、一杯目を干して二杯目を手酌でついでいた。すると、近くでガザガサと音がした。屋台の周囲に茂る雑草を、何者かが踏み鳴らす音だ。しかし、あたりに人の姿は認められず、すぐに音がやんだのもあって、気のせいだろうと深くは考えなかった。


 男も二杯目を手酌でつぎはじめると、唐突に「近頃は平和でええなぁ」と呟いた。

 急にどうしたんです?

「いや、戦時にはこうやって酒を呑むんすらも難儀した。いきなり戦闘機が飛んできたりしよったさかい。改めて平和はええなとおもてな」

 ああ、そういうことですか。

「なんだかんだ言うても、やっぱし平和が一番や」

 頷いて同意を示した。

きいを悪うさせたら許してや。その左腕も戦争が事情か?」

 ええ、しょうだんにやられて失いました。

「気の毒に。片腕があらへんと不便やろ」

 不便ですけど、もう慣れました。失ったものは戻りませんから、慣れないといけないでしょうし。

「ほうか、もう慣れたか。この時代に生きとるもんは、君も含めてみな強いな。開き直る度胸がある。ほやからこそ、この隅田川界隈も、戦後のあの焼け野原からここまで持ち直したのやろ」

 男は顔の前に湯呑みをかかげた。

「開き直りに乾杯」

 こちらも湯呑みを、乾杯、とかかげ返した。

 男は酒をぐいっと干してから、こちらをまじまじと見た。

「ところで、君は男か女かどっちや?」

 そして、こう続けた。

「そもそも人間なんか?」

 短いがあり、

「いや、君がなんであっても、酒の席ではどうでもええか」

 ひとりで勝手に納得した。

 また屋台の周囲でガサガサと音がした。

 あたりに人影はない。


 それから話題は世間話になり、酒を二杯、三杯と呑み干した。女はその世間話に頷き、微笑んではいたが、一言も発しなかった。

 こうなると女の声を聞いてみたいと欲が出る。

 女に水を向けてみた。

 おねえさんもいける口ですね。よくお呑みで。

 女はちびちびとやっているが、その実、結構な量を呑んでいる。五、六杯は干したであろう。

 水を向けて女の発言を期待したが、口を開いたのは男のほうであった。

「彼女には話しかけんほうがええ」

 どうしてです?

「彼女が口を開くと大変なことになる」

 大変なこととは?

「大変なこととはあれや……まあ、大変なことやな」

 男の答えは答えになっていなかった。


 そのとき、またも屋台の周囲でガザガサと音がした。今度はすぐに音がやまないばかりか、先刻よりも大きくなっている。いや、増えている。いくにんもで雑草を踏み鳴らしているかのような音に聞こえた。

 だからといって、あたりを見まわしても人影はない。

 この音はいったい……。


 音を訝しんでいると、男が言った。

「まだ、ふたつありよる。いつまで隠すのをっせとるのか」

 男は後ろを振り向くような格好をして月を仰ぎ見ていた。女も同様にして月を見あげている。

 月が一瞬だけ消えたとき、男は呑気に言った。

「あ、まばたきをしよった」

 だが、ガサガサという音には言及しない。女も音を気にする素ぶりを見せていない。もしかして、ふたりにはこの音が聞こえていないのだろうか。

 男に尋ねてみると、

「これは河童かっぱの足音や」

 どうやら聞こえてはいるようだ。

「武蔵野界隈はあの世とこの世のあわいにあるよって色々と出よるが、隅田川に住んどる河童もそのうちのひとつなんや。河童どもは無類の酒好きやから、呑んどる僕らが羨ましゅうて、何匹か集まってきよったのやろう。ようあることやから無視しとったが、ちぃと集まりすぎかもしれん」

 男は周囲を見まわしてから続けた。

「河童は存外に気性の荒っぽい奴らでな、酒欲しさに襲われでもしたらかなわん。少しおすそわけしとこか……頼めるかな?」

 男が尋ねる口調で隣を見ると、女は穏やかに頷いて立ちあがった。一升瓶を手にして屋台を離れ、雑草の中にわけ入っていく。

 なぜか女の後ろ姿が牛に見えた。

 ややあって戻ってきた女は、もとの席に腰をおろして、男の前に一升瓶を置いた。

 一升瓶は空になっていたが、まばたきをする一瞬ので、また満たされたのである。

「この酒はなんぼ呑んでも減らん。夢のような酒やで」

 女は頷いている。


     * 


 酒盛は小一時間ほど続いた。男はあれそれと話をしたが、女は相変わらずだんまりで、微笑むばかりだった。ガサガサという音はもう聞こえない。

 酒をしたたか呑んだものの、さほど酔どれてはいなかった。ほろ酔い程度に留まっている。

「ここの酒はほどうしか酔わんし、二日酔いにもならん。ほやからといって呑みすぎはやっぱしあかんわな。肝臓をわるうしたらつまらんし、迷い家も僕らの身体を案じとるわ。ちぃと名残惜しくはあるが、そろそろお開きにしよか」

 男が言い終わるや否や、女はすっと立ちあがった。会釈をしてから屋台を離れて、土手のほうに歩き去っていく。今宵の酒盛はこれでしまいらしいが、なぜ女は男を残してひとりで去ったのか。

 連れであれば、共に帰ればいいものを。

 男が女の背中を見送りながら言った。

時々あいさ僕らは行動を共にするのやが、彼女はいつも先にぬのや。僕が先にんだことはなくて、一緒にんだこともあらへん。先にぬんが彼女のことわりなのやろう。僕にはようわからん理やが、きっと彼女には大切なんや」

 もしかして口を利かなかったのも理ですか?

「いや、それは別のわけや。彼女が無口なんはうしやからや」

 え、牛?

「正確には人面牛身やが」

 今日は人の姿に化けていたが、本来は顔が人間で、身体が牛だという。

「あんたも聞いたとないか。人面牛身のくだんっちゅうやつや」

 女に改めて目をやると、もうずいぶん遠くにいる。その後ろ姿は牛に見えた。

「件は厄災を予言しよる牛でな、へたに話をすると、大変なことが起こるかもしれん。それをふまえて彼女は黙っとるのや。厄災を予言してまわんように、口を塞いどるわけやな。東京大空襲を予言してからは、ことに無口になってしもうた」

 続けて男は、

「ほやけど、彼女が黙ってくれとっても、争い事はまた起こるやろうな」

 と口にしてから、よっこらせ、と立ちあがった。

「さて、僕もそろそろぬとするわ。今夜は君のおかげで楽しゅう呑めた。今さらやが僕の名前はやなぎっちゅうんや。えんがあったらまた一緒に呑もう。じゃあ」

 男が片手をあげた直後、ふっと意識が遠のいた。気がつくと土手の上に立っており、草むした河原を見おろしていた。屋台はどこにも見あたらず、男の姿も認められない。

 これはいったいどういうことか。

 思わず首を捻ったものの、ここはあわいにある武蔵野だ。こんなこともあるのだろうと、じきに納得した。


 なんとはなしに夜空を見あげると、ふたつの白い満月と目が合った。



     了



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月下の宴 烏目浩輔 @WATERES

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