月下の宴
烏目浩輔
月下の宴
夜も更けた隅田川の土手道に人けはなかった。
秋を生きる小さな虫たちが、鈴のような声を震わせている。
この時間にはよく散歩しているが、今宵はいつになく夜道が明るい。夜空を見あげてその
白い満月がふたつ浮かんでいる。
武蔵野は月見の名所と称される地ではあるが、それでも月がふたつというのは稀有なことだ。物珍しさに足を止めて月見に興じようとした。
するとそのとき、男の低い声がした。
「片目を隠し
今しがたまで
男が片目を
「普段はこんな具合に片目を隠しとるが、今夜は
怪訝に思いつつ尋ねた。
なんの話です?
「ほやから、あれや」
男はふたつの月を指差した。
「頭の
女はその話に頷くも、口は挟んでこなかった。微笑むばかりである。
「にかわには信じられんか? けど、僕の
男は播州訛りでそう言うと、「ん?」となにかに気づいた顔をした。河原を見おろして呟く。
「これも
それにつられて河原を見れば、小体な屋台がひとつ、
男がこちらに向き直って言った。
「あの屋台が出るのは
女もこちらを見て微笑んでいるが、口を開くようすはなかった。
*
河原は一帯が草むしていた。
屋台には木椅子が三つ並び、なぜか店主の姿はなかった。客が引けたのをしおに、席を外しているのだろうか。
男は素性が知れない人物だ。警戒から呑みの誘いを辞そうかとも考えたが、酒は好きなほうであるし、珍しい屋台というのにも興味をそそられた。
「これもなにかの
最後は男のその言葉に流された。
流されたからには酒を
男は三つの椅子の真ん中に、女はその左隣に腰をおろした。
空いている右隣の席に腰かけると、隅田川の流れゆく音がそっと耳に染みた。
「まずは一杯」
言いながら男が一升瓶を差し向けてくる。店主は不在のままだが、いつの間にか目の前の天板に、一升瓶と湯呑みが
「ここは
男の酌を受けて、こちらも男に酌を返した。
「おおきに」
それから男は「さ、あんたも」と女にも一升瓶を差し向けた。女は会釈して微笑んだが、やはり口は開かなかった。
もしかして発語に不自由があるのか。
しかし、
「彼女は無口やが
男の言いぶりから察するに、口数が少ないだけで、話はできるようだった。
つがれた酒に口つけた。きりっとした舌触りがあり、冴えた香りが鼻に抜ける。
男に酒の感想を告げた。
辛口の酒ですね。凄く
「そりゃよかった」
二杯目からは互いに手酌で好きに呑もうという話になり、一杯目を干して二杯目を手酌でついでいた。すると、近くでガザガサと音がした。屋台の周囲に茂る雑草を、何者かが踏み鳴らす音だ。しかし、あたりに人の姿は認められず、すぐに音がやんだのもあって、気のせいだろうと深くは考えなかった。
男も二杯目を手酌でつぎはじめると、唐突に「近頃は平和でええなぁ」と呟いた。
急にどうしたんです?
「いや、戦時にはこうやって酒を呑むんすらも難儀した。いきなり戦闘機が飛んできたりしよったさかい。改めて平和はええなと
ああ、そういうことですか。
「なんだかんだ言うても、やっぱし平和が一番や」
頷いて同意を示した。
「
ええ、
「気の毒に。片腕があらへんと不便やろ」
不便ですけど、もう慣れました。失ったものは戻りませんから、慣れないといけないでしょうし。
「ほうか、もう慣れたか。この時代に生きとる
男は顔の前に湯呑みをかかげた。
「開き直りに乾杯」
こちらも湯呑みを、乾杯、とかかげ返した。
男は酒をぐいっと干してから、こちらをまじまじと見た。
「ところで、君は男か女かどっちや?」
そして、こう続けた。
「そもそも人間なんか?」
短い
「いや、君がなんであっても、酒の席ではどうでもええか」
ひとりで勝手に納得した。
また屋台の周囲でガサガサと音がした。
あたりに人影はない。
それから話題は世間話になり、酒を二杯、三杯と呑み干した。女はその世間話に頷き、微笑んではいたが、一言も発しなかった。
こうなると女の声を聞いてみたいと欲が出る。
女に水を向けてみた。
お
女はちびちびとやっているが、その実、結構な量を呑んでいる。五、六杯は干したであろう。
水を向けて女の発言を期待したが、口を開いたのは男のほうであった。
「彼女には話しかけんほうがええ」
どうしてです?
「彼女が口を開くと大変なことになる」
大変なこととは?
「大変なこととはあれや……まあ、大変なことやな」
男の答えは答えになっていなかった。
そのとき、またも屋台の周囲でガザガサと音がした。今度はすぐに音がやまないばかりか、先刻よりも大きくなっている。いや、増えている。
だからといって、あたりを見まわしても人影はない。
この音はいったい……。
音を訝しんでいると、男が言った。
「まだ、ふたつありよる。いつまで隠すのを
男は後ろを振り向くような格好をして月を仰ぎ見ていた。女も同様にして月を見あげている。
月が一瞬だけ消えたとき、男は呑気に言った。
「あ、まばたきをしよった」
だが、ガサガサという音には言及しない。女も音を気にする素ぶりを見せていない。もしかして、ふたりにはこの音が聞こえていないのだろうか。
男に尋ねてみると、
「これは
どうやら聞こえてはいるようだ。
「武蔵野界隈はあの世とこの世の
男は周囲を見まわしてから続けた。
「河童は存外に気性の荒っぽい奴らでな、酒欲しさに襲われでもしたらかなわん。少しお
男が尋ねる口調で隣を見ると、女は穏やかに頷いて立ちあがった。一升瓶を手にして屋台を離れ、雑草の中にわけ入っていく。
なぜか女の後ろ姿が牛に見えた。
ややあって戻ってきた女は、もとの席に腰をおろして、男の前に一升瓶を置いた。
一升瓶は空になっていたが、まばたきをする一瞬の
「この酒はなんぼ呑んでも減らん。夢のような酒やで」
女は頷いている。
*
酒盛は小一時間ほど続いた。男はあれそれと話をしたが、女は相変わらずだんまりで、微笑むばかりだった。ガサガサという音はもう聞こえない。
酒をしたたか呑んだものの、さほど酔どれてはいなかった。ほろ酔い程度に留まっている。
「ここの酒はほど
男が言い終わるや否や、女はすっと立ちあがった。会釈をしてから屋台を離れて、土手のほうに歩き去っていく。今宵の酒盛はこれで
連れであれば、共に帰ればいいものを。
男が女の背中を見送りながら言った。
「
もしかして口を利かなかったのも理ですか?
「いや、それは別の
え、牛?
「正確には人面牛身やが」
今日は人の姿に化けていたが、本来は顔が人間で、身体が牛だという。
「あんたも聞いたとないか。人面牛身の
女に改めて目をやると、もうずいぶん遠くにいる。その後ろ姿は牛に見えた。
「件は厄災を予言しよる牛でな、へたに話をすると、大変なことが起こるかもしれん。それをふまえて彼女は黙っとるのや。厄災を予言してまわんように、口を塞いどるわけやな。東京大空襲を予言してからは、ことに無口になってしもうた」
続けて男は、
「ほやけど、彼女が黙ってくれとっても、争い事はまた起こるやろうな」
と口にしてから、よっこらせ、と立ちあがった。
「さて、僕もそろそろ
男が片手をあげた直後、ふっと意識が遠のいた。気がつくと土手の上に立っており、草むした河原を見おろしていた。屋台はどこにも見あたらず、男の姿も認められない。
これはいったいどういうことか。
思わず首を捻ったものの、ここは
なんとはなしに夜空を見あげると、ふたつの白い満月と目が合った。
了
月下の宴 烏目浩輔 @WATERES
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