乙女と酒興と酔芙蓉


時系列:三巻と四巻の間




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 銀古の奥には、普段使わない物品をしまう物置がある。

 時期ではない調度品や客用の布団などを置いておく場所で、時々空気を通して掃除をするのも、珠の仕事だ。

 物置に窓はないため、扉を開け放っていても中は薄暗い。

 前掛けと袖にたすき掛け姿の珠がはたきで埃を払っていると、カタリ、と音が響いた。

 珠は、この部屋に誰も居ないことを知っている。

 作業を再開しようとすると、カタカタッとさらに音が鳴り響く。

まるで無視をするなとでもいうように主張する音に、珠はようやく掃除の手を止めた。

 音の方向を振り返ってみると、食器や細かな調度品が並ぶ棚だった。

 桐箱の一つが、独りでに揺れている。

 ただの物が勝手に動くことなど、普通ではありえない。


「……?」


 しかし珠は小首をかしげてまじまじと見るだけだった。

 なぜならば、この銀古は人に非ざる者が利用する口入れ屋であり、珠自身も妖怪が見える。

 物が勝手に音を鳴らすくらいでは驚きはしなかった。

 とはいえ、ここまで主張をされると気になるのが人の常だ。

 珠は手に取りかけたが、銀市に忠告された事柄をふっと思い出す。

 この物置には、妖怪達から贈られた人に非ざる者由来の物品もあるのだという。

 掃除は問題ないが、開封するときには一言声をかけて欲しいと。

 珠が注目しているのに気がついたらしい箱が、さらにガタガタと激しく主張するのを見つめながら、珠はどうすべきか考えたのだった。


 *


「なるほど、正しい判断だ」


 物置で動く箱を見た銀市にそういわれて、珠は心からほっとした。


「良かったです。では、こちらはいったいなんでしょうか。そのままにしておいて大丈夫でしょうか」

「俺を呼んだというのが正しい判断というだけで、これ自体はそう危険なものではない。たしかに最近すっかり忘れていたな……」


 銀市がつぶやいたとたん、箱がひときわ大きく動く。

 まるで怒っているみたいだ、と珠がぽかんとしていると、苦笑した銀市が棚から暴れる箱を取り出した。


「わかったわかった。今日は飲むから。その前に準備が必要なのもわかってくれ」


 銀市があやすように言い聞かせると、箱は……おそらくその中に入った器物がおとなしくなった。

 床に箱を置いた銀市は、箱にかかっていた紐を解いて蓋を開ける。

 絹の布にくるまれていたのは、酒杯だった。銀市の手には少し小さく見える大きさで台形をしており、外面と内面に緑の葉が瑞々しく描かれていた。

 葉と茎の先に付いているのは白い……


「芙蓉柄の盃でしょうか? こちらの方が、先ほど主張されていたのでしょうか」


 珠が問いかけると、銀市はうなずいた。


「そうだ。以前客から預かった一品でな。定期的に酒を注いで使ってやらんとすねるのさ」


 すねる、と銀市が言った時、芙蓉の盃がかすかに震える。ずいぶん自己主張が活発な器物の精らしい。

 持っている銀市はすぐわかったのだろう。苦笑しつつひとなですると、珠に言った。


「珠、手間をかけるが、酒屋に行ってなるべく上等な酒を買ってきてくれるか。そうだな、燗にしてうまいものがいい。この盃で呑みたい」

「かしこまりました」


 頼まれた珠は一つうなずくと、芙蓉の盃を受け取った。

 しかし、胸にほんの少しだけ懸念を覚えていた。




 *




 その夜、珠は夕食の後、酒の支度をした。

 初めは食事と一緒に酒を出そうとしたのだが、酒が主体でないと芙蓉の盃はふてくされるのだという。

 だから月見酒にすると語った銀市は先に風呂に入っていった。

 簡単な支度で良いとは言われたが、こだわりある芙蓉の盃に気に入ってもらうため、珠は若干緊張しながら作業を進める。


 酒を入れたちろりを湯煎であたためはじめた。

 円筒形で縁に注ぎ口と把手がついているちろりは、銅製のため直火でも使える。しかし直火で温めると酒精が飛びやすい上、酒が焦げてまずくなる。だから熱燗にするには温度が調整しやすい湯煎にするのだ、と以前の勤め先で教えてもらった。


 湯煎の湯が沸騰しないよう調整した珠は、温めているあいだにつまみの準備をする。

 油揚げを七輪で表面がかりっとするまで炙り、食べやすく切る。その上にすりおろした大根を乗せ、小口に切った青ねぎをちらして彩りにした。


「盃さん、失礼いたします」


 そして丁寧に洗った芙蓉の盃に声をかけながら盆に置いて、居間に運んでいく。


 銀市はすでに縁側に居た。

 浴衣の上にさらりと羽織を引っかけており、降ろされた黒髪が首筋に流れていた。

 ふたつ用意された座布団の一つに片膝を立てて座っていた彼は、珠が近づくと振り向いた。


「お待たせしました」

「大丈夫だ、待っていないさ。ああ、つまみも用意してくれたのか」


 珠の手元を見た銀市が目を細める。

 緊張しながら珠はそっと銀市の側に盆を置く。


「はい、あのどういった物がお好みかはわからなかったので、油揚げを軽く炙ってみました。すでに夕食も召し上がっていらっしゃいますので、軽い物が良いかと」

「ありがとう。これは良い酒になりそうだ」


 銀市は目を細めて油揚げを見た。

 醤油差しで好みに味付けてもらえば良い。


「一応、お酒はちろりである程度温めてきましたが、もし足りなければそちらの火鉢に置いた鍋で温めてください」


 珠が火鉢と五徳の上にのせておいた鍋を差し示すと、銀市はうなずいた。


「いたれりつくせりだな。助かる」

「では、私はこれで……」 


 銀市の反応が良好で、ほっとした珠が頭を下げて下がろうとすると呼び止められた。


「少しつきあってくれないか。もしかしたら良いものが見せられるかもしれない」

「えっええとでは、お酌をしましょうか」

「ならいただこうか」


 戸惑ったが銀市に願われて断る理由は一切ない。

 珠はもう一つの座布団に座ると、ちろりを取る。

 膝を使って芙蓉の盃を持つ銀市に近づき、珠はちろりを傾ける。

 澄んだ色をした酒が満たされ、洋燈の明かりに照らされた白い芙蓉が揺らいで見えた。


「美しい器ですね……」


 珠がため息をこぼすように言うと、銀市がふっと笑む。


「さるすいじんが、酒をより楽しむために特別にあつらえられた物だからな。代々様々な酒飲みに愛された盃だ」

「そう、なのですか。この盃はおいしいお酒を飲む方をよくご存じなのですね」


 珠がまじまじと見ていると、盃の内側に芙蓉に違和感を覚えた。

 だがその変化がなにかわからず内心首をかしげていると、銀市が盃を口に運ぶ。

 くいと無造作に傾けて、喉仏がかすかに上下するのを、珠は思わず目で追ってしまう。

 盃を降ろした銀市は、満足げに目を細めた。


「良い酒だな。うまい」


 再び盃を差し出されたので、珠がすかさず注ぐと、ためらいもなく銀市は空ける。

 全く顔色が変わらない様子からしても、かなり酒を飲み慣れており、好んでいることは感じられた。

 ちくり、と珠の胸に罪悪感の痛みが走る。


「あの、銀市さんは……ご自宅でよくお酒を飲まれていたのでしょうか」

「うん?」


 味わうように酒を舌で転がしていた銀市は、思い詰めた雰囲気の珠に軽く面食らいながらも慎重に語った。


「そうだな、以前は一人で夜に飲んでいたが……」


 ああやっぱり、と思った珠は肩を落とした。


「申し訳ありません。私がこちらに勤めてからですよね。銀市さんの習慣を崩してしまいました」


 珠が銀古に勤めてから、銀市に酒の準備を願われたことはない。珠は酒を飲まないが、飲酒というのは男性にとってかなり重要な位置を占めているのは知っていた。

 にもかかわらず、銀市が芙蓉の盃を見て言い出すまで、珠はその事実にすら思い至らなかった。

 なにも聞かれずとも、主人の習慣を察して行動すべきだった。珠もまた銀古に慣れることに手一杯で、視野が狭くなっていたのだろう。


「これからはきちんと気を配りますね……」


 珠が悄然としていると、銀市はゆっくりと瞬くと、しげしげと芙蓉の盃を見つめ始める。

 その姿があまりにも意外そうで、珠は困惑しながらも興味を引かれた。


「あの?」

「いや、君がいなかった時は、俺が準備していたんだ。飲みたいときは、自分で用意するさ。ただな、自分でも意外だったんだが、盃を見るまで思い出さなかったんだ」


 思い出さなかった、というのはどういう意味だろうかと珠が見返すと、銀市は目を細めた。


「確かに以前は酒をもらうたびに飲んではいたし、うまい酒を飲むのも気に入っていた。それでも、君が来てから家が賑やかになったからだろうな。わざわざ毎日飲まずとも充実していて強いて飲みたいと思わなかったのだよ」


 銀市に今への不満は感じられなくて、珠は密かにほっとする。

 そして銀市の表情に、我知らず目を奪われた。

 言葉の雰囲気は柔らかく、どこか温かい響きだ。肩の力を抜いて、足を崩して片膝を立てたくつろいだ姿は、穏やかに時を堪能していると納得するには充分だ。

 雲から出た月が、銀市を照らす。頬を緩ませ酒盃をもてあそぶ様は一幅の絵のようだ。

 珠はじんわりと、胸に熱を感じる。

 落ち着かない心地と、気恥ずかしさは一体なんなのだろうか。

 嬉しいによく似た、けれど少し違う感情のような気がした。

 自分の感情を探りかけたところで、珠はまだ銀市に返事をしていないことに気づいた。


「私が、お邪魔でないのでしたら良かったです。えっと、あの。晩酌などの準備でしたら、いつでもいたします、ので」

「そのときは頼もうか。酒と月があれば充分だが、やはり肴があるのは良い」


 油揚げを箸で摘まんで口に放り込んでいた銀市に、珠はつられて頬が緩む。

 悠々と手酌で注いでいた銀市は、ふと盃の内側を覗いて、口角を上げる。


「そうか、お前も満足したか」

「?」

「君を引き留めたのは、これを見せたかったからなのだよ」


 銀市に盃を差し出された珠は、内側をのぞき込んではっとする。

 盃の内側に描かれた真っ白な芙蓉が、薄紅に変わっていた。

 驚く珠が見つめている間にも、徐々に紅に染まっていくのだ。

 まるで酒精に酔って色づく頬のようだと思っていると、銀市は語った。


「芙蓉には、酔芙蓉という品種があってな。早朝に白く咲くと、午後には薄紅に変わり、夜には紅に色づくのだ。その変化が酒を飲むと徐々に顔が赤らむ姿に似ているから、そう呼ばれるようになった。この盃は注がれた酒を気に入ると、花を紅く染めるんだ」

「美しいですね……」


 澄んだ酒が満たされた盃の中で、水面が揺らぐと紅の花弁が風にそよいでいるようにも思えて、いつまでも眺めていられそうだ。


「一人飲みの相手にと作られた盃でな。ただ、しまいっぱなしにしていると君が遭遇したようにふてくされて霊障を起こすから、酒好きの間を渡り歩いた末に俺のところへ来たのだよ」


「ふてくされる」と言われたとたん、酔芙蓉の紅が薄まる。

 そう言われるのが不満なのはよくわかった。

 ただ銀市が酒を呷り再び注ぐと徐々に紅が戻ったから、完全に気分を害したわけではなかったのだろう。


 銀市は、仕方ないなあという顔で酔芙蓉を見つめ盃の水面を揺らす。

 夜風が頬を撫で、庭の梢を揺らしていく。紺碧の空には朧の月が昇り、あたりをゆったりと照らしている。

 よく見ると、少しだけ銀市の髪が銀を帯びていた。気が抜けると、元の色が表に出やすいのだと以前聞いた。きっととてもくつろいでいるのだろう。


 静かだ。と、珠は思った。


 会話がなくとも、居心地の悪さは感じられない。

 銀市の傍らで、彼が楽しむのを眺め、ゆっくりと流れる時に身をゆだねるのが心地よかった。

 珠がほう、とため息を零すと、はっとしたように銀市が珠を見た。


「すまんな、君は風呂がまだったのに引き留めた」

「いえ、お気になさらず! 素敵な物を拝見できましたし、……なにより、銀市さんが飲まれている姿がなんだかいいなあと思って」


 珠が否定しながらもこぼすと、銀市はゆっくりと瞬くと、口元を隠すように手で覆う。


「そうか。なら、時々つきあってくれるか。君は茶でも用意すると良い」

「いいの、ですか?」

「一人で飲みたいときはそう言うさ」


 珠はふわっと、頬が熱を持つのを感じた。

 あくまで、銀市を取り巻く空気が心地よいと、感じただけだった。

 けれど、その一言で彼の心地よさに招いてもらえたように思えて、じんわりと嬉しい。

 銀市の側を離れるのが惜しいな、と思っていたけれど、次がある。


「ありがとうございます。では、次は自分のお茶を用意します」


 うなずく銀市に会釈を返して離れた珠は、自分の足取りが軽いのを自覚した。


 それ以降、珠は銀市が晩酌を用意するときは、自分のお茶も用意するようになった。





 *




 我は酔芙蓉の盃である。さる粋人の「一人で飲むにはつまらない時に楽しめる、遊び心のあるものを」という依頼によって生み出された。

 よって我は酒を愛し、だが一人飲みに物足りなさを覚える酒飲みを慰めて遣ることを信条としていた。

 酒癖の悪い者は徹底的に祟り、様々な飲み手を渡り歩いていたが、今の主はなかなかいい男である。


 はじめこそ恐ろしさはあったが、酒の趣味は良い上に、洒落を理解している。何より「我」という存在に気付いてもなお、我が飲みたいときに定期的に使ってくれる。

 このような男であれば、多くの友がいてもおかしくはなかろうに、決まって奴は一人で飲む。

 そのような酒飲みのために我は生まれたのだから、もちろん付き合ってやる。

 が、人の世というのは奇妙なものだとつくづく思った。


 そんな矢先、箱にしまわれたまま使われない日々が続いた。

 むろん我は器物ゆえ時の流れは些末なことではあるが、酒が飲まれないのは大変不満である。ゆえに不満のままガタガタと箱を揺らしていると、ようやく誰かに開けられた。

 蓋を開けて覗き込んだのは、水の気配がする男と、黒髪のまだ幼いともいえる娘だった。

 一旦閉められたと思ったら、台所で再び娘に開かれた。

 娘はとうてい酒を飲みそうにない。

 ただ、将来良い酒飲みになりそうな気がする。

 一体誰だ。と思っているうちに、娘はこう言ったのだ。


「おまたせしました。使うために洗わせていただきますね」


 明らかに我という存在を認識して話しかけてきた娘に面食らっている内に、我は洗われ、ちろりや肴と共に盆にのせられて供された。

 縁側では、予想通り水の気配のする男が待っていた。


 大きな手に包まれた時に、なにか不思議な感覚がした。

 しかし長らく放置されたことには変わりがないため、そう簡単に奴らを楽しませる気はない。

 注がれた酒はそれなりのものだったが、無視していると、男にまじまじとのぞき込まれた。


「ただな、自分でも意外だったんだが、盃を見るまで思い出さなかったんだ」


 男の言葉で、あっと気付いた。

 この男の表情がやわらかい。なにより男に所有されてからはじめて男は他人と共に飲んでいる。


「私が、お邪魔でないのでしたら良かったです。えっと、あの。晩酌などの準備でしたら、いつでもいたします、ので」


 娘の言葉に、男の表情も穏やかに緩む。


「そのときは頼もうか。酒と月があれば充分だが、やはり肴があるのは良い」


 それは、酒の注ぎ方が優しい娘がいるからだ。

 彼らの間に漂う空気は温かく静かだ。

 寂しげな様子はどこにもない。こちらまでくつろいだここちになるような。

 元々この酒もうまいのだ。なんだかこちらまで良い気分になる。

 そう思っていたら、つい赤く染まってしまった。

 のぞき込んできた娘にほれぼれとされて、意地を張っていたことが決まり悪くなる。


 まあいい。丁寧に扱ってくれたこの娘を、少し楽しませてやるくらいは良いだろう。

 だが、とうまそうに酒を飲む男を見上げる。

 なるほど、この男はもう寂しくないのだな。

 男が娘と飲む姿を見てみたい気もするが、しかし我は孤独な酒飲みのための盃だ。

 そろそろ新たな飲み手を探すのも良いかもしれぬ。

 おお、ちょうど良い気配がする。

 酒が好きで、ほどよく飲めて、だが一人飲みが寂しい酒飲みの気配だ。

 ならば我が付き合ってやろう。



 さあ、お前はどんな酒が好きだ?

 


終わり






 みなさんの応援のお陰で、龍に恋うシリーズが25万部を突破いたしました!ありがとうございます。(コミック、原作、電子含む)

 コミック5巻は11月7日。

 龍に恋う六巻は2024年冬に発売いたします。

 お待たせいたしました……! これからも、龍に恋うシリーズを楽しみにしてくだされば幸いです。

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龍に恋う 贄の乙女の幸福な日常 道草家守 @mitikusa

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