納涼乙女と西瓜
時系列︰いつかの夏
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「あっっっっつい!!!」
そんな大音声が聞こえて、廊下のぞうきんがけをしていた珠は手を止めた。
顔を上げると、今日も銀古に来ていた瑠璃子が、ずかずかと歩いてくるところだった。
彼女の装いは、ふわりとギャザーが寄せられたフレアの半袖ブラウスと、ふわりと広がる膝丈のスカートだった。大胆に腕を晒した半袖と、生地の薄いスカートが歩くたびにひらりひらりと揺れて涼しげである。
珠がその颯爽とした姿をぼんやりと眺めていると、瑠璃子は目尻がつり上がった眼差しをこちらに向けて詰め寄ってきた。
「珠、こんな暑い時間に日向で働くなんて暑くないの!」
暑いと瑠璃子は二度言った。密かに感心しつつ、珠はぞうきんを持ったまま答えた。
「暑いですが、でも仕事を終わらせる方が大事ですから」
今も廊下に夏の日差しが差し込み、たすきで留めた袖からあらわになった腕や頬を焼いている。
首筋に汗が流れるのを感じて、珠は手で拭った。
梅雨の切れ間で夏めいた日差しが降り注ぎ、気の早い蝉が庭で鳴いている。更に風もあまり吹かず、熱が籠もる一方だ。珠も今日は三つ編みではなく、首筋に髪が掛らないようまとめ上げたほどだ。
しかし、気温は仕事には関係ない。むしろ梅雨の貴重な晴れ間を逃さないため、朝から洗濯物に空気の入れ換えなどせっせと働いていた。
そもそも、夏の暑さに怠けてはいけない。
きりっと、表情を引き締めた珠だったが、半眼の瑠璃子に手を伸ばされる。
ぴとり、手を当てられたのは額だ。
「ひゃっ」
「あんた体に熱が籠もってるわ。暑さに当てられて倒れたらたまったもんじゃないんだから、休憩しなさい」
「でも……」
「見てみなさい、妖怪ですらへばるんだから!」
瑠璃子が指し示した鴨居には家鳴りが座っていたが、どこか覇気がなかった。
体を揺らがせた結果落ちかけてた個体が、別の個体に慌てて引っ張り上げられている。さらに、天井下がりがぐったりと天井から垂れ下がっていた。
ぱちくりと瞬く珠に瑠璃子は堂々と言い放つ。
「あたくしも暑いわ。だから涼むわよ、あんたも妖怪共も手伝いなさい!」
「は、はいっ」
瑠璃子の勢いに勝てる者など、今は誰もいない。
珠と妖怪達はそれぞれに背筋を伸ばして、瑠璃子の号令に従ったのだった。
納屋に保管されていたよしずを持ち出し、縁側に立てかける。
更に狂骨に見守られながら井戸から水を汲み、家鳴り達や瑠璃子と協力してたらいや桶に水を満たしてよしずの影に運んだ。
「ええと、これでどうするんですか?」
「もちろんこうするのよ」
珠が吹き出した額の汗を拭いながら問い掛けると、縁側に座った瑠璃子はスカートが濡れないようたくし上げると、縁側の下に置いたたらいへ足を浸したのだ。
「はー気持ちいぃ……」
満足そうに伸びをする瑠璃子のあらわになった白い足が、夏の日差しにまぶしく濡れており、少し艶めかしい。
思わず見惚れた珠は、我に返って少し顔を赤らめた。
「る、瑠璃子さん、そんな……」
そんな大胆なことを、と続ける声は、瑠璃子の堂々としたたたずまいにしぼんだ。
「なんでよ。暑いから涼むのは当然でしょ。ここには誰もいないんだから、あんたも準備したんだから足を浸しなさいよ。井戸から汲んだばかりだから、水が冷たいわよ」
珠は怖じ気づいて、一歩後ずさる。だが、珠をよそに、瑠璃子は縁側に寝そべりさえする。意図を理解した家鳴りは我先にと瑠璃子が足を浸すたらいへ飛び込んだ。
天井下がりもするすると降りてくると、縁側に置いた桶の水へそうっと体を浸す。
うっとりとした顔で浸る天井下がりや、楽しげに水をかけ合う家鳴り達を前に、珠は体がうずりとするのを感じた。
それでももじもじとためらう珠に、瑠璃子が足で水をかき回しながら、誘うように笑ってみせる。
「ほら珠、あんたも準備したんだから。労働の対価を受け取らないのは、あたくしに失礼じゃない?」
彼女の素足から、ぴちょんと雫が落ちる。
⸺とっても、気持ちよさそう。
と、考えてしまったところで根負けした。
「……では、ほんの、すこしだけ」
珠は単衣の裾を割り、腰巻きごとたくし上げる。
真昼に足をあらわにするのはドキドキとするが、瑠璃子の傍らに腰を下ろし足をたらいに降ろす。
赤くなっていた指先が水につかった途端、じん、としびれるような冷たさを感じた。
思わず足を引っ込める。だが、徐々に冷たさに馴染めば心地よさに変わり、すねの半ばまでつかると、知らずのうちに珠は心地よさにほう、と息を吐いた。
火照った足が冷めるにつれて、全身に涼感が広がるようだ。
自分が思っているよりも、ずっと暑かったのだと、今更気づいた。
珠が足を浸すたらいにも家鳴り達は遊んでいる、ぷかぷかと浮いているかと思えば、一体がばちゃんと水面を揺らしてしぶきを飛ばした途端、水の掛け合いに発展する。
しぶきが珠の足を濡らしていくが、水滴が日差しに反射してきらきらとするのに見蕩れた。
珠が試しに足を動かしてぱちゃりと水面をゆらすと、家鳴り達は起きた波紋に身を任せて揺れる。楽しげな様子に、珠の頬も緩んだ。
瑠璃子は遊びに興じる家鳴り達を適当にいなしながら、出し抜けに口にした。
「そろそろサイダーがおいしい季節ねぇ。あんたサイダー飲んだことある?」
「いいえ。でも、口の中でぴりぴりするんですよね」
「あの辛みが暑さを吹き飛ばしてくれておいしいのよ。キンキンに冷やしたやつとか最高なのよね。今度持ってくるわ。氷箱を入れてくれたら冷やせるんだけど。雪女とか雪ん子とか雇ってくれないかしらねえ」
「雪ん子さんたちは、夏になる前に山に帰らないととけてしまいますから……」
珠は氷場に紹介した雪の妖怪達が、出稼ぎから故郷に帰る際に言い残した言葉を思い出す。
氷箱のなかでなら夏を越せるのだろうが、それはそれで窮屈だろう。
「まあ良いわ、今度持ってきてあげる。瓶長やそこの井戸の水ならきっと涼しいでしょ。とはいえ、涼しいけど冷たいものが欲しいわねえ」
瑠璃子が独りごちるなか、珠はぼんやりと天井を見上げていた。
光を反射した水面の影がゆらゆらと映っている。時折家鳴りの丸い輪郭が映り込んでいる。風が濡れた首筋や足を撫でていけば、更に熱が引いていく。心地よさに瞼も重くなりそうだった。
朝から家事をしっぱなしだった珠は、うとりと睡魔に襲われ始める。
こっくり、こっくりと船をこぎだす珠に気づいた瑠璃子は、やっとかとばかりに肩をすくめる。
気づかない珠は、そのまま眠りかけたが、ぎしりと廊下がきしむ音で微かに浮上した。
「珠、いるか」
自分が呼ばれたと、反射的に瞼を開けると、廊下から銀市が現れるところだった。
その手には緑の中に黒い縞模様も鮮やかなスイカが抱えられている。
たらいに足を浸して涼む珠と瑠璃子に、銀市は大きく目を見開いた。
すぐに礼儀正しく視線をそらす。
「涼んでいたのか、邪魔した」
「っも、申し訳ありませんっ。お見苦しいところをっ」
珠は慌ててたくし上げていた裾を元に戻した。裾が水に浸かって濡れてしまったがそれどころではない。
思い切り気を緩ませている所を晒してしまったのだ。これは大変な失態である。
しかも、異性に着物の裾をたくし上げて素足を晒してしまったのだ。
じわりとこみ上げてくる気恥ずかしさに、体温が上昇する。
「いや見苦しいとは思わないが、むしろ眼福と言うべきだろうか」
「あら、銀市さんのスケベ」
瑠璃子が悠然と足を晒したまま揶揄するのに、銀市は苦笑を返す。
「なら気にしないとでも語ればいいか?」
「そんなこと言ったら、珠みたいな若い子と、このあたくしの足を見て美しいと思わないなんておかしいから抗議するわよ。ねえ珠」
「えっあの、その……」
急に瑠璃子に水を向けられた珠はたらいの中に立ち尽くしたまま、もじもじとする。
さすがに、といった様子で銀市は瑠璃子に苦言する。
「瑠璃子、珠を困らせるな」
「いえ、その、銀市さんが、ご不快でなければ良いのです。ところで、何か御用ですか」
二人の軽妙なやりとりに珠はあっけにとられたおかげで、徐々に羞恥が薄れてきた。
まだ顔から赤みが引かないながらも、問い掛けると、銀市は片手に抱えていた西瓜を差し出した。
「客の河童が西瓜を置いていったんだ。食べやすいように切ってくれないだろうか」
その瞬間、家鳴り達が一斉にたらいから飛び上がった。
ばちゃんっと、水しぶきが広がり、珠と瑠璃子を襲う。
「こらっ家鳴りども! なにすんのよ!」
瑠璃子が抗議すると、家鳴りはけたけたぴしぴし逃げ惑う。それでも西瓜がよほど嬉しかったらしく、銀市の周りに纏わり付いた。
喜ぶ家鳴りに巻き込まれてしまい、結局びしょ濡れになってしまった珠は、思わず吹き出してしまう。
ぎこちないながらも、笑い声を上げる珠に、瑠璃子は拍子抜けし、銀市は驚きながらも笑みを零す。
その雰囲気に気づかぬまま、珠は笑みを収めると銀市に向き直った。
「わかりました。ここを片づけて着替えましたら、西瓜を切ってまいりますね」
「別に足を浸けながら食べたって良いじゃない。濡れた縁側は濡らした家鳴り達に拭かせれば良いのよ」
語った瑠璃子に睨まれた家鳴り達は、同意するようにキシキシと互いの体を打ち鳴らしした。
この騒ぎの中でも悠然とたらいに身を浸していた天井下りも、ひらひらと手を振る。
「ではそれまででも、冷やしておくか。着替えてきなさい」
珠は戸惑うが、銀市までそう語られてしまえば、従うしかない。
それに、珠の体はふわふわ軽い。弾むようだ。
もう一度、水を張ったたらいのほうを振り返る。狼狽えて、困ってしまったけれども。
「楽しかった……です」
「珠?」
「なんでもありませんっ」
銀市に呼ばれた珠ははっと我に返ると、濡れた着物で床を濡らさないよう気を付けつつ、自室に戻った。
珠の後ろ姿を、銀市がやわらかい眼差しで見つめていたのには気づかずに。
その後、切った西瓜は真っ赤に熟れていた。一口かじるだけで、しゃくしゃくとした爽快な歯触りと、甘みが口いっぱいに広がり、珠の自然と顔がほころぶ。
だが、きっと西瓜がおいしいだけではないのだろう。
隣には足に水を浸したまま、三角に切った西瓜に口を付ける瑠璃子が腰掛け、手ぬぐいを敷いた上で、猛然と西瓜をかじる家鳴り達がいる。
そして瑠璃子とは反対側に銀市もいた。
普段、素早いながらも品良く食事をする彼が、くし切りにした西瓜を無造作にかじる姿は新鮮だ。
思わず珠が眺めていると、銀市と目が合った。
「どうかしたか」
「ええと、なんというか……心地よくて」
暑くて、涼しいけれど、ふわふわする。
こんな曖昧な事をいわれても困るだろう、と珠は謝罪を口にしかけたが、銀市は温かな笑みを浮かべていた。
「君が、そう感じてくれるのは俺も嬉しい」
この人は、否定しないのか。じわり、と気温はそのままのはずなのに、熱が上がった気がした。
呆れた顔で瑠璃子が見るが、けれど銀市は西瓜をかじっている。
「さすが、瓜のことはよく分かっている。うまいな……珠?」
「……いいえ、はい。おいしいです」
なんとか取り戻した珠は、自分の西瓜をしゃくり、とかじる。
真っ赤な果汁が手に滴るが、気にならなかった。
ここちよい。けれど、先ほどよりも、西瓜がずっと甘く感じられた。
《終わり》
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