懸念主と乙女と菓子
※2巻読了後推奨です。
時系列:おつかいの後
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銀市は風通しの良い縁側で、少女雑誌をめくっていた。鮮やかで繊細な少女の叙情画が表紙を飾るそれは、珠の興味を広げるために本屋に買いに行くよう願ったものである。さらに、欲しい本を買ってくるよう言いつけたのだが……。
その時の珠を思い出し、銀市はふと苦笑を浮かべた。
「まさか家政本を買ってくるとはなあ」
余暇になるものを選ぶと考えていたのだが、甘かった。彼女は銀市の願いで、銀市の金子であがなうならば、役に立つものをと無意識に考えたのだろう。
ただ、どこまでも職務に忠実な彼女が、本を見せてきた時のほのかに頬を紅潮させた姿は無垢で。そういう意図ではなかったのだと説明すのもはばかられたのだ。一応、好きで購入したのは間違いないのだから。少女雑誌も一緒に頼んだのは、悪くない判断だと改めて考えたものである。
方便の側面が強かったが、銀市も興味がわいたのは事実である。
己の好みで選んでいると視野が狭くなるため、意識して新しいものを取り入れるようにしていた。
雑誌は、冒頭の数ページが多色刷りの叙情画になっていた。そこから、一色刷りの写真が続き、様々な読み物が入っている。
大半は詩や小説の連載だ。だが少女達の通う学校の記事や、手芸の方法、気の利いた菓子の作り方や、化粧品の使い方などの実用的な内容も載っている。
「どことなく文章の表現が柔らかい、のか…? 読まれる先が違うだけでこうも変わるのか」
この時代、少女達に好まれた少女小説は文壇からはあまりにセンチメンタルだと批判され、格調高い小説を好む一部の教養人からは忌避されていた。
だがしかし、銀市にとっては同じ読み物でしかなく、そこに描かれる、少女達のもの悲しくも生き生きした姿を興味深く追っていくだけだ。
それなりの年月を過ごしてきた銀市だが、珠のような歳の娘を手元に置くのは初めてのことである。世の少女達がどのような事を考え、どのようなものを楽しんでいるか。少し知って起きたいと考えていたのだ。
「若い娘の考えている事なんて、と考え始めたらじじいの始まりだからなぁ」
瑠璃子や御堂に目をつり上げられるか、若い娘の居る場所へ連行されるかのどちらかだ。
ひとりごちた銀市が、傍らの茶をたしなみつつ雑誌を眺める。
しかし、後半にさしかかり、「読者の身の上相談」の項目に至ったところで、銀市の手が止まった。
知らず知らずのうちに、難しい顔になる。
目に入ったのは、匿名で、家族の悩みを相談している内容だった。
父親の行動監視が厳しい、というこの年代であればよくある悩みで、愛情の形なのだから辛抱しなさいとの返答がされていた。
近年になり、多少治安はよくなったとはいえ、まだ娘1人で出歩くのは不安が多い世の中だ。この娘の父親が、帰りが遅いのをとがめるのもわかるし、生活態度に口を出したくなるのもわかる。現在の銀市が珠に対してそうだからだ。
しかし、その相談主の娘の父親が義理であること。さらに娘が「気味が悪い」とこぼしている事に、なんとも気まずい気持ちになったのだ。
銀市は珠の保護者だと自認している。
現在の自分達は、この身の上相談の娘と父親と似た関係だと言えるはずだ。つまり一歩間違えれば、珠がこ娘のように己を疎ましがる可能性もあり得る。
銀市は神妙な顔で、袖に手を入れて腕を組んだ。
珠は、自己を主張するのが苦手だ。まだまだ己の感情に鈍く、雇い主である銀市に対しては少しでも不快になるような事柄を押し隠し、躊躇うのが癖になっている。それは、女中としては鏡のような姿勢だ。しかし銀市にとってはもどかしく、寂しいことでもある。
彼女が感情を表に出せるようになるまでは、己が察してやれればと思う。
ただ、引っ込み思案で控えめな彼女の情動を引き出すには、少々強引な手段に頼ることも多い。積極的に関わってゆくという本末転倒な事になっていた。
それに忌避を感じていたとしても、珠はあからさまに銀市を避けるようなまねはしないだろう。
言葉で語れば素直な子とひとくくりにできるが、人でも妖怪でも相手に合わせたやさしい気遣いが出来る娘なのだ。彼女の希有な部分だと考えている。
なぜ、銀市がそのような不安を覚えたかと言えば、最近の彼女の遠慮がちな眼差しが思い起こされたからだ。
「天井下り、いるか」
『よんだ?』
器用に天井から下りてきた、毛むくじゃらの子供のような顔に訊ねる。
「ここ数日の珠は、落ち着かないようだが、何か知っているだろうか」
すると、天井下りは逆さまのまま首をかしげた。
『珠、落ち着かない。悩んでるみたい?』
「やはりそうか……」
礼を言って天井下りを下がらせた銀市は、開いたままの少女雑誌に目を落とし思案する。
自分が知らないうちに、何かをしてしまっているのなら改めたいところだ。が、真正面から聞いても、彼女は一歩下がって曖昧にごまかすだけだろう。
「この菓子を、作れないか聞いてみたかったんだがな」
それどころではない。何かしら、策をとらねばならないだろう。
思い立ったが吉日だ。銀市は雑誌を閉じるなり素早く立ち上がったのだが、小さな悲鳴が聞こえてそちらを向く。
開け放ったふすまの影に居たのは、珠だった。長い髪を緩く三つ編みにし、地味な着物に身を包んでいる。
銀古にきて少し頬がふっくらとしてきたものの、まだ年齢よりも幼げで線の細い雰囲気が残っていた。上目遣いにこちらを見上げてくる彼女の表情は希薄だが、それでもおずおずとした様子は伝わってくる。
「ごめんなさい、お邪魔をするつもりはなかったのです」
心底申し訳なさそうに謝罪をされて、銀市は苦笑が表に出ないようにしつつ、できるだけ穏やかに聞こえるように応じる。
「俺が驚かせたのだろう? こちらこそ悪かった」
「いえ私の事は、お気になさらず……」
そう答えた珠を取り巻く空気が安堵に緩む。ほんの少し口元が緩んだ程度のかすかな変化だが、それでもずいぶん表に出せるようになったと思う。
だからこそ、彼女の憂いの種にはなりたくないのだ。
銀市が考えている間も、珠は落ち着かない様子で立ち尽くしている。
だが、銀市が少女雑誌を抱えているのに気づくと、意を決した顔をした。
「あの、雑誌は、全部よまれ、ましたか」
「今目を通し終えたところだ、なかなか興味深かった」
銀市がひとまず無難な言葉を返すと、珠は思い悩む風だ。
表情から強い不安と緊張を感じて、銀市もまた思案する。彼女が己に言いたいことがあるのは明白だ。ためらっているのなら、こちらから促すのも吉だろう。彼女相手では、待つのが悪手になり得るのも、銀市はすでに理解していた。
「珠、なにか俺に言いたいことがあるのだろうか」
珠が狼狽に瞳を揺らす。反射のように開きかけるが、すぐに我に返ったように口をつぐんだ。
だが銀市は遠慮をされなかった事に安堵する。それくらいには心を開いてくれているのだ。ならば銀市はいくらでも待てる。
これでも伊達に歳は食っていないから、待つのには慣れていた。
珠は両手を握って葛藤していたが、小さく声が響く。
「あの……」
「うん?」
「豆乳と卵を、余分に買ってもいいでしょうか……」
意外な進言に、銀市は目を丸くした。
顔を赤らめた珠は、銀市が戸惑っているのに気づくと、早口で続ける。
「あの、雑誌に、作ってみたいお菓子があるんです。ただ材料には牛乳をつかうのですが、さすがに高く……豆乳で代用してみようと思います。それでも卵はそれなりのお値段がしますし、日々の食事の買い物ではないので、相談してからと思いました」
少女雑誌に載っている菓子のレシピと聞いて、銀市はぴんとくる。
「それはもしや、プリンかな?」
「は、はい。卵のお菓子で、銀市さんがお好きかもしれないと思って……あっ」
珠はしかし、そこで若干顔色を悪くする。
「甘い茶碗蒸しのようなものらしいんです。ご興味、ありますか」
不安げな彼女に、銀市はじんわりとこみ上げる嬉しさを感じていた。
自分の懸念が杞憂だったことと、なにより珠の葛藤が手に取るようにわかったからだ。銀市が卵料理を好んでいたのを覚えていて、関連づけたのだろう。
だが、きっちりと食費の管理をしている彼女の性質からして、菓子という「余暇」にお金を使うのは躊躇ったのだ。それでも、言い出した。
「銀市が好みそうだったから」という理由なのは脇に置いとくにしても、ずいぶんな進歩ではないだろうか。
自分の好みを把握されているのは、だいぶ照れてしまう。だが隠すと余計な気を遣わせるだろう。
「実はな、君にプリンが作れないか聞いてみようと考えていたんだ。試しに作ってみて欲しい」
素直に喜色を浮かべた銀市が願うと、珠の表情が安堵と喜色に染まった。
だがしかしすぐに不安を覗かせる。
「洋菓子は初めてなので、うまく作れるかわからないのですが」
「初めての事に挑むのなら当然のことだ。練習だと思えば良い。……とはいえ、楽しみにしている」
「……はい」
つい、銀市が本音をにじませると、珠はそれでもこくりと頷いた。
その返事がほのかに嬉しそうに感じられたのは、気のせいではないのだろう。
こういう風に、楽しみを共有できるうちは、大丈夫かも知れない。
結局銀市は、彼女が少しずつ興味の幅を広げるのを、間近で眺められるこの距離が好ましいと感じている。 失うのを案じるくらいには。
少々撫でてやりたい衝動に駆られたが、さすがにこらえる。それこそ、子供扱いだろう。
銀市は頭を下げてゆく珠の、心なしか弾んだ足取りを見送ったのだった。
その後、豆乳を使ったプリンもどきは、銀市をはじめ銀古の妖怪たちにも持て囃された。
〈終わり〉
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