龍に恋う 贄の乙女の幸福な日常

道草家守

乙女と花雪

コミック版龍に恋う1巻の電子特典に触発されて書きました。

時系列:いつかの冬の話







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 挨拶に訪れた屋敷から辞した珠はほっとした。吐く息は白い。

 あまり人の来ない銀古だったが、反面妖怪との付き合いは膨大だ。その上、人間に紛れて生活する妖怪達をふくめると、かなりの数になった。

 この屋敷で、訪ねた家は両手の指を超えてしまう。

 しかもこの屋敷は妖怪が住まう場所だ。

 一歩屋敷から出ると広がる庭は広大だ。真冬の寒さにもかかわらず、橙色の金木犀が咲き、馥郁とした香りを漂わせるかと思えば、椿が満開で咲き誇る。どこからか蝉の鳴き声まで聞こえてきて、珠は今の季節を忘れてしまいそうだ。


「少し疲れたか?」


 低い声で案じられ、珠が視線をあげると、銀市が見下ろしている。

 仕立ての良い鮫小紋の羽織をはおり、長着の中にシャツを着込んだ姿は、よそ行きのきちんとした格好ながら、いつも通りだ。


 彼が見ているのは、珠の髪である。


 珠もまた、今日はよそ行きの着物に帯をお太鼓で締め、羽織を羽織っていた。

 だが、いつもの三つ編みには、小菊や菫など様々な花が編み込まれている。

 この屋敷に居た童の姿をした妖怪に遊ばれたのだ。銀市が屋敷の主人と話す間、彼らの相手をしていた時に、こうして庭の花を持ち寄って飾り付けてくれたのである。


「大丈夫です、むしろ私の相手で小鬼さん達に満足いただけてほっとしておりました」

「そこまで身を挺さなくても良いのだが」


 銀市に苦笑されてしまったが、珠はまったく気にしていなかった。それに、ぼうっとしてしまったのは別の理由からだ。


「それにしても妖怪さんの住む場所は、やっぱり変わってらっしゃいますね。お庭の景色がとても鮮やかで目がくらんでしまいました」

「ここは確かに花の精の気が濃いから、常に花で満ちているんだ。ただ、惑わされると戻って来られなくなるから、そばにいなさい」

「はい」


 銀市の忠告に従い、珠は銀市の三歩後ろにぴったりと寄り添う。

 この位置が当然だと思ってのことだったが、なぜか銀市に苦笑されてしまい、珠は困惑する。

 すると、銀市が持っていた和傘を広げて戸惑った。

 珠が空を見上げると、夕焼けの橙と夜の紺青、そして快晴の青が入り混じった不思議な空が広がっている。もちろん、雨は降っていない。

 落ちてくるものと言えば、はらりひらりと風に舞う桜の花びらだけだ。

 珠が疑問に思っていると、傘を差した銀市は珠を手招きする。

 明らかに傘の中に入れ、という意図を察し困惑は深まるばかりだ。それでも雇い主の意向だと思い切ってその陰に入り、目を丸くする。


 花弁だと思っていたものが、傘の中に入ったとたん、雪に変わっていたのだ。


 さらさらと静かに舞うものは、花弁ではなく白い氷の粒だ。


 驚いて身を引き傘の外に出ると、元の薄紅に染まった花弁に見える。

 どちらが本当なのだろうと珠が途方に暮れると、銀市が手を伸ばし、落ちてくる花弁を受け止めて見せる。彼の手の中で薄紅の花弁は儚く溶け消え、雫となった。


「君の感じたものが正しい。ここでは花の香に惑わされやすい。濡れてしまうから、入りなさい」

「で、では傘は私が持ちます」


 珠は驚きは冷めずとも、急いで傘の柄を受け取ろうと手を伸ばす。だが柄は逃げてしまった。


「君が持つより俺が持った方が効率が良い。行くぞ」


 有無を言わさない銀市に、珠は落ちつかなさを覚えつつも従うしかない。

 とはいえ、嫌な訳でも不快な訳でもないのだ。

 銀市が石で舗装された道に踏み出すのに合わせて、珠も歩き始める。

 花弁が落ちている道を踏むと、足袋に包まれたつま先にしみるような冷えを感じる。

 確かに冬なのだ。吐く息が白くなるわけである。

 ただ銀市の傘に入ろうとすると、そばに近づかねばならない。彼と肩を並べるのはまだまだ気が引けてしまう。

 頭さえ濡れなければ良いだろう。そういえば、小鬼達が飾り付けた花はどうなるのだろうか、と珠が視線を流すと、影が移動した。

 髪に挿された花々はみずみずしいままで安堵したが、今や傘は珠の肩までかかっている。

 そうっと銀市を見ると、彼の外側の肩は外に出てしまっているのに、素知らぬ顔で前を見ていた。


 珠の心臓がとくりと跳ねる。また、落ちつかなさが増してしまう。


 銀市は、そういう人なのだ。傘の中に入れてくれるだけでも充分なのに、たかが女中の身を優しく扱ってくれる。


 嫌ではない、嬉しくて、くすぐったい。


 けれど、このままでは銀市の着物が濡れて冷えてしまう。彼はとても寒さが苦手なのだ。

 自分の申し訳なさよりも、銀市の身体の方が大事である。


 珠は、思い切ってもう一歩、近づいた。

 銀市の顔は見られなかったが、程なくして傘の位置が戻る。

 しかし、珠にさしかけてくれるのは変わらない。

 ささやかで明確な気遣いに、珠は指先同士を重ね、震えそうな気持ちの高揚をやり過ごした。珠にはもったいないほど、良い雇い主だ。

 銀市が歩きながら話しかけてくる。


「雨になるか、雪になるか、どちらかになるかとは思っていたが、これが初雪になるだろうな」

「たしかに。最近、陶火鉢さんも張り切られるほど寒くなっていましたし」

「そうだな。火鉢が張り切って歩きまわるせいで、灰が落ちてすまんな……」

「いえ、元気なのは良いことですから、陶火鉢さんとこたつに火を入れますね。あっお茶も淹れましょう」

「それはいいな」


 珠の指先もつま先も冷えていたが、銀市と何気ない会話は身体の芯まで温かくなるようだった。

 珠は自分の頬が緩むのを感じていた。 










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