後編

「名古屋の人が、わざわざこんな低山に登りに来てくれるなんて」

 地元の低山で他県の登山者に会えるというのは、なんとなく嬉しい。これが団体だと少しうっとおしいが、ソロ同士だと気安さが生まれる。

「愛知にも低山は多いですが、こっちの方が山が面白いと思ってて」

「慣れてらっしゃる感じですもんね。そのバッジの、山小屋。行ってみたい小屋です」

「ミーハーなだけです」

「登山者なら誰でも一度は憧れる、ゴールデンコースでしょ」

 会話が弾む。

 ふと名乗りもしていないことに気付いたが、些細なことだ。山で出会った者たちの会話で、まず名乗り合うという儀式はない。あったとて3分後には忘れている。

 別れの挨拶は、

「じゃあ、また、どこかの山で!」

 だ。

 そう言って別れた人と再会することはまずないが、有名な山や同じ県で同じ山を登っている同士なら、そうしたケースもたまに聞く。

 高子も話しながら、すでに別れのことを考えて「また会えると良いな」などと感じていた。

 すっかり食事は終えていて、食後のコーヒーも冷めてきた。夏の名残の通り雨はやんだようだ。東屋から滴り落ちる雫も少なく、小さくなっている。片付けて、下山への気合を入れねばならない。

 高子は忘れていた捻挫を思い出し、足首を回してみた。

「……っ」

 食べたり喋ったりしていたら、まったく気にならなかったのに。現金なものだ。だが下山に時間がかかるだろうから、もたもたしていたら日が暮れてしまう。

「あの……」

 申し訳ないと思いつつも、青年にテーピングテープは持ってないかと訊いてみた。

「ありますよ!」

 快い返答だった。

 それどころか高子の前に、王子のように片膝をついてしゃがみ込み「僕の膝に足を乗せて下さい」と指示をして、テープを巻き始めてくれたのだ。

「そ! そんな」

 高子は思春期の少女のように、真っ赤になってしまった。男性に肌を触れられる機会など、例え足首でもないことだ。むしろ足首を触られるシチュエーションが、なかなかないが。

 青年の暖かく骨ばった優しい手触りに、足首が痺れてゾクゾクする。そんな自分の卑猥な感情を見抜かれている気になって、同時に羞恥心に苛まれる。早く誰かに通りかかって欲しいような、逆に誰にも見られたくないような、複雑な気分を味わった。

 青年が言う。

「僕こんな格好してるでしょ。トレランに憧れて、山登りを始めたんです」

「やっぱり」

 話し出してくれたことにホッとして、少し肩から力が抜けた。青年は丁寧にしっかり巻いてくれている。

「でも走るのってやっぱり危険で、僕も何度か捻挫してるんですよ。それからは別に走らなくても良いのかって気になってきて、どっちかっていうと山の中にいることそのものを楽しむようになったっていうか」

 だからテーピングテープを巻くの上手いんです、僕。という締めくくりだ。

 青年が山の楽しみ方を変えてくれて、こうして出会えて良かった。

「助かりました。あなたが羊羹片手に走り去ってたら、私は下山にも転んで怪我したかも知れませんね」

「まだ下山してないので、油断はしないで下さい」

 ごもっともだ。


 青年がテープを終えて靴下まで履かせてくれた。靴を履き、靴紐を締め直す。足首がしっかり固定されて痛みがなくなった。とはいえ油断禁物だが。

 立ち上がってみる。

 大丈夫そうだ。

「ありがとう。本当に助かりました。パスタまでくれたのに、私があげられるものがマドレーヌ一個だなんて本当に申し訳ないわ」

 しかも貰い物の、賞味期限が切れかけているものだ。

「持ちつ持たれつです。気になるなら、今度お会いできた時におにぎり、ご馳走して下さい」

 どこまでも爽やかな青年だ。ソロをしているのが不思議な人なつこさだが、彼にも彼の色々があったのだろう。トレランをやめたとか、富士山3周する友人がいるだとかの話も根深いものがありそうである。だから敢えて尋ねないでいる。

「じゃあ」

 と別れの素振りを見せつつ片付けをしたが、青年も同じタイミングで片付け、同じく下山を開始してくれた。ここは甘えて良いところなのか……と思いながらも、わざわざ聞くのは恥ずかしかったので、青年の歩調を確認しながら少し話しかけてみる。

「足首、大丈夫みたい」

「それは良かったです。週末なのに、こんなに人がいないと、ちょっと心細くなりますよね」

 青年が前を歩き、それを高子が付いていく。自然とその並びになり、そして青年の歩調は変わらない。心なしか歩きやすい位置を選んで、高子に示してくれているようにも見える……というのは、勘ぐり過ぎか。

「賑やかすぎるのは辟易するのに、静かすぎるとちょっと寂しい……っていうのは、ソロ登山やってる人間としてどうなの? って感じですけどね」

 自虐的に、乾いた笑いが漏れた。が、青年は同じ笑い方はしない。

「良いじゃないですか、賑やかなソロ。人に合わせることをしなくて済むけど、人がいるのは心強いっていうのが、人気の山に登る理由でもありますから」

 同じ考えだった。高子を肯定してくれたようで、嬉しかった。

「ありがとう」

「いえいえ」

 その後も結局、下りきるまで青年は付いていてくれた。登山口の駐車場に戻ると、車は3台だった。すれ違った人はいなかったので、別ルートを歩いてらっしゃるのだろう。

 もしくは……という嫌な想像は、したくないが。

「私はこの車なんだけど、あなたも車?」

「はい、これです」

 尾張小牧ナンバーだ。

 もう一台は、なんと大阪。

 高子は念のため、登山届提出アプリの下山報告をした中に、備考欄に「まだ入山中の方あり、大阪ナンバー○○-○○」と打ち込んで送信した。ある意味、個人情報ではあるが、もし登山届を出していない登山者が遭難した場合は、こうした情報が役に立つ。

「登山届アプリですか。それGPSも入っていて便利ですよね」

「あなたもやってる?」

「いえ、僕は…」

 と言葉を濁され、高子はしまったと思った。このアプリには友達になれる機能もある。が、青年はそれをしない人種だということだ。

「ゴメンね、本当にありがとう」

「お役に立てて良かったです」

 言いながら青年の足は、もう車に向いている。潮時だ。

 じゃあねと軽く会釈して、片付けをする。さて、帰りはどこの温泉に寄るかと思い巡らす想像の中に、青年はもういない。

 青年も、「じゃあ、また!」と爽やかだ。


「また! どこかの山で」


 用意の早かった青年の車が走り去るのを見送って、高子は山を見上げて、それから車に乗り込んだ。見上げた山の背景は、すっかり青空だ。少し日が傾いてはきていたが、まだ充分に明るい。

 お風呂でゆっくりしてから、スーパーに寄って枝豆を買おう。ちゃんと鞘から出して自分で茹でた豆で、ビールを飲もう。などと思いつつエンジンをかける。

 山道のゴツゴツを走るのも、登山の一貫、醍醐味だ。

 次の週末にはどこに行こうか、まだアルプスは間に合うかと、帰路につきながらも高子の脳裏には、もう次の山岳地図が浮かんでいる。



〜fin〜

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あなたと山を〜高子〜 @rinyanzet

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