あなたと山を〜高子〜

@rinyanzet

前編

 ちょっと疲れたなと思ったら、顔を上げること。顔を上げて見えたところまで、20歩だ。数えながら、20歩を踏みしめる。そして辿り着いたら、顔を上げる。そこから、また20歩。

 20歩を重ねて行けば、頂上に辿り着く。

 顔を上げるたびに目に入る景色を愛でながら、足下を確かめつつ黙々と歩く。青空がないが、暑さも和らいだ。とはいえ汗は吹き出ているが。薮を抜けて段々と景色が開けて行く様は、山登りの醍醐味のひとつだ。

 高子は脳内で歩数を呟きながら、地味で急登な傾斜に挑み続ける。どうせ登って下りるだけの道なのに、どうして登ってしまうのか、などと、先人たちが嫌ほど題材にしただろう疑問を頭の隅に浮かべつつ、とはいえ、やっぱり登るのだ、と自分で自分に反論して、顔を上げる。

 20歩。

 この登り方を教えてくれた人とは、疎遠になった。色んな人と袖すり合わせてきた山人生だった。一期一会を繰り返してきた挙げ句、人生に残ったものは、山だけだった。

 しかも山ライターやらインストラクターやらカメラマンやら、何かしら華々しい職業にまでなれば名声も得られただろうが、中年女性の脚前では単なる趣味にしかならず、しかも、それすら数多いるハイカーのうちの一人でしかなく。せめてエベレストにでも登れれば、大手を振ってこの世に別れを告げられようものなのに、それすら叶わず夏の日本アルプスが精一杯。

 そろそろ涼しくなったので、こんな日は近所の低山で満足している。

 要するに、平々凡々。

 特に何も面白みを持っていない人間だ。

 それでも昔は、まだ夢を持っていた。会社を早期退職し、貯めたお金をパァっと使って、ヨーロッパのアルプスに登りに行こうと思っていた。けれど先々のことを考えると、旅行も退職も躊躇してしまった。

 ツアーの登山旅行は高くつく。とはいえソロだと危険が増す。帰国後の生活や、もし事故や病気をしたらなどと考え出すと、のん気に海外へ旅立つ気になれない。

「日本の山だって、まだ全部は登ってないし」

 思考を声にして、気持ちを新たにした。

「こんにちは」

「!」

 降ってきた声に驚いて足を止め、顔を上げた。

「あ、すみません!」

「ゆっくりどうぞ、休憩中ですから」

 曲がった登山道の先に、座っているハイカーがいたのだ。俯いていて、目に入っていなかった。高子は自分の歩き方に落第点を付けた。もっとマメに顔を上げて、周りを見るようにしなければ。

 休憩中の男性は、自分より若く見えた。軽装で、こなれている。余計な荷物を担がないスタイルだが、ザックの背中に取り付けられているコップと幾つかのバッジが、彼が山でくつろぐタイプらしきことを物語っている。有名な山小屋のバッジだ。よく登っている人間の貫禄も感じる。

 山人生の中で、色んな男性にも出会った。女性がソロをしていると、声を掛けられやすいのだ。いや、掛けられやすかった。年齢を重ねるごとに掛けられる言葉が減っていき、今では黙々と歩くことが普通になった。高子の年の女性だと、数人で連れ立っているほうが多い。わいわいと楽しく賑やかなものだ。

 人と歩くのが嫌なのではない。

 ただ予定を合わせたり歩調を合わせたりすることが面倒で、一人で歩く楽さを覚えて、こうなった。人の少ない山は気をつけねばならないが。

「……痛っ」

 思った側から、これだ。

 考え事に、気が散った。散った途端に、足を挫いた。

 ひどくはない。驚いただけだ。すぐに立ち直ったし、足首を回してみると、そんなに痛くない。あと少しで頂上だ。こんな急登で立ち止まりたくもない。

 行ってしまえ。

 という、こうした決断が後からもっと面倒なことになることは、しばしばある。


「……困ったなぁ」

 高子は山頂で、おにぎりをかじりながら途方に暮れた。

 せっかくの登頂を喜べない理由は、3つある。

 ひとつ、雨が降ってきたこと。

 ふたつ、足首の痛みが酷くなってきたこと。

 みっつ、テーピングテープが足らないこと。

 ひとつ目は幸いにも、東屋に逃げ込めた。山頂の景色を楽しむべく東屋が建ててある山は多い。山頂は食事タイムでもある。ゆっくり落ち着いて食事ができる場所は、重宝される。壁はないので雨が降り込んでいるものの、ないよりマシだ。

 問題はふたつ目、みっつ目だ。

 前述の通り、登りの傾斜は急だった。当たり前だが下りも急だ。ということは、下ろす足への負担が大きい。捻った足首をかばいながらでは、今度は捻挫では済まないかも知れない。

 山の事故は、下山に多い。

 高子は今更ながら自戒した。後から何とかなるよと開き直って突っ切る癖が、自分にはある。

「だって痛くないしと思ったし……」

 誰にともなく、一人ごちる。

 おにぎりパワーで痛みが飛んで行かないかとも思ったが、そういうものではないらしい。食べ終わりそうなので、もう少し居座って、コーヒーとおやつも出すか……と、ザックの中に目を落とす。

 すると。

「あ、すみません! 失礼します」

 と元気な声が、屋根の下に飛び込んできた。

 顔を跳ね上げて、声の方向を見る。若い男性……ソロだ。服装もザックも声も軽快。雨にも関わらずレインウェアを着込んでいない。着込む手間ひまを省略して、山頂まで一気に駆け上がってきたタイプと見える。彼が跳ねると、背中でコップがカチャンと鳴った。

「あっ」

 コップがぶら下がっていることのギャップで、やっと思い出した。つい先ほど追い越してきた青年だ。抜いたのは随分前だったように思うが、彼は高子が到着してからすぐの登頂だった。歩きだせば速いのだろう。なんなら走るタイプかも知れない。昨今、トレランが流行だ。

「あなたを追い抜いたのは、ずいぶん前だったと思ったのに。速いですね」

「いやぁ、僕は遅いですよ。レースに出る友人なんかは富士山3周しますから」

「さんしゅう」

 目を丸くして復唱してしまった。

 山は登って下って終わりじゃないのか?

「まぁ色んな人がいますよね」

 男性が笑ってベンチに腰掛けて、ザックを肩からおろした。高子が座るコーナーから、人二人ぶんほどの距離の、ベンチの、ど真ん中。適度なパーソナルスペースだ。

 そしてザックからは出るわ出るわ、どうやって入っていたのか? と思うほどの器具と食材が現れた。

「山メシに凝ってて」

 と言うと、パスタをコッヘルに入れてバーナーに火をつけだす。パスタは長く水に浸してあったもので、すっかりふやけて柔らかくなっている。少し温めれば、すぐに食べられそうだ。

 青年は手早い。バーナーに火をつけるや否やカットした野菜とソーセージを開けてコッヘルに投入、それらを箸で混ぜ合わせると、市販のパスタソースを流し込み、さらに混ぜて、完成だった。わずか2分といったところか。

 カット野菜はあらかじめ蒸してあり、水気がない。ふやけたパスタも、ちょうど良く水を吸ってなくなっており、下界なら茹で汁を捨てなければならないが、そうした無駄もない。


 あまりにもジロジロ見ていたか?

「良かったら一口いかがですか?」

 と、気を遣われてしまった。

「いえいえ、結構です! 不躾に眺めちゃって、ゴメンなさい」

「あ、いえ、そんなことは……」

「手際が良いなぁと思って。私なんか、おにぎりだけだから」

「山のおにぎり、良いじゃないですか」

 高子の食べ終わりつつある、ラップにくるまれてるお米の塊を見て、青年がほくそ笑む。

「しかも手作りなんて最強だ」

「ご飯を炊いて、握ってきただけです」

「それを言うなら僕だって、混ぜただけです」

 気遣いの笑みに、心からの笑みが混じる。

「せっかく作ってもソロだと味見してくれる人がいないんで」

 言いながら青年が、もうひとつコッヘルを出してパスタを取り分ける。ご丁寧に、ソーセージまで付けてくれている。そうなったら、ご相伴に預かるしかない。

「じゃあ」

 と遠慮なく受け取り、美味しい!と叫ぶ準備をしながらパスタを口にした。

 が。

「……ああ、うん。美味しいですね!」

 意外な味で、言葉に詰まってしまった。青年が高子の顔色を読んで、苦笑する。

「はっきり言ってくれて良いですよ」

「いえいえパスタもちきんと茹で上がってるし、ソースも変わってるけど美味しいです。ソースでもケチャップでもなく、ちょっと辛くて……」

「名古屋名物の、あんかけパスタのソースです。口に合わなかったかも、ですね」

「ううん、そうじゃなくて」

 袖摺りあっただけの他人に、どこまで言って良いものか。しかも雨は、まだやまない。高子はレインウェアを着込んでいるし食べ終わったので、この場を後にすることも可能だ。

 が、せっかく袖が摺りあったなら、気持ち良く別れたい。

 言葉にするよりは……と、高子は自分のザックを探り、小物入れを取り出した。薬や絆創膏、飴玉に塩。

 塩は、足攣り防止である。

 夏の低山を登る時だと、山ビル退治にも使える。とはいえ夏はアルプスにしか登らないようにしていて、ヒルには会わないようにしているが。なので、この塩も持ち歩いてはいるものの使うのは初めてだ。

「味が、ちょっと薄いかなって。ゴメンなさいね」

 高子はわざとオバさんぽさを出す話し方をして、パスタに塩をかけた。一口食べてみて加減を確認し、うんと頷く。

「良かったら、あなたのにも」

 青年が戸惑いつつも、自分のコッヘルを差し出してくれた。量に見合った塩を投入する。心持ち濃い目にした。登頂したての身体は、しかも雨で疲労しているので、塩分を欲しているはずだ。

 青年が食べてみて、明るい顔を上げた。

「うまい!」

「良かった」

 高子も釣られて笑い、頂いたパスタを食べた。

「野菜を入れたので、味が薄まったのかもね」

「あとパスタが多かったです。1.5人前ぐらい茹でました」

「それは大変」

 完全に打ち解けて、笑顔になれた。

「名古屋には行ったことあるけど、あんかけパスタは食べたことないです。美味しいですね」

「美味しくしてくれて、ありがとうございます」

「いえいえ! 出しゃばって、すみません」

「いえいえ、これで全部食べれます」

 いえいえ、いえいえと、ひとしきり。

「山では何を食べても美味しい、とはよく言うけど、より美味しいものが良いに越したことはないですしね」

 と、青年。

「確かに」

 それが山メシに懲り始めた理由らしい。

 山を始めた頃は高子も、色々頑張ってみた。メスティンでご飯を炊いて牛丼にしてみたり、フライパンまで担いで登って、山頂で焼き肉をしてみたり。ところが段々面倒になってきて、どうせ一人なのだし下山すれば美味しいものは沢山あるし、と、一周回ってシンプルに落ち着いた。

 おにぎりすら面倒で、ゼリー飲料やチョコバーのような栄養食品で済ませることもザラだ。食べないという選択肢はないが、食事に手間取る時間を他にあてたくなった。

 考えてみたら、そうやって無駄を省いた人生は、大事なものまで省略してしまっていたのかも知れない。

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