第6話 ラブレター

 暮れなずむ教室だった。


 来たことがあるような、ないような。どこにでもありそうな学校の教室。


「――ここは?」


 先ほどまでは確かに二丁目へと続く薄暗い通路を、急かすカメリアたちと一緒に走っていた。しかし気が付けば自分はこんなところにいる。見知らぬ場所に橙は困惑した。


 外の夕焼けが窓ガラスを越えて教室に入り込む。すべての物が橙色に染まり、視界を覆う。どうやら放課後のようだ。


 橙は教室の黒板に向かって左後ろの隅に立っていて、室内の様子が一望できた。フローリングの床、白塗りの壁、コルクボードに張られた学級通信や手作りの掃除当番表。机は横四列、縦五列の計二十個が並んでいて、その全部に生徒が着席していた。男女の比率は丁度半分くらいで、学ランとセーラー服を身に纏っていた。教卓に教師と思しき人物は立っていなかった。


 生徒たちは背中しか見ることができなかったが、気味の悪いくらい微動だにしていなかった。そして更に、それ以上に気味の悪い点が一つ。


「……なんだ、これは」


 生徒たちには頭部が無かったのだ。正確には人間の頭部が、である。その代わりに首から上にあったのは『モノ』。ある男子生徒は大きなコンパス、またある女子生徒は管楽器のサックスといった具合に、脈絡のない物体がその場所にあったのだ。そんな生徒たちに生気は感じられず、ただ着席という体勢で『そこにある』。そんな印象を受けた。


「【紺碧の渚】の次はこんな場所じゃ……」


 橙たちが本来向かうはずの二丁目はここではなかった。そもそも橙を除く他の者たちの姿が見当たらないので、これがイレギュラーであることは確かだ。橙は必死に頭を巡らせた。三丁目に辿り着くまでには、一秒の無駄も許してはならない。


「――っ!」


 その時だった。黒板の上部に設置されているスピーカーが、音を発したのだ。


 ――コチラハ、ボウサイベニベニデス。


 掠れたノイズと不穏なエコー。男性の機械音声で流れるこれは、どうやら町役場からの防災無線のようだ。しかし橙は六年間紅々町に住んでいて、こんな放送など聞いたことがなかった。


 そして夕焼けの色が橙色から徐々に赤みを帯びていることにも気づいた。まるで苺ジャムでも空に撒いたかのような、どろどろとした空。


 ――ナニカツタエタイコトノアルカタハ、ゴキリツクダサイ。


 滅茶苦茶だ。橙はこの放送が本物ではないと確信した。恐らくは裏頭の新たな罠か何かだ。付き合っている場合ではない。


 橙は教室を出ようと扉に向かって歩き出した。すると、誰かが立ち上がる音がしたのだ。


 立ち上がったのは教室の中央に着席していた、セーラー服を着た――おそらく女子生徒だった。首から上は大きな、横長の白い長方形のものが乗っていた。


「……手紙?」


 それは封筒だった。ハート形のシールで留められているところを見ると、まさにラブレターのテンプレート。


 ――ワタシニハ、スキナヒトガイマス。


 スピーカーは次に女の子の機械音声になった。まるで今立ち上がったラブレターが喋っているかのようだった。


 ――デモソレヲツタえる前に、その人はいなくなってしまいました。


 声は徐々に人間味を帯びてきて、感情がこもってくるのがわかった。


 ――会いたい。会いたい。会って、言えなかったことを伝えたいです。


「なんなんだ……一体」


 ラブレターの女子生徒は「以上です」と一通り言い終えると、立ったまま動かなくなってしまった。


「うぐッ!」


 直後、橙を激しい頭痛が襲った。頭蓋骨を越え、脳みそを直接両手で鷲掴みにされているかのような気持ちの悪さ。


 そして夕焼けが真紅に染まる。橙の焦燥感は加速度を付けて増大していった。一刻も。一刻も早くこの場を離れなければいけない。


 橙は気を取り直し、教室の扉に手を掛けた。


「――会いたいよ、とお兄」


 先ほどスピーカーから漏れていた女の子の声が、今度はクリアに聞こえた。橙は確かに、教室内で今の声を耳にしたのだ。


「……君は、もしかして」


 橙は呆然としつつ、彼女に問う。真紅に染まった夕焼けが逆光となり、教室は影絵劇場にでも変貌したようだった。


「……」


 彼女は返答するより前に行動を起こした。おもむろに頭部であるラブレターに両手を伸ばし――。


「ッ!? やめ――」


 橙は彼女が何をしようとしているのかすぐさま察し、走り出した。しかし次の瞬間。


 ――会いたいよ。


 ――――――!


 乾いた音がした。


 彼女はラブレターを思い切り引き裂いたのだった。自身に痛みを感じるかはわからなかったが、いずれにせよ彼女の行動は自傷行為に他ならない。


 破れたラブレターの切れ端は無残に彼女の足元に落ちる。


 ――! ――――! ――!


 しかし彼女はやめなかった。何度も自らを破り、細かくちぎっては捨てていく。一心不乱に手を動かすその姿は狂気と言う他なかった。瞳に映る景色はどこか色褪せ、見るもの全ての輪郭がどこかはっきりとしない。とてもではないが、橙は思わず目を背けてしまった。


「――はあっ、はあっ」


 やがて頭部の本体が残り二割ほどになったところで、彼女の動きはようやく止まった。足元を埋める紙屑は、いつかの降り積もる雪のよう。


 ……いつか? いつかとは、一体いつだ? 橙は自分がなぜこの光景に郷愁を覚えるのか、理解できなかった。


 だが橙には、それなりに確信があることが一つあった。このラブレターの少女は、十中八九滝口夕夏だということ。橙の名前を呟いていたことが何よりの証拠である。もしやこれが夕夏の過去の記憶? そんな馬鹿な。彼女の頭部が昔は手紙などではあるはずがない。


「と、なると……いや、今はよそう」


 橙は長考しそうになった態勢をやめ、ゆるゆるとかぶりを振った。今はそんなことよりも、目の前で困っている人を助けてあげないといけないじゃないか。


「ああもう、こんなに自分を傷つけて。ボロボロじゃないか」


 橙は少女に歩み寄ると、辺りに散らばったラブレターの破片を両手で掬った。


「誰?」



 少女は橙を探す仕草をしていた。元から視力があったのかはわからないが、ともかく今は橙の姿が見えていないらしい。


「後悔しているんだね。自分の気持ちを伝えられなかったことが」


「……はい。急にいなくなることもないだろうと思っていて」


「そしたらいなくなっちゃったと。なんでいなくなっちゃったのかな」


「わかりません。友だちと遊びに行った帰りだと聞きましたが」


「不思議なこともあったもんだね」


「そう、ですね……」


「でもね、諦めてはいけないよ。諦めることはこれまで積み重ねてきた努力だとか、彼に対する想いが一気に馬鹿馬鹿しくなってしまうから」


「はあ」


 困惑する少女に橙は優しく続ける。


「だから自分を傷つけるマネなんて絶対にしてはいけない。そんなことをしても彼は喜ばないよ」


 本心からそう言った。


「僕も諦めないからさ」


「あなたも?」


「ああ。ちょうど軽く挫けそうになってたんだけど、やっぱやめた。絶対に諦めない」

「よくわかりませんが、応援してますね」


「はは、こりゃ心強いや。そろそろ行かないと。と言っても出口はどこだろう」


「出口は、窓です」


 少女の予想外の答えに橙は面食らった。


「窓かぁ。危うく普通にそこの扉から出るところだったよ」


「危なかったですね。もし扉を開けていたら一生この学校から出られることはありませんでしたよ」


「……ほんと、ありがとう」


 心の底から感謝する橙だった。


「あ、そうだ。君がこんなに床を散らかしちゃうからさ、掃除するよ」


「い、いいですよ。お構いなく」


「まあまあそう言わず」


 橙は微笑むとラブレターの残骸を一まとめにして、そこに両手を乗せた。


「最後に一ついいかな?」


「え……なんでしょうか」


「彼のことは嫌いにならないでほしい」


 橙は自分自身、なぜこんなことを口走ったのかがわからなかった。橙の言葉に少女は驚いた様子を見せると小さく笑い、


「あはは、嫌いになるわけないじゃないですか。一生好きですよ。一生です」


「妬けちゃうねぇ。んじゃそのズタズタになった顔? も直さないと」


 橙は置いていた両手に力を込める。そして。


「〝優しいチカラ――」

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我ら紅々町商店街進行組合 saco @saccoro

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