第2話


「貴方の望む顔を見せてあげるから、それを最後に雛と関わらないで」


 胸中に埋め込まれた黒い渦が、壊れた洗濯機みたいにがなり立てる。


 息苦しい。

 気持ち悪い。

 胸が痛くて仕方ない。


 なのに、笑みを抑えることはできなかった。


 ***


 1章


 終業前に授業が終わる。先生が教室から出ていくと、クラスには一足早い放課後が訪れた。

「やったぁ! 放課後の時間、めっちゃある! ね? 美香、今日遊びに行かない!?」

 机に頬杖ついたまま、快活な声に目を向ける。声の主の美少女は、椅子を後ろ向きに座って目を輝かせていた。

 彼女の名前は衞藤雛。

 ウェーブがかったミディアムの金髪からはギャルっぽさ。濡れているように艶やかで、指の間をするりと抜けていきそうに柔らかな髪質からは、お嬢様的な清楚さ。相反する二つが混じりあった結果、青空と向日葵が似合う明るい女の子、というありきたりで愛されてやまない印象の美少女。

 そんな彼女は、スクールカーストのトップに属している。今声をかけたのも同じくトップの女子だ。

「ごめん、部活」

「ええ〜、じゃあ圭介は?」

「じゃあって何だよ」

「あはは〜、ごめん、ごめん。で、行けそ? 遊び行けそ?」

「俺もサッカー部があるから」

「しぶぅ。優馬も結衣も?」

「ごめんね〜、雛〜」

「悪いな、雛」

「酷い! 全員に振られたぁ!」

 カーストトップグループの面々に断られた雛は恨み言を吐いた。だがその顔には、笑顔が浮かんでいる。

 雛の笑顔は魅力的だ。

 目が眩むほど華やいで、目を閉じるのが惜しいほど美しい。だけど、美術品に思わず息を飲むようなものではなく、口元が勝手に緩むような愛嬌がある。

「また今度遊んであげるから、拗ねないで〜」

 なんて言葉を返すトップグループの皆の顔は、ふやけている。雛の笑顔に魅了されているのは一目瞭然だった。

「しゃーなし、約束だからね〜」

 そう言って雛は立ち上がると、クラスの隅にいるような子たちの所に向かったた。

「お〜い、陰キャ共〜、私と遊べ」

「な、何で俺らなんだよ」

 気丈にそう言った子、影野くんの顔は赤い。笑顔にやられてるのは間違いないが、それだけではないだろう。

 雛の顔は正統派アイドル顔。透明感のある白い肌、睫毛が手入れされた丸アーモンドの大きな瞳。鼻筋もすっと通っていて、フェチの人なら触れたくて仕方ないだろうと思うほどに綺麗。正面から見つめられるとドギマギすることも仕方ないし、薄ピンクの潤んだ唇が目に入れば、艶かしさに心臓が壊れても仕方ない。

 加えて距離感。こんな美少女に気安く遊べとか言われたら、男のほとんどが赤くなる。

「んー、たまたま目についたから。いいじゃん、どうせ暇でしょ?」

「どうせとか言うな、おい!」

「じゃあ言わない、おい!」

「真似するなよ! おい!」

「あはは〜! おいって何? おもろ〜、流行ってんの?」

 一歩間違えば人を不快にするいじりだが、誰一人として嫌な顔をしていない、どころか、にやけてしまっている。

 これも雛の笑顔と美少女力の影響だろう。

 なんてことを思っていると、肩をぽんぽんと叩かれた。

「何見てんのよ、変態」

 振り返ると、男友達の島田がいた。こいつを一言で表すなら友達A。それ以上でも以下でもない。

「お前を見てねえだろ」

「衞藤の気持ちを代弁しといた。榊、あんまり、まじまじ見んなよ、気持ち悪いから」

「俺だけじゃないだろ、見てんのは」

「ま、それもそうだけどな。俺も遊びに誘われんの待ちで、帰りたくないし」

 クラス内を見渡すと、雛を見ているクラスメイトが男女問わず何人もいる。彼彼女らはそわそわしていて、遊びに誘われるんじゃないか、と期待していることが見て取れる。

「衞藤、いいよな。明るく分け隔てない性格で、陰キャ、陽キャ、俺らみたいなどっちでもないやつらにも、近い距離感で接してくれる。それにあの容姿。グレープフルーツサイズの胸に、細いのに細さを感じないしなやかな肢体。まじでエロい、いやエロすぎ」

「そうだな」

「見てたくせに、冷めた反応してんな。あ、そういや榊は、衞藤に絡まれたことないんだっけ? 興味ないアピールで強がってる?」

 人目のあるところで雛と接したことがないのは本当。だけど、強がって興味ないアピールをしているわけではない。

 俺は、青空と向日葵が似合う雰囲気も、人を魅了する笑顔も、艶かしい身体も、全く興味がないのだ。興味を持っているのは、雛の……だけ。

 なんて本音を語っては、社会的に死ぬだろう。だから適当にごまかしておく。

「まあそんな感じ」

「つまんねえ、本当に興味なさそうだな。じゃあ、樋川はどうだよ? 衞藤に張り合えるのはあいつくらいのもんだろ」

 島田の視線につられると、帰り支度をしている樋川友里が目に入った。

 たしかに、容姿という点では、雛に負けず劣らずだろう。クールさを感じる黒髪のウルフカット。お人形やアニメのキャラを現実に落とし込んだような、パーツ全て綺麗な顔立ち。手足がすらっと伸びたモデル体形。雛が男好きする身体ならば、彼女は女子受けするタイプ。男の俺でも、格好良いと思うくらいだ。

「いいんじゃない」

「また、興味なさそうだな。運動神経抜群、頭脳明晰、読モもしてる。でも仕方ないよな、あの性格じゃ……」

 樋川にキッと睨まれて、島田は視線をそらし、口笛を吹きそうな雰囲気を出した。

 結果、俺だけが見ているような格好になる。

 樋川の目は鋭く、嫌悪感がありありと伝わってくる。ただそれは、見られて不快、ということ以上のものを含んでいるように思えた。

「ば、馬鹿。もう見んなよ、罵られるぞ」

「だな」

 皆に愛される雛と違って、樋川はクールな一匹狼。その理由は性格にある。

 入学当初、彼女は教室で告白してきた上級生に対して、鮮烈な振り方をしたのだ。

『大して知りもしないのに、告白するとか正気? 私、あなたの名前すら知らないんだけど。というか、そんな関係の相手に告白することで迷惑かけるとか思わないわけ? 私の器が大きいから許してあげるけど、その年で道徳欠如してるのはヤバイよ。小学生からやり直したほうがいいんじゃない? わりとマジで』

 今も一言一句覚えてるほどに衝撃的な振り方に、それ以来、樋川に近づく人はいなくなった。保育園からの友達の雛以外は。

「怖かったし、衞藤見て癒されそうぜ。あー、あの笑顔癒される」

 俺も雛に目を向ける。キラキラの笑顔はまだ浮かんでいた。

「撒いてんなぁ」

 と言うと、島田は頷いた。

「そうだな、やっぱあの笑顔を振り撒かれるだけで、こっちまで幸せになるよ。あーあ、衞藤に彼氏がいなきゃなー」

 撒いているのは、その実、涙の種だけど。

 あの笑顔を向けられた人は、私も衞藤雛みたいになりたいという羨望、自分以外に笑顔が向くことへの嫉妬、胸をときめかせて恋心なんかを育む。いずれそれらは、雛に襲いかかり涙に変わる。

 ぞくり、と震える。喜びがじわりと細胞に染みていく。思わずにやけてしまいそうになるのを必死で耐えつつ、雛たちの様子を窺う。

「おい、って言うのは、ふ、普通だろ?」

「えー、普通じゃないよー。それより影野くん、今日遊べる?」

「俺はいいけど……。お前らは?」

「ぼ、ぼくもいいよ」

「うん、俺も」

 雛が話しかけている、影野くんのグループ全員が答えた時だった。

「キモ」

 一人の女子の声が耳に届いた。

 浮かれていた影野くんたちの顔が、怯えた表情に変わる。

 雛の顔は、と窺うと、俺に顔を向けていて、目が合った。

 口角が釣り上がり、歪な暗い笑みが浮かんだように見える。

 だが、瞬きの間にいつもの笑顔に変わっていたので、見間違いだと思った。

「ちょっと酷いこと言うね、木嶋さん」

 雛は笑顔のまま、キモと言った女子、木嶋さんにそんな言葉を吐いた。

 木嶋さんは身を縮こませ、ざわついていたクラスから音が消えていく。空気が張り詰めていく。

「え、衞藤さんに言ったわけじゃ」

「そうなの? じゃ、影野くんたちに言ったわけだ。あんまりそういうの好きくないなぁ〜」

「ご、ごめんなさい」

「だって。影野くん」

 矢印を向けられた影野くんは、臆しながら答える。

「べ、べつに俺はいいよ。キモい自覚もあるし」

「まあそりゃそうだよね。正直、影野くんキモいし」

「酷いだろ!」

「あはは!」

 雛が笑うと、誰かが笑って、その笑いは伝播していく。教室内の緊張は解け、木嶋さんまで笑うと、笑っていないのは影野くんただ一人になった。だが彼も羞恥に顔を赤くしているが、嫌そうではない。

「じゃあさ、木嶋さんと影野くんと私でさ、一緒に遊ぼうよ。木嶋さんも良い人だし、影野くんたちもキモいけど面白いからさ」

「お、俺はいいけど」

「わ、私も」

「よし決まり! じゃ、また今度!」

 雛がそう言うと、二人は、え、と短い声をあげた。

「わ、私は今日でも良いけど?」

「俺も今日でいいけど」

 雛は俺の方を見た後、二人に向けて頭を下げる。

「ごめんね、今日は用事があるの忘れてたんだ」


 夕方の屋上。オレンジ色の夕日で寂寥感漂うそこでベンチに座り、スマホの画面を見つめていた。

『ごめん、屋上で会えないかな?』

 雛からのメッセージ。何の用事かは、大体察しがついていた。

 きっと、さっきのことだろう。

 そう思っていると、きー、とドアの開く音がした。

「待った?」

「いや待ってないよ」

「そっか。隣失礼するね、祐」

 ゆっくり歩いてきた雛はぽすりと隣に腰をおろした。

「夕方の屋上ってさ、綺麗だよね」

 雛が何気ない話をしたので、俺も合わせる。

「急にロマンチックなこと言い出すなぁ」

「酷い! 恥ずかしいじゃん!」

「雛っぽくないからさ」

「じゃあ私っぽいのは?」

「タピオカうめ〜、生ドーナツうめ〜、とか?」

「どっちも食べてないのに言い出したらやばくない?」

「多分、ロマンチックなこと言うよりは引かれないんじゃない?」

「そんな似合わないかぁー」

 雛はからからと笑う。

 夕日にあてられているせいか、その笑顔は、茜を映す白波のように煌めいて見える。

 普通なら、惹かれて仕方ないんだろうな。

「まぁでも、屋上の綺麗さを語るのも今更か」

 雛の言葉に頷く。

「それはそう。もう、何度も来てるしな」

「うん。祐と屋上で過ごし始めたのは中学3年の7月だから、あと1ヶ月もないうちに1年か。それでその度に……」

 雛は言葉を途切らせて俯いた。

「ねえさ、今日もまた、話聞いてくれる」

 ぽつりと言った雛に、俺は答える。

「雛を慰めるのは嫌じゃないよ」

 しばらく間があって、雛は口を開いた。

「……ありがとう、祐」

「うん。話してみて」

 促すと、雛はゆっくりと語り出した。

「今日さ、木嶋さんが影野くんに悪口言ったこと知ってる?」

「聞いてた。キモってやつだよね?」

「そう。あれ、私が木嶋さんにそう言わせちゃったんだと思う」

 雛の言葉の意図を汲み取る。

「雛が影野くんに話しかけなければ、影野くんはキモくない普通の態度でいた。だから雛が何もしなければ、木嶋さんは悪口を言わなかったってこと?」

「うん、でもちょっと違う」

「どういうこと?」

「木嶋さんは影野くんのことが好きなんだ」

 それは初耳。他人に興味のない俺だからなのかもしれないが、全く知らなかった。

「だからさ、木嶋さんは、私に赤くなってる影野くんを見るのが、嫌だったんだと思う」

「それでつい悪口を言っちゃったってことか」

 雛は頷いた。

「木嶋さん、本当に良い子だから、悪口言ったこと凄く気にしてると思う。それに私が咎めちゃったから、今も自分を責めてるかもしれない」

「それは大丈夫だよ。雛がフォローして、笑ってたし。好きな人と遊ぶ約束もしてるから、一杯一杯で変なこと考える余裕もないよ。雛だってそうなるように、仕組んだんでしょ?」

「うん。でもね、私がそもそも気を遣って影野くんに話しかけなかったら、こんなこと起きなかったのに……」

 雛の声が潤んできた。

「何で私はそんな気遣いもできないのかなって思うと情けなくて……」

 しばらくして、ぽたり、と涙が地面に落ちる。

「私はただ遊びたかっただけなのに、それすらも許されないのかなって思うと……」

 声が潤み、涙も流れた。

 頃合い、だな。

「雛は悪くないよ、顔を上げて雛」

 そう言うと、雛は素直に従った。

 透き通るように白い頬は赤い花が咲いたように染まり、垂れ下がった瞳は涙で煌いている。口元は型に収められないくらいに歪んで、綺麗な鼻は情けなくひくついている。ぐしゃぐしゃになった表情は、割れたガラスのように美しい。

 歓喜に震えそうになる。

 この顔が見たかった。泣いている顔を見るたびにSっ気と庇護欲がそそられ、体にぞわぞわとした感触が走る。息が荒いでしまいそうなほどの衝撃に、脳がぐっと押しつぶされて快感の汁が吹き出る。美しいものを見た時の感嘆の声をのむたびに、心が満たされていく。

 ああ、俺は異常で、どうしようもないクズである。

 今もまたそう思うが、この感覚に依存して抜け出せない。もっと泣き顔が見たい、と思ってしまう。

 だから、次もあるように、彼女の欲しい言葉をかける。

「悪くないよ。こんなことで悪いと思ってたら、何もできなくなっちゃう」

 雛は唇を噛んで、声を堪えた。

 ああ、そんな表情もいい。そして抑えきれなくなった表情が待ちきれない。

「……う、うわあああん」

 声をあげて雛は泣き出し、俺の胸に顔を埋めた。

 キュッとワイシャツを握ってくる小さな手、ふわりと甘い女の子の香り、押しあてられるやわらかい感触。全てが俺にはどうでもよく、思っていることは一つだけだった。

 ちょ、そんな風に泣かれたら、泣き顔見れないじゃん。

 我ながらクズな感想を抱きつつ、次があるように雛の背をゆっくりとさすり続けた。

「あ、はは。また、泣いちゃった。いつも慰めてくれてありがとね、祐」

 雛は大体10分くらいで泣き止んだ。その間、お預けをくらっていたが、涙が引いたあとの爽やかな泣き顔が、いつもより綺麗に見えたのでよしとする。

「いいよ、さっきも言ったけど、雛を慰めるのは嫌じゃないしね」

「そっか。本当、祐は優しいね」

「そんなんじゃないよ」

「じゃあ私のこと好きだったり?」

「まさか」

「あはは、ひど〜い。ま、そうだったら、困るけど。私、彼氏いるし」

 他人を魅了する笑顔が出たので、もはや泣き顔は望めない。興味が失せていく。それは雛も同じなのか、ゆっくりと立ち上がった。

「じゃあ帰るね。今日もありがとう」

「うん、またがないことを祈ってるよ」

「私も。またがないようにしないとね」

 俺は心にもないことを言ったが、それは雛も同じだと感じた。

 雛が屋上から出ていくと、俺は一人になる。

 良かった。今日の泣き顔も素晴らしかった。

 自然と口元が緩む。きっと邪悪な笑みを浮かべていることに気付いて、口に手を当てる。

 万が一こんな顔を見られたら社会的に死ぬだろう。

 俺は雛の泣き顔に執着していることを除けば普通なのだ。学校という社会には属して、安穏と生きていきたい。

 立ち上がり、ぐっと伸びをする。

 泣き顔も見られたし、今日はいい気分で眠れそうだ。早く帰ろう。

 再び、さっきの雛の泣き顔を思い浮かべる。

 いい泣き顔だった……だけど、物足りなさは拭えない。

 初めて見た泣き顔は、比べるのも烏滸がましいくらいに綺麗だったな。




 土曜日の午後3時。梅雨時の窓に吸い付くような雨が降っていた。

 俺は勉強机に広げた参考書を閉じ、シャーペンを筆箱にしまう。机の引き出しにしまってあったスマホを取り出して、メッセージアプリを開く。

『部屋行っても良い?』

『いいよ、今日も親は仕事で家にいないし』

 やりとりがあったのは、30分前。そろそろ来ても良い頃合いだ。

 窓の外を眺める。泣いている雛と初めて会ったのもこんな雨の日だったな。


 *** 


 空白の進路予定表を鞄にしまう。

 梅雨時の雨が降っていたので、傘をさして塾から出た。

『いいか、良い高校に行きたかったら、この夏が勝負だぞ! お前ら、遊んでる場合じゃないぞ!』

『俺、私学の高校に行きたいんだ! 文化祭に寮生活が楽しみで仕方ない!』

『あそこの高校の吹奏楽部が強いから、私、絶対受かりたいんだ!』

『僕はプログラマーになりたくて、凄い技術を学べる大学に入るには頭のいい高校に入った方がいいかなって……』

 帰り道。塾講師や、進路を決めた知り合いの話が頭の中で反芻する。

 良い高校に入って誇りたい気持ちはない、文化祭や寮生活のような楽しみにしていることもない、強い部活に入りたい意欲もない、遠い未来何かになりたいものもない。

 皆、熱意を持っているのに、俺は何なのだろう。

 思えば俺は、何かに興味を持ったことがない。音楽もドラマも、話を合わせるのに流行を追っかけるだけ。周りがやってるからsnsアカウントを作ったけど、投稿することもなくて放置している。友達と遊びにはいくけど、盛り上がる中でもどこか冷めた自分がいる。

 勉強も、運動も、お洒落も、人並みにはするけど、やらなきゃいけないからやる、それ以上の感覚はない。

 進路、本当にどうしようか。

 家に帰れば、親にそろそろ決めろ、と急かされる。帰りたくないなぁ、と思って、公園で一休みすることに決める。

 大降りでも小降りでもない強さの雨を傘で防ぎながら、濡れたアスファルトを軽く踏みつけていく。

 公園にたどりつくと、俺は目を疑った。

 しとしとと降る雨の中、傘もささずに衞藤雛が立っていた。

 脱力しきった棒立ち。ぐっしょりと濡れて光沢を放つ髪。白いブラウスが透けて、肌に張り付いている。

 彼女とは一年生の時に同じクラスだっただけの関係。一軍グループにいる彼女と、モブの俺は接点すらない。だから深入りを避け、踵を返そうとした。

 が、やめる。

 誰かに見られていたら、冷たい奴と思われるかもしれない。

 そう思った俺は、仕方なく衞藤に近づいた。

「どうしたの?」

 後ろから腕を伸ばして、傘で衞藤を雨から守る。

 すると、彼女は振り返った。


 あまりに綺麗な泣き顔だった。


 暴風をぶち当てられたような衝撃に襲われる。

 全身に鳥肌が立ち、目が覚めたような感覚を味わう。

 ぞくぞくと歪んだ感情が湧き上がり、心臓が早鐘を打つ。

 美しさに胸が熱くなり、こっちまで涙が出そうになる。

 様々な感覚、感情が同時に吹き出たせいで、息が荒いでしまいそうになる。

「……どうした、って」

 衞藤の声に我にかえり、惹きつけられていたことに気づく。

「あ、その……ごめん」

 何に対してなのか、自分でもわからない謝罪をしたが、衞藤の耳に届いてなようだった。

「す……な、れた」

「え?」

「好き……人に、フラ……た」

 衞藤の目から涙が溢れ出し、口も眉も頬もぐしゃぐしゃに歪む。やがて耐えきれなくなったのか、灰色の空に向かって慟哭した。

 声を上げて泣き続ける衞藤の顔は、どうしようもないほどに綺麗すぎた。


 衞藤が泣き止むまでは長い長い時間がかかった。

「ごめんなさい、榊くん。ずっと傘をさしてもらっちゃって」

 東屋に移動して、二人でベンチに座る。

「いやいいよ」

 俺のこと知ってたんだ、と思いながらそう言うと、また頭を下げられる。

「本当、ごめんなさい」

 謝るばかりの衞藤にいたたまれなくなる。

 別に、可哀想だから、とかそんなんじゃない。罪悪感に苛まれて、だ。

 俺はただ、泣き顔に見惚れていただけの理由で傍に居続けた。それは最低で咎められるべき行為であって、感謝や謝罪を向けられるようなものではない。

 だから、いたたまれない。

 胸に気持ち悪さを覚えて、偽善的な言葉を吐く。

「好きでやっただけ、辛い顔を見るのが辛かっただけ。気持ちが楽になるようだったら、話を聞くけど? それか一人にした方がいい?」

 しばらくの無言ののち、衞藤は口を開いた。

「……話、聞いてもらってもいいかな?」

 密かに、後者を期待していたが、どうでもいいことを聞かなきゃならないことになって残念に思う。だけど、彼女のためになれる、という免罪符で、少しだけ胸の罪悪感が晴れた。

「いいよ」

 衞藤は「ありがとうね」と言って、語り始めた。

「私、好きな人がいたんだ。クラスは違うけど、入学してから中学三年の今まで、ずっと仲良かった。ずっと好きだった」

 俺は黙って話を聞く。

「初めは、一目惚れだった。背も高いし、顔も格好良い。でもだけじゃなかった、話は面白いし、明るいし、何より優しかった。筆箱を忘れた時は、笑って冗談にして筆記用具を貸してくれたし、体調が悪いのを察して保健室まで運んでくれたりした」

「だから、好きになった?」

「うん。ずっとずっと好きで思いを秘めてた。でも、貴治が違う高校にいくことがわかって、抑えきれなくなった」

「告白したんだ」

「うん。今は誰とも付き合うつもりはないって、それで振られちゃった……。本気で本気で好きだったのに」

 また衞藤の顔が歪み始め、俺の心に歪んだ快楽が湧き出す。

 馬鹿か。最低だろ、泣き顔に喜ぶなんて。

 自分を責める理性は、早く見たい、と焦燥感に近い感覚に塗りつぶされていく。

「す、好きだったのにぃ、う、うわぁああん」

 衞藤の泣き顔は間も変わらず、俺の感情を揺さぶってきた。

 もはや、言い逃れができない。

 何にも興味がなかった俺が、衞藤の泣き顔の虜になってしまった。もっと泣き顔が見たくて仕方ない。

 我ながら、反吐が出そう。なのに、この世で初めて興味があるものができたせいで、モノクロだった世界が輝き出したように清々しい気分だ。

 感謝の念まで湧いてきて、お返しに俺は衞藤が欲しいであろう言葉をかける。

「衞藤、大丈夫だよ」

「え?」

「一度フラれたからって、諦める必要はないよ。きっと今頃、貴治? ああ、高原か。あいつは告白されたことで、衞藤のことを恋愛対象として見るようになるよ」

「ぐずっ……」

「それに、今は、って言ったってことは、この先はわからないよ」

「……うん」

「それにさ、今は無理だろうけど、新しく恋愛してみるのもいいかもしれない。もっと好きになれる人もいるかもしれない」

 だから、と俺は締める。

「衞藤の未来は明るいよ。今は泣けるだけ泣いて、辛い思いを飛ばそう」

 衞藤は堰を切ったように、再び声を上げながら涙を流した。

 また長い長い時間をかけて泣き止み、衞藤は言った。

「慰めてくれて……本当に本当にありがとう」

 心底からの感謝ののち、そして。

「また辛いことがあったら、榊くんのところに行ってもいいかな?」

 考えるより先に、言葉が口から出る。

「勿論、また泣きたくなったらおいで」



 ***


 それから、雛に辛いことがあるたびに、俺たちは会うようになった。そして、誰も居ない放課後の教室、屋上、時に俺の部屋、と、心置きなく泣ける人目のないところで、たくさん慰めてきた。

 関係は今も変わっていない。慰める、慰められる、それだけの関係。一年ちかく経って、お互いを名前で呼び合う今になっても変わらない。散々慰めてきたが、一番綺麗だった泣き顔も、最初に出会った時と変わっていない。

 あの時の雛の顔を思い出す。また見たい、と喉が乾くような欲求が湧き出したときだった。

 ———ピンポン。

 インターフォンが鳴った。俺は椅子から立ち上がって、階下へ降りる。そして玄関の扉を開くと、そこには傘もささず、雨に打たれている雛がいた。

 その姿に、初めてあった時の面影を見る。

 バクバク、と鳴り響く心臓、ぶわりと立つ鳥肌。

 期待で胸が破裂しそうになる。

「祐」

 耳が蕩ける甘えるような声、庇護欲に駆られる縋るような目。そんなものに興味はない。だから早く促す。

「どうしたの?」

「彼氏に、フラれちゃった」

 そう言った雛は儚い笑みを浮かべ、きらりと一筋の涙を流した。

 良い泣き顔。

 だけどそれ以上ではなく、大きく失望する。

「とりあえず、シャワー浴びなよ」

 俺は冷めた感情が表にでないよう、そう言った。


 雛がシャワーを浴びている最中、頭の中はぐるぐると思考が巡っていた。

 さっきの雛の泣き顔は、初めて会った時に遠く及ばなかった。

 どうして?

 雨の日に好きな人にフラれた。それは、あの日と同じ状況のはずだ。

 思い出に補正がかかっているせいか? いや、今日の泣き顔は、補正抜きにしても、あの日に遠く及ばない。

 今日は距離が遠くてはっきりと表情が見えなかった? いや、今も思い出せるほどしっかり目に焼き付いている。

 俺の期待のしすぎか? そうではない。あの日は期待なんかまったくしていなかった。

 じゃあどうして? どうして、あの日の美しさが、衝撃がない?

「ごめん、シャワーと服、ありがとう」

 白いワイシャツと体操服の短パンといったミスマッチの格好で、部屋に入ってきた雛を見る。

 細くそれでいて、むっちりと柔らかそうな生脚も、ぶかぶかのワイシャツからのぞく色っぽい鎖骨も、上気した顔も、まったく興味が唆られない。

 どうして雛は、あの日のような泣き顔を浮かべていないんだろう。そればかりが気がかりだった。

「祐?」

 雛は黙っている俺を訝しんでか、名前を呼んだ。

「あ、ああ、なんでもないよ。それより、座る?」

 雛はこくりと頷いて、ベッドに座っている俺の隣に腰を下ろした。

「祐、聞いてくれる?」

「うん」

「あのね、私に彼氏がいたことは知ってるよね?」

「相手はサッカー部のキャプテンだっけ? お似合いのカップルって噂だったし」

「そう。入学してからすぐに告白されて、付き合って。5回目のデートの今日までさ、上手く行ってたと思う」

 でも、と雛は続ける。

「今日、ダメになっちゃった」

「どうして?」

「デートの最中に、彼が手を握ってきたんだ。私、反射的に払い退けちゃって……もちろん、すぐに謝ったよ。びっくりしちゃっただけだと思ったから」

「でも違った、と?」

「うん。彼がまた手を繋ごうって言ってきて、いざ繋ごうと思うと、ちょっと嫌だな、って断ったんだ」

「なるほど、それで拗れた、と」

「もう5回目のデートなんだからいいだろ、って言われちゃった。私だってもう繋ぐくらいいいと思うけど、でもどうしても嫌だった。だからきっとまだ早いんだって思って、もう少し仲が深まってからって言ったら……」

「フラれたんだ?」

「……うん、もういい別れるってさ」

 雛の目から涙が溢れた。

「私が悪かったのはわかる。でも、こんなにあっさりと捨てられると思ってなくて」

 声が潤む、いつもの泣く時の声。

 そう、いつもの。

 雛の話を聞くうちに、何故あの時の泣き顔ではないかに気づいた。

 好きじゃなかったんだ、本気の恋愛をしてなかったんだ。だから失恋した時のあのあまりに綺麗な泣き顔が出なかったんだ。

 そう思うと、また別の疑問を抱く。

 じゃあ何で雛は付き合っていた?

 が、あまり興味をそそられず、考えることをやめ、雛に声をかけた。

「辛かったね、雛」

「ううう、祐ぅ……」

 雛はいつものように泣き始めた。

 その顔は、いつも通り魅力的だ。

 けれど、物足りなさは拭きれなかった。

 

 ***


 3章のイチャイチャラブコメの例。

「祐と話すのって楽しかったんだなぁ」

「楽しいって思ったことなかったんだ……」

「あはは、違う違う。今まで、慰められるとこにばっか目がいってたんだなって話。あ、でも、面白さは普通だから、勘違いしないでね」

「ええ、m1取る気になってたのに」

「あはは、そういうとこ。つまんないけど凄く楽しいんだ。多分、波長が合うんだろうね」

「波長?」

「そう。びびび〜、って」

 雛は両人差し指を頭の横で立ててツノをつくり、牛みたいに突きつけてくる。

 俺もノリに合わせて、同じことすると、人差し指同士が触れた。

「本当だ、波長が合うなあ」

 なんて冗談を言って顔をあげると、雛も笑いながら顔をあげた。

「あはは、本当だ。波長が合っ……っ!?」

 至近距離にある雛の顔が真っ赤に染まる。俺まで顔に熱が上ってきて、冗談に逃げる。

「いや照れないでよ、反応に困る」

「え、あ、あは、ごめん。あれ、でもおかしいな、なんでだろ、祐相手に照れちゃうなんて」

 





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② 「話聞くよ」と慰めてたら、取り返しのつかないほど依存された。美少女の泣き顔に魅了されて沼から抜け出せません。 ひつじ @kitatu

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