ある少女の最期の日

キノハタ

彼女の返却日

 そこは真っ白な部屋でした。


 壁も床も真っ白です。電灯の一つもないのに暗くもなく、ただただ真っ白な部屋でした。


 机も椅子も真っ白でその中央に座る人も、同じく真っ白な服を着ています。


 白衣にも見えなくもないそれは、どこかお医者さんや研究者さんを想わせますが、その人はどちらでもありませんでした。


 その人は、一息つくと、ふぅと息を吐きだしました。


 それから少しだけ眼を閉じた後、ゆっくりと口を開きました。


 「次の方、どうぞ」


 声に呼ばれるままに、真っ白な部屋の真っ白なドアが開きます。


 ガチャリとドアノブを一生懸命背伸びして開きながら現れたのは、とても小さな少女でした。


 少女はぴょこぴょこと、どことなく覚束ない足取りで、真っ白な人の所まで歩いていきます。


 それから、同じく真っ白な椅子にぴょんと飛び乗りました。


 「おかえり」


 その人は言いました。


 「……は、はいっ」


 少女は少し緊張したようすで、そう返事をしました。


 その様子に、その人は少し笑って言いました。


 「緊張しなくていいよ、別に怒らないし、悲しんだり、苦しんだりもないから。ただ、話を聞かせてくれればそれでいい」


 そう言われて、少女はじっと自分の膝を眺めてから、少し顔を上げて頷きました。


 「はい、わかりました。


 少女はとっても礼儀正しく、でも手を少しまごまごさせながらそう答えました。


 神様は微笑んで、ゆっくりと話の続きをし始めます。


 「じゃあ、早速だけど、生きてみてどうだった?」


 その言葉に少女は少し困ったように頬を掻きます。


 「えと……酷いことを一杯してきました」


 「へえ……酷いこと」


 神様はふむと頷きながら、首を傾げます。


 その様子に、少女は少し怯えた様子を見せましたが、少し息を呑んでから何かを決心したように口を開きました。


 「はい、えと人のことを蔑ろにしたり。相手のことを考えなかったり。自分のいいと想うようにだけ行動したり。……それでたくさんの人を傷つけてきました」


 少女はそう言って、言い切ってから少し俯きました。


 「取り返しのつかないことも沢山しました。他人から奪うこともしました。きっといつか……地獄に落ちるんだろうなって、そんなことを沢山沢山してきました」


 「そっか」


 神様は少しだけ相槌をうって、あとは黙って聴いています。


 「大事な人に上手く伝えられなくて、擦れ違いもたくさんしてきました。私のせいできっと沢山の人が不幸になりました。……不幸になったのを知っていたのに、全部、無視して生きてきました」


 「…………」


 「…………生きてきました」


 「うん」


 少女は少し息を長く吐くと、神様をまっすぐと見つめました。


 「ごめんなさい、神様。貴方に貰った命を、私はこんな風にしか使えませんでした」


 少女の声が少しだけ震えはじめました。


 「貴方がせっかくくれた命を、人を傷つけるためにしか使えませんでした」


 目元が少しだけ滲み始めました。


 「貴方がせっかく見ていてくれたのに、私はろくでもないことしかできませんでした」


 蛇口が少しずつ緩み始める様に、流れる水の勢いが栓を緩めていくように。


 「ごめんなさい」


 ぼたぼたと、何かがまっしろな机にこぼれていきます。


 少女はぎゅっと自分の掌を握りしめて、ぶるぶると震えるままに慟哭を続けます。


 「ごめんなさい、ごめんなさい。こんな風にしか生きれませんでした。こんな風にしか歩けませんでした。私は、せっかくあなたがくれた命を、こんなくだらないものにしてしまいました」


 必死に、衝動的に、でも何かを冀うように少女は口を開き続けます。


 「ごめんなさい」


 少女は、涙でしわがれた声で、何度も何度も神様に向けて謝っていました。


 「ごめんなさい」


 許して欲しいわけではありませんでした。


 今更、自分の身が可愛いわけでもありませんでした。


 ただ、最初の最初に大事に渡された、綺麗な宝物みたいだった彼女の魂を。


 ただ、産まれてきたとき神様に確かに託された、彼女自身を。


 こんなに醜く汚れた形で、返さなければなくなったことが。


 こんなにくだらない自分になってしまったことが。


 たまらなく悔しくて。


 たまらなく申し訳なくて。


 たまらなく悲しかったなのです。


 ただそれだけなのです。


 それは他でもない彼女自身が歩いた道だけど。


 だからこそ、誰のせいにも出来ない彼女自身が辿り着いた応報の結果でした。


 いつかの旅立ちの時に、神様が願ってくれたみたいに綺麗な人にはなれませんでした。


 いつか手を振って送り出された時に、神様と交わした約束は果たせませんでした。


 せっかくもらった大事な大事な宝物は、長い長い人生という旅路の果てに、薄汚れて、ぼろぼろに千切れて、取り返しのつかないほど壊れてしまいました。


 こんなはずじゃなかったのに。


 こんなふうになりたかったわけじゃないのに。


 ぼろぼろとこぼれる涙をいくら落としても、薄汚れてしまった魂は、もう綺麗になんてなりません。


 ついた傷も、どこかで落とした欠片も、いつか刺さってしまった棘も、なぜ付いたのかわからない滲みも。


 なにもかも、もうどうにもなりませんでした。


 だって、彼女の旅はもう終わってしまったのですから。


 それを拭う機会は永遠に失われてしまったのです。




 いつか、彼女が最初にもらった魂は。


 とてもとても綺麗でした。


 向こうが見えるほど透明で。


 傷一つなくぴかぴかで。


 どんな色にだって透かして見えたし、どこまでも輝いて見えました。




 いつかの時。


 人生という長い長い旅路を歩き始める彼女に、神様はそれを手渡して言いました。


 君にこれをあげるから。


 大事にしてね、何せこの世で一番大事な君自身なんだから。


 きっと辛いこともあると想うし、苦しいこともあると思うけれど。


 どうか最期まで歩いてみて。


 そして、最期に僕にこれを返しに来てね。


 それから、その時に、どんな人生を歩いてきたか聞かせておくれ。


 たくさんたくさん話を聞いてみたいから、できるだけ目一杯歩いておいで。出来たらあんまり早く帰ってこないようにね。


 じゃあ、いってらっしゃい。


 どうか君の旅路が幸せに満ちたものでありますように。


 そして、出来たら笑って旅の話をしに帰っておいで。


 僕はその時を―――君の旅の話を聴ける時を、ずっとずっと楽しみにしてるから。




 ―――そう願われて歩き始めたはずなのに。


 全てを祝福されて、あの小さな青い星に産まれ落ちたはずなのに。


 たくさん歩くうちに、彼女の魂は気付かぬうちに、少しずつ汚れていきました。


 嘘を一つつくたびに、魂に消えない汚れがついていきます。


 人を虐げるたびに、傷一つなかった魂が欠けていきます。


 誰かから投げれた小石が、魂に刺さると、気付かぬうちに抜けなくなっていきました。


 膝が折れて崩れたときに、魂が手から零れて、落としてしまったことも何度かありました。


 そのたびに、決して消えない何かを彼女自身に刻みながら。


 いつかの願いすら、神様との約束すら気付けば忘れてしまいながら。


 彼女は今日という日まで歩いてきました。




 泣きながら少女は、自分の魂を白い机にコトンと置きました。


 それは最初に渡された時とはにても似つかぬものでした。


 向こう側も見えないほど黒ずんで、ひび割れて、幾つも小さな破片が刺さって、零れ落ちた欠片が多すぎて、もう元の形すらわからなくなってしまっています。


 神様はその魂をそっと手に取って、ゆっくりと眺めていました。


 その間、少女は思わず俯いてしまいました。


 その魂を見られて、神様に何と言われるか。


 ため息をつかれたら、どうしよう。呆れられたら、どうしよう。……いや、きっとそれならまだましな方で、実際は無視されたり、関心もないふうに扱われるのがきっと一番辛いのでしょう。


 ―――でも。


 と、同時に想いました。


 きっとそれで仕方ないとも想いました。


 何せ、自分という贔屓目を抜きに見ても、その魂は見れたものではありませんでしたから。


 それに、彼女は誰よりもどれだけ彼女自身が汚れているのかを知っていたのですから。


 だから、神様が呆れても仕方ないと、想いました。




 程なくして、神様はゆっくりと彼女の魂を机に置きました。


 そして変わらず優しい笑みで少女を見ていました。


 そこで少女はようやく、神様の顔に自分のことを責めたりする様子がないことに気が付きました。


 もちろん、神様は最初からそう告げていたはずなのですが。


 ただ誰より彼女自身が、彼女の魂を許すことができていなかったから。


 だからずっと、ずっと自分は責められるのだと、責められて仕方ないのだと。


 そう―――想っていたのです。


 神様は少しだけ手招きをしました。少女はそれに誘われるままに身を乗り出します。


 それから神様は彼女の魂の中の一つの欠片を指さしました。


 それは黒く汚れた魂の中で、不自然なほどに白く輝く欠片でした。


 「これ、綺麗に光っているけれど、何があったの?」


 少女は、その欠片をじっと見つめて考えます。


 「――――孫の記憶です。優しい子で……」


 「うん、じゃあ。こっちは?」


 神様は灰色にねじ曲がった欠片を指さします。


 「…………娘の記憶です。たくさんすれ違ってしまって」


 「そうか、じゃあ、これは」


 「えっと……成人した時に初めて―――」


 少女は問われるままに答えていきました。


 彼女の魂に刺さった沢山の破片が誰によってもたらされたか。


 彼女の魂の欠片はどこで落としてきたか。


 小さな汚れの一つ一つまで、何があってそうなったか、どんなことをしてそうなったのか。


 彼女の人生の一つ一つを。


 彼女が今の魂に至るまで、どれだけの物と出会い、別れ、過ごし、何を経験してきたのかを。


 もちろん、問われるものの大半は辛い記憶でした。


 後ろめたく、答えるのも躊躇われるものばかり。


 それでも、彼女は答え続けました。


 最初は問われるがままだったのに、気付けば必死に、必死に。


 まるで何かをわかって欲しいかのように、彼女自身もどうしてこんなに必死になって喋っているのかわからないほどに。


 ずっとずっと答え続けました。


 自分がどんな人生を生きてきたか。


 どんなことを想い、どんな風に過ごしてきたか。


 神様はそんな少女を優しく見つめたまま、その話をじっと聞いていました。










 神様、神様。


 私、私、がんばりました。


 こんな、こんなくだらない魂になっちゃったけど。


 それでも私がんばりました。


 がんばって今日まで私自身を持ってきました。


 持ってくることができました。


 ねえ、かみさま。わたしの人生はきっとくだらないものだったけど。


 それでも私のできるなりにやってきました。


 こんなだけど、本当に、私のできる限りはやってきたんです。


 本当です。


 嘘みたいだけど、本当なんです。


 私は、精一杯、目一杯、生きてきました。


 綺麗な私を返せなくて、ごめんなさい。こんなに汚しちゃって、ごめんなさい。


 でも、でも、今日までどうにか歩いて来れました。


 貴方に、これを返すところまで生きてこれました。


 本当に本当に、ありがとうございました。


 こんな私に、こんな綺麗なものをあずけてくれて。


 本当に、本当にありがとうございました


 本当に、ごめんなさい。


 本当に、ありがとうございました。


 今日まで、私、生きてこれました。


 今日、なんとか、ここまで来ることが出来ました。


 こんな、こんな私だけど、本当にありがとうございました。





























 神様はそっと微笑んで、泣きじゃくってばかりの少女の頭にそっと手を乗せました。


 それから、その頭をゆっくりと撫でながら「お疲れ様」と言いました。


 







 長い――――、本当に永い旅だったね。


 頑張ったね、辛かったね。


 ちょっとでも楽しいことはあった? 素敵な人に出会えた?


 ―――そう、それならいいんだ。たとえ少しでもそう想えたなら、それでいいんだ。


 本当に、本当にお疲れ様。


 おかえり。


 君に、君をあずけて本当に良かった。


 おかえりなさい。


 本当に、本当に。


 頑張ったよ、凄かったよ。


 おかえりなさい。


 それから、ありがとう。


 君はちゃんと約束を守ってくれたんだ。


 今日、ここまで来てくれた。


 それがね、本当に嬉しいんだ。




























 秋が顔を覗かせる、そんな頃。


 小さな病室で、とある老婆がその息を引き取った。


 眠るように、ただ静かに。


 その頬から零れる涙は、きっと誰も知らぬ間に、そっと風の中に消えていく。

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