2話

「お姉様、何かお悩みが?」

「……そうね、悩みと言うほどのものでもないのだけれど」

「……?」


 ヴィクトワールが個人所有している避暑地の館でのことである。


 ヴィクトワールは夏に相応しいさらりとした白のドレスを身に纏い、涼しい風の流れ込む部屋で本を読んでいた。


 その足元には、甘えた子猫のように彼女を見上げる青緑の瞳の令嬢の姿がある。

 絨毯の上に座り込み、すぐ横の椅子に座った美しい女性ひとをきらきらと愛おしげに見上げていた彼女は、ページを繰る手が止まっていることに気づいて声をかけたのだった。


 曖昧に苦笑して答えたヴィクトワールに「何かわたしにできることがあれば」と唸る。


「いいのよ、子猫キティ。貴方はいてくれるだけでわたくしの癒しだわ」

「お姉様ったら……もう」


 わざとらしくむくれた彼女にヴィクトワールはクスクスと笑った。優美な手が伸びてきて、繊細な指先が少女の顎を掬い上げる。


「拗ねないで、可愛いレナ。分かったわ、その愛らしいふくれ顔に免じて、わたくしの話を聞かせましょう」


 苦笑混じりの吐息に、レナはパッと顔を輝かせた。表情のころころと変わる様子にヴィクトワールはまた笑う。


 二ヶ月前、イレールのところから連れ出してそのまま懐に引き込んだクリソプレーズ家の少女は、自身に『女』としてイレールを誘惑するよう強いた実家と決別することをヴィクトワールに宣言した。

 それは、今まで大人しく、完璧に躾けられた少女として生きてきた彼女にとって途轍もない気力を要する決断であったと思う。しかし彼女は、その緑玉髄の目をギラギラさせて言ったのだ。


「ヴィクトワール様、あのね、今なんです、きっと、今しかないんです。私、ずっと憧れていた、自由に憧れていました。だから、今、こうするんです」


 そう言って震えながらペンを握った“レナ・クリソプレーズ”は『もう二度と帰りません』と締め括った手紙をクリソプレーズ家へ送ったその瞬間に“レナ”という一個人になったのだった。


 それを思い出してヴィクトワールは、ほぅ……と小さく吐息を漏らす。大人しく言葉を待っているレナの頭を優しく撫でた。


「……わたくしが、未だイレールの婚約者でいる理由。そろそろわたくしも決断をしなければと思ってね」

「理由……?」

「ええ。だって、このわたくしが、ただ王家と、濡羽を戴くタイガーアイ家とが交わした契約だからと大人しくあの人の婚約者でいると思う?」


 苦笑混じりにそう言うと、レナは目を丸くしてふるふると首を横に振った。


「思いません! だってタイガーアイ家やお姉様なら、王位継承権第一位の人間を変えさせてしまうくらい簡単でしょう?」

「ええ、その通りよ。濡羽の家はあと四つあるけれど、やはり何をするにもお金ですもの、タイガーアイに敵うものはいない」


 そう言うと、レナは大きな目をキラキラさせて「格好いい」と笑みを深める。ありがとう、と笑いかけ、話を続けた。


「わたくしはね、オブシディアンを試しているの」

「王家を、試している……?」

「ええ」


 囁くように頷いて、ヴィクトワールは窓に目を向けた。外からは、レナと同じようにヴィクトワールが保護した少女たちが楽しそうに戯れる声が聞こえてくる。

 ここは二階だから彼女たちの姿は見えないが聞こえてくる声だけで、この安全な場所で思いっきり遊ぶ少女たちの姿が目に浮かぶようだ。

 彼女たちのためにも、このままではいられない。ヴィクトワールはそう考えていたのだった。


「世襲は、継承における合理的なシステムだわ。血縁ほど、自分たちの利益不利益を共有する集団はない。そして、血縁は伝統や価値を受け継いでいくにも非常に適しているわ。勿論例外はあるけれどね……その少しの例外に目を瞑って続けるほど、理に適った継承の方法なのよ」


 優等な血は重ね掛けしていけば更に磨かれていく。貴族王族に混じりけの無い青い血が尊ばれるのは、その血が持つこうした「強さ」を彼らがよく理解しているからだ。


「けれど、時にそれは腐敗を招く。血と共に継いできた慣習や知恵、精神を失えば、世襲の意味は形骸化していくの」


 まあ一所ひとところにとどまった権力が腐敗しないことなんてそうないのだけれど、とヴィクトワールは嘲笑交じりに付け加えた。

 それを見上げていたレナは、第一王子イレールのことを――このままいけばそのまま立太子され、いずれ王になる男のことを思い浮かべる。


「……今のオブシディアンはそう・・かもしれない、ということですか?」


 考えて、そう言うと、ヴィクトワールは窓の外に向けていた優しげな目のままレナを見下ろし「ええ」と頷いた。


「タイガーアイ家が認め、尽くすと決めた英雄王の血筋。それがああなってしまっては、もう、別物と言っても過言ではないわ」


 確かにあの漆黒は憧れとは程遠い、執着や傲慢が染みついた色だった。

 レナは、ごくりと唾を飲み、ヴィクトワールの手を握る。


「私が、もしただお一人を“王”と仰ぐのなら――お姉様がいい」


 彼女の手をとり、自分の意志で生家と決別したその時から、レナが最も尊く、強く美しいと思う存在はヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイただ一人になったのだ。


 思いがけないレナの言葉に目を丸くしたヴィクトワールは、やがて心底嬉しそうな顔で「それは素敵ね」と笑った。






「本当に、とても素敵なことだわ」


 虎の目が、狙いを定めて煌めいた。

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