ヴィクトワールの戴冠

ふとんねこ

1話

 ――彼女は、生まれながらの女王だった。


 ヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイ。

 この名を知らぬ者はオブシディア王国にはいない。


 内から溢れ出るような自信に裏打ちされた絢爛たる美貌、名門タイガーアイ家の特徴である危険で魅力的な虎の目。緩やかに波打ってその背を流れ落ちる金の髪は、王国で一番の美しさと言われている。

 建国の時から続く名門にのみ許された黒曜石オブシディアンの黒。虎目石タイガーアイを身に宿す一族が許されたのはその中で最上級の漆黒に次ぐ濡羽色。そんな黒をその肢体に纏った彼女はまるで夜の女王のようだった。


「お金じゃ解決できない? 貴方がそれに足るだけの財を持たないだけでしょう!」


 王国一、それこそ王家であるオブシディアンよりも財産を有するタイガーアイ家の令嬢として、惜しみなく最上級のものだけを注がれ、それを維持し、増やす術を学んだ彼女はその個人資産だけで簡単に小さな国を買えてしまう。


「買えるけど、買わないわ。だってつまらないもの。けれど、そうね……どうせ買うなら、オブシディアがいい」


 そんな不遜すら許される、確たる実力が彼女にはあった。


 それは、他家に嫁ぎ、世継ぎをもうけ、家を維持する穏やかで大人しい女主人になることを求められ、ひたすらに抑圧されてきた貴族令嬢たちの中では異質過ぎた。


「女は静かに刺繍でもしていればいいって? ハッ、笑わせないで頂戴!」


 頻繁に街へ出て、経済や流行、世界情勢の先端を見極め、投資や融資を行い、時には挑戦的な事業にすら私財を投じる彼女に婚約者である第一王子が苦言を呈した際の返答である。


「わたくしは、ヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイよ」


 虎目石タイガーアイは財を築くもの。

 その血を、きっと歴代の誰より色濃く継いだ彼女は、今までのタイガーアイの女たちとは比べ物にならないほど気が強く、意志がはっきりとしていた。

 渋面になる第一王子に、彼女は「それに」と続ける。


「わたくしたちの財力を求めて、そちらから膝をついて乞い願ったのでしょう?」


 不敬だぞ、と絞り出すような声。ヴィクトワールは「もっとはっきり仰って?」と華やかに微笑んだ。


「タイガーアイに去られたら、オブシディアンに何ができるの?」


 タイガーアイ家は、王家の金庫番である。

 初代から受け継がれてきた金を稼ぐ才。それを認められ、国庫の中身に触れることを許され、王家の財を動かして、増やすことを求められた富の象徴。

 彼女が未だ王子の婚約者でいるのは、彼女自身の気まぐれにすぎないのだ。


 その「役目」を持つタイガーアイ家は、王国貴族の格を表す色位において、許された色の通りに最高の「濡羽」を戴いている。同格の家は他にダイアモンドにエメラルド、ラピスラズリとローズクォーツだけ。そのどれもがタイガーアイと同じく、各々の「役目」を持っている。


 類い稀なる頑強さを有するダイアモンドは軍事において比類なき強さを誇る。

 大地の声を聞き届ける力を有するエメラルドは自然環境を整える。

 天候を操るラピスラズリはその力で国土を助け、守る。

 そして癒し手のローズクォーツは医術をもって、民を救う。


 どこが欠けても、オブシディアは確実に動揺する。他の濡羽家では補えず、それ以下の黒橡、濃墨、薄墨、では代わりになるなど到底無理な、太すぎる国家の柱だ。

 彼らがオブシディアン家を王として仰ぎ、敬うのは、建国の英雄である初代国王への恩義があり、ずっと続いてきた互いを尊重する関係があってこそである。


 そのことは、オブシディアンの子供なら男も女も関係なく、言葉も分からぬ幼少期からみっちりと叩き込まれるはずだ。


 それがどうしたことか、第一王子であるイレール・ヴォリュビリス・オブシディアンは王家こそ至上と思い込んでいるらしい――全てを受容する黒、というその力は、他の色があってこそ発揮されるものだというのに!


「漆黒を宿すこの僕に、尽くそうという気概はないのかヴィクトワール」

「ないわ」

「っ、女は主人を敬い、支え、いかなる時も立てるものだぞ! 貴様は淑女教育で何を学んだのだ!!」

「少なくとも、女に立ててもらわなきゃ自立もできない男を敬うなんてことは習わなかったわね」

「何だと?!」


 言葉通り、目も髪も見事な漆黒のイレールは、社交界では数多の令嬢から熱い眼差しで見つめられている。漆黒を宿す、それはこの国では非常に重い意味を含んでいるのだ――全ての色彩を受容し、その上に立つ……王たる資格だ。


 彼と婚約者であるヴィクトワールが上手くいっていないのは有名な話で、それならば我が家の娘を代わりに……という者が後を絶たないのだった。

 本来ならばそれはヴィクトワールへの最悪の侮辱であり、彼女の立場なら不快を示す仕草一つで、イレールに差し出された哀れな令嬢たちの命を取ることができる。


 本来ならば、そうするのが正しいのだ――しかし彼女はあのヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイである。



 春のある日のことだった。


「こんなこと、っ、あ、だめです、殿下、あ、まって」

「ふ、口ではそんなことを言っても、僕に触れられて嬉しいのだろう?」


 第一王子イレールから政務の補佐をせよ、との書簡が届いた。それを受け翌日すぐに登城したヴィクトワールが使用人に案内されてイレールの執務室に踏み込んだ瞬間目にしたのがそれである。


「――あらあら、このわたくしを呼びつけておいて、他の女との逢瀬に励んでいらっしゃるとは何事かしら?」


 現れたヴィクトワールに、その令嬢は顔を蒼白にして動きを止めた。その口が震えながらも「おゆるしを」という言葉を発そうとしたとき、イレールの嘲笑がその努力を蹴散らした。


「遅かったな、ヴィクトワール。これはお前と違って『女』というものをよく心得ている。お前の手本になるだろうと思ってな」


 彼が堂々とそう言った以上、哀れな令嬢が「お許しください」とヴィクトワールの足下に額ずき、許しを請う機会は失われた。真っ青な顔でぶるぶる震えて、虎の口が開くその時を待つしかない。


 そう、とヴィクトワールは淡白に答え、つまらなさそうに小首を傾げた。


「それでわたくしの気を引いたつもりでいるのなら滑稽なことね」

「は……」

「良くてよ、わたくしの心得る『女』を教えましょう」


 そうしてそのまま、長椅子に腰かけるイレールにカツカツと詰め寄ったヴィクトワールは、その特徴的な虎の目を一度も瞬かないまま――獲物を狙う獣のそれだ――白百合のような繊手を振り上げ、そして、振り下ろした。


 ――パシン、と乾いた音がして、頬が痛みと熱を持って初めてイレールは頬を張られたことに気づいた。


 この女、と溶岩のように沸き上がった怒りのまま、口を開こうとした彼を目の前の虎の目が凍てつく眼差しで見下ろしていた。それがあまりにも冷たいので、イレールは思わず喉に言葉を詰まらせる。


「わたくしたち『女』を、道具としか考えていない男には正当な怒りを」


 溶岩よりも熱く、北の果ての万年氷よりも冷たい怒りの声だった。

 イレールの喉がひりつく。虎に睨まれ、呼吸もままならない。


「その呪縛から逃れられない『女』には、選択の機会を」


 そう言ってヴィクトワールはイレールの横で震えていた令嬢にその手を差し伸べた。淡い青緑の目をした令嬢は、泣きそうな顔でヴィクトワールを見上げる。


「さあ、選びなさい。貴方を道具としか思わないそちら・・・か、わたくしか。言っておくけれど、わたくしは女の味方よ。貴方の選択が何であれ受け入れましょう」


 その言葉に、令嬢は泣きそうな顔をぎゅっと顰めて、震える手でヴィクトワールの手をとった。途端、優しく、そして力強く握り返されて涙がこぼれ始める。


「いい子ね」

「ひ、う、ヴィクトワール様、お許し、うう、おゆるしください」

「ええ、許すわ。貴方の全てを、このわたくしが」

「うわぁぁぁんっ!!」


 ついに激しく泣き出した彼女を支え、ヴィクトワールは「それでは」と執務室を辞した。冷たい虎の目が彼を一瞥して、通り過ぎていく。

 頬を赤く腫らしたイレールは、彼女の姿が見えなくなってもしばらく、そのまま呆然としていたのだった。

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