第42話 ずっとそばに
それは琴だった。しばらく見ていなかったので、宵には新鮮な気さえした。
「この頃のお前と鈴は赫天にばかり構うのでな」
どっかりと琴の前に座りこむ。その横に宵がちょこんと座る。みなそこに来てからしばらく、宵と水鏡はのんびりとした日々を過ごした。そう長い時間ではなかったが、あの何もないような日々が宵を作り替え、すっかり違ったふうになってしまった。穏やかな優しい日々。それからまた時間が経ち、さらに色々なことがあり、色々なことが変わった。隣国が侵攻してきて村が滅び、環と赫天がみなそこにやってきて、環が去った。兵を率いて殺し合った赫天は幼くなり宵にすっかりと懐き、今は鈴と眠っている。
琴を前に二人でいるのは同じなのに、前とは違う。宵が水鏡を見ると、水鏡も宵を見ていた。以前、宵にとって水鏡は圧倒的に大きな存在だった。水鏡はこのみなそこそのもの、自分に新しい生をくれた存在であり、新しい生そのものだった。宵はそれを享受していた。何よりも大切な相手であることは、ずっと変わらない。でも、その大切、の言葉に含まれる意味が変わってきている。今、水鏡は宵に鈴のように膝に乗れとは言わないだろう。宵も、今それを言われたらどうしていいのかわからない。以前は軽く断ることができたのに。耳が熱い。
水鏡は美しい手で、琴を弾いた。宵は不器用な音が流れることを想像した。水鏡のあの不器用な音が宵は好きだった。一つ一つの音を石にして取っておきたい。
だが最初の一音から違っていた。澄んだ音が静けさの中に弾け、消える間もなくまた美しい音が寄り添う。一つ一つの音が、水鏡の美しい指によって生み出される。初めは音自体の美しさに驚き、それからその連なりが美しいことに気づく。それぞれで美しいのに、寄り添うと一層美しい。
半ば陶然となっていると、柔らかな音がそれまでの音を抱きしめるようにして、音は止んだ。みなそこの沈黙に、音が溶けていく。
音が石になるという逸話。不器用だったあの音が、磨かれて宝石になった。音曲の美しさは自然の美しさとは違い、磨かなくては輝かない。宵は音自体に、そして水鏡の研鑽にも心打たれていた。
「なかなかだろう」
そう言って、水鏡は誇らしそうに、照れくさそうに微笑んだ。宵はただ頷いた。
「お前が赫天にばかり構うから、私は寂しく琴を弾いていた」
まるで知らなかった。一人で試行錯誤しながら琴を弾く水鏡を思って、宵はつい笑いそうになる。
「ええと……ごめんなさい?」
「お前は私の妻だから、赫天のもとにはやらないぞ。それこそまた戦が起こる」
宵にはそれが冗談なのか判断しかねる。ただ答えは一つだ。
「どこにも行きませんよ」
ここは静かで落ち着かないわ、と、何度も言った環を思い出す。白くて静かで美しい、神の棲家。退屈だ、と言った水鏡。
宵からすれば、ちっともそんなことはない。落ち着くし、退屈なんてことはない。ここよりいい場所はこの世のどこにもない。断言できる。どんなに煌びやかで、にぎやかな場所でも、ここよりいい場所はどこにもない。
宵の眼差しの先に、水鏡がいる。白い髪。白い肌。白い衣。湖面の眸を持つ神。自分の夫。どこまでも美しい存在。傷ついているともわからないほど傷つき尽くして、挙句に殺されてしまった宵を救ってくれた。醜いと信じていた痣を、ただそのまま面白がってくれた。命と心を大切にしてくれた。気まぐれであっても、妻に、家族にしてくれた。すべてはここで起こったのだ。
「水鏡様がいるなら、私はどこにも行きません。ずっとここにいます。私がいたいのは、ここだけです」
「本当に? 赫天がお前を火の国に連れ帰ろうと望んでも?」
そんなことが起こる気はしない。
「赫天は環にも懐いていましたよ」
二人の別れ際があっさりとしていたのは、まだ赫天の意識がはっきりとしていない頃だったからで、今ここに環がいたらそちらに懐いていたのではないか、と宵は思っている。環より自分を選ぶ者がいるとはまだ信じられないのだ。
「お前が言うならそうかもしれないが、万が一赫天がお前を望んでも、私は決して、決して、お前を行かせはしないぞ」
起こるはずのないことを否定するのは赫天に失礼、と思っても、宵はその水鏡の言葉が嬉しかった。
「誰に何を言われても、どこにも行きません。水鏡様が私を望んでくれるなら」
付け加える。
「もし、水鏡様が……私を、いらないと言っても、です」
仮定の話でも声が震えた。
「言うものか」
「それでも、絶対に、どこにも行きません。ずっとここにいます」
皆のためと言われて、宵はかつて自分の命さえ手放した。その相手も特別大事ではなかったけれど、自分の命も未来はもっと粗末だった。
水鏡に出会って、宵は以前よりずっと、世界が広く美しいものだと知っている。きっと優しい人も、宵の痣を肯定してくれる人もいくらでもいるのだろう。想像できる。それでも、わざわざその相手を探しに行きたいとは思わない。水鏡よりも大切なものはない。水鏡に否定されても、水鏡がくれた傍にいてほしいという言葉の一つ一つを根拠にして、なんとしてでも縋りつくだろう。
本当はもうわかっている。この感情が何なのか。
二人は見つめ合う。見つめ合うたびに、心が近づいていく。この先が恐ろしくて留まりたいと思っても、惹きつけられてしまう。本当はもっと近づきたいからだ。
水鏡の手が静かに宵の顔に伸びる。妻の証にもらった髪飾りが揺れる。白い指が宵の痣をなぞる。この痣がなければ、出会うこともなかった。すべての感情が喉元で焦げ付く。小さな唇からは、熱だけが籠ったため息が漏れる。
「お前は……私だけの妻だ」
両手で宵の小さな頬を包み込む。
「もっと前に出会っていれば、お前に求婚することもできたと思うと、少し惜しい。こういうとき何を言えばいいのか、私にはよくわからない。もっとふさわしい言葉があるような気がするのだが……ただ……傍にいてほしい。この先ずっと、何があってもお前に隣にいてほしい」
宵の喉の奥が焦げて、ため息よりも熱い言葉になって零れた。
「好きです」
宵の囁きに、水鏡は白い睫毛を瞬いた。
「好きです……水鏡様、ずっと、ずっと、ずっと、好きです。好きです」
自分の内にあったときは重かったものが、言葉になると軽くて不安になる。いくつもいくつも重ねないといけなくて、そうしていくら重ねても、本当は何も伝わらない。伝えたいのはこんなものではないのに、伝えてはいけないものだけが届いてしまう。
「うん」
ここまで来ても怯えながら、それでもどうしても言わずにはいられなかった宵に、水鏡は頷いた。眸に湛えた水が揺れる。胸に一つ大きな石を投げ込まれて、大きな波が立つ。そのまま奥に沈んで、欠けていた部分が埋まる。初めて知る。だがずっとこれが欲しかった。もう二度と失えない。
「私もだ。私も、お前が好きだ。ずっと。これまでも、これからも。ずっと。私の心の全て。私の妻」
水鏡の両手の中に、宵の小さな顔がすっぽりと収まっている。初めて見た時は、なんでもなかった。鈴がただの小さな猫だったように、宵もまた小さな憐れな娘でしかなかった。奇妙な痣が物珍しかった。それでもなんの迷いもなくこの娘を妻にしようと決めた。そのときにはこの思慕は始まっていたのか? 水鏡にはわからない。流れる水がかたちを留めぬように、思いもまた過ぎ去ったものの形は定かではない。ただわかるのは、今、この娘のあらゆるものが水鏡にとって、たった一つ、かけがえのないものだと言うだけだ。
「私がこれまでどう生きてきたのかを知り、この先の私を作ってくれ。私を今よりも、もっと良い神にしておくれ。琴を弾くほかにも、もっとお前を喜ばせたい。私をお前にとって誇らしい神にしておくれ」
もっと良い神。そんなものは宵には存在しない。今の水鏡で、どんな水鏡であってもいい。それが最上だ。でも宵はただ頷いた。水鏡が変わりたいと望むなら、きっとそうする。それを目指す。そして、二人で良い神になりたい。孤独にみなそこで暮らしていた水鏡の心を癒し、水鏡に与えられた力でその身を守り、民と水鏡を繋ぎ、この国をもっと良い国にしたい。赫天の成長を見守り、導き、水鏡の隣国への悔いを、もっと良いかたちで未来に繋げたい。虐げられていたころの宵の痛みが、今水鏡といることで、大きな望みになってここにある。そして、宵の望みは、水鏡の望みだった。みなそこに来たときは、ここで穏やかに楽しむことだけが重要だった。そして宵の傷と水鏡の孤独が癒された今、二人で同じ望みを持っている。そのことが、信じがたいほど輝かしい。水鏡の思慕が宵の身の内を満たし、二人の望みは宵の存在を超えて、もっと大きなものを照らしている。
言葉に出来ない。
「はい」
だからただそう言った。
そのあと、みなそこに言葉はなかった。ただ言葉では伝えきれぬ思慕が、二人にしか知らぬやり方でやり取りされた。
水の神に愛された国があった。大きくはないがよく栄えた国だ。
その国のどこかに、ちいさな美しい湖がある。湖には神が棲んでいる。そして、神には伴侶がいる。もとは虐げられていた村の娘だと言う。
二つの神はよく民を愛し、導き、民もまた神を愛した。
そして神の夫婦はいつまでも、みなそこで仲睦まじく暮らしたという。
身代わりの贄はみなそこで愛される 古池ねじ @satouneji
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