第41話 語らい
本来神に睡眠は必要ないのだが、赫天はよく眠る。身体と力のつり合いがまだ取れないのだろうと水鏡は説明してくれた。
宵の作った夕飯を食べたあと、おはじきをしているうちに眠気に負けてしまったので、布団に寝かせてやった。灯りを絞った部屋で、宵はその寝顔を眺めていた。起きているときはころころと変わる表情に目を奪われるが、驚くほど美しい顔をしている。白くつめたい印象の水鏡の肌とは違い、日の光をたっぷりと内に含んだような褐色の肌。それ自体が炎のような赤い髪。尖った高い鼻や捲れたようになっている上唇など、荒々しささえ感じる部分もあるが、全体で見ると奇妙なほど調和している。どんな炎も美しいように、不調和もまた美しい。眠っているが、深く息をしている。今というこの時間を食んで起きた瞬間により強く燃え上がろうとする活力がある。見えなくともいつも燃えている。火のようなこの神はよく眠りよく遊び、すぐに一人前の神となる。そして去って行くのだろう。
宵は不遜かもしれないと疑いながらも、赫天に対して母のような感情を覚えていた。子はいずれ大きくなり、母のもとからいなくなる。
ずっとずっと一緒にいような。
赫天の言葉が守られるのかはわからない。でも口にした瞬間には、赫天の未来には宵がいたのだ。そのことが嬉しかった。誰かの未来の大きな場所に自分を置いてくれること。もう二度とないかもしれない。
「宵」
鈴を伴って水鏡が部屋の前に立っていた。寝入っている赫天を見て、宵の横に座る。眠りかけていた鈴がするりと水鏡の膝から滑り降り、赫天の耳元で丸まった。宵と水鏡は目を合わせ、二人で微笑み合った。
「今日も騒がしかったな」
「静かにしたほうがいいですか?」
「いや……まあ、悪くはないさ」
そう言って小さな火の神の寝顔を覗き込む。
「赫天は、こんなやつだったのだな。生まれた時から過ごしているが知らなかったぞ」
「そうなのですか」
うん、と水鏡は頷く。
「私たちはみな母の力をそれぞれに分けて生まれた。赫天はなぜか初めから私を嫌って、他のきょうだいともうまくやれなかった。すぐに癇癪を起してな」
宵は初耳だった。あの戦いから二人で語らう機会はなかなか得られなかった。
「はい……」
「私は赫天が……そうだな、嫌いではなかった。困ったやつだと思っていたが……私は、面白いものが好きなのだ。結局。なので赫天を嫌いにはなれなかった。それぞれ任せられた地を治めるのだから、協力したほうがいいと思っていたしな」
「ええ」
水鏡は遠くを見るように目を細めた。
「この国が始まったばかりの頃、選んだ王がたまたまひどく賢くてな、ずいぶん早くから国を富ませることができた。隣の国は荒れていて……私が助けてやろうかと赫天に申し出ると、激昂されて、私は諦めた。母のもとにいるころは、あそこまでの怒りを見たことがなかったので、怯んだ」
水鏡は淡々と続ける。
「それで諦めたというか……そんな調子の赫天があとで困るのが、少しいい気味だと……思ったのだな、確か。そうしているうちに私の国は富み、穏やかで美しくなった。あるときふと隣国を見ると、民が飢えていた」
水鏡はまだ微笑んでいた。微笑まなければ心のどこかが崩れてしまうのだ。
「私はまた、諦めた。実際そのうちに赫天の民も学び、国としてのかたちも出来ていった。神と国の歴史からすれば、ほんの一時のことだ、だが……そうだな、悪いことをした」
宵は黙っていた。それを裁く資格も、慰める資格も自分にはないと思った。
「悪いことをした……しかし、忘れていたな……思い出した」
水鏡は宵を見つめた。
「お前を見ていると、色々なことを思い出す。みなそこは退屈だと思っていたが、本当はそんなこともなかったのだろう。本当はどんなふうに過ごすこともできた。私は……退屈したかったのだ。もの言わぬ鈴とだけ向き合っていたかった。赫天のことも、自分の民のことも、向き合うのが恐ろしかった」
水鏡は頭を下げた。
「お前にも、民にも、悪いことをした」
宵は首を振った。
「すみません……私のほうこそ、ええと、言い過ぎました」
「そんなことはない。いや……そうだな、では、言い過ぎてくれ」
「え?」
「私に何か思うところがあったら、恐れるな。言い過ぎていると思っても、言ってくれ。そうしてほしいんだ」
戸惑っている宵に、水鏡は笑った。
「お前には難しいだろうな。だが、そう思っている。私は年のせいかずいぶん頑なだから、耳に障ることを言われたほうが助かる」
宵は頷いた。
「はい。……でも、あまり言うことはないと思います」
「それならいいが……うん、お前がいると、助かるんだ。お前がいれば、それだけで助かる。赫天のことも、赫天の民たちのことも、一人で悔いと向き合うのは耐えられなかった。私は永く生きてきて、この先も永く生きる。何かを思い出さなくなることはあっても、その実忘れることはない。底に沈んでいるだけだ。良いこともあるが、その分悔いが増えていく。向き合うのは、一人ではとても耐えられない。お前がいなくては」
宵は水鏡の目を見つめた。この世のものとも思えない美しい水の色の眸。いつも静かに凪いでいる。その底に、数えきれない痛みが沈んでいる。
宵は手を差し出した。その手を水鏡が握った。これまでの二人の間には流れたことのない空気がそこにあった。見つめ合うお互いの眸の中にその正体を見つけたいけれど、もしも見つけてしまったら、もう取り返しがつかなくなる。自分の心を急き立てたいし、引き留めたい。でももう後戻りはできない。進めば戻ることのできない道。
「うー」
どれだけ見つめあっていたのだろう。二人ともはっとして、手が離れた。赫天が唸り、ひくひくと鼻を鳴らして、寝返りを打った。鈴もぴくりと動いて、そのまま赫天の頬に鈴の尾が触れる。
「仲のいいことだ」
水鏡は鈴を撫で、それから赫天の赤毛もそっと撫でた。その手つきの優しさに、宵はほっと息を吐く。そこには確かに何かがあるのがわかったからだ。赫天の生来の気難しさや、水鏡の過去からの蟠り、二つの国の歴史、そういうものに覆われて見えなくなることがあっても、その奥に、今宵が見つけたものがずっとある。些細なものだが、何があってももう消えない。
落ち着かない髪の癖を撫でつけようとして諦めた水鏡が、宵に言う。
「さて、ついておいで、宵。見せたいものがある」
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