5 <了>

 私がさっきまで居た歩道の向こうに止まったのは、一台の車。

 乱暴に運転席のドアを開けて飛び出してきた人影は、ガードレールを飛び越し、辺りを見回しながらも、私たちの居る草地の方へ分け入って来た。

「真鳥さん! どこだ、返事をしなさい!」

 口を塞がれている私は、無茶を言うな、と思った。

 外灯の光はここまで届いていない。その人には、こちらがよく見えないのであろう。

 けれど、私を押さえつける男も、突然の闖入ちんにゅう者に動揺を見せている。私は覆われた口元から、一所懸命くぐもった声を上げた。

 逆光になった背の高い人影は、だんだんと手探りでこちらに近付いてくる。その気配が迫った時、私にかけられていた男の体重がふっと無くなり、私は不快な熱から解放された。その人が男の首根っこを掴んで、私から引きがしたのだ。

 草の上に投げ倒された男は、それでも立ち上がり、わめきながら出刃包丁を振り回す。駆けつけてくれたその人と男は掴み合いになり、右に倒れ左に倒れ、その度に出刃包丁の刃が背の高い草を掠め、緑の臭いがきつく広がった。

 その人は、男の手から出刃包丁を奪おうと奮闘している。

 しかし私はと言えば、目まぐるしく、殺気立った状況についていけないまま、草の上で上体を起こすのがやっとだった。刃物がぶんぶん振り回されている中、とてもじゃないが足には力が入らないし、二人の揉み合いに手を挟むことも出来ない。

 そのうちに、駆けつけた背の高い影の人が、男の手から出刃包丁をもぎ取り、振りかぶって向こうの用水路に投げた。どぼん、と少し重い音を立てて、刃物は水の底へ沈んでいったようだ。

 だが、背を見せてしまったその人に、私を襲いかけた痩せぎすの男が殴りかかった。

「あぶな……!」

 私は咄嗟に、その人に向かって声を上げていた。

 男のこぶしが、その人の顔面を襲う。しかし、響いたのはぱきりと小気味よい音だけで、掠めただけだった一撃に、その人が倒れるようなことはなかった。

 次の瞬間、その人は振り向きざまに右ストレートを繰り出す。どうやら男の横っ面に決まったらしく、私が右足の骨を折った時に聞いたような恐い音がして、私は身を竦めた。

 その一撃が決め手だったらしい。よろめいた男はそのまま力を失くして、草むらに倒れ込んだ。

「こっちだ!」

 その隙に、その人は私の手を掴んで立ち上がらせる。私たちは草を掻き分け掻き分け、外灯の下の歩道まで戻ってきた。

 ガードレールの向こうでは、停車したシルバーのセダンが、ハザードランプとヘッドライトを煌々と付けたままである。

 アイボリー色の外灯の光の下、その人――月田先生は、半袖のボタンダウンのシャツはよれよれで、いつものセピア色の眼鏡のフレームも、折れて変形していた。

 けれどその姿を認めた私は、自分でも驚くくらいに安堵あんどしたようだ。歩道の硬いコンクリートの上に、そのままへなへなとへたり込んでしまう。

「――真鳥さん、怪我は!? 大丈夫か!?」

 月田先生は、腰を抜かした私の前に片膝をつくと、すごい剣幕で私の両肩を掴んで揺さぶった。そこに、いつもの飄々とした雰囲気は微塵みじんもない。

 まだ声も出せない私は、乱れて顔にかかった髪を耳にかけられ、少し荒々しい手つきで頬を拭われる。――その時になって、私は、自分が泣いていたことにようやく気が付いた。

 襲われそうになったこと、月田先生が駆けつけてくれたこと、そして自分が泣いていたこと。私にも、もう何が何やら分からない。

 けれど、とにかく月田先生の必死な形相ぎょうそうに勢い押されて、私も必死で声をしぼり出した。

「へ……へい、き……です」

 私が涙ににじんだ声でそう呟いたのを確認して、月田先生は心底ほっとしたようだった。先生は両肩を使って大きく息を吐き出し、勢い余って私を抱き締める。

「そうか、良かった……っ!」

 響いた低い声の近さに、私は吃驚びっくりした。さらに言えば、その腕の力強さと、まだ少し息を上がらせた先生の、シャツ越しに伝わる胸板の熱さにも吃驚した。

 そうして吃驚するばかりの私は、もう、怖いとは思わなかったのだ。

「偶然、窓を開けて走っていて良かった。悲鳴が聞こえて、それが君のもののように聞こえたから……」

 ――だから、駆けつけてくれたというのか。

 お互い、昨日はあんなやりとりを交わしたというのに。それを思い出すと気まずくて、申し訳なくて――けれど、私は胸の奥がじんと熱くなるのを、抑えられなかった。

 それと同時に、月田先生に抱き締められているというこの状況が、気恥ずかしくて堪らない。

「せ、先生……くるしい、です」

「ん? ――ああ、すまない。安心した勢いで、つい」

 先生は慌てて、私を解放した。何だか落ち着かなくて、顔を上げるのも恥ずかしい気がする。それでもそっと視線だけ上げると、私の目には月田先生の眼鏡が留まった。

 私がいつも目印にしていた、セピア色をしたフレームの眼鏡。

 それは今や、左のレンズにヒビが入り、フレームは折れて歪んでいた。何だか、今にも壊れきって外れてしまいそうだ。

 別に私が殴ったわけではないのだが、こんなことになったのには、私にも一因がある。私は思わず、謝った。

「……ごめんなさい」

「何故、君が謝る」

 先生は意外そうに言うと、あまり役に立たなくなった眼鏡を外して、シャツの胸ポケットに入れた。――フレームが曲がっている所為で、眼鏡は上手く折り畳めなくて、つるがポケットからはみ出しているのだけど。「これは修理に出そう」と、先生が一笑する。

 先程の男が起き上がってくる気配は、どうやらないようだ。流石にあれくらいで死ぬこともないと思うので、気を失ってくれているなら有難ありがたいのだが。

 お互い少し冷静になった所で、片膝をついたままの先生は、少し言いよどんだ。

「……昨日の今日で、学校で君を見かけても、様子がおかしかったから。……荒療治あらりょうじ過ぎたかと、心配していた」

 先生は、視線を落として呟いた。その時になって、私は先生にも思う所があったのだと、初めて知ったのだ。

「わたしの言葉で君を傷つけたのなら……すまなかった」

 かけられたのは、真摯な謝罪。

 けれど私も、先生に対する怒りは既に治まっていたし、今の私は、昨日の先生の言葉を認めることが出来ていた。

「もう、いいんです。……全部、月田先生の言う通りでしたから」

 私には小さく、自嘲の笑みが零れる。

「私は結局、自分が大事だっただけなんです。弱い自分を傷つけられたくなくて、『完璧』という壁を作って……他人を拒絶していた」

 諦観に沈んでいた私。

 求めるものが手に入らなかったのは、当たり前なのだ。

 私は自分から求めることも、自分が変わることもしなかったのだから。

 そんな私が、何かを手に入れ、私の願う誰かに手を取ってもらえるほど、この世は甘くない。

「本当に何かを手に入れたいのなら、傷つくのを怖がっていても駄目なのに。どれだけ傷ついたって、それで諦めたら、本当に終わってしまう……」

 そうして私は、一人で終わりかけていたのだ。

 自分で話していて、何だか私は無性に情けなくて、哀しくなってきた。

「でも、私は……こんな自分が、つくづく嫌になりました。私たちはどうしたって人の中で生きていかなければならないのに、『人』を見ることも出来なくなった私は……欠陥のある人間なんでしょうか……?」

 泣きたくなんか、ない。

 いけないと思っているのに、私の声は震える。膝の上で握った手の甲に、熱いしずくが落ちた。

 けれど。

「そんな風に思う必要はない」

 大きな手が、不意に私の頭を撫でる。

 月田先生の低い声は、私の迷子になった心を連れ戻すかのように、優しくて、力強かった。

「君はずっと、一人で歩いてきたのだね。だから、自分を含め、人間というものをよく知らないだけだ。――弱さのない人間なんて、いないと思う。自分の弱さを思い知らされたことのない人間なんて、よっぽど精神の頑強な人か、それともよほど鈍感な人か、それかただの阿呆あほうだ」

 最後の方は冗談めいた笑いを小さく含みながら、先生は言う。

 だが、その口調が不意に、柔らかなものに変わった。

「けどわたしは、辛辣しんらつなくせに繊細で、多感で……頑張り屋さんな君が、愛おしいのだけど」

 私の中で、何かが弾ける。

 その勢いに釣られて顔を上げると、そこには、どこか照れくさそうに微笑む月田先生がいた。

 ――ああ、そうか。

 この人は、見つけてくれたのだ。

 私があんなにも覆い隠していたはずの、脆い自分。『完璧』じゃない、本当の私を。

「それにわたしは、やっぱり君の顔も好きみたいだ。怒った顔も、そして泣き顔も好きだとたった今気付いた所だ。――ここは薄暗いし、眼鏡もなくてはっきり見えないのが、いかにも惜しい」

 月田先生は心底残念そうに言いながら、私の乱れた横髪を撫でつける。

 感じ入っていた私の頬は、ぴしりと強張った。私は、私の髪を勝手に触っている男の手を払い落とす。

「こ、この、ヘンタイ……ッ!」

「真鳥さん。男は総じて変態だよ。だが、危ない変態と危なくない変態がいる。肝要なのは、そこを見分けることだ」

 先生は生真面目な顔をして言ったかと思うと、もうくつくつと笑っている。

 ――ああ、この人は……。

 いつもの飄々とした先生だ。

 やっぱり月田先生は月田先生でしかないことに、私は軽く息を吐いた。

 けれど、そうして数日前まで交わしていたのと同じ雰囲気が戻って来たのを感じたら、私は何だかおかしくなってしまい、つられて笑ってしまう。こんな阿呆らしいことで笑っているのに、私の胸の奥は、温かかった。

 思えば、こんな風に誰かと笑い合ったのは、どれだけ久しぶりのことだろう。

 ……今なら。

 今なら、見ることが出来るだろうか。

 私は不意に、そんな気持ちになる。

 月田先生が言った通り、私はずっと、人のを見ることが出来なかった。

 ほんの僅か、数ミリの距離。それをずらすのは、ずっと他人を拒絶してきた私にとってはひどく困難で、恐ろしいことでもあった。

 でも。

 もしまた、傷つくのだとしたら――最初の相手は、月田先生が良い。

 そう、思えたのだ。

 私は一度、ぎゅっと目をつむると、喉を鳴らして唾を飲み込み、気持ちと呼吸を落ち着けた。

 そして、次に瞼を上げた時。

 私は、ずっと越えることの出来なかった、不可視の壁を越えていた。

 先生の車の煌々と輝くヘッドライトに比べると、外灯の明かりは少し弱弱しくて、頼りない。けれど、改めて人というものを見据えようとした私には、それくらいで丁度良かった。

 常ならば適度にワックスで整えられているのであろう先生の髪は、乱闘の後で少し乱れたまま、目元にはらりとかかっている。

 すっと整った鼻梁びりょうに、柔らかそうな唇。ひげは綺麗にられている。眉ははっきりとしていて、左目の横には殴られた時に掠ったのか、ひりひりとしそうな赤い筋があった。

 目元には、小さな皺。

 先生の奥二重の瞳は、穏やかで優しく、それでいて強い眼差しをしていた。

 私が初めて真っ正面から見据えた「月田先生」は、飄々とした感じでもなく、悪どそうでもなく。それなりの年ではあるけど意外なほどにおもむきのある顔立ちをしていて、吃驚した。

 正直に言おう。

 私はこの時、月田先生に見惚れたのだ。

 私が言葉を失って先生を見つめているのに気付くと、月田先生も、じっと私の眼を見つめ返してきた。

 私たちが言葉を失くせば、満天とは言えない暗い夜空の下は、静寂に満ちる。先程引きずり込まれた草地の草木を微弱な風が静かに鳴らし、遠くからは水のせせらぎが聞こえていた。

 先生の眼差しは言葉よりも雄弁で、熱いほどだ。私は、自分の鼓動がどんどん早鐘を打つのを感じた。

 今日は、暑いなんて思わなかったのに。

 私の周囲だけ、気温が急激に上がっている気がする。これは超局地的フェーン現象か。――いや、私の身体が熱くなっているだけなのか、と気付いたけれど、私にはどうすることも出来ない。

 月田先生の眼差しがこんなにも強く感じるのは、眼鏡がないからだろうか。射抜かれた私は、拘束されているわけでもないのに、指先一つ満足に動かせない。

「秋乃さん」

 初めて、月田先生の口から呼ばれた下の名前。

「……はい」

 自分でも驚くくらいに抵抗感が無くて、私は素直に返事をしてしまった。

「悪いことは言わないから、わたしにしておきなさい」

 優しく言い聞かせるような、その口調。先生の、大きくて、少しだけかさついた手が、私の左の頬を包み込む。

「君と話していると、わたしは日常卑近の悩みなど忘れられる心地になる。けれど新たな悩みも生まれる。どうしたら、君ともっと近づけるのだろうと。今日だって、講義で君の様子を見かけてから、どうしたものかと悩みっぱなしだった」

 その言葉は、私に些少さしょうの驚きをもたらした。これまで私が見てきた飄々とした月田先生とは、あまりに違う、意想外の姿だったからだ。

もしかしたら――これは先生が初めて私に見せてくれた、別の一面なのかもしれない。

私は、そんな先生を嫌だとは思わなかった。そして、

「要するにわたしは……君が好きなんだ」

やや眉尻を下げたその笑みは、あまりにも優しい。

 月田先生のシンプルで明瞭な言葉は、冷え切っていたはずの私の心の淀みを溶かし、じんわりと、慈雨じうのようにみ込んだ。

 誰かからの「好き」が、こんなにも嬉しかったことはない。

 不思議だ。どうして、私は喜んでいるのだろう。こんなにも胸が熱で満たされて、涙は勝手に溢れてくる。

 そうして私は、自分の中で芽生えたばかりの、この人への気持ちに気が付いた。――あまりにも懐かしい、誰かを想うこの感情に。

 けれど、何の心の準備もなしに膨らみ上がった気持ちは、私の狭い心には大きすぎる。私は息が詰まってしまいそうになった。一人でそれを抱えているのが苦しくて、私は、月田先生の胸に飛び込むようにして抱きつく。

「っ、秋乃さ」

「月田先生」

 私の突然の行動に、月田先生は吃驚したらしい。その鼓動が跳ねたのが、抱き付いた胸板から聴こえた。

 今の私の表情は、先生には見えない。私は誰にも見られることなく、頬を存分に緩ませた。

「お言葉に……甘えてもいいですか?」

 今はまだ、「好き」だなんて口に出来そうにない。けれどこれが、今の私の最大限の愛情表現だ。

 我ながら、不器用で、素直じゃない。それでも月田先生は、こう言って抱きとめてくれた。

「ああ。君なら、大歓迎だ」



 嗚呼、何ということだ。

 私はあれほど、「無いです」と言い切っていた人の胸に、飛び込んでしまった。

 けれど、自分の言葉を撤回てっかいすることになった私に、後悔はない。

 この人と一緒なら、私は自分の弱さに挫けることもない。もし挫けたとしても、また立ち上がることが出来る。

 ――そんな予感が、していたからだ。


〈了〉

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インテリジェントにほど遠い 季島 由枝 @kishima_y

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