4

 どうして私は、「私」で生まれてきたのだろう。

 器量の良ししなどは結局のところ主観によるとは思うのだが、この、人から見れば良すぎるらしい顔は、羨望と、粘ついた好意と、妬みそねみばかりを私に与えた。

 顔さえ良ければ人気者、だなんていうのは万人に当てはまる法則ではない。「端整な顔」にもいろんな種類があるし、そして個人の性格も千差万別。私は決して、皆の人気者になるような種類の顔でも性格でもないのだと思う。

 そんな私にとって、劣等感と優越感で複雑怪奇かつ疾風怒濤しっぷうどとうな思春期の少年少女が詰め込まれる箱庭――学校の教室において、私は安穏の場というものを見いだせなかった。

 何時いつ誰が敵に回るかも分からない教室の中、弱みなんて、見せられなかった。『完璧』でなければ、一人で全てを乗り越えてなんか行けなかったのだ。

 ――けど、そんな私でも、他の誰かに手を取ってもらうことを望んだことはあった。

 好きな人が、いた。

 けれど彼は、私とは全く別のタイプの女の子を選んだ。私が本当に求めた人は、私を選んではくれなかったのだ。

 ならば、この顔には何の意味がある?

 他者からの余計な感情をあおりたてるだけで、私が本当に求めるものも手に入れられない、この顔に。

 誰もが私の表層に気をとられ、私を苦しませた。誰も本当の私など見ない。だから私も、本心など見せない。心なんて開かない。踏みにじられるくらいなら、いっそ。


 だから私は、孤独を選んだ。


  *


 天井のルームライトの消された殺風景な部屋には、鮮やかな水色から深いあおへ、そしてまた水色へとループする、人工的な光が天井まで反射して、ぼうっと浮かんでいた。

 ミニコンポの液晶画面の光だけが、この薄暗い部屋の中で流動的に揺れている。

 私は部屋を散らかすことはほとんどないけれど、その代わり整然としているだけで、部屋を飾りつけるようなものは何も置いていなかった。女の子らしい可愛らしさとはほど遠く、いっそ生活感が無いと言ってもいい。

 月田先生と学食で話した日の夜、私は布団に横たわっても、ずっと寝付けなかった。

 子守歌代わりにかけていたCDは全曲終わってしまって、ミニコンポからは、もう何の音も流れて来ない。私はリモコンを持ったまま、にらみつけるようにして、天井に映る青い光を眺めていた。

 私の胃の辺りには不快な熱さの波が押し寄せ、頭の芯には昼間の怒りが未だ根深くくすぶっている。――こんなにも他人に心をかき乱されたのは、本当に久しぶりのことだ。

 だって私はずっと、何も感じないように、心を閉ざしてきた。それをあの人は、私の心に土足で入り込んで、荒らしていったのだ。

 押し寄せる波は、無理矢理こじ開けられた私の心の奥にある扉を濡らして、感情をぐちゃぐちゃに乱していく。千切れた心の塊と押し寄せた波によって、私の扉の奥の水嵩みずかさは増え、私をおぼれさせた。

 ――気持ち悪い。

 自分で自分の感情が、コントロール出来ない。久々に味わうその苦しさに、私はぎゅっと上体を折って、布団の中へ潜り込んだ。

「……大っ嫌い……」

 低くののしった声は、布団の中でくぐもった。――こうして誰かを罵るのも、本当に久しぶりのことだ。

 リモコンを握った手を伸ばして、私はミニコンポの電源を切る。そうすると、広くもない室内は暗闇に沈んだ。

 眠ってしまおう。深く眠ってしまえば、きっと、この感情も落ち着くだろう。

 そう思って、私はきつく瞼を閉じた。


  *


 しかし努力の甲斐もむなしく、結局、私は碌々ろくろく眠ることも出来ないまま、カーテンの隙間から差し込むまばゆいほどの朝日を迎えた。

 寝不足で少し腫れ気味の目には、朝の光は痛いほどに眩しい。しかも今日は、昨日のあの人の講義があったことを思い出して、私はひどく憂鬱になった。

 顔を見るのも声を聴くのも嫌で、本当は、このまま休んでしまおうかとも考えた。

 けれど生憎、「完璧さ」は私の板についてしまっている。出欠点を削られるのが嫌で、私は回れ右をして避けてしまいそうな心を押し込めて身支度をし、重たく感じる足を引きずるようにして、大学に向かった。

 週に一度しか訪れない教室に辿り着くと、私は隅の方に一人で陣取った。やがて、あの人が入ってきて講義を始めた気配があったけれど、私は一時間半を、ひたすら机の上のテキストとノートと睨めっこをして、我慢強く過ごした。

 あの人――月田先生のことは、一瞥いちべつもしない。

 目どころか、顔も、一度も見ることはなかった。



 そんな不快な気分は、その日の夕方まで尾を引いた。

 しかし、こんな気分を持続させているというのは、精神衛生上もよろしくない。

 思い立った私は、放課後になると図書館へ向かった。こういう時は、何かに思いきり没頭してしまう方が、気分転換になるだろうと思ったのだ。

 地下一階のひんやりとした冷気と微かな湿気を肌で感じる書庫に向かうと、書架から、分厚くて、それでいて読みやすそうなハードカバーの小説を、一冊抜き出す。

 階上の読書室には、真面目に課題に取り組んでいる人、ひたすら本を読みふけっている人、そして図書館に来てまで携帯電話をいじっている人など、様々な学生が思い思いに席についていた。

 私もその片隅に、空いた席を見つけて腰を下ろす。そして黙然としながら、本のページをめくり始めた。


  *


 ――懐かしい。

 そんな空気を、私は味わっていた。

 辺りの風景がすごい勢いで流れていくのを感じるのだけど、そんなものに目移りしている暇はない。見つめるのは前だけ。上がる息を、動かす腕を、駆ける足をコントロールするので精一杯。前へ、前へ、前へ。気を抜くな、最後まで――あのゴールまで!

 私は白線の向こうまで走り抜けた。その瞬間、ゴールの脇でストップウォッチを止めた人がいて、その人が僅かな歓声を上げた。

「真鳥、新記録だ!」

 その人の自分まで嬉しそうな満面の笑みが、私に向けられる。私だけに。それが、私の最高に幸福な瞬間だった。

 高校時代、私は陸上部に所属していた。そしてその間、私は学年が二つ上の先輩に――有りていにいえば、憧れていたのだ。いつも誰に対しても優しくて、明るくて、皆の人気者――そんな先輩に。

 先輩のクラスの教室でも部活でも、彼の周りにはいつも賑やかな取り巻きがいた。私も心情としてはその中の一人に過ぎなかったにも関わらず、ひねくれ者の私はその輪の中に入っていくことも出来ず、ただ黙々と、自分の活動にいそしむばかりだった。――その視界の隅に、時折先輩の姿を入れながら。

 先輩はそんな天邪鬼あまのじゃくな私にも、気さくに声をかけてくれた。その度に、私の鼓動はひっそりと馬鹿みたいに跳ね上がっていた。――本当に、馬鹿みたいに、軽薄に。

 この想いを告げるなど、夢のまた夢。それでも、先輩の迫る卒業前には、せめて一言でも――そんな思いきりを抱いて、夕方の部活に向かったある日。

 私は、先輩にいつの間にか彼女が出来ていたことを初めて知ったのだ。

 先輩の隣に並ぶ小柄な彼女は私もよく知る陸上部の子で、器量がそこまで良いわけではなかった。けれど先輩同様いつもほがらかで、誰に対しても親切な、風に揺れる野辺の花のように穏やかな人だった。私とは全く違う、私には到底なれないような人となりの人だった。

 多分その頃の私はまだ、自分の持つ素養や努力の結果得ている結果に対する、ある種の自負心を抱いていた。けれどそんな自分でも、自分の持つ全てには何の意味もないのだと打ちひしがれたのは、この時だ。

 どれだけ人に羨ましがられようと、妬まれようと、嫌われようと、恨まれようと。

 先輩が私を必要としてくれるなら、他人からのそんな感情はどうだっていいと言えた。大したものじゃないと、笑い飛ばせたであろう。

 もし、彼が私を必要としてくれたなら。肯定してくれたなら。

 私はこれからも立っていられた。周囲からの複雑な感情、親や先生方からの期待、自分自身の誇り――そういった重い荷物を背負いながらでも、背伸びをしていられた。前に進めた。――先輩さえ、私を必要としてくれたなら。

 ……でもそれはただの願望で、希望で、ifでしかなかった。

そう、ただの儚い夢に過ぎなかった。――なかったのだ。

 光の届かない心の奥底で両膝をつき、絶望して疲弊ひへいし、泣き喚く私を、私の理性はなだめすかして抑え込んだ。胸をかきむしるようなその激痛から自分を守るために――逃避するために、私は奥底の聞き分けのない自分に別れを告げて、重い扉の向こうに封じ込めた。

 何の意味もない。何の意味もない。私の存在も、こうして生きていくことも。

 それでも生きていく。時間に、周囲に、親や先生たちの期待に応え、流されるようにして。

 けれど置き去りにしたはずの奥底の自分も、またまごうことなき私自身なのだろう。私は気づけば吹きすさぶ暗闇の中にいて、いつの間にか、かつての自分とその身が重なっていた。

 風化しただなんて、嘘。

 痛くないだなんて、嘘だ。

 たかが一つの失恋で――そんな風に思う冷静な自分もいる。けれどあの頃の彼への想いは、私にとっては一生に一度といえるほど大きなものだった。それくらい、特別な人だった。彼の存在は、あの頃の息の詰まるような日々の唯一といえるほどの私の救いだった。

 それが叶わなかったのだから、もう、恋なんてらない。

胸をじくじくと痛ませる痛みに疲れきり、私は力なく項垂うなだれる。

なのに。

 ――わたしが君に関して知って気に入ったのは。

 不意にどこからか、響く低い声があった。

 もう思い出すことも出来ない、彼の声ではない。

 けれどその誰かの声が、冷えきってひしゃげた心にぬくもりとなって寄り添ってくれるように感じるのは。この耳に心地よく響いているように思うのは。

 嗚呼――一体、何故なのだろう?


  *


 私の意識は、突然鳴り響き始めた穏やかなメロディーによって、急速に現実に引き戻された。

『――本館の、本日の開館時間は八時四十五分までです。館内の利用者の方は、速やかに退館の準備をして下さい。本館の――』

 閉館を告げる抑揚よくようの少ないアナウンスと、それに伴う、穏やかながらも誰の耳にも届く大音量のメロディー。――いつの間にか、私は開いた本に突っ伏して寝入っていたようである。腕にはハードカバーの角張った跡がしっかりとついてしまっていた。

 窓の方へ目をやれば、いつの間にか外は夕暮れの時間を飛び越してしまっていて、空は深く濃厚な藍色に染め上げられている。暗い窓硝子がらすには室内の私の姿が映り、それを透かして、屋外のぼんやりと明るい街路灯の光が見えた。

 一体いつの間に、どれくらい眠っていたというのか。何か夢を見ていたような気がするが、内容はてんで思い出せない。ただ――ひどく寂莫せきばくとした気持ちだけが私の心を満たしていた。

 とにかく、こんな時間まで過ごしてしまったことに驚きながらも私は席を立った。読書室内を見渡せば、来た時はあんなに人が居たというのに、気付けばこの時間まで残っていたのは、私一人であった。

 閑散とした館内と、窓の外のとっぷりとした暗さ。流れるメロディーはどこか空々しく、そして寂寥せきりょうを感じさせた。

 図書館を後にしても、構内に人の姿は見当たらない。昼間の活気のある雰囲気とは違い、よそよそしいくらいの冷たいコンクリート群に、私はまるで、この世に一人きりになってしまったかのような感覚を覚えた。

 夢の名残を倍増させるようなその感覚に心細さを感じながら、アパートに帰るために、学校の校門前から出ているバスに乗る。

 バスには、残業で疲れたようなサラリーマンや、私以外の女子学生が、ぽつりぽつりと乗っていた。私はそこでようやく自分以外の人間に会って、少し安堵した。

 けれど――どうして、夜の人気の無さというのはこんなに頼りないのだろう。

 バスの冷たい窓にこめかみの辺りをもたせかけた私は、硝子窓に映った普段とは異なる気弱そうな表情をした自分を見て、いよいよ心が寂しさに震えるのを感じた。

 私の中で燻っていた月田先生への怒りや不快感は、どうやら午睡ごすいの世界に置いて来られたようだ。けれど、バスに揺られながら代わりに込み上げたのは、り所を失くしてしまったような悲しみだった。

 衝動的と言ってよいほどの怒りが過ぎ去ってしまえば、あの人の言葉が実に正しかったことに気付く。

 自分でも気付ききっていなかった――否、目を背けていた私の深層心理を言い当てた、あの人。

 痛いほどに正鵠せいこくを射られた私は、頭に血が上っていたのだ。

 ――そう。私は、自分が傷つくのが怖かった。それだけだったのだ。

 人の目を見られなくなり、心を開くことを止め、人を信じることをやめたのも。全ては、自分の心を守るため。私は結局、自分が大事なのだ。――自分しか、大事でないのだ。

 そうしてこないと、立って歩み続けてこられなかった弱くもろい自分。

 その脆弱ぜいじゃくさと臆病おくびょうさが、ひどく浅ましく思えた。

 一生懸命『完璧』を繕って、自分を作り上げて。その壁が一度崩れてしまったら、残ったのは、築き上げた壁よりも脆い自分だけだった。

 ――ああ。

 そんな自分が、ひどくむなしくて、哀しい。

 自分で辿り着いた思考に、私は一人、打ちのめされる。自分というものに嫌気が差して、もう堪らなかった。

 そうしてバスに揺られていたのは十分ほど。心も足取りも頼りないものになった私は、いつものバス停で下車した。

 アパートまでは、ここから歩いて、もう五分もしない。私一人を降ろしたバスが走り去って行った車道とはガードレールで隔てられた歩道を、私はとぼとぼと歩いた。

 この辺りは、住宅地の間の林のようなものだ。

 土地主がほったらかしにしている草地を、少し生温ぬるくなってきた風が吹き抜けて、草木をサワサワと鳴らしている。夜になって車の通りもほとんど無くてあまりに静かなため、今の私の耳には草地の向こうの用水路のせせらぎの音まで届いてきた。

 それが一層孤独感を煽り、私の心は押し潰されそうになる。嗚咽おえつは出なかったけれど、一旦涙がにじんだら、後は止まらなくなってしまった。

 ――どうして、私はこんな私になってしまったのだろう。

 答えの見えない自問をし、目元を何度もごしごしと拭いながら、私は暗い夜空を見上げた。

 今日は晴れていたはずなのに、田舎である実家の辺りで見たほど、星は燦然としては見えない。――近くの街の明かりが、明るすぎる所為せいだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていたものだから、ふと視線を前に戻した時、歩道脇の外灯の下に人影があったことに、私はぎょっとした。

 驚きのあまり、私の涙は止まってしまった。アパートはすぐそこなのに、ここを通らないと帰れない。だけど、不審を感じた私の足は、動いてくれなかった。

「――秋乃」

 立ち尽くす私の姿を認めたその人が、いきなり馴れ馴れしく私の名前を呼ぶ。

 聞き覚えの無い、声。

 逆光になった外灯の光のもと、目を凝らしてその人を判別したのだが――相手は、私の全く知らない男だった。

 年は、私と同じくらいだろうか。痩せぎすの身体に、長袖のパーカー、ジーンズを合わせた格好も、いかにも大学生のように思えた。

「……だれ?」

 私は一応聞いた。

 けれど、夜更よふけにこんな所に――私のアパートの近くに、待ち伏せするように立っていた男。そんな奴に関わるべきじゃない。私の頭の中で、警鐘けいしょうが鳴っていた。

 男は自分のことが分かってもらえなかった所為か、いきなり激昂げっこうし始めた。

「何で……っ何でだよ! 何でおれを知らねえんだよ! ふざけるな!」

 それはこっちの台詞だ。いきなりキレられても、訳が分からない。

 そう言い返しそうになった時、私は、彼が振り上げた手に握っている紙切れ――いや、ぐしゃぐしゃになった封筒を見つけた。

 それは、再生紙的な茶封筒だった。この暗い夜道、外灯の光だけが頼りだったが、私にはそれに見覚えがあるように思えた。

 ――ああ、そうか。

 私は人の顔は破滅的に覚えないが、記憶力が悪いわけではない。断じて。

 いつか、私のロッカーに入っていた手紙。K・Mというイニシャル。私が、四つ折りにして捨てたもの。

 私は合点がいった。

 これはきっと、いつもの「逆恨み」というやつなのだ。

「おれを無視しておいて、何なんだよ、お前! 何で、あんなおっさんと!」

 イニシャルしか分からない彼は、肩から斜めにかけていた鞄から、十数枚の紙切れを、私にぶつけるようにして勢いよくばら撒いた。

 外灯の明かりの下、紙切れだと思ったものは、写真だった。

 それらには全て、私と月田先生が、揃って映っている。廊下を並んで歩いている姿。先生の研究室の前で話している姿。学食で、向かい合っている姿――。

 いつの間に、こんなものを撮られていたのだろう。それも、大量に。

 ぞくりとする程のどうしようもない嫌悪感が胃の辺りに押し寄せ、私の口元は強張こわばった。

 これは本当に、いわゆるストーカーの域だ。

 いつもの私なら、ここできつい言葉の一つでもかけてあしらい、相手を突き飛ばして脱兎だっとの如く駆け出していただろう。

 けれど不覚にも、今の精神的に弱り切っている私は、この予想もしない事態に対応する気力も無かった。どうして、りにも選ってこんな時に。

 相手は、いきなり私の手首を掴んできた。ひ弱そうに見えたが、やはり男ということか。思った以上に力は強く、振り払えない。――締めつけられた手首は、鬱血うっけつしそうなほどに痛かった。

「ッ、離して!」

「うるさい!」

 彼は口角から泡を飛ばす勢いで私を怒鳴りつけると、無理やり歩道脇の草地に私を引きずり込んだ。

 私は残り少ない気力を振り絞って足を踏ん張り、抵抗したけれど、力任せに引っ張られて、背の高い草むらの中に倒される。緑の濃い臭いの中、背中をしたたかに打って息が詰まっている間に、相手がのしかかってきた。しかも私の左耳のすぐ横には、鋭く、確かな質量を持った刃がざくりと突き立てられた気配があった。

 身動きの満足に取れないまま、私は恐る恐る視線を横に動かす。淡い月の光を受けて輝くそれは、出刃包丁のようだった。

 三枚に下ろす気か――なんて冗談を、心の中でも言っていられる状況では無い。

「おれを傷つけたお前みたいな女は……罰を受けるべきなんだ……! そうだよ、今すぐ後悔させてやる! その整った顔も身体も、ぐちゃぐちゃにしてやるよ!」

 狂ったような哄笑こうしょうを上げて、男は私を覗き込んできた。その目は正気とは思えぬほどに血走っている様子で、口元は残酷な愉悦ゆえつに歪んでいる。かかる息が、怖気おぞけが走るほどに気持ち悪かった。

 ――本気で、まずい。

 流石の私も、恐怖で全身がすくんだ。両手は私の頭の上で押さえつけられ、出刃包丁が私の膝より長いフレアスカートを縦に裂く。

 こいつは何がしたいのだ。いや、この状況でそんなこと、分かりきっている。

 暴行か、殺害か。もしくは暴行のちに殺害か。

 そんなの――どれも御免ごめんだ!

 その時になって、私の中では本能的な恐怖と、既に揉みくちゃだった感情がぜになって、ぜた。私はあらん限りの声量で、悲鳴を上げていた。

 私の喉から迸っためちゃくちゃな悲鳴は、静まりかえっていた夜の外気を引き裂く。男は慌てて、乱暴な手つきで私の口を手の平で塞いできた。

 ――なんで。

 なんで私ばかり、こんな目に合わなくてはならないのだ。

 悔しくて、怖くて、そして私は私自身と、私を取り巻く世界の全てに絶望した。

 けれど、こんな地の底に墜ちたような最悪の状況に至ってから、神様はようやく私に手を差し伸べた。――私は、神様さえも信じていなかったというのに。

 車道の方でまばゆい光が横切ったかと思うと、派手な急ブレーキ音を立てて、一台の車が止まる。それとほぼ同時だった。

「――真鳥さんッ!」

 声が、したのは

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