3

 その日は、朝から雨が音を立てて降り出していた。

 頭上に広がるのは、久しぶりの薄暗い曇天である。私は昨日まで続いていた晴天の世界とは、まるで別世界に来てしまったかのような感慨すら覚えた。そう思うには理由がある。

 なにせ私の住んでいた日本海側は、たっぷりとした雲がよく垂れこめ、晴れの日であっても雲ひとつない空なんて、そうそう拝めなかったのだ。大学に入学して引っ越してきたら、太平洋側である愛知の連日のような晴れっぷりに吃驚びっくりしたものである。

 毎日のように広がる、快晴といっていいほどの青空。夏休みでもないのに、空だけは夏休みを思わせるスペシャル・デイ。素晴らしいことだ。重ねて、まだ夏休みではないのだけれど。

 そういうわけで、私はこちらで雨が降ると非常に意外な気持ちになる。

 ちなみに私は、雨の日の湿気が嫌いだ。何故かというと、湿気によって私の黒髪はうねりを見せ、胸元まである横髪も、毛先に緩くかかったウェーブが四割増しに強化されるからである。

 実に憂鬱だ。



 午前の講義を終えた私は、構内でも一番大きな学食の片隅に座り、昼食を取っていた。

 学食の窓辺は全面ガラス張りで、外のベランダに出るとそこにも席があるので、天気の良い日にはそれらの席も使えるようになっている。

 ベランダの席に通じる窓からは、広々とした空と、遠くの方のマンション群、そして学祭時にはイベントが行われる広場で、学生たちが昼食を摂る姿などが見えるものだ。けれど今日は雨のため、むろん外で食べているような人はいない。暗い灰色の雲が何層にも連なって、オゾン層で覆われた青い空をさらに覆い隠し、広場の木製のタイルが雨に打たれて、じっとりと黒ずんでいるだけである。

 昼休みの食堂は、これでもかというほどに人が押し寄せてくる。食券機の前にはずらりと長蛇の列が出来て、これまた食堂を狭く感じさせた。私のようにおひとり様ならまだ座る席も見つかるというものだが、グループでやって来る人たちは、席を探すだけでも一苦労だろう。私は他人事のようにそんなことを考えながら、醤油ラーメンの細い麺をすすった。

「あ、真鳥ちゃん。ここ、いいかな?」

 不意にかけられた声は、私の知己ちきのものだった。顔を上げれば、同学年の馴染みの女の子が、ここの学食のトレイを持って、机の横に立っている。

「……どうぞ」

「ありがと! 今日も混んでるねー」

 にっこりと笑って私の向かい側にかけたのは、川嶋かわしま未那葉みなはさん。一年の前期に同じ講義を取って、偶然隣の席に座って以来の知り合いである。――友人と呼んでいいのかは、私には分からない。

 彼女と私は同じ学科なので、取る講義も自然と同じになる。遠慮する私に、入院していた間のノートを押しつけるようにして見せてくれたのも、彼女であった。

 川嶋さんとは、別にいつも行動を共にしているわけではない。高校までの三色団子、否、みたらし団子状態のような女子のグループ行動から抜け出せる分、大学というのは気が楽である。

 さらさらとしたストレートの髪を首の辺りで揺らす川嶋さんは、年齢以上に落ち着きくさった私と違い、年相応の可愛らしさがあると思う。服装だって、膝より下までのスカートに、白や黒くらいでまとめてしまう私と違って、元気の良い明るい色が似合っているのが彼女である。

 彼女は押し付けがましくない程度の親しさで、こうしてたまに私に声をかけてきた。

「……ところで、それ、何?」

 私は、彼女がここの学食のトレイに載せて持ってきたメニューに、思わず問いかけていた。どう見てもカレーなのに、どう見てもラーメンなのである。――ようするに、カレーとラーメンのコラボレーション。

「え、これ? カレーラーメンだよ。ここの裏メニュー」

 学食ごときに、裏メニューなんてものが存在したとは。初めて知った。

「……おいしい?」

「うん! 真鳥ちゃんも今度試してみたら? 合言葉は、『黄金のラーメン、一つ』だからね」

 川嶋さんはその合言葉を、どこぞのスゴ腕スナイパーの如しニヒルな感じで呟いた。言ってから、自分で笑っている。

 私は、彼女のカレーラーメンから漂ってくる、スパイスの効いて辛そうなカレーの匂いだけで、こっちまでカレーを食べているような心地になりながら、自分のラーメンを食べた。――もう、醤油なのかカレーなのか分からない。

 川嶋さんはそういうお茶目さんだが、本当は彼女の方が、私よりずっと大人なのかもしれない。

 そう、思う時がある。



 昼休みが終わると、川嶋さんは三限目があるとのことで、カレーとラーメンの相乗効果で満腹になり、元気に去っていった。

 私は三限目が空いていたので、そのまま学食で、紙コップの自販機で買ったミルクティーを飲みながらくつろぐことにする。昼休みの終わった学食は潮の引くように閑散とし、まばらに人が居るだけになった。

 別に、おかしな好意や悪意を向けてくるような人でなければ、私だって誰かれ構わず邪険にするわけじゃない。

 けれど、ずっと人と居るというのは苦手かもしれない。私は自分から話を振るということが得意でないので、相手によってはしばしば放送事故が発生して、気まずい思いをするのである。それが面倒だ。

 一時間半という空き時間を持て余した私は、文庫本でも持ってきていなかったかと、鞄を探る。すると、その辺を歩いていた靴音が私の机の脇で止まった。

「やあ。ここ、いいかな?」

 ここ最近で、すっかり聞き慣れた声。

 振り向くと、そこにはセピア色の――いや、もうむしろ面倒くさい。月田先生が、遅い昼食のトレイを持って、にこやかに私を見下ろしていた。

 私は思いきり眉間を寄せ、口元を歪めて嫌な顔をする。

「……席ならどこでも空いてるじゃないですか。他を当たって下さい」

「そう言わずに。譲り合う気持ちは大切だ。こういう時は、『どうぞ』と言ってあげるべきだよ」

 先生は結局私の了承も得ずに、「よっこらしょ」と向かい側に腰を下ろした。

 月田先生が運んできたメニューもまた、先程川嶋さんの胃袋に消えたのと同じ、カレーラーメンであった。……カレーラーメン、大人気だ。

「さて、いただきます」

 先生は行儀よく両手を合わせてから、ずるずるとラーメンをすすり始めた。よくそんな白いシャツの時に、カレーを食べようなどと思うものだ。見ているこっちがハラハラさせられて、心臓に悪いではないか。

 そして満腹になっている時に、本日二度目のカレーの匂いはきつい。一日にカレーは二度いらない。ノーモア・カレー。

「……今日は何で、遅いお昼ご飯なんですか?」

 目の前で人がご飯を食べているのに、自分は何もすることがない私は沈黙を持て余して、つい聞いてしまった。

「ちょっと、学生の相談事を聞いていたものでね。先生の昼休みというものも、暇じゃないよ」

「ふぅん……意外ですね。私はてっきり、先生が暇を持て余しているから、研究室に来た学生を捕まえてはお茶を飲んでいるのかと思いました」

「まあ、それもあながち間違いではないかな」

 月田先生はティッシュで一度口元を拭って、はははと笑う。やっぱりそうなのか。

 それから私は、自分から私の目の前に座ったくせにカレーラーメンをすするばかりの先生を、頬杖をついて眺めていた。他にやることがなかった。それだけである。

 何だかこうしていると、このいい年した人が私に好意を向けているのだということを、うっかり忘れそうになる。

 私が辛辣しんらつな口を利いても、思いきり嫌な顔をしても、月田先生は飄々ひょうひょうとして、思い出したかのように構ってくる。――諦めた様子を見せないのは「しつこい」けれど、息が詰まるような粘着質な感じではない。

 ――そうだ。私はこの人に、それほどの嫌悪を感じていない。

 そのことにふと気付いた私は自分で吃驚して、目をぱちぱちと瞬いた。月田先生が「ごちそうさま」と言って顔を上げたのは、そんなタイミングだった。

「どうしたんだい? 何だか今、面白い顔をしていた」

「……そんなこと、ないです。別に、いつもの顔です」

 気を抜いていた所を見られた。

 私はそれが居たたまれなくて、憮然ぶぜんとした面持ちで、雨を降らせる曇天に視線を向ける。月田先生がそんな私をおかしそうに、じっと見つめている気配があった。

 ――なんで、頬が熱くなるのだろう。

「真鳥さんは、恋をしたことがないのかい?」

 その声は、存外に優しい口調だった。

 きっとその所為だ。私がつい、答えてしまったのは。

「……別に、そんなわけじゃないですけど。本当に……昔の話です」

 ――ああ、しまった。

 そう思った時には、遅かった。私の中で、何かが私の扉をこじ開ける気配があったからだ。それは、もうずっと長い間閉ざしてきた、堅く分厚い扉。封じ込めてきたのは、遠い記憶と、ほんの淡い想い。

 でも、大丈夫。

 あの頃の「痛み」は風化し過ぎて、もう蘇らない。代わりに、私の心には泥のように重たく、諦観が淀んでいるだけ。

 もう、痛くなんてない。何も感じない。誰かに心を開くことなんて、やめにしたから。

 ――恋なんて。

「そんな気持ち……もう、忘れてしまいました」

 何だかひどくまぶたが重たく感じて、私は頬杖をつく。きっと、昼食を食べてお腹がいっぱいになったからだ。先生とこんなやりとりをするのが、少し億劫おっくうにも感じた。

 もういいから、少し眠らせて欲しい。

「……そうか」

 先生はひとつ息を吐くと、ぱちんと音を立てて、箸をトレイに置いた。

「君がどうして、そんなにも自分を押し込めているのかが、分かった気がする」

 月田先生はそう言って、眠りに引き込まれかけた私を、無理矢理引きとめた。

 私は頭を小突かれたかのような感覚を覚えて、瞼を上げる。

 ――この人は、一体何を言い出すんだろう?

「私が……私を?」

「ああ。君は、人に何かを求めるということをしないんだね。――いや、『求めないように』している、と言った方がいいのかな」

 机の上で長い指を組んだ両手の向こうから、先生は穏やかに、けれど真っすぐに斬り込んできた。

 頬杖をついていた私の手の指先が、ぴくりと震える。先生の言葉はあまりに唐突なことで、その僅かな動揺を抑える術を、私は知らなかった。

 私の心に淀む泥の、その奥。堅い扉の向こうにある一番柔らかい所に、先生は狙いすましたかのように踏み込んでくる。

 歓迎もしていない侵入者の気配に、私の心はざわりと騒ぎ出した。

「……先生は、心理学にも手を出されているんですか?」

 私は皮肉っぽく笑って、先生の突き出した刃をいなそうとする。けれど、先生に引く気はないようだった。

「そんなわけではないけど。まあ心理学者に言わせれば、『心など存在しない』らしいしね。わたしはただ、人を観察するのが趣味なだけだ。外見だけではなく、その人の内面的なものも」

 そんなのは――悪趣味だ。

 そう毒づきたかったのに、声は、出ない。

「君は、いつも一人で立っているのだね。誰かの手を借りることを嫌い、弱みを見せることもない。誰もが君を『完璧』と見る中で、君はその期待を裏切ることをしない。そういう風にしている。そういう努力もしている。……とても、頑張り屋さんだ」

 先生の低い声は、冷静だけど、どこかにいたわりが滲んでいた。

 けれど、私はそんな言葉を受け入れられるほど、素直では無い。反発を覚えた心はすうっと冷えて、頭の芯はじりじりと熱を持ち始めた。

 ――何を、知ったようなことを。あなたが、私の何を知っているという?

 そう思う反面、先生の言葉の的確さに、私の背筋には震えと同時に、冷たいものが走った。

 見透かされる。

 それは、私の感じた本能的な恐怖。

「けど、君は結局、自分が傷つくのが怖いんだ。だから、誰にも心を開かないんだね」

「……めて」

 私は机の上で、拳を握り込んだ。いつの間にか喉は乾いていて、つむごうとした声は掠れた。

 やめて。

 これ以上、私の心に踏み込んでこないで。

 そう叫んでしまいたいのに――先生に、私の制止は届かない。

「いつか、君は、人の顔を覚えるのが苦手だと言ったね。それは人というものを、君がまっすぐに捉えようとしないからじゃないか? ……君は、人のというものを見ないね。見ているフリをして、その実、すこし、焦点がずれている。――いや、ずらしている」

 私を見据えた先生の追究は、止まることを知らない。

 気付かれていた。――言い当てられた。

 その敗北感が、私を打ちのめす。机の上で握り込んだ拳が震えた。どれだけきつく握っても、震えが止まらない。

 視線を上げられない先で、組んだ両手の上の先生の唇が、焦らすかのようにゆっくりと開かれるのを、私は見た。

 ――もういい。

 もう、その先を、言わないで。

「――そんなに、人が怖いかい?」

 私の中で、何かが断絶する。

 次の瞬間、私の後ろでは、椅子が倒れてけたたましい音を立てていた。

 私が立ち上がった勢いで机は揺れて、ミルクティーの紙コップは倒れている。まだ残っていた中身が甘い香りをくゆらせながら机の上に広がって、床までぽたぽたと滴った。

「……もう……結構です」

 胃の辺りには吐きそうなほどの不快感が押し寄せ、頭の芯がけつくように熱い。いや、今にも汗が噴き出しそうなほどに、全身が熱かった。

 心を暴かれた私が感じているのは、恐怖か怒りか。自分でも、もはや判別がつかなかった。

 ただ、この人への反発心が溢れて、自分でも抑えることが出来ない。――押し隠していた深層心理を無理矢理暴かれて、喜ぶ人間がどこに居る。

 立ち上がって机に両手をついたまま、私は顔を上げられなかった。先生の顔なんか、見られない。――見たくなかった。

「先生が独身で居られる理由が、よく分かりました。……先生は研究者なんてやめて、占い師にでもなればいい」

 カラカラに乾いた喉の奥から絞るようにして出した声は、自分で思ったよりも低かった。

 恋に悩んで占いに訪れた乙女なら、何も話していないのに自分のことを見透かされたら、「この人は本物だわ」と興奮するかもしれない。

 けど、私は違う。

「私は占いに来たわけでもないし、精神的露出狂でもない……。あなたの行為は、人の心を勝手に蹂躙じゅうりんしたに等しい」

 ああ、そうだ。

 こんなにも身体が熱いのは、全てを見透かされた羞恥と、やはりふつふつと湧き立つ怒りの所為。

「――不愉快です」

 憎しみすら込めて言い捨てた私は、鞄をひったくるようにして肩に担ぐ。それから、倒れた紙コップを捨てることもなければ、先生をそれ以上見やることもなく、その場を後にした。


 どうして、あの人があの年で一人身なのか。

 そんなの決まってる。あの人はきっと、こうやって誰かの心を暴いて、抉って、楽しんでいるのだ。だから、誰もあの人と添い遂げたいなどとは思わない。

 本質を突き過ぎる、あの人。

 ――あんな人、私だって真っ平だ。

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