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 セピア色の眼鏡、いや、月田先生から研究室に来るようにとメールがあったのは、それから二日後のことだった。

 私も、この間先生の研究室に行った時に頂戴ちょうだいしようと思っていたレジュメを貰い忘れていたので、研究室に出向くことに異存は無かった。というか、あの時先生が長々と話をするものだから、私はそんな肝心の用事を忘れてしまったのだ。あの眼鏡め。

「やあ、真鳥さん」

 私が昼休みに訪ねていくと、月田先生は相変わらずにこやかに、私を迎え入れた。この人は笑顔の安売りをしすぎではあるまいか。

「それで、何の用だったのですか?」

 聞いてから、「私は、休んでいた間のレジュメをいただきに来たんですけど」と付け足した。

「ああ、そうか。ちょっと待ちなさい。――ええと、どれ? ああ、これとこれ……と、これだね」

 先生は本棚から分厚いクリアポケットファイルを取り出すと、私が順に指差したレジュメを五枚ほど渡してくれた。

「わたしは一応、君のクラスの担当だから。二ヶ月も休んでいて、何か困ったことはないかい? ――講義にはついていけそう?」

「ええ。人にノートも見せてもらいましたし」

「そうか。なら良かった」

 そうしてまた、先生はインスタントの紅茶を淹れてくれた。

 私はミルクティーが好きだが、先生の部屋に牛乳やコーヒーフレッシュの類まではあるはずもなく、入れるのは砂糖だけ。流石に私も、先生に対して茶葉から淹れろなんてことは言わない。そこそこの香りとそこそこの味の紅茶を、ぐびぐびと飲んだ。

「そうそう、君のレポートを読んだよ。なかなか独創的で面白かった。あの口調は地なのかい? 昔の文士みたいな」

「……そうですね。兄がそういうのが好きで、私も昔読まされましたから。……おかしいでしょう」

 私は少しだけ、自嘲じちょう気味に笑った。どうでも良いけれど、不躾に寄ってくる男が私に幻滅するのは、女の子らしくもない、この地の口調のこともあるようだから。

 けど意外なことに、先生は大して気にした様子もなく、くつくつと笑っていた。

「いや、君みたいな若い女の子がそういう口調っていうのは、面白くてわたしはなかなか好きだよ。あの時代なら漱石が好きだな。君は?」

 それから私たちは何故か、しばし芥川龍之介やら内田百閒やら徳田秋声やら、日本の文豪たちの話に花を咲かせた。それがなかなか楽しかった――というのは言い過ぎだけど。

 それにしても敬語というのは便利である。この口調も方言も隠せるスグレモノだ。

「それで、用件はそれだけだったのですか? いちいち学生を呼び出して、月田先生はまめな人ですね。先生というものは、そんなに暇なんですか」

 深い意図はないが、私の口調は自然、皮肉めいたものになった。だが先生は、そんなことを気にする様子もない。

「別に暇ではないけれどね。研究室でぽつねんと一人で居るよりは、君たち学生に構ってもらえたほうがわたしは嬉しい。――まあ、いろんな先生方がいらっしゃるから、これは一概には言えないことだけど」

 先生は小さく笑って、自分で淹れた紅茶をすする。

「それと、わたしは君に興味があったから」

 机の上に自分のマグカップを置いた月田先生は、眼鏡の奥から私を見つめて、そんなことを言った。

 ……What? Why?

 ――失礼。不意を突かれたあまり、好きでもない英語が出てしまった。

 嫌な予感を覚えたが、私は慎重に、勘違いの無いように、月田先生に確かめる。

「それは……学生に対する?」

「いや。君という女の子に対してかな」

「……interesting、ですか」

「ううん、fascinate、かな」

 流石に、そこらの思春期男子とは違い、顔色も変えない。軽く組んだ手に顎を乗せて、先生はあくまで穏やかに笑っていた。

 しかし、今、私たちは部屋に二人きり。

 なんか一方的に好意を寄せている男と、好意を寄せられている女。

 私は高校時代に五十メートル走で七秒台を叩き出した逃げ足には自信があるが、武術のたしなみはない。捕まればおしまいである。

 ――これは、あまり、いや、非常によろしくない状況ではあるまいか。

「帰ります」

 身の危険を感じてやや顔色を失った私は、パイプ椅子をがたたんと鳴らして立ち上がる。しかしその拍子に、机の脚に治ったばかりの右足をぶつけ、あろうことかスタートダッシュをしくじった。

「コラ真鳥さん。待て、落ち着きなさい。何もわたしは、君を取って食おうというわけじゃない」

「当たり前です、そんなことをすれば先生は懲戒ちょうかい免職です、むしろ今すぐ懲戒免職されて私の前からいなくなってっ!」

 月田先生は、錯乱状態の私をどうどうとなだめた。その際に、私がうっかり机の上に置いてしまっていた鞄を人質――いや、荷質にとった。かなり卑怯である。

 とにかく、財布やら携帯電話やらの入った鞄を取られ、私は逃げることが出来なくなった。今すぐこの卑怯眼鏡を突き飛ばして走り去りたい気持ちでいっぱいだったが、私は仕方なく、もう一度パイプ椅子に腰を下ろす羽目になる。

 ――何ということだ。この人にもそういう目で見られていたとは。

 相手が大人だからといって油断していた。男の人が若い子が好きだという世の説が、また立証された瞬間だといえよう。

 私は暗澹あんたんとした気分で、不信のこもった恨みがましい目を、目の前の男に向けた。

「幸い、わたしは気の長い方だから。君は今二年生だろう? ということは、君が卒業するまでに少なくともあと二年はある。その間に、わたしのことを見てもらえるようになれば良いと思っているよ」

「……そんなこと言っていいんですか? 奥さんは?」

「残念、独身だよ。それに今はフリーだ」

 月田先生は両手を広げ、私の目の前でひらひらと振ってみせた。指輪も何もしていないことを知らせたいのだろう。

 確かに、小指は詰めていないので大丈夫だ。――って、私は何を観察しているのだ。自分で言うのもなんだが、着眼点がおかしい。

「そんなことを言っても、私が先生のことを好きになるという保障はないですよ。二年も待っていたら、先生はいくつになるんですか」

「今、三十二だから、二年後には三十四だね」

「その二年を無為に過ごされてどうするんですか。そうこうしている間に婚期を逃して、一生独身貴族ですか。貴族とはいえ一人の老後は寂しいですよ」

「わたしの老後を気にしてくれるくらいなら、君がわたしを好きになってくれればいいだけじゃないか」

「それは無いです。あしからず」

 どうして、大学の先生とこんな不毛な話をしなくてはならないのだ。私は盛大にため息をつきたくなった。

「……よく知りもしない相手に、よくもまあそんなことが言えますね。――生憎私は、見てくれだけで私を好いてくる相手を信用しません」

 そういうのは、ろくな相手じゃない――思わず、冷ややかといっていいくらいの声が出た。だが先生は、私のそんな態度にも動じない。

「別に、顔で君を選んでいるわけじゃない。わたしが君に関して知って気に入ったのは、君が賢くて、わたしの耳に心地よい声をしているということだよ。――ずっとこうして喋っていたくなる」

「こっ――?」

 意想外の着眼点に、思わず喉の奥でむせた。

「しかしわたしが顔で君を好いたと思うなんて、逆に余程、自信があるんだねえ、その顔」

 確かに悪くはないけれど、などと言いつつ、そんな皮肉すら言ってくる始末である。私は先生をねめつけた。

「自信や自慢ではなく、ただの経験則です。それに――別に賢くなどありません。私より賢い人など、この世にはいくらでもいます」

「うん。それを理解しているところが賢い。身の程というか、彼我の差を知ることや謙虚であることは大事だからね」

 ――何やら、丸め込まれているような心地である。私は月田先生から視線を外し、ややため息をついた。

 しかし、何のこれしき。今年成人式を迎える私も、いつまでも大人のいいように扱われるコドモではない。

 私は落ち着いて、寛大かんだいな心で、勝算の極めて低い戦いをしようとしている目の前の男を、穏やかに諭すことにした。

「――分かりました。先生の老後はどうでも良いです。けれど、学生を口説いているなんて大学側に知られたら、先生は今の職をも失うことになるんですよ。こんな一時の気の迷いで、ご自分の人生を棒に振られるおつもりですか。それはあまりに愚かだと思いませんか」

 我ながら、今の自分は聖母のようだと思った。何という慈悲深さであろう。私は自分で感じ入る。

 しかしそんな私に対して、目の前の先生は救いようの無い悪人であった。――先生が懐から取り出したのは、シルバーの小型デジタルカメラである。

「そのことについては心配ない。わたしは先日偶然、ここの学長の浮気現場をこのデジカメに収めてきたところだ。これを奥さんに送るとおどせば、これくらいのことの黙認・揉み消しをさせることは簡単だろう。それに、わたしはうちの学科の某先生がヅラであり、それを皆に隠していることを知っている。まあその先生の名誉のために、名前は真鳥さんにも伏せておくが……わたしは先日、その先生がトイレでヅラを直している現場に遭遇したんだ。これでわたしは、その先生の弱みをひとつ握っていることになる」

「なんてこと……」

 私は眉間の辺りを押さえ、軽い眩暈めまいを覚えた。

 うちの学校の先生方にもいろいろあるのは、人間として分からなくもない。しかしそれを、こんな人に簡単に弱みとして握られてしまっているだなんて。

「人間どこかに、叩けば出るほこりや弱みがあるものだ。だが、それを良心でそっと自分の胸の内に仕舞っておく。それが大人というものだよ」

 相手は一見、穏やかで善良なふりをして、私の即席聖母など真っ青なくらい悪どかった。

 悔しいが、ここまで手回しをされてはグウの音も出ないではないか。この策士め。



 どうやら私は、私の今までの人生の中でも一、二を争うくらい厄介な人に好かれてしまったらしい。

 ――ため息と一緒に、この憂鬱ゆううつさが全部出て行ってくれたらいいのに。

 そう思いながら、私は深々とため息をついた。

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