インテリジェントにほど遠い

季島 由枝

1

 私は人の顔を覚えることが苦手である。

 文字や、耳から音声で認識する「名前」はすんなりと覚えるのだが、それが破滅的に「顔」と結びつかない。そして酷い時には、人の顔なんてどれも同じに見える。

 私、真鳥まとり秋乃あきのは、愛知県にある尾張大学に通う大学生である。

 学生生活も二年目に入った春先、私は一人暮らしをしているアパートに帰る道すがら、一匹の猫と出くわした。人間の顔には不可解なくらいに興味を覚えない私だが、動物はどれも特徴的で可愛らしく見えるのだから不思議だ。その猫は、きょとんとした顔立ちが愛くるしい、こげ茶縞の毛並みが綺麗なキジトラだった。

 私は、普段あまり活発に動かすことのない表情筋をゆるゆる緩ませ、無言で猫と見つめ合った。小首を傾げてこちらを見つめてくる猫に、すっかり見惚みとれていたのである。

 そんな私のもとに突っ込んできたのが、テッカテカに真新しい若葉マークをボンネットに貼りつけた軽自動車であった。その下手糞な運転でかすられた私は、その拍子に右足の骨をボキリと折られた。コンクリートの地面に倒れ伏し、あり得ない方向に曲がった自分の脚のありさまと激痛に気を失った私が次に目覚めたのは、病院のベッドの上であった。

 命に関わるほどの怪我で無かったことは、不幸中の幸いだったというべきか。しかし私は二ヶ月の入院&ギプス生活を余儀なくされ、大学に通うことも出来なかった。

 このままでは、今期の単位が危ぶまれる。こんなことになる原因となったキジトラと初心者運転手を、私はベッドの上で怨嗟えんさした。――いや、やっぱり猫は可愛かったから許してあげることにしよう。問題は、平身低頭しながらもお詫びにはろうきてぃなごやんを差し入れしてきた、くだんの初心者運転手である。

 こんな菓子折りひとつで、私の二ヶ月の代価としようなどとは。そもそも、私ははろうきてぃは好きではない。世の女子が皆、はろうきてぃを好きだと思ったら大間違いだ。むしろピエールマルコリーニのチョコレートを、ひと月分差し入れなさい。

 私はそうむしゃくしゃしながらも、なごやんを一人で全部美味しくこの腹におさめたのだった。

 にもかくにも、二ヶ月後には無事に通学に復帰した私である。しかし休んでいた分、やるべきことは山積していた。

 取っている講義の先生方へ、医師の診断書の提出。その間の講義の復習。出された課題の提出。二ヶ月分を巻き返すのは並大抵のことではなく、私は早速疲労困憊こんばいしたのだった。


  *


 月田つきた先生は、私が所属する学科の先生である。准教授、であるらしい。 

 その日、私が先生の研究室を訪ねたのは、課題として出されていたレポートを提出するためである。

 大学の敷地の一画にそびえ立つ研究棟、その四階。辿り着いた研究室の扉脇にある部屋主の所在を示すプレートは、「在室」とあった。私は二度、軽く扉をノックする。

「どうぞー」

 中からは、緊張感のない男の声が響いてきた。私はドアノブを回し、「失礼します」と部屋の入口をくぐる。

 八畳くらいの奥行きある室内には、乳白色のカーテンが開かれた窓から入る初夏の日差しが、爽やかに満ちていた。入って左手は一面輻輳ふくそうたる本棚、手前には応対用のテーブルとパイプ椅子が数脚。奥の窓側にはパソコンラックがでんと居座り、窓辺では鉢植えのアロエがすくすくと日光を浴びていた。部屋は割合片付いているが、デスクの上だけは何やら書類や封筒で山が出来ていた。

 黒いデスクトップパソコンに向かっていた月田先生とおぼしき男性は、

「ああ、入院してたっていう真鳥さんだね」

と、私の顔を見るなり了解した。

「はい。レポートを提出しに来ました」

 学科には複数人の担当教官がいる。私の身に降りかかった不測の事態や、大学生活で困っていることなどの相談事は、まず自分の担当教官に――そういう流れである。

 私の担当教官であった月田先生とは、退院後顔を合わせるより先に、パソコンで学内アドレスを使ってメールのやり取りをし、課題などについての話を聞いていた。今日この時間に伺うことも連絡していたものだから、すぐに私だと分かったのだろう。

「車に脚を折られたんだって? 災難だったね。怪我はもういいのかい?」

「はい、何とか」

 月田先生は怪我が直ったばかりの私を気遣ってか、「まあ、座りなさい」と私をパイプ椅子に促した。それから部屋の隅にあった湯沸かしポットを使って、ティーバッグの紅茶を淹れてくれる。

 訪ねてくる学生一人一人に、わざわざこんなことをしているのだろうか。まめなことだ。

 私と机を挟んで向かい側に掛けた月田先生は、それほどお年を召している人では無かった。とはいえ、特別若いというわけでもない。適当に見積もって、三十代といったところだろうか。

 生憎あいにく、人の顔というものをあまり観察しない性質なので、私に特に感想は無い。

 とはいえ自分の学科の、そして講義を受けている先生を覚えないのもいろいろと不都合だ。私が印象に残したものはといえば、セピア色のオーバルフレームの眼鏡と、白のボタンダウンのシャツの胸元に首から提げられたグリーンのネームホルダーくらいか。教員証の入った小型ケースの、クリアで艶めく表面は日光を淡く反射し、先生の顔写真を私の目からくらませた。月田暁――「あきら」か「さとる」か――とにかくその名前を、私は脳裏に残しておいた。

 月田先生は、適当に頷いたり、「はぁ」「そうなんですか」と返事をする私に、いろんなことを喋った。あまりに多岐に渡って話されたので、どんな話をしたのかはよく覚えていない。

 ただ、どういう経緯いきさつか、私も自分のことをいろいろ話すことになった。

「人の顔を覚えるのって、苦手なんです。――人の顔って、皆一緒に見えませんか?」

 そういうことを話した気がする。


  *


 それ以来、私は構内で頻繁に月田先生と遭遇するようになった。

 朝の校門前で、

「ああ、お早う。真鳥さん」

 講義に行く途次とじの満員のエレベーターの中で、

「やあ。これから授業?」

 学食で。図書館で。掲示板前で。そしてまたエレベーターで。

 ――確かに、構内では友人や、友人と呼ぶほどではない知り合いとよく顔を合わせるものだが、流石さすがにこれは意図的なものを感じる。そう思い始めたのは、そんな日々が一週間ほど続いた頃だった。

「ああ、真鳥さん。元気?」

 今日の講義が三限目で終了した私と、六号棟の廊下で出会った眼鏡――月田先生が、にこやかに笑って片手を上げた。

 いかに私でも、この頻度で出くわして声をかけられれば刷り込まれる。私は呆れて半眼になり、こちらの了解もなしに隣を歩く月田先生を横目でじとりと見やった。

「……月田先生。ストーカーという言葉を御存知ですか」

「真鳥さん、わたしをストーカーなんぞと一緒にされては困る。わたしは君の家も通学路も知らないし、今のところ調べるつもりも無い。わたしと君が同じ大学に通っていて、君がわたしの講義を取っていて、利用する施設が同じ。それだけのことだ。偶然だよ。偶然だろう。偶然だと思いなさい」

 何故なぜ、三段活用にする。

「……まあ、このまま顔も覚えてもらえないのは悔しいと思ってね。とりあえず、覚えてもらえたことは嬉しい」

 月田先生は、少しはにかんだようだった。

 ……手間のかかることを。大学の先生というのも案外暇なのか。

 まあ、この人のことはどうだって良い。隣に居ても、どうせこちらが少し見上げないと、視線も合わないのだから。喋る木があると思えば良いだろう。何処どこの国の童話だか知らないが。

 それより私は、ロッカーに入れたままの辞書を取りに来たのだ。

 構内のあちこちでひとかたまりとなって備え付けられた個人用の小さなロッカーは、こういった週に一度しか使わないような教材や、体育系サークルをしている人なら運動着を入れたりする。私の場合、七千円もした厚さ七センチの殺人的に重い英和辞書をアパートからいちいち持ち運ぶのが億劫なので、学校に置き去りの刑にしているのだ。

 月田先生は向かう方向が同じらしく、前を向きながらも相変わらず私の隣を歩いている。そのまま私のロッカー前まで来てしまったが、別段人に見られて困るものは入れていない。私は自分のロッカーに手をかけた。――ただし、鍵のダイヤルを回す手元は隠して。

 しかしそこには、私の入れた覚えのないものが入っていた。

 一通の封筒である。コンビニエンスストアでも売っていそうな、再生紙的な飾り気のない茶封筒だ。

「何だいそれは?」

「……手紙、のようですね」

「ははあ、誰かが隙間から入れたというわけか」

 封筒に差出人の名前は無い。

 数秒沈思黙考した私は、ビリビリと糊付けを剥がし、中をあらためた。――本当は気持ちの悪さを感じたから、このまま捨ててしまいたかったのだけど。

 中を一応確認すること。それが私なりの、本当に最低限の礼儀だった。


『真鳥秋乃さんへ

  お話ししたいことがあります。

  二十四日の午後五時に、五号棟裏まで来て下さい。

  お待ちしています。

                    K・M 』


「………………」

 私の人生において、こういう手紙とは何度かお会いしていた。そしてそれに対する私の行動も、既に一本の軌道が出来ている。

 K・Mというイニシャルにも、丁寧に書いてはいても隠しきれていない汚さの字面じづらにも、覚えが無い。私は黙って、紙面を封筒の中に戻した。

「ラブ・レターというやつか。名前も書いていない個人のロッカーを特定している、こういうのをストーカーと言うんじゃないかい」

「そうかもしれませんね」

 私は投げやりに答え、ロッカーから目的の辞書を取り出した。これから図書館で、明日の英語の講義の予習をするのである。

 月田先生は、ロッカーを閉めた私の隣を依然として歩いていた。そしてさりげなく聞いてくる。

「それで君は、その待ち合わせ場所に行くのかい? 二十四日といえば明日だけれど」

「行きませんよ。そもそも、いたずらかもしれません」

「けど、どんな人だろう、素敵な人かもっていう期待はしない?」

「しませんね。……というより、恋愛というものにいまいち興味を持てないんです」

 先生は、おや、という風に、眼鏡の奥で目をまたたいたようだった。

「それはそれは……何でまた」

「そんなの、人の勝手でしょう。私にしてみれば、こうしてわざわざ私に手紙を出したりする人の方が理解できません」

 私のっ気ない言葉に、月田先生はまた意外そうな顔をする。

「そうかい? ――首席でここに入学した頭脳明晰っぷりに、去年のミスコンに出場していれば、優勝は確実と言われた美貌。……君は結構、有名だからね。そんな君に惹かれるような人なんて、いくらでも居るだろうに」

「……馬鹿馬鹿しい」

 そんな称賛は聞き飽きたし、そんな理由で不躾ぶしつけな視線を向けて来られるのも、私にとっては迷惑以外の何物でもない。

「その若さで勿体もったいない。枯れてるなあ」

「セクハラで訴えられたいんですか?」

「安心しなさい、冗談だから」

 先生は穏やかに笑って、勝手にあっさり水に流した。

 ……何なのだ、この人は。

 気さくに近付いてきたかと思えば、するりと離れる。掴み所がない、とは、こういう人のことを言うんだろうか。

 いわゆる、「恋愛」に関すること。

 望んでもいないのに、私に勝手に付きまとおうとするこの話題に関して、他人に一から説明するのは面倒だった。

 けれど相手が同年代ではないということで、私も油断していたのかもしれない。そして、先生のつい先程の「枯れてるなあ」には、私も少しだけカチンと来たというのもある。おそらく十以上も年上のおっさんに、何でこんなことを言われなくてはならないのだ。

 考え直して一つ息を吐いた私は、先生を見上げると一気に言った。

「――男というものが、信用出来ないんです。人のうわつらだけ見て勝手に妙な視線を向けてきたかと思えば、中身を知って幻滅して、陰口を叩く。告白されて断れば、やっぱり陰口を叩く。もしくは逆恨みをする。そうしている間に他の女の子から勝手に妬まれ、敵視されて嫌われる。私にとっては敵が増える一方です。……そういうのが、うんざりなんです」

「なるほど、持つ者特有の苦しみというものか。……まあ、求不得苦ぐふとくく五取蘊苦ごしゅうんく。人間というものも厄介だね。何かを欲しがるのも、羨ましがるのも妬むのも、なかなかそんな感情を切り離すことは難しい。その辺、男も女も同じだよ」

「……そうかもしれませんけど」

 だからと言って、私は向けられる悪意を鷹揚おうように受け入れさらに右頬を差し出すような心の広さを持っていないし、好きでもなければ、興味も持てない人と付き合うような、ボランティア精神溢るる心も持ち合わせていない。

 こういうのには、関わりたくない。それが正直な気持ちだ。

 私はロッカーに入っていた手紙を、封筒ごと四つ折りにする。そして差出人の不明なその手紙を、近くのごみ箱に放り込んだ。


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