10.夜の果て

 長い時間が、あるいはほんのわずかな時間が流れたあと、異臭の漂う狭い空間で“彼”は孝明と対峙した。

 不意に子供の声が聞こえた。はしゃぐような無垢な笑い声。それに母親らしき女性が何か大きな声で話しかけている。困り果てたような、呆れたような台詞だったが、言葉に乗せた感情はそれとはまったく別のものだった。

 “彼”の口元が少し動いた。

 子供の声が次第に大きくなり、笑い声がすぐそこまで来た時、パタパタと小刻みな足音が車の脇をすり抜けた。続いてその足音を追うように二つの人影がサイドウィンドウを前から後ろに流れていった。

 笑い声が次第に遠ざかり、やがて尾を引くように溶けて消えた。親子がその真っ暗な車の中に気をとられることはなかった。

「あんたは」家族の気配がなくなってから、孝明はしわがれた声を絞りだした。「誰なんだ。どこから来た」

 自分も死ぬのだろう。漠然とそう思った。ヒロキやコウタ、ユリ、そしてカナと同じように。四人ともあんなにあっけなく死んでしまった。自分一人が逃げられる理由はない。

 痛いだろうか? いや、そんなことは後だ。その前に“彼”のことが知りたい。しかしそれは知的欲求ではなかった。同乗者四人はここで何が起こったのか、突然の侵入者は誰だったのか、理由は何なのか、何も分からないままこの世を去った。もし自分が“彼”のことを知ることができたなら、全てを知ったあとに最期を迎えることができたとするなら、こんな優越感はない。

 孝明を見ていた“彼”は、少し視線を外すと右手を顎に添えた。

「どこから来たのか、か」

 目を細め小さく息を吐いた。孝明の問いに対する答えを真剣に考えているのが分かった。

「直接的には」そう言って白く長い指と、その先の鋭利な弾丸のような爪を後方に向けた。

「あそこに停めてあるキャンピングカーからだ」

 孝明は指の示すほうに目をやった。いくつかの車の影は見えるが、はっきりとは分からない。

「私が何者かというと」

 “彼”はいたずらな目線を孝明に向けた。

「非常に長く、複雑な説明になる」

「どうしてこんなことを」孝明は言った。

 “彼”はかぶりを振った。

「私にも食事は必要だ」

 “彼”の口角を真っ赤な血が濡らしていた。

 食事、と声に出さずに繰り返した。上下に躍動する“彼”の喉、その横から聞こえる食材の発する音を思い起こした。そして車内に充満する臭いに、孝明はようやく吐き気をもよおした。

「なぜ俺たちを?」こみ上げるものを抑えながら言った。

「あそこにお前たちが現れたからだ」

 あそこ? 何を言っている?

「あのような場所は狩場として優れている」

 理解はおろか、想像すら追いつかなかった。

「私には行動の制約があってね。それに」“彼”はコウタの体を見下ろした。「後始末のことも考えねばならない。計画的に狩りを行うために都合のいい場所なのだ」

 狩場? 後始末? 何一つ分からないまま、孝明は四人と何一つ変わらない自分の最期を感じ取り、うつむいた。

「分からないか?」

 分かるはずなどないだろう。

 口の中にすっぱい唾液が溢れ、胃が痙攣してきた。

 その様子を面白そうに見ながら“彼”は言った。

「どうした、静かだな?」

 孝明はぎくりと目を上げた。

「ここは図書館か?」

 その瞬間、孝明はこみ上げる吐き気を忘れた。鼓動が速度を増した

「あれが……」

 ひと時の楽しみを見出すため訪れた実体を持たない場所。

 そこに集う男と女。そして得体の知れない誰か。それをからかい笑い合うハルキとコウタ。夏の欲望を満たすための計画。

 あれが、狩場。

「私のような存在がネットを使うのが不思議か?」

 どこかでクラクションが大きく鳴った。それに続いて男の怒鳴る声が聞こえた。

「生きていくために努力をしている。昼間棺桶で寝ているだけではないのだ」

 “彼”は片方の口角を上げ、ふっと笑った。

「でもなぜ」孝明は急かすように言った。なぜあそこに、なぜあのコミュニティーに。

 その意図を“彼”は汲み取った。

「それもお前たちと同じだ」

 まだだ。まだ分からない。

「狩りは静かに、効率的に行う。お前たちだってそのためにあそこを選んだのだろう? 目的は違うが」

 静かに効率的に。それはハルキが選んできたあのサイトを見たときに孝明自身が感じたことだった。規模や雰囲気、参加者のコメントから滲み出る色と熱量。素早く相手を見極め、近づき、誘うためには、あそこはハルキにとってやり易い場所だったはずだ。事実、孝明も同じことを感じていたのだから。

 “彼”は口元の「食べかす」を指ですくって見つめた。

「お前たちのそれは快楽に対する欲望、私のは生きるための食欲」

 そういうことか、と孝明は思った。

「欲望に溺れた人間たちの行動は分かりやすい。それ故、たやすいのだ。そうした人間が溜まる場所は非常に都合がいい。そしてその場所は無限に存在する。だから常によい狩場を探し、そこで待つ」

 “彼”は少し言葉を切り、そして付け加えた。

「目立ちたくはないのだ」

 逃げる獲物を追いかけ、狩るのではない。餌を用意して罠を仕掛けるのでもない。欲望に駆られた獲物が“彼”の前に歩いてくるのだ。まるで快楽に囚われた中毒者が阿片窟を求め集まるように。“彼”はその阿片窟を見つけて、ただそこで待てばいい。集まってくる者たちは皆が皆、頭巾で顔を隠し、足跡を消し、饒舌ではあるが何も語らない。“彼”にとっても都合のいい相手、というわけだ。

「俺たちを追ってきたのか」

「いや、待っていた」

 “彼”はすぐに答えた。

 待っていた? どういう意味だ?

「文字通りの意味だ」

 孝明はぎくりとした。肉体も精神も、全てを見透かされ支配されているように感じた。

「言ったように、私の行動には制約がある。お前たちにくっついて追うことはできない。だからここで待っていた。明かりを閉ざした車の中で、眠りながら」

 このサービスエリアで待っていた?

 細かい計画は個別のグループチャットでやりとりしていた。『your dolocy barr』なる人物、今となっては目の前の“彼”、が見ていたのはその前のコミュニティーでの会話だ。個別グループに自分たち五人以外はいなかった。

「多くの場合、誘い出す獲物は一人だ。つまり、今回は大漁というわけだ」

 そう言って“彼”は何かを思案したあと「このむすめか」と自分の脇に横たわるカナの背中を撫でた。

「このむすめがそういう性質だと分かったんでね、いつもとは少しやり方を変えた。そして個人的に友人となった」

 カナに触れるその手は、まるで恋人への愛撫のようであった。

「たくさん話をした。たくさんね。色々と教えてくれた。待ち合わせの時間や場所、その後の計画。しかしそれはほんの一部だ」

 どのようにカナの心に入り込み、そしてどのような会話を交わしたかは分からない。

 不思議な参加者に対するあの時のカナの反応は、彼女の行動に対する後ろめたさだったのだろうか。カナはなぜユリにも黙ってそのようなことをしたのか、孝明はなんとなく理解できた。カナと並んで過ごしたほんの数時間は、その理由を想像させるのに十分だった。

 それがどのような結果をもたらすことになるのか、もちろん彼女は知る由もなかった。しかし最期の時、あの瞬間、一つの事実だけは理解したのかもしれない。自分が扉を開けたのだと。

「昔はよかったのだが」

 “彼”は懐かしむように、呆れるように笑った。

「今ではこうして時間をかけて準備をしないと、食事もできない」

「……」

「不条理だと思うか? 」

 “彼”はカナに手をかけたまま、孝明を見た。

「我々にだって事情というものはある」

 我々?

「あんたはいったい……」と言いかけた孝明の言葉を“彼”は遮った。 

「お前はこのむすめに違う感情を抱いていたか?」

 孝明は言葉を飲み込み、先ほどよぎった幻想の欠片を再び見た。淡く、暖かい陽ざし。

「一時の欲望以外の何か」

 並んで歩く肩越しに自分を見つめる眼差し。

 孝明は“彼”と目を合わせた。冷たい炎を感じるその目に、しかし微かな憐みの色を見た。

「我々にも色々あるのだ」

 その言葉は、曖昧ではあるが納得せざるを得ない力を帯びていた。

 そして孝明は三つのことを理解した。

 “彼”は魑魅魍魎などではなく、現実の存在であること。

 自分たちは運が悪かったのではないということ。

 そして、自分はここまでであること。

 もう十分だと思った。これ以上はおそらく自分の理解を超えている。これだけでも、何も知らずに命を終えた彼らよりはいくぶんマシな気がした。

 クラスの輪を外から見ていたあの光景。根拠など何一つない自信で自分を奮い立たせる日常。それなのにどこか周りを上から見ていた毎日。それらが終わる。

「痛くしないでくれ」

 孝明はそう言った。

 “彼”は下を向き、小さく笑った。

「そうするなら、そうしてやる」

 その言葉にささやかな安堵を感じ、もう何も思うまいと孝明は目を閉じた。

 何も考えたくない、何も感じたくないと思うほどに、瞼の裏には同じ光景が駆け抜けた。暗いスクリーンに映る、傷だらけのフィルムのように。そして、待った。

 だが、“彼”の声がスクリーンを破った。

「自分は違うと思っているのだろう?」

 孝明は目を開けた。

「自分は他人とは違う、と」

 目の前には未だに現実の光景が続いていた。

「だが思っているだけだ。何もしない。なぜなら」

 長い指と爪がゆっくりと孝明に向かって伸びると、額の真ん中を指した。

「気づいているからだ」 

 記憶や思い出や、そういった加工されたものではなく、まるで生の内臓をつかまれ、引きづり出されたようだった。熱を帯びて湯気を立てる、ねっとりと血が滴る臓物を。

「本当はそうではないと気づいている。だから本当の自分など知りたくない」

 孝明は何も言わなかった。“彼”は伸ばした手を引き戻すと窓に目をやった。

「人間の社会が進化し、我々には生きづらい世界となった」

 しばらくそうして窓の外を見ていたが、やがてゆっくりと孝明を見た。

「我々は取り残された弱い存在だ。ぎりぎりのところでどうにか適応している。だが残念ながらそれも限界にきている。適応できない存在は消えていくだけだ。だからこの生きづらい世にあって、制約に縛られない仲間が必要なのだ」

 仲間? うなずく“彼”。

 俺? “彼”はまたうなずいた。

 なぜ自分なのかという疑問はなかった。“彼”は分かっているのだ。効率的な相手を。だがそれを受け入れることは恐怖にからめとられたまま生き続けるということだ。恐怖に支配され、永遠に隷属するだけの存在となる。

「仲間だと言ったはずだ」

 孝明はぎくりと背を伸ばした。

 “彼”はコウタの左手首を持ち上げた。その力によってコウタの上半身がねじれると、その下で水たまりが跳ねるような小さな音が聞こえた。そしてその腕から外国製の高級時計を外して眺めた。

「私が生きるのを手伝うのだ。代わりにお前が欲しかったものを与えてやる」

 “彼”がコウタの腕を離すと、支えを失った体は再び暗いシートに落ちた。孝明の目にはまるで、最後の審判を下された者が執行人の手によって奈落に沈んでいったかのように見えた。あれが目の前に示されたもう一つの選択肢なのだ。

「欲しかったもの……?」

「そうだ。そいつでお前自身の疑いを壊し、自分は正しかったと知れ」

 それが単なるヘルパーとしての就職口とは違うことは想像できる。そこには代償が必要となる。つまり、魂を売るのだ。そうするとどうなる? ぞっとするような容姿と悪臭をまき散らす異形の者になるのか。それともいつか大鎌を持った死神が喜び勇んで迎えに来るのか。

 だとしたらなんだ? 自分を好きだと思ったことなんて一度もない。大切に思ったこともない。自分を愛せないなら他人を愛せるはずがないと誰かが言っていた。その通りかもしれない。

 “彼”はべっとりと濡れた腕時計を軽く左右に振った。

「時間がない。決断しろ」

 大切なものなんてあっただろうか?

 孝明はゆっくり首を動かした。ゆっくりと。その間にたくさんのことを考えたり思い出したりした。ほんの一瞬、両親の顔が浮かんだ。しかしそれらは流れ去っていくだけで、心にとどまることはなかった。

 頷き終わったときには、何を思い出していたのかも覚えていなかった。

 それを見届けた“彼”はコウタの体をやすやすと持ち上げると、三列目に放り投げた。そして広いスペースを確保したシートに深く身をしずめた。

「車を出すんだ。行き先は指示する」

 そしてこう言い足した。「このむすめだけは弔う」

 孝明は前を見て座り直し、キーを回した。

「シートベルトを忘れるな」

 無言でシートベルトを締めると、何気なくルームミラーを見た。

 空のシートしか見えない。だがそんなことはもはや大した意味はなかった。

 周囲に注意しながら車を出した。

 バックミラーに小型のキャンピングカーが映った。小さく、だいぶ汚れているように見えた。あれは誰の車なのだろう。

 横断待ちのカップルの前で減速し、一旦停止した。若い男女は孝明に小さく頭をさげ、小走りで横切った。固くつながれた手がヘッドライトの明かりに照らされた。

 ブレーキから足を離すと、車はまたゆっくり進みだした。いくつもの車と、何人もの人の間をそっと進んだ。老人、若者、家族、恋人同士。みんなが静かに流れていく。

「まだ答えていない問いがあったな」

 “彼”は言った。窓の外を見ているのかこっちを見ているのか、孝明には分からなかった。

「長い話だが、いずれ理解できるだろう」 

 合流線に入り、ウインカーが時を急かすようにリズミカルな音を刻んだ。

 孝明はこれから与えられるであろう『望む人生』に思いをはせた。

 アクセルを踏み込み、車はスピードを上げた。ミラーに映るサービスエリアの明かりが遠のき、車は夜の向こうにどこまでも伸びていくテールランプの河に溶けていった。

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クリーパー 瀬山 将 @manash

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