9.夜の底

「タッくん、半分食べるでしょ?」カナは袋の中で謎の名物を二つに割ると、紙ナプキンで包んで孝明に差し出した。

「ありがと」

 体をひねり、受け取るついでにカナを見た。カナは笑った。

 背もたれに体をうずめ、少し匂いを嗅いでから一口かじった。

「早く出せよ、遅れるぜ」

 ハルキの声が遠くから聞こえた。うたた寝の邪魔をされたような心地の悪さを感じながらダッシュボードの時計を見た。予定より長居をしたようだ。

 仕方ない。

「シートベルトしてくれよ」とキーに手をかけながら言った。

「はーい」というカナの声。

 ルームミラーを見ると、カナが片手でシートベルトを引き出そうとしていた。コウタもそれにならった。その二人の間から見える密接したふたつの影。

 まったく、と孝明は小さくつぶやいた。

「おい、シートベルト。減点されるのは俺なんだからな」

 ミラーを見つめながらもう一度言った。すでにシートベルトを装着した二人の奥で動こうとしない残る二つの影。

「おいってば、聞こえ……」

 孝明は上体をねじり後ろを向いた。そして言葉を止めた。

 ハルキとユリのその向こう、ハッチバックの大きなリアウインドウの外に影が立っていた。車のすぐ後ろに張り付くように。

 心臓が大きく一つ波うった。

 孝明は素早く体をシートに戻し、ルームミラーを見た。リアウィンドウの向こうには、眩いヘッドライトが横切っていくだけで、他には何も見えない。

 再び後ろを振り返る。影がいる。大きな影。絶え間なく通り過ぎる車のヘッドライトと、サービスエリアの強力な照明装置が逆光となり、その影は暗闇よりも暗かった。

 よく確認しようと目を細めたが輪郭以外は何も分からない。首の周りを悪寒が駆け抜け、声が出なかった。

 すると影はゆっくりと車の横に、ユリの側に回り込んだ。

 ロック! 孝明がそう思った瞬間、スライドドアがゆっくりと開かれた。

 外の明かりと空気が流れ込むと、ハルキは顔を上げ、それに気づいたユリが慌てて体を離した。

「なんだ?」ハルキが素っ頓狂な声をあげた。

 一瞬だった。外から黒い腕が伸びると、ユリの白い首をわしづかみにした。小さな呻き声をあげ、ユリは足をばたつかせた。

 影はユリの首を固定したまま、ゆっくりと車内に入ってきた。

 影は実体となった。

 ユリは目を白黒させながら自分の首を捉えている腕を叩いた。侵入者は首根っこを掴んだままユリの体を軽々と奥へ押し込むと、空いた場所に腰を下ろし、後ろ手にドアを閉めた。

 孝明は思考がまるで追いついてこなかった。他の四人も同じだったに違いない。

 それは真っ黒なつば広の帽子を目深にかぶり、八月だというのに同じく漆黒のロングコートを着ていた。そして空いているほうの手でゆっくりと帽子を取った。

 男、おそらくは。

 白いというより青みがかったその顔は、堀りが深く、鼻筋の通ったきれいな造形だった。美しいのだが、決定的に質感が違う。車内の薄い明かりに照らされた顔の表面は冷たく、そして乾いた、まるでリノリウムの床を思わせる無機質なものであった。

 孝明が思わずその横顔から目をそらそうとしたその時、ハルキが声をあげた。

「お前、誰だ」

 声が震えている。

 “彼”はハルキに目を向け、人差し指を唇に当てた。

 コウタも、カナも、孝明も動かなかった。突然、圧倒的な支配を受けた小さな空間、混乱した意識と下半身に広がる痺れ。この空間で“彼”に従わないことが何を意味するのか、本能が理解した。

「で、出てってくれよ」

 ハルキがこの世で放った最後の言葉だった。

 そっと帽子を膝に置いた“彼”の手は、その動作からは想像もできないほどの速さでハルキの喉元に伸びた。ただし今度は掴んだのではない。貫いたのだ。

 ハルキの体が勢いよくドアに当たり、まるで磔にされたかのように動けなくなった。大きく見開かれた両眼は恐怖とも驚きともつかぬ色をたたえ、全身は小刻みに震え始めた。眼球は救いをもとめて右往左往しながら大粒の涙をこぼし、ヒューヒューと力のない笛の音の向こうから、小さな泡がいくつも弾ける音が聞こえた。

 次第に震えが消えてゆき、首が前に倒れたかと思うと全てが止まった。

 “彼”は満足げに唇を釣り上げると手を引き抜いた。ハルキの体がユリの膝の上に倒れた。

 細く長い指だった。その先には、まるでライフルの弾頭のような爪が綺麗に並んでいた。四本の指はたっぷり赤く染まり、それがいくつもの筋となって垂れ落ちていた。“彼”はその手を引き寄せると、指先を何度も舐め上げた。そうしながら“彼”はユリの首を握ってたいた手を開くと、そのまま顎を強く押し上げた。そして、ぐうっ、と呻いたユリの喉にすかさず食らいついた。

 すすり上げるような下品な音を立てながらかすかに顎を揺らす“彼”の後ろ姿を孝明は見た。ユリの表情は見えない。ただ、呆然と開かれた口元だけが“彼”の頭越しに見えていた。

 ユリの首がぐらっと揺れた。“彼”はゆっくりとユリの首元から離れると口元を手の甲で拭った。ユリの体は柔らかく、しなやかに波打ちながらハルキ上に重なるように倒れた。

 やめて、とカナが絞り出すようにつぶやいた。すすり泣きと、不規則で速い呼吸のせいで、うまく声にならない。

「おね、がい」

 カナは激しい呼吸の合間にもう一度声をこぼした。

 やめろ、と孝明は心で叫んだ。しゃべるな! こいつはしゃべるなと言っている。分かるだろ、こいつは、何というか、こいつは、違う、分かるだろ!

「おねがい、します、どうか」

 そう言いながら腰元に手を伸ばし、大きく震える手でシートベルトを外した。

 無理だ、やめるんだ! 

 一瞬、風が孝明の頬をかすめたかと思うと、“彼”の両腕が伸びて、二つの掌がカナの頭をはさんだ。

 声も出せぬまま、カナは両手で“彼”の腕をつかみ、それを引き離そうと激しく身もだえした。しかし“彼”の手と、その間にはさまれたカナの頭部は微動だにしなかった。腕力の差、などという生易しいものではない。

 やめてくれ。

 孝明の唇が動いた。

 だが唇は小刻みに震えるものの、声帯はぴくりとも震えなかった。

 おねがいだから、それはやめてくれ。 

 “彼”は少し下を向き、小さく首を横に振ると、掌をすり合わせるように両腕を前後にはじいた。

 孝明の唇が止まった。

 カナの首は乾いた音を立て不自然な角度で止まった。そこで一瞬時を止めたあと、カナはゆっくりと沈んでいった。

 声が聞こえた気がした。

 孝明はまばたきもできず、崩れ落ちていくカナの体を見ていた。

 その姿はスローモーションになり、それにオーバーラップするように自分の横を歩くカナの姿が見えた。柔らかい日差し。まぶたの上を風がなでる。話しかけると振り向くカナ。その目が孝明を見つめ、微笑む。唇が開く。

 孝明はこの時になって初めて一筋の涙を流した。しかし孝明の感じたものは、目の前の出来事とはおおよそかけ離れたところにある感情だった。それは、小さな期待がふっと風に巻かれ消えていったような、そんな淡い失望だった。

 “彼”はその大きな体をくるりと翻すと、あっという間にシートの背もたれを超えて二列目、完全に血の気をなくしたコウタと、打ち捨てられた人形のように横たわるカナの間に着座した。

 コウタの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、今にも大声で泣き出しそうだった。

 “彼”は人差し指を立てコウタの眼前に近づけると、ゆっくり左右に振った。

「声を出すな」

 初めて聞いたその声は、濁りのない穏やかな、諭すような声だった。

 それから運転席で固まっている孝明に顔を向けると、首を傾げた。孝明は一つ頷いた。言われたことに従う意思を示し、唯一の助かる可能性にすがった。

 サービスエリアに進入してくる車のヘッドライトが次々に車内を駆け抜け、いくつもの閃光が孝明の目を突き刺したが、目を閉じる事は出来なかった。

 “彼”は孝明の目の奥、さらにその向こうにあるものを見ているような気がした。粘液に覆われた何かが、ぬるりと頭の中にすべり込んでくる感触があった。気味の悪い、しかし痛みも苦痛もない感触を目の裏に感じた。

「なんでもします」コウタが泣きじゃくり、叱られた子供が許しを乞うように言った。「許してください」

 “彼”は孝明からコウタに目を戻すと、そのびしょ濡れになった目を、孝明にしたのと同じようにじっと覗き込んだ。いまにも濡れた眼窩に顔をねじ込み、体の中を食い始めるのではないかと思えた。

「なんでもします、なんでもします」

 コウタは震える手を胸元で合わせた。

 孝明には分からなかった。命乞いをしてこの車から出ることが出来るなら、今すぐにでもやる。だが分からなかった。全身を支配する脱力感。できることは何一つないと悟った虚無感。そして、いつも感じてきた生きることへの徒労感。これらが混ざりあった、今まで感じたことのない感覚。

 “彼”は再び孝明を見た。もはや目をそらす気力すら失った孝明はじっと“彼”を見返した。

 また車内に閃光が走り、“彼”の顔、次いで孝明の顔を照らした。ビー玉のような眼球、だがその奥に圧倒的な命の力を確かに感じた。

 不意に、恐怖の向こうから何か違った感情が顔を覗かせた。 

 なんでもします、とコウタは言い続けた。まるでそれが救いの呪文であるかのように。

 孝明からコウタへ、“彼”はゆっくりと視線を戻した。

 “彼”が水平に鋭く腕を振った。

 またしても小さく薄い風が頬をかすめ、同時にコウタの呪文が途切れた。

 二つに切り裂かれたシートベルトが勢いよく弾け、スリットの中に吸い込まれた。続いて詰まった排水管が流れだしたような音が聞こえてきた。

 孝明は“彼”の横顔から目を離さなかった。コウタのことは見る必要がなかった。

 “彼”はユリのときと同じく、コウタの首に取りついた。コウタの首筋と、その向こうに隠れている“彼”の顔。

 孝明は何度も上下する“彼”の喉を、ただ見つめていた。

 車内にかすかに漂うアンモニア臭。

 コウタからはもう何も聞こえない。


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