一度だけ

南雲 皋

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 あの朝、世界は変わった。

 もしかしたら、終わってしまったのかもしれなかった。


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 目覚めた瞬間には、何も分からなかった。

 いつも通りに携帯電話から鳴るアラーム音で目を覚まし、五分おきに設定していた目覚ましを解除して、ベッドから起き上がった時には。


 違和感を覚えたのは、自室の扉の向こうがやけに静かだったからだ。

 普段であれば聞こえてくるはずの、母親が歩き回るスリッパの音がしなかった。

 壁と扉の隙間から問答無用に食欲を刺激する朝食の香りも、ない。


 何かが変だと思いながらも、その”何か”が分からない。

 気味の悪い不安にさいなまれながら、パジャマのまま立ち上がり、おそるおそる扉を開ける。


「は?」


 自室の向かいにある両親の寝室。その入り口の前の廊下には、床がなかった。

 不自然なほど綺麗な正方形にぽっかりと空いた穴を、呆けたように見つめる。

 じわじわと脳みそに血が流れていくような感覚があって、それからぶわりと鳥肌が立った。


「母さん!」


 慌ててその穴を覗き込むが、母親の姿はそこにはなかった。

 マンションの八階。穴の底は見えなかった。


「すみません……誰か、いませんか!」


 穴に顔を突っ込むようにして、七階の様子を伺ってみる。声をかけても返事はなかった。

 いったい、何が起きているのか。

 自分が起きるよりも早く出勤する父親は、出勤しているのだろうか。


「そうだ、電話!」


 ベッドに置いたままになっている携帯電話を取ろうと自室に戻った瞬間、浮遊感に包まれて思考が停止する。

 全身に衝撃が走り、うめき声を上げながら身体をよじった。


「い……ってぇ……」


 チカチカと明滅する視界に、数回のまばたきを繰り返す。

 見えるようになった室内は、作りこそ自室と全く同じだが内装が異なっていた。

 散らかったおもちゃ、壁に貼られた五十音表やキャラクターもののポスター。

 子供部屋と思われる室内にも、正方形の穴が一つ空いていた。

 天井を見上げると、そこにも穴が。今しがた、自分の落ちた穴が空いていた。


「どうなってんだ……」


 一気に移動することをやめ、一歩ずつ床を確かめるように穴に向かって進んでみる。

 小さなベッドの近くに空いた穴を覗き込んだ瞬間、見なければよかったと後悔の念でいっぱいになった。


 穴の直下には、幼い男児が横たわっていた。首や四肢があらぬ方向に折れ曲がっていて、一目で息がないことが分かる。

 込み上げてくる吐き気に耐えていると、穴の向こうに人の気配がした。


「だ、誰かいるんですか⁉︎」

「ひっ……! お、大声出さないで……!」


 なるべく男児の方を見ないようにしながら、穴に顔を突っ込むと、薄暗い部屋の隅で震える若い女性が見えた。


「すみません……あの、何が起きてるんですか」

「私だって分からないけど……大声出したら、バケモノが来るの……あと、床……二回踏んだら、穴が……」

「バケモノ?」

「お、お父さん……襲われて……私はここに逃げて……暴れるみたいな音、いつの間にかしなくなってて……」


 ガタン


「……!」


 子供部屋の扉の向こうから物音が聞こえ、鼓動が早まる。

 怯えた視線を向けて黙り込んだ女性の瞳に、自分はいったいどんな表情で映っているのだろう。

 口内に溜まった唾液をゆっくりと飲み込み、息を殺して閉まっている扉を見つめた。


 ズル、ズル……ズッ……


 重たい何かを引きずるような音が、どんどん近付いてくるのが分かる。

 逃げたい。逃げ出したい。

 けれど、扉の前から今いる場所まで、すでに一度踏んでしまっている。

 どうしようもできないまま、無情にも扉がゆっくりと開いていった。


「ひっ……!」


 それは大きなナメクジのようだった。しかし、ぬらぬらと粘液に包まれた身体には無数の瞳が付いていて、それらは不規則にまばたきを繰り返している。

 あまりのことに声を上げた瞬間、その瞳の全てがこちらをギョロリと見た。


 喰われる。


 そう思った。

 思わず目を閉じ、来るであろう衝撃を覚悟する。

 だがその覚悟は、女性の悲鳴で遮られた。

 目を開けると部屋の入り口に穴が空いていて、バケモノの姿はなかった。


 心臓が口から飛び出るかと思うほどにうるさく、先ほどまで会話をしていた女性の顔がチラついて離れない。

 震えながらゆっくりと這いずり、崩れない床を移動してバケモノが落ちたであろう穴まで向かう。

 最悪を想像しながら必死で深呼吸を繰り返し、穴を覗いた。


 バケモノの姿は、見えなかった。

 母親を求めて穴を覗いた時と同じく、穴はどこまでも続いているように見える。

 女性は変わらず部屋の隅にいて、しかし顔は真っ青で、自身を抱きしめるようにして震えていた。


「バ、バケモノ、落ちてった?」


 自分でも驚くほど情けない声が漏れる。

 女性はコクコクと何度も頷き、両の目から涙を溢れさせた。


「何だよあれ……どうすりゃいいんだ……」


 床に崩れるように倒れ込み、頭を抱える。

 バケモノも、二度目を踏めば自分たちと同じように落ちていく。それが分かったからといって、どうなるわけでもない。

 この階ですでに踏まれた床がどこなのかも分からない以上、不用意に移動することもできないのだ。


 お腹も空いたし、トイレにも行きたい。

 けれど、今いる場所から動きたくない。


 もういっそ、底の見えない穴に落ちていってしまおうか。

 そう考えた時、突然大きな音楽が鳴り響いた。

 脳内に直接響いているかのような不協和音に顔をしかめる。


『K2481エリア、残り生存者が百名を切りました。これより、強制移動フェイズに入ります』


 女性とも男性とも取れる機械的な音声がそう告げた瞬間、身体が強制的に動き、直立不動のまま硬直した。


「な、何だ……っ⁉︎」

『二度の踏み付け、及び五秒の停止により、足場が崩壊します』

「そんな!」


 嫌な汗が噴き出て、足が震える。

 どうしよう、どうすれば。

 考えている暇はない。

 扉の向こう、バケモノの這っていた場所を飛び越えるように、必死でジャンプした。


「うぉおおおおぉ!」


 着地した床は、崩れなかった。

 階下から悲鳴が聞こえないところを見るに、あの女性も一歩目は成功したらしい。

 一瞬そんなことを考えたが、すぐに次の一歩を踏み出さなくてはいけない。

 慌てて玄関の方へ一歩踏み出し、崩れないことにまた安堵する。

 安心している場合ではないのだ、時の流れは残酷で、自分のカウントは信頼できない。


 あぁ、一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 流れ出る涙を拭うこともできず、必死に足を進める。

 玄関を開けた一歩目、すぐ目の前の床を踏まないようにジャンプした。


 まだ、地面に立っている。

 ハァハァと荒い息を吐き出して左右を見ると、非常階段に近い方の玄関から男性が出てくるのが見えた。

 彼も玄関の目の前の床を踏まぬようジャンプして、そしてこちらを見た。

 視線は一瞬だけ交差し、すぐに離れた。

 男性は非常階段に向かって歩を進める。


 このままでは、踏める地面がなくなってしまう。

 男性の方が非常階段に近かったというだけで、自分の方が圧倒的に不利なのだ。

 それだけではない。

 七階にいる自分より、一階にいる誰かの方が圧倒的に有利だ。

 今のままでは、非常階段は途中で確実に崩れてしまうだろう。


「どうしよう、どうしよう、どうしよう……」


 泣きながら男性の踏んだ床を避けて前に進む。

 どこまで進めるのかも分からないけれど、せめて一瞬でも長く。

 落ちたくない。

 死にたくない。


「あっ」


 少し前を歩いていた男性が、小さな声を漏らして消えた。

 男性がいなくなって見えたのは、小学生くらいの少年だった。

 少年の両手はこちらに向かって伸びていて、それが意味することを理解して絶望した。


 少年は、男性を押したのだ。

 すでに男性が踏んだ床を、彼が再び踏むように。


 少年はこちらを見向きもせず、非常階段を降り始めた。

 大人でも三人は横並びになれるくらいの階段だが、少年がどこを踏んだのかすぐに見えなくなってしまう。


 あぁ、もう無理なのかもしれない。


 それでも階段に足を踏み入れた。

 少年の踏んでいなかった地面を選び、三歩ほど降りた時、目の前に巨大な目玉が現れて思考が停止する。


「そ、んな」


 こんなところにも、バケモノが出るなんて。


 巨大な目玉の下には、大きく横に裂けた口があって。

 そこから華奢な腕が一本伸びていた。

 男性を押した腕が、血にまみれて伸びていた。

 少年を咀嚼そしゃくする口は、当然のように次なる獲物を飲み込んだ。


 自分の骨が砕ける音を聞きながら、暗闇へと、落ちていく。


---


「うわぁぁぁぁ!」


 タオルケットを跳ね除けて、起き上がると自室のベッドの上だった。

 何が起きたのか分からず周囲を見回すと、枕元の携帯電話が目覚める時間だと鳴り出した。


「ゆ、夢……だったのか?」


 びっしょりと汗をかいたパジャマを脱ぎ、サイドテーブルに引っ掛けっぱなしの服を着る。

 夢にしてはやけにリアルで、何もかも鮮明に思い出せた。


 シャワーを、浴びよう。


 自室を出ようとベッドから降りた瞬間、扉の向こうから母親の叫び声が聞こえた。


「…………え?」


 嘘だ。うそだ。そんな馬鹿なことがあってたまるか。

 聞き間違いだ。

 もしかしたら包丁で指を切ってしまったのかも。


 そんなことをグルグルと考えながらも、絶対に足踏みなどしないように真っ直ぐ扉に向かう。

 勢いよく開け放った扉の先。


 両親の寝室の扉を一歩飛び越えた場所に、正方形の穴が、空いていた。

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