第4話

 事件は結果的に何の証拠もないまま、流れることとなった。連日行っていた奈美への聞き取りも、やがて頻度が減り、そして無くなった。彼女からは何度か抗議の電話があったが、仕方のないことだった。

「大場君、ちょっと」

事件のことも忘れかけていた春先の頃、直紀は溝口 健司から突然呼び出された。

「例の事件、ほらあの、真鱈とかいう男の。あの男がね、不当逮捕の件を新聞に垂れ込んだらしいんだ」

 今朝付けで部長に連絡があったという。明らかな不当逮捕で1ヶ月近く拘留され、人権侵害に近い暴言も吐かれたと打ち明ける男の告白は恰好のネタであった。

「明日の朝、二面で大きな記事が出るらしい。次いでは、我々のところにも取材が来るだろう」

 溝口はそれ以上語らなかった。しかし、いつもと変わらぬ柔和な表情、丸い目は言葉以上の何かを語っていた。

「すべて、自分の責任です」

 直紀に対する慰めはなかった。


 予告通り、大きな記事が翌朝の新聞に掲載された。そこには担当課の部長として溝口の名前もある。自分の名前が一切記されていないことが、逆に直紀の心を締め付けた。世間の矛先は警察署、そして刑事課全体に突き付けられ、署長が謝罪会見をするまでに至った。

 夏の異動で、直紀は県内の辺境にある支所に回されることとなった。無論、そういうたぐいの文言はどこにも書かれてはいなかったが、事実上の左遷である。

 溝口が話しかけてくる機会はめっきりと減ったが、代わりに視線がぶつかる回数が増えた。ふとした瞬間、彼の目が直紀を見ている。


 そんなこともあり、加奈子との別れ話が出てくるのもほとんど自然な流れであった。

 加奈子は別れることはないと必死で説得したが、彼女の両親がそれを許さなかった。犯罪者のような烙印を押された人間が自分の娘と結婚するなど、到底受けれられるはずもないのだろう。

「して、」

部屋を出る最後の夜、加奈子はそう言って布団の中で身を寄せてきた。あの動画を見た日から、そういった交渉は一切途絶えていた。

 直紀はそれに応えた。感傷的な交渉は決して心地のいいものではなかったが、すべてを吐き出してしまうと驚くほどリラックスできた。

 直紀は全裸のまま、布団の中で加奈子を抱きしめた。一生分のつもりで、強く抱きしめた。彼女の体からはもうもうと金木犀の香りが立ち込めていた。

「いい匂い、」

「私……この匂い嫌い。きつくて、まるで娼婦」

「そんなことない。金木犀を嗅ぐといつも君を思いだす。この匂いは―」

そして、ハッとした。

『私、一日10回はお風呂に入るんですよ。なんでか分かります? 体に染みついたあの穢れ、匂い、不快感をすべて拭い去るためです。でも洗っても、洗っても、取れないんですよ!』

 奈美が言っていた言葉を思い出した。

 違う。加奈子は過去を忘れたのではない。体に染みついた匂いを隠し、今も過去の因縁に苛まれているのだ。そして、この時本来湧き上がるべきはずの怒りが遠雷を伴って爆発した。

 加奈子が眠りに落ちたことを確認すると、直紀はベッドから起き上がり、部屋を出た。真夜中だった。

 真鱈 昴の家は真っ暗だった。

 家の中は埃とカビのにおいが満ちていた。闇を手探りで進み、部屋を一つ一つ確認していく。家宅捜査の時に荒らしまわったお陰で、家の間取りは凡そ把握できていた。

 男の姿はどこにもなかった。リビングから駐車スペースを覗くと車がない。直紀は少し逡巡した後、階段を昇った。

 階段を昇り寝室と見える部屋のベッドに腰かけた。湿ったシーツと暗い部屋には見覚えがある。あの動画に映っていた場所だ。

 虚無の時間であった。硬いベッドマットレスに座り、ジッと闇の中、男が返ってくるのを直樹は待ち続けた。


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ある証拠 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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