第3話
「どうだった?」
その日の帰り、多田に尋ねられた。
直紀は首を振り「まだ全部は見ていないが。望み薄だな」と答えた。
帰宅すると、加奈子の放つ金木犀の香りが彼を出迎えた。いつもなら匂いにつられ、そのまま台所へ直行するが、今日は無意識のうちに両足がそれを拒み、自室へと向かわせた。
机の上に件のメモリーカードをほっぽりだし、椅子に力なく座り込んだ。もし誰かが、興味本位で見てしまったら、それこそどうなるかは分からない。処遇をどうするにしても、まだ選択の余地を持っていたい。これを残したまま職場を出ることはとても出来なかった。
直紀は考えなければならないことを頭の中で整理した。あれに映っていたのは加奈子とみて間違いない。ラベルの年代を見ると、自分と出会うよりも前。大学生だった頃の出来事だ。つまり、彼女はあの男に大学時代に強姦され、それを隠して生きている。
愛する人間が見ず知らずの男に暴行を受け、一生残るトラウマを刻み付けられている。その事実に対して沸き起こるはずの怒りは不思議と起こらなかった。
それより彼の心を支配したのは、もっと合理的で利己的な利害の均衡についてであった。
事件のことを考えるなら、これは決定打になる。加奈子の証言さえ取ることが出来れば、男は逮捕される。余罪を追及すれば、奈美の件についても自白するかもしれない。そうなれば、不当逮捕はすべて帳消しとなり、事件は解決。昇進は確約され、出世の道は大きく開かれる。
しかし、結婚の話はどうなる。エリート候補と謳われた人間の妻が過去に強姦の被害を受けた人間だと知れたら、溝口を含め上層部、果ては同僚達はどう感じるだろうか。
世間体と人は馬鹿にするが、それを切り捨ててしまうことは世間との関りや逸脱者としての烙印を押されることにもつながる。
時に人間は合理的で合法的な判断よりも、世間体という名の不合理な選択を評価し、重要視する。悪い噂に尾ひれがつき、好奇の目が2人を射抜き続けるかもしれない。
答えは出なかった。
青いプラスチックの塊を見つめている内、吐き気と動悸が襲ってきた。
「直紀?」
呼び声に振り替えると、加奈子が自室を覗き込んでいた。彼女の輪郭がぼやけ、直紀は思わず目をそらした。奇妙な感覚だった。何の変哲もない彼女が、昨日とは全く別の生き物に見える。それはあまりに変化がない故にかえって直紀の神経を過敏にさせるのだった。
それから。直紀の心はいくつかの選択の間を揺曳した。何を取り、何を棄てるのか。秤に掛かった物はあまりに重すぎて、おいそれと決めることは出来ない。
奈美への聞き取りも連日行った。それも、窓から流れ込む金木犀の香りに胸が締め付けられるばかりで、何の手掛かりも得られなかった。
時間があれば、何か解決策が浮かぶのではないかと思った。決めかねる問題を先延ばしにすることは、一定の希望を残しておくことでもあった。このことについては明日考えよう、毎日そう心に決めることで、なんとか心のバランスを保った。
しかし、時間は無常にも過ぎていく。
やがて直紀は、職場では健司の顔を、家では加奈子の顔を無意識に避けるようになった。
「確かに、何も映っていなかったな……」
多田は数日後、落胆してそう言い、
「拘留もあと二日しかない。今回の事件、もうだめかもしれんな……」と続けた。
いよいよ猶予の貯金は底を尽きかけていた。
「なんかあったでしょ?」
加奈子がそう言ったのは、拘留期限が明日に迫った夜だった。彼女はソファに直紀を誘い、チューハイを手渡しながら笑っていた。
直紀が首を振って返答すると加奈子は
「そーゆー時って、絶対なんかあるんだよねぇ」
と畳みかけた。
「伊達に2年も同棲してないからね。隠しても無駄無駄。仕事のことで私に言えないのは分かるけどさ……ヤなことあったんなら、忘れるのが一番だよ」
そういうと加奈子は缶の蓋を開け、くっと飲んだ。
「よく言うでしょ?忘却こそ最大の友なり。だから、お酒でも飲んで忘れろ、忘れろ」
彼女から受け取ったチューハイを胃の中に流し込むと、今まで張り詰めていた不安や葛藤が胃の中に満ちるアルコールでぼやけていくようであった。
くだらない馬鹿話をして八重歯を見せる加奈子を見るうち、直紀は一つの決心がついた。
この事件はもう、忘れよう。
彼女の言う通りだ。彼女は過去を処弁し、それを忘却の彼方に押しやって今を強く生きている。それを今更掘り返し、無理矢理清算させることに何の意味があるのだろうか。現に今、彼女は過去を完全に忘れ切って生きている。明るく快活な彼女の振る舞いが、かつてないほど逞しく感じられた。
昇進は仕方があるまい、これが最期の機会だというわけではない。次に譲ろう。
トイレに行くと直紀は席を立ち、自室へ向かうと、彼はその場でSDカードを叩き壊した。
つづく
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