第2話

 帰宅した直紀は玄関に漂う金木犀の香りを頼りにして、台所へ向かった。台所では同棲している加奈子が夕食の準備をしていた。匂いは彼女の首元から始まっていた。コートも脱がぬうちに直紀は彼女を後ろから抱きしめ、匂いの中に顔を埋めた。

強い金木犀の香りは感覚をまどろみの中に陶酔させ、西馬 加奈子の記憶を呼び起こさせる。

 きつい香水の香りは往々にして人を不快にさせやすいものだが、加奈子の付ける金木犀の香水は別だった。

きつすぎず、自然で、それでいて印象的。出会ったころから彼女はずっとその香水の香りを揺蕩えている。おかげで、金木犀の香りは加奈子との幸せな記憶と密接に紐づいていた。直紀にとって金木犀は幸せな時間の象徴でもあった。

 鼻から吸った芳醇な香りは肺の中で醸成され、安堵のため息となって口から排出されていった。

「なんかヤなことでもあった?」

突然、加奈子が八重歯を見せて笑った。

「どうして?」

 少し驚きながらも直紀は答える。

「こういうことする時って、必ず何かあるから」

「いや、ただいい匂いだと思っただけだよ、」

 そう答えると、直紀は再び匂いの中に戻った。


同僚の多田ただに呼び止められたのは翌朝のことだった。彼は直紀を引き留め、廊下の脇へ連れて行った。

「真鱈 昴。ありゃ全然だめだぞ。こっちがいくら発破をかけてみても全然動じない。肝が据わってるのかと俺は思ったが、どうやら違うかもしれない」

 眉を顰め、多田を見つめると彼は頷いて話をつづけた。

「野郎。ただ肝が据わってるんじゃなくて、相当頭が切れる奴かもしれないんだよ」

 言うと多田はビニール袋に入った黒い塊を取り出して直紀に見せた。塊の至るとことに気泡で空いたような穴の跡があり、それが何かを燃やした跡であるのはすぐに分かった。

「これは?」

「野郎、家の庭でこれを燃やしてたんだ。何かわかるか? メモリーカードだ」

 言われてみると、なるほど合点がいった。黒い塊のように見えたそれは幾多のメモリーカードが融解し、結合したものだ。

「なんもなく、こんなものを燃やすと思うか?」

「見られたくないものを録画していた……?」

「だろう。証拠隠滅のためにな。この枚数だ、一件や二件どころじゃないんだろう」

 苦々しい表情を浮かべる直紀の心を読み取ったのか、多田はニヤッと笑った。

「苛立つのはまだ早い。男の家に入った時、押入れの奥にまだ無傷のメモリーカードが何枚か残っていた」

 多田が取り出したのは、十数枚の束になった青いメモリーカードだった。

「中身はまだ見ていない。だが、大きな手掛かりになるのは間違いないだろう」

 多田はそう言うと確認しろとばかりに、カードを直紀に手渡した。

「いいか? 野郎の拘留期間はもってあと一週間だ。なんとしてでも上げろ。俺らのメンツのためにもな……」

 去り際、多田はそういったが直紀の気分は幾分軽くなっていた。昨夜の憂鬱が嘘のように彼は踊るような足取りで、一人視聴覚室へと急いだ。


 個室で仕切られた視聴覚室に入ると、直紀はすぐさま備え付けのパソコンを起動した。古く退色したヘッドホンを耳にかけ、メモリーカードを手繰る。

 多田から渡されたメモリは全部で17枚。それぞれに、ラベルシールで撮影したと思しき年度が記入されていた。いずれの年代も今から5年以上も前で、最も古いものとなると15年前に遡った。

 とりあえず、一番新しいものから直紀は内容を確認し始めた。中には、ほとんど満杯になるまで動画ファイルが入っていた。

 動画は殆どが街の風景を映したものだった。街ゆく人や高台から見た街の夕景を意味もなく無感情に映している。これといった変化も撮影者のコメントもない。それが延々と2時間近く続いている。そんな映像が数十本も入っていた。


 最初は意気込みながら、早送りで映像を見続けていた直紀だったが、撮影者の意図を感じられない無味乾燥な内容に、その内彼の集中力は散漫になっていった。

 目は充血し、肩も強張って鉄のように凝固している。乾いた眼をこすり、首筋を揉みながら直紀はデスクチェアにもたれかかって背伸びをする。既に入室してから3時間余りがたっていた。

 部屋に備えられた小窓から金木犀の木が見切れているのが見えた。一瞬、その匂いがここまで漂ってくるような気がして、直紀の思考を加奈子が支配した。

 しかし、そんな中でも、視界をかすめたその肌色の影を彼は見逃さなかった。

 画面に目を戻し、静止させるとそこには、薄暗がりの中、汚れた臀部が写っていた。毛を蓄え、だらりと垂れ下がったそれが振り返ると、屹立した局部が画面いっぱいに浮かび上がった。

 男はカメラを取ったと見えて、画面は揺れ、見上げるように彼の顔を映し出した。

 直紀は思わず、笑みを漏らした。

間違いない。それは真鱈 昴の顔だった。彼は血走った目でレンズを覗き、マイクが彼の荒い吐息を拾っている。

 カメラが前を向くと、白いシーツが写った。ベッドらしきそれの上には、全裸の女性が仰向けになって寝転がっていた。女性は両手で顔を隠し、髪を乱して憔悴している。肢体の節々に痣があり、シーツには血痕が付いていた。

 不快感はなかった。証拠を掴んだという安堵がその理性を払拭してしまった。昇進。そして結婚。それは目の前で行われている惨劇よりも重く、重要なことであった。


 男は女の股を掴んで開くと、顔へカメラを近づける。

「顔、顔、」

 男の低い声がマイクを震わせる。女性は身をよじり抵抗していたが、ぬっと飛び出た男の太い手が彼女の腕をひっつかみ、無理矢理引き剥がしてしまった。

 瞬間、直紀は後退るように立ち上がり、その場に硬直した。パソコンから伸びたヘッドホンの線がピンと張りつめ、辛うじて直紀をその場に引き留めた。

 破裂するのではと思うほど、心臓が高鳴っている。手足は意味もなくかじかみ、開いているはずの視覚が揺らいで、焦点が霞んだ。

 すべて見えているはずなのに、その仔細を捉えるには数秒のラグがあった。


 画面いっぱいに映し出された女性は西馬 加奈子だった。


今よりも少しばかり若く見えるが、特徴的な八重歯や耳の形、蓄えられた涙袋は紛れもなく、加奈子その人だ。

 窓外で金木犀が風に揺れて靡いている。発せられているはずの香りは無論、届くことはない。

 映像は一時間近くあったが、それはほんの瞬きの間に終わっていた。映像を見たという記憶が直紀にはなかった。にもかかわらず、男に問答無用で犯される加奈子や首を絞められ、激しい殴打を加えられる加奈子の映像は、脳裡に刻み付けられていた。

 しばらく、直紀はその場を動けなかった。

全力で走ったかのような虚脱感が体を包み、激しい喘鳴が肺を圧迫した。頭は真っ白になっていたが、やがて思考は大きく二分していった。一方は未だこの状況を受け入れられない混乱で感情をかき乱し、もう一方は極めて打算的にこの状況を冷静に受け取ろうと理性に呼び掛けている。

 彼はその後数時間で残りのSDカードをすべてチェックした。そこに同じような動画が記録されていることを期待したからだ。しかし、どこにも目的の映像はなく、凡庸な街の風景が続くだけであった。



つづく

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