ある証拠
諸星モヨヨ
第1話
刑事という仕事において、同情はもっとも忌むべき感情だ。哀れみは正常な判断を阻み、時に隠された真実を霞ませる。警察は正義の味方ではない。法の代理人として、あくまで冷静に、合理的に判断をするのがその仕事だ。そこに私情は介在しない、それが直紀の考えであった。
だから、例え事件の被害を受けた女性が悲痛な胸の内を明かしても、心は一定の位置に留まり、それ以上踏み込まないように気を付けた。
事件が起こったのは約半年前。その日、被害女性の
現在、一年間のうちに起こる日本の強姦事件は約1300件。しかし、これはあくまで被害者が訴えを起こしたものをカウントしたに過ぎない。潜在的な事件はその2倍とも、5倍起こっているのではないかとも言われている。
第一にその被害を打ち明けづらいというのがある。自分が見知らぬ男に乱暴を働かれ、酷い仕打ちを受けたと他人に告白することは少なからず、自分の恥部めいたものを白日に晒すことにもなる。
奈美が事件のことを警察に訴えたのも、事が起こった半年も後。取り調べでも、彼女は事件の全容を中々語らず、時折フラッシュバックを起こして泣き出し、その度に聞き取りは中断せざるを得なかった。
加えて、強姦事件は事件そのものを立件することが困難な場合が多い。物的証拠や決定的な確証がなければ、犯人を逮捕することは出来ない。
苦心の末被害を訴えても、立件できないまま不起訴なことがほとんどである。
実際、奈美の場合でも襲われてから半年も経った後では、物的な証拠は皆無に等しかった。証拠がなければ、証明は出来ない。たとえ、被害者が何十回、何百回心身の苦痛を訴えても。
もう何度目か分からないその訴えを聞いていた直紀は、フッと鼻をかすめたまろみのある甘い香りに意識を浚われた。
鮮やかな金木犀の柔らかい匂い。それは
「聞いてます?」
沈痛な声で意識は再び取調室に引きずり戻された。俯く、奈美の目には今にも溢れそうなほど涙が溜まっている。
「いいですか?私は、私は、一日10回はお風呂に入るんですよ。なんでか分かります? 体に染みついたあの穢れ、匂い、不快感をすべて拭い去るためです。でも洗っても、洗っても、取れないんですよ!だから、だから―」
「お気持ちはお察しします」
慟哭する奈美を遮り、直紀は言った。同情はしないといえど、ぼろぼろと涙をこぼし、顔を歪める姿は見ていて気持ちの良いものではない。
「私……もう、こんなこと早く辞めたい……」
顔を覆う奈美の言葉に直紀も同意した。直紀自身もそのつもりであった。
「刑事さん、早く犯人を捕まえてください!」
取り乱す奈美に直紀はわざと落ち着いた声で問いかける。
「岸本さん、犯人について覚えていることはありませんか?」
「だから……大柄で、黒いタートルネックを着ていて……」
「いえ、そうではなく、例えば顔とか」
言いながら、自分の声が震えていることに気づいた。明らかに緊張していた。本当にこの取調べが今日で終わりになるかどうか、そして自分が昇進できるかどうか、すべてがこの質問に掛かっていた。
直紀は一枚の写真を取り出し、奈美に見せた。
写真に写った背の高い男は
強姦を立件するには現行犯逮捕がもっとも手っ取り早い。直紀をはじめ、所轄の刑事たちは彼が何らかの尻尾を出すのを待ち望み張り込みをつづけた。
一ヶ月、男は何の動きも見せなかった。それ自体は珍しいことではない。数か月間犯人を追い続けるなどはざらにある。不味かったのは、男が次第に周囲を警戒し始めたことだ。外出は極端に減り、たまの外出時にもしきりに辺りを見回す。
どうやら男は張り込みに気が付いているようであった。
現場を掴むことが絶望視された直紀達に残されたのは家宅捜査だけであった。家の中に何らかの証拠があれば、それをもとに逮捕することが出来る。放置しておけば、その証拠すら隠滅を図られてしまう。すぐにでも証拠を漁る必要があった。
転び公妨というものがある。公務執行妨害を言いがかりに別件逮捕し、捜査令状を取り付けるというものだ。違法な手であるとは分かっていても、家宅捜査を行うにはその手段を取らざるを得なかった。家の中を探すことが出来さえすれば、必ず証拠は見つかる。直紀には確信があった。
しかし、家宅捜査を行った数日のうちにその確信は脆くも崩れ去った。一軒家に暮らす男の部屋にめぼしいものはなく、決定打になるような証拠は皆無であった。
最後の望みは、奈美が男の顔に見覚えがあるかどうか。彼女は写真を受け取ると、ちらりと見て
「わからないです」と首を振った。
「よく見てください、辛いかもしれませんが、じっくり思い出して」
動揺を悟られまいと直紀は繰り返す。
「何度見ても、同じですよ……」
「岸本さん、この事件を終わらせたいんですよね。なら、向き合ってください!」
「だから、分からないんです!襲われた時、男はマスクをしていましたし、顔も見ていません……」
初耳だった。無感情に写真を引き取ると、直紀は強くそれを握りつぶした。ふと目線を逃がした窓から、金木犀が風に揺られているのが見えた。
そうだ。最初から顔を確認した上で捕まえればよかったのだ。聞き取りを終え、処理しきれない虚脱感を抱えた直紀はそう思った。しかし、焦りは冷静な判断力を奪い、然るべき手順を煩雑にさせてしまった。今更後悔しても後の祭り。もう引き返すことは出来ない。なにより、彼にはそこまでしても焦る理由があった。
「大場君、どうだねそっちの方は?」
逃げるような気持で喫煙所に逃げ込むと、刑事部長の
「いえ、まだ有益な情報は……先ほど、被害女性に聞き取りを行ったのですが。犯人はマスクを被っていたという事で……ただ、そこまで用意周到であるとするなら、計画的、なおかつ常習性が―」
「いや、事件の方じゃなくて、……だよ」
目じりに皴を蓄え、柔和な顔を浮かべてくる溝口の表情で直紀はすぐに察した。
彼が言っているのは
「そろそろ、結婚かね?」
「ま、まあ……そうですね。そろそろかと彼女とも話してます」
直紀は火の点いていない煙草を指の中でもてあそびながら答えた。
「いいじゃないか」
溝口は紫煙を吹き出し、突然小声になって続けた。
「いいかい?……もし、今の事件が解決すれば、君の昇進は殆ど間違いない。ただね、世間体というものがある。やはり、係長級で独身というのは不味い。人事にも不利に働くことがないとも限らない。だから、そのためにも結婚はしておくとよいよ」
直紀が礼を言うと、溝口はいつもの調子で笑い、
「期待してるよ」と肩を叩き立ち去っていた。
一人、煙草を吸いながら直紀は肩に残ったその感触が、ずんと圧し掛かってくるような気持になった。
溝口部長は決して悪い人間ではない。むしろ、彼には世話になっている。入庁した頃から気にかけられ、彼の采配によってとんとん拍子で刑事課所属となった。取り入る意図はなかったが、直紀は図らずも、出世の糸を身元へ手繰り寄せていたのである。
無論、出世欲はある。同期から受ける羨望の眼差しや上司からの信頼。それは社会という有象無象の中で自分は人と違うという証明だ。金で買えないそれら社会的地位は糖蜜に等しい甘みを持っていた。
だが、その甘みが甘ければ甘いほど、心は陰鬱に沈んでいく。出世の足掛かりとなるはずの事件は袋小路に突き当り、有力な証言も証拠もない。掴みかけていた栄光が、掌から零れ落ちようとしている絶望感や苛立ち。失望は昨日今日で手放せるほど小さくはなかった。
今の彼に出来るのは束の間、その不安を忘れてしまう事であった。
つづく
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