他幸感
モミジ
一話完結
最期に触るのは冷たい鉄柵で、見るのは過ぎていく灰色のビル群で。
端々に埃が溜まる階段を上がりながら、洋介は〝最期〟なんて代名詞をつけて贅沢を望んでみたりもした。
他人に恨まれること、ましてや小さな嘘でさえつかずに暮らしていたが、妻の死がきっかけで生活が底に落ちる。
底には雨水が溜まり、日は刺さないからこそ置いていかれた。
洋介はあえて屋上を選ばずに、一つ下の九階に向かう。屋上に行けば誰かしらに見つかり、もう一度この世界で他人が夢を叶えている顔を見なくてはいけない。
何でもない、知り合いでもない奴の嬉々とした表情を洋介は忘れずにいる。知り合いがスポーツで世界一位になり、横で抱き合って涙を流したのをテレビで見た。
ただ、飛び降りる場所へ行く、洋介の足を遅らせる原因が似たようなことで、少し前にある男に出会ったから。
それは〝人の夢を叶えてあげる事が自分の幸せ〟と流暢に言っていた男。添加物と米を混ぜたコンビニおにぎりを買いに行った時に、偶然声をかけられた。
容姿は全国の〝おじさん〟のイメージの平均値くらいで、身につけている物も洋介が我慢を積み重ねれば買える物。
そんな男が他人の夢を叶えるなど、心身が荒んだ洋介は到底あり得ない事だと思っている。
あろうことか彼はその日に、次に会う日も約束してしまっていた。それが今日の午後三時。
一思いに死んでやろうと思った日と、心残りが解消できる日が重なっていて、洋介はしかたなく九階に着く前に階段を下りていく。
上りの時とは違って軽快に、一定の足音を響かせながら。
幸せの無さそうな洋介と夢を叶える男、文面で見れば運命的な出会いだと思えるがそうでもない。
今の彼には夢も叶えたい願望もないが、少し振り返ってみれば一般的なものは全て齧ってきた、結婚に子育て、マイホーム。
そんな日本人らしく謙虚で量産な暮らしをしている奴は多いが、その反対でアメリカンサイズな夢を口に出す奴に男はあった時、どうするのだろうかと彼は疑問に思う。
現実を深く知っていると思い込んだ彼は、そんな疑問を中身の無いクラッチバッグに入れて待ち合わせの駅を目指した。
その男は既に駅前で待っていて、洋介と同じように伸ばした腕にクラッチバッグを抱えている。
互いに黒いスーツで偶然、同ブランドの腕時計。まるで、和やかなムードから今日一日を始めようとして男が仕込んできたと思えるくらいに、洋介と服装が似ていた。
くだらない長めの挨拶を続けながら、二人は公園横のカフェに入っていく。
金の無い洋介はすぐ横のベンチでいいと言ったが、依頼してきた女性との待ち合わせ場所がこのカフェだと説明をした。
「関係なくねぇか? 俺は別に幸せなんて見たいとは言ってない」
向かい合う四人掛けの席に洋介と男は横並びに座る。
「約束の時間までまだありますし、洋介さんの話でも聞きましょうか?」
「しねぇよ、俺はあんたの話が聞きたいからきたんだよ」
「それも追々話しますから、コーヒーを早く頼みましょう」
淡々と男の口先から出る敬語に、洋介は圧倒
されて仕方なくホットのコーヒを頼んだ。
「あんた、仕事は何やってるんだ?」
「どこにでもいる会社員です、妻は前に亡くなってしまいましたが結婚もしています」
「そりゃ、大変だったな。よくわかる」
一点を見据える目をした男から出たのは、洋介と似たような過去。
「洋介さんのお仕事は何ですか?」
「普通のサラリーマンだったけど、色々あって今は無職だ。来世に期待してる」
「あるって言いますもんね。来世とか生まれ変わりとかって」
湾曲したコップの淵に唇を重ね、男は熱いコーヒーを啜る。
「あったらいいけどな。あの世とかさ------電話鳴ってるぞ」
男のバッグの中で携帯が鳴り、焦らずにゆっくりと取り出して画面を見ると、会釈をして席を立った。男が向かったのは店の外。
「いきなりなんだよ、変な奴だな」
男が微笑みながら帰ってきたのは数分後、目尻の下がり方で突然の退席の許しを乞うようだが、洋介はガラス窓の向こうにいる女性に意識が全て向いた。
男は音を立てずに席に座り、目を見開く洋介を気にも止めずコーヒーを啜る。
「おい、おっさん。あそこにいる女の人って、あんたが呼んだのか?」
ボーダー柄のニットに肩をかすめるくらいの髪、特徴のある切長な目。
少し内股で立ち尽くすその女性はガラス窓を隔て、洋介を見つめる。
「いいえ、僕じゃないですよ」と男は静かに返す。洋介のポカンと開いた口から心音が漏れてしまうほどの衝撃------亡くなった妻によく似ていた。
「洋介さんのお知り合いですか? 外の女性」
「い、いや……あんたがどいた影から、死んだ妻が見えた気がしてよ」
声が震えた。本当なら今頃、そっちの世界で掛け合うはずだった。
そして亡き妻の姿をしたものがスッと消える。
「そういえば、依頼者の女性の夢を話しておきましょうか」
洋介は不恰好なくらいに不自然な深呼吸を繰り返し、ガラス窓から目を逸らした。
「あぁ、言ってくれ。どうかしていたよ、さっきの俺は……」
息が上がって俯く彼に視線を落とし、男は話を続ける。
「その夢とは……好意を持っている人と何の気なしに公園を散歩し、疲れたら缶コーヒーを買ってベンチで他愛もない話をする。と言う夢です」
「そんな夢を……か? 女性とかは高級なホテルに泊まりたいとかかと思ってたよ」
洋介は両腕を机上に上げ、俯きながらゆっくりと呼吸を繰り返す。
「欲と夢は似ているようですけど少し違います。夢って漠然としか言えないんですよ」
「……? でもその依頼した人は随分と細かく言ってなかったか?」
「そうですね、でも叶えられなかった」
男は悲しげに呟く。
「それをあんたが叶えてあげるのか? 初めて会った人と散歩してか?」
男は目を瞑り、ゆっくりと首を横に振る。
「そうじゃないんです」
数秒間の会話の意味を洋介には理解ができず、目の前の男を見つめる。
「そろそろですかね、約束した時間」
男はスーツの襟に親指と人差し指を添わせ、服装を正し始めた。
「俺は何をしていればいい? 黙って横にいればいいか?」
「そんな感じで大丈夫です。洋介さん、ネクタイ曲がっていますよ」
席のすぐ横を走り抜ける幼子、引き連れてきた涼風とコーヒーの匂いを洋介は感じる。
------ ! 彼が瞼を閉じ、暗闇を挟んで開けた
瞬間、目の前の席にさっきの女性が座っていた。鼻先を通り過ぎていったコーヒーの香りは彼女の匂いに変わる。
ついさっき走り抜けていった幼子はずっと遠くにいた。
「洋介さん……この方を知っていますよね」
目の前の女性は口元を真横に結び、目の淵に涙を侍らす。
「待て……いるはずなんてない。この世界は死んだら何も残さず消えるんだよ」
「嫌なことばかりじゃないですよ、現にこうして泣くほど嬉しいことも残ってるし」
「死んだ妻だ……でも、この世界には何の希望も残っていない。だから今日、死んでやろうと思ってたんだよ」
「今まで生きてきて〝何も〟残らなかったんですか? 洋介さんにとって」
「残らないじゃない、残さないように死んでしまおうと思ったんだよ」
洋介は涙の軌道と共に声量を落としていく。目の前にいる妻はじっと俯く彼を見つめる。
「私から見てですけど、あと一つだけ残っているじゃないですか」
男は優しく微笑む。
「なんだ? そりゃ心残りだから教えてくれ」
「妻の……名前を呼んであげてください」
洋介はスッと目の前に視線を向け、涙を目の淵で掬い上げる。
------……さ、里桜……------
冷たい社会で嘆く気力も出なかった洋介、残る少量の力をきつく締め上げ真下へ落ちた雫を声に変える。
掠れた彼の声に彼女は応えるよう、瞬きをして頷く。
「里桜の側に、ずっといてやれなくてごめんな」
点々と疎に生えた髭を通って涙は口横に溜まる。
「彼女が食べたがっていたケーキを洋介さんはあの日、買いに行っていたんですよね?」
「なぜ……そんなことまであんたが知ってるんだよ。俺しか知らないはずだぞ!」
洋介の感情は多方向から揺さぶられ、静かなカフェの中で声を荒げる。
「……里桜さんとお話ししてみてはどうですか? すぐ横の公園にでも行って」
窓外に見える公園の看板、彼は頷いた。
「ゆっくりどうぞ、私はここで過ごしてますから」
洋介は里桜の手を取り早足でカフェの出口を目指すが、対する人をすり抜けて直線で進む。レジに立っていた女性店員も二人には気が付かずに、平然と店内を見つめていた。
「ちょっと待っててくれ!」と彼は店内にいる男に告げると、手を繋ぐ里桜に視線を向け直してレンガの道を進んでいった。
「待つのはあなたの方ですよ。あなただって人の夢……叶えて喜んでるじゃないですか」
冷め切ったコーヒーを啜り、きつく締めていたネクタイを緩ませる。
「あなたは今日の夜、死んでいるはずでした。でも……ちょっとくらい早くても構わないでしょう。大切な人に会えているのだから」
男は誰に向かってでもなく独り言を呟く。
「あなたが諦めていた、生きると言うこと……〝生きる〟とは、幸せの連鎖で何とか食い繋いでいくことだと思います。悲しみが続くようでしたら他人の夢でも叶えて、あなたも幸せの連鎖に戻ればいい。その仕組みこそが社会で、あなたは少し外れてしまった」
コーヒーを全て飲み干し、底にあるのは粉々になったコーヒー豆。彼は席を立ち、会計を済ませるとクラッチバッグを抱えて店を出た。
「あなたが残した数時間の人生……私が後はやっておきます」
線路を支える橋柱を過ぎた瞬間、男の髪型が急に変わって無精髭が生えていた。
その姿は洋介と何ら変わりなく、歩き方も準じて変わった。
秋空の下、洋介は午前中にいた十階建てのビルを目指して歩いていく。
最期に触るのは暖かい彼女の手で、見るのは微笑ましい彼女の横顔で。
他幸感 モミジ @mryz
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