八十億のひとりぼっち
ここまで来ると、最初から全て決まっていた様に思えてくる。自由意志の無い世界の方が息がしやすいなど、ひどい皮肉である。
ふらふらと街を漂って、目的のカフェに入った。赤色の椅子が数人分の間隔を開けて整然と並んでいる。外装も内装も、ともども小綺麗に収まっていた。
居心地の悪い気分を味わいながら、角の席に着く。五日以上水すら浴びていない私には、あまりに不釣り合いな雰囲気だった。
伏し目がちに周りを伺って、人間の挙動を眺めている。
すると、私の様子を伺うように店員が一人近づいて来て、机の上にメニューを置いて去った。古紙の様な調子の紙に、洒落たフォントが躍っている。
一番安い商品を探して、店員を呼ぶ。店員の、異様なものを見る目に安堵している自分がいた。こんな綺麗な店でも、下界の人間と同じように接してくるのだ、という理解が安心として働いていた。私はその視線に慣れ切ってしまっていた。
八百円の水を注文する。こんなものに八百円も払わなければならないという事実に、私は笑ってしまう。喉から洩れた、掠れた笑い声に、店員の肩が怯える様に跳ねたのを見た。
このカフェが、約束の場所だった。私の心臓を取引する、私にとっての最後の場所。
数か月前、それは突如として決まった。
例によってもたもたと部屋の中で生きていたら、滅多に顔を見せない両親が部屋を訪ねてきた。
最後に就職が決まったのが二年程前だったから、それ以来の再会である。
アパートの一階、ゴミ出しも満足にされていない私の部屋に、両親はパンフレットを持ってやってきた。私ですら限界を覚え始めている室内に大した躊躇もなく入ってきた両親に、私は少なからず驚いた。私を諦めているのか、それとも両親の部屋もそうなっているのか。痩せこけた頬から、何と無しに後者の香りを感じた。
久々の再会だというのに両親の纏っていた空気は重かった。
叱られる前の子供の様にせわしなく動いて、少ない会話の中で何かしらの糸口を見つけようとしている。
世間話に尾ひれが生えた程度の浅い掛け合いをして、沈黙が訪れた時、父親が手に持っていたパンフレットをこちらに向けて寄越した。
綺麗な多色刷りのパンフレットはこの部屋に不釣り合いだった。
しかし、その内容は底辺暮らしにはふさわしく思えた。パンフレットの中央、一番大きい活字は、躍るような見出しで「心臓、売りませんか」と書いてある。
沈黙。
私はパンフレットを手に持ち、隅から隅まで読み込んでみた。
それは、情報が欲しいからというよりは、手持ち無沙汰ですることがなく、少し暇を潰せるかな、という考えからだった。
その行動が両親の目にどう映ったかは、分からない。
「つまり、こういうことなんだ」
父親が、宥めすかす様な態度を取って、話しかけてくる。
あいにく、私の中には宥める必要がある程の激情は無かった為、父親のその態度は滑稽に見えた。母親は黙って下を向いている。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
両親の生活が厳しいのは薄々理解していた。
私は碌に活動もしない為、そこまで食事を必要としなかったし、ある程度発達した非営利組織から受け取れる幾許かの食糧で生きて行く事が出来ていたからである。
しかし、高齢ながらも仕事をして、その分の栄養も必要、体力の衰えを実感していく日々の中で医療にも満足に掛かることが出来ない両親の金銭事情は、私から見ても限界であった。
そして、健康な私の心臓が、最後の綱だったのだろう。
その葛藤は、数メートルも無い距離からの私でも、感じることが出来た。
「こんな親ですまん」
不意に父親が泣き出した。母親が、父親の震え声を聞いて、我に返ったように父親を慰め出す。
パンフレットはもう読むところがなくなってしまって、私は暇を持て余し始めていた。
「わかった、いいよ」
私は、立ち上がって衣装ケースを開く。数年前からずっと仕舞ってあるスーツの胸ポケットに、ハンコが入っているはずだった。
探し出して、パンフレットの裏側、ポップ体で印刷された「同意書」のハンコの欄に、朱を押した。
父親が、崩れるように号泣し出したのには、どうにも辟易してしまった。母親も、泣いていた。
両親がここまで感情を昂らせている様子を初めて見た気がした。私は、両親を慰める事も、自分の生き方を恨むでもなく、ただ座りながら黙っていた。
私もずっと無気力で生きてきたわけでは無かった。しかし、意味のないことしか出来ない自分を必要としてくれる人間は、結局どこにも存在しなかったのだと思う。
隣の席を陣取っているカップルが、こちらに視線を泳がせながら、何やら小声で話している。
彼らの席には、ブラックコーヒーと、何かしらの紅茶。千円程度だっただろうか。
じきに、カップルの一人が手を挙げて店員を呼び出す。
何事かを話し掛け、店員はそれを小さい身振りで否定した後、何かしら謝るような仕草をした。
私はそれを目の端で捉える。この期に及んで、人の反応等という些細なことにこだわろうとしている自分が一番気持ち悪かった。
もう、慣れた事である。
気にした結果、更に挙動が不明瞭になり、何もかもがダメになっていく事は、今までの経験から明かだった。
いつの間にか配膳されていた水を飲む。
ひんやりとしたそれが、昨日触れた生気を思い起こさせる。
金属の触感。自宅から少し離れた所にあるホームセンターで購入した、対人用の拳銃の感触。今は、私のビジネスバッグの中に入っている。少ないながらも親が残していった金で買ったものであった。
取引の途中、私は拳銃を取り出す。自分の体に押し当てて、まだ見た事も無い人間の前で、自殺をする。
昨日から、延々とシミュレーションを重ねてきた行動だった。
徹頭徹尾、誰の為にもならない、私らしい私の人生の締め方。
なんだか、誰かの期待に応え続ける事に疲れを感じ始めていた。
ハンコを押して数日後、私は直ぐに病院へと向かった。
取引前の検査を受けるためである。
心機能や健康状態等を総合的に診断して、即日で結果が出た。
私の心臓の市場価値は、ある程度の金額を見込める状態にあるらしい。
煙草や酒、カフェインや大麻、それに諸々の作物など、体に悪いとされている嗜好品を私が好まなかった故である。
結局あのようなものは依存やそれ以前として一緒に利用する人間が居なければ始めることすら出来ない代物であり、また金の無かった私には、最初の一歩を踏み出す機会すら縁遠いものだった。
その結果を受けて、両親の表情が若干和らいだのを見た。
私は、それを見て笑ってしまう。
心臓が売りに出されるという段になってから、私はなんだか元気になってしまって、笑うことが増えた。訳もなく充実していた。
検査が終わって、病院を出た私は、両親の強い要望によって当分の間一緒に暮らすことになった。
湿っぽい両親の態度と、日常的に見ることになった人間の涙、それに表面上優しい声掛けに私は言い様の無い哀れみを覚え始めていた。
家を出ずとも食糧を得られる生活は魅力的ではあったが、私は食事を刷る気があまり起きず、布団の中でウジ虫の仕草をしていた。
私は、静かに家を出た。
深夜、家を出る前に、両親の視線を微かに感じた。あまり起きてこない私の出した音で、起してしまったのだろうか。
しかし、多分止めには来ないだろうという確信があった。
それは信頼というより、両親の「私はそういう生き物だから」という確信を感じ取っていたからである。
心臓検診を受けた後、医者が言っていたことを思い起こす。
私の今の行動は、間違いなく「自暴自棄になった人間が取る行動」だった。
今までの例から見ても、間違いなくそれに分類されるだろう。
しかし、私は自暴自棄でも何でもなかった。ただ、床のシミが外のゴミになるだけならば、対した変化はないと思ったのである。
寒天の元、年季の入ってガタついた舗道を歩く。
コンクリートが街路樹の根に負けて、無様に腹を晒していた。所々に虫が湧いて、私はそれを意味もなく踏みつけながら歩いた。
少し歩いて、数坪も無い公園のベンチに腰掛ける。
こういう時に、人は煙草を吸うのだ、と理解した。
外の空気は、私にとってあまりに綺麗すぎるのだ。自然の匂いは異なるものとして、私の鼻腔をくすぐった。思わず顔をしかめる。
「ねぇ」
頭上から声が掛かる。気付いていたが、何となくそちらを向くことを忘れていた。
「ねぇ、君」
もう一度、声が掛かって、それから私の頭も動く。会話をする時は人の顔を見なければならない。
「これでどう?」
声の主は、壮年の男だった。少なくとも、そう見えた。最近人を見ていないから、どうにも人間の年齢や容姿の判断が付かない。
男は、千円札を握っている。二代前の旧紙幣だった。今は流通していないし、父親の様な些細なコレクター以外にとっては価値のないものであったはずである。男が、扇子の様にそれを振る。
「おい、聞こえてる?」
聞こえていた。しかし、なんだか億劫で発話する気になれなかった。こういう時、男の顔に焦点を合わせればいいのか、それともより目の近くの方に掲げられている紙幣に合わせればいいのか、分からなくなってしまって困った。
「暇でしょ?一晩いい?」
私は、男の持つ紙幣を受け取った。
そして、それを口に咥えた。
どうしてそうしたのかは説明に困るが、何となくそうしたかったからである。
それから、私はその紙幣を葉物野菜の様に数回程度咀嚼した。そして、飲み込んだ。嗚咽とも、痙攣ともつかない異様な音が私の喉から漏れて来る。私はそれを、客観的に観察していた。
男の顔が、何かバケモノを見るようなものに変わっていく。よく分からないが、とにかく愉快だった。大きな音が喉から溢れる。
私の体の価値は、千円ほどもあるのだ、という理解が最高に楽しかった。
それは、外見も、腹を裂いても同じ。あるいは腸かもしれないが、なんだか、自分が上等なものの様に思えてきた。
カフェの店員が、遠巻きに私を観察している。
私がそれに目線を向けると、何を思ったかすっと遠くに離れていった。悲しいことであるはずなのに、少しせいせいした。
水を飲む。
もう半分もないそれを見て、全て飲み干してしまおうかとも思ったが、久しぶりの冷たい水に、体の疲れを感じていた。ビジネスバッグに手を突っ込んで、金属に触れた。同じ冷たさでも、なんだか安心できる冷たさだった。
気付けば、隣の席のカップルが退席していた。机の上に少し残っている液体が、印象的に映る。千円程度。私と同じ値段だった。
不意に、店の入り口で入店のベルが鳴る。ヒール特有の跳ねるような音が聞こえて、店員が気が付いたようにそちらを見る。例に漏れず私もそちらを見た。
一人、店の中に入ってくる客がいた。
私の心臓が、そろそろ無くなるであろう心臓が、ひゅん、と跳ねた。
私と同じくらいの年代の、女だった。
軽やかでスレンダーな肢体に優雅な歩き方を沿わせて、思わず見とれてしまうような衝撃があった。席に着いて、脚を組む。コマーシャル映像のような動きに、洗練された空気を感じた。
私と同じくらいの年代の、女だった。
注文を取りに来た店員に、何やら気安く話しかける。談笑の雰囲気が生じて、店員がはにかむような仕草を見せた。メニュー表を見て、何やら注文をする。店員が伝票に何かしらを書き込んで、直ぐに引っ込んでいった。
女はビジネスバッグを隣の椅子に置いて、そこから文庫本を取り出した。
表紙は見えないが、随分と新しいものであることは明白だった。
二千円、あるいはもっとか。本屋に行ったのはいつぶりだっただろうか。
私はずっと、その女を見ている。
その視線を店員が感じ取って、視界の端で何やら怪訝な表情を突き合わせているが、知った事ではなかった。
しばらくして、女の席にマグカップが到着する。
何を頼んだかは、私の席からでは見えない。息を飲むような動きでそれを口に運び、素敵な事を発見したような表情をする。
店員に、「美味しいですね」と笑った。
私が送る視線に、女が気付いた。
見つめられていたからか、私の風貌に少なからず驚いたからか、あるいは両方か、女は困ったような表情をする。その顔も、嫌味を感じさせない美しいものだった。
「あの……」
「はい」
私?と疑問を浮かべながら、女は文庫本を閉じて私の方を見る。
私は、椅子から立ち上がって女に近付いた。
何を間違ったか、私の背後で椅子が大きな音を立てて倒れる。
店員の一人が笑ったのを見た。
つんのめった私はそのままの勢いで机に強く、手を突く。衝撃で水の入ったコップが落ちて、叫ぶ様な音と共に割れた。
「大丈夫ですか?」
店員より早く、女が私に近寄る。先程の困った顔から変わって、心からの心配を感じさせる表情だった。どうしてここまで表情が豊かなのだろう、と冷静な頭で考える。
「怪我は無いですか?」
女が私の手を優しく触る。私の体臭に対する反応を、女はまるで見せようともしなかった。
「あ、はい」
私の反応を受けて、女は安心したように笑う。
「お水なんですね、私はいつも我慢できなくて甘いものを飲んでしまうんです」
女が何やら話しているが、私は女の胸に釘付けだった。容姿は似ても似つかないが、心臓は、きっと、同じだった。
私は女の机を見る。
立った状態からだとよく見えるが、メニューからしてあれはカフェラテだ。千と三百円。私の胃を、あるいは腸をひっくり返しても払えない金額だった。
「よく来るんですか?」
女が私に話し掛ける。私は言う事も言いあえず、黙ってしまう。店員が、ちり取りを持ってガラス片を掃除し始めた。
「大丈夫ですか?」
私は、店外へと歩を進める。
どういう感情に突き動かされているのか、自分でも見当がつかなかった。
恥や屈辱とは違った。
惨めさだろうか。分からない。
入店のベルが鳴って、そこで初めて私は外に出たことを自覚した。
「あの!」
背後から、女の声が掛かる。人から声を掛けられたら、人の顔を見なければならない。
「何かあったんですか?」
私は店の裏手に入って行く。女のヒールが地面に跳ねて、私はそれで女が付いてきていることを理解していた。排気ダクトのすぐそばで、私は立ち止まる。
「すみません、付いてきちゃいました」
「……いえ」
女が、私の鞄を手渡す。
「重いですね」
私はそれを黙って受け取る。確かに、重かった。
沈黙が流れる。女は、何か会話のきっかけを探している表情だった。
そこまでしなければならない程、私は切羽詰まっているように見えるのか。
「心臓を売るんです」
私は、小さく呟いた。どこを向いて話すべきなのか、自分でも分からなくなっている。会話をする時は、人の顔を見なければならない。では、独り言の時は?
「ちょっと高く売るんです、両親が使います」
「心臓を?」
女が、純粋な疑問を投げ掛けてくる。知らない話を聞く時の、人間の反応だった。
「いえ、金を」
「お金……」
「心臓を売った金です」
女は、押し黙って私の方を見る。女が私の方を見ているという事実を理解して初めて、私はちゃんと女の顔を見ているのだ、という事を理解出来た。
「聞いたことはあるけれど……」
「そうですか」
「実際あるんですね、そんなこと」
私も実際あるのかどうかは分からない。
ここまで来て、全てが脚本ありきの壮大な物語だと言われても正直納得が行く。
しかし、そんな事をする理由も、暇も、世人には無いはずである。
私が黙っていると、急に女が泣き出した。
私が心臓を売るとなってから、人の泣き顔を見たのは二回になる。
それまで、人の泣き声を聞いた覚えも、涙を見た覚えも無かった私は、随分不思議なものを見る目線で女を見ていた。
女は、細やかかつしおらしく、そして心持ちさっぱりと泣いて、目頭を拭った。綺麗に彩色された目尻には、一度たりとも触らずに泣き切った。
「すみません、何と言えばいいか……」
私はその女の動作を、これ以上なく美しいものとして見た。尊厳を守り、芯を持って生きる女の態度に、感銘すら受けていた。
「どうして私なんでしょうね」
思いの外感情の排された言葉が、私の口から出てくる。ここまで、無感動に話すつもりでは無かった。
「わ、分かりません」
女は困惑する仕草をする。映像を見ている気分だった。
「代わってくれたりは」
女は一通り困った仕草をして、小さく、「ちょっと、断りたいです」と言った。やはり、映像の中の住人であった。
「そうですよね」
私は拳銃を取り出して、女の額に向けて発砲した。
乾いた音が響いて、強い衝撃が腕に掛かるが、その反動で空高く弾丸が飛んでいく。女が唖然としてから即座にしゃがみ込んだ。これ一発で百円である。
私は脚で女の肩を蹴り飛ばす。
頭部を抑えた姿勢のまま女は倒れて、腹が露になった。近付いて、みぞおちの横に一発打ち込んだ。肩が痛い。
女の口から空気が漏れ出して、私は命中を確信した。
血の赤色は、見ただけでは何となく信用出来ない。映画の一幕の様な、それっぽい鮮血を出しそうな女では尚更である。
もう一発、今度は少し上の方へ。しかし、心臓は傷付けないように。
やはり肩かと思い打つが、弱った右腕に反動は耐えられない。
跳弾して遠くの壁に当たった。これで三百円。
再度一発は銃口をふとももに押し付けて打った。
断末魔が口から漏れる。四百円。あと一発で、女の頼んだカフェオレと、私の頼んだ水とでつり合いが取れる。打つ場所を探したが、既に女の意識は飛んでいた。
私は、拳銃をバッグに仕舞う。もう話さなくなった女を担ぐ。想像以上の軽さに驚くが、何となく腑に落ちる体重でもあった。
赤色が、女の体を舐めるように彩っている。
私は女を抱えて、再度店内へと戻る。会計をしない事には帰られない気がしていた。
女を引き摺りながら、自動ドアを通る。見れば、店内から店員の影が消えていた。
「おや、お疲れ様です」
全ての人間が引き上げた後、一人の男が座っている。整ったスーツに身を包んだ、曖昧な男だった。
男は椅子から立ち上がり、こちらに近付いてくる。私は、女を抱えたまま、少し後退した。
「そちら、預かりますよ」
男が右手を私に向ける。意図が読めないまま、時間が過ぎた。
「その女性、死んでいるんでしょう」
そうですね、の言葉を飲む。私はこの男を知らない。
「申し遅れました、ハッピー臓器仲介センターの者です」
「どうも……」
「そちらはあなたが殺した方、ですよね」
私は黙って男を見る。男は、小さく溜息を吐いて私を見た。
「銃声が聞こえた後、血液で床に線を描いている人が居たら、それは誰でも分かるでしょう」
私は納得して、女を床に落とした。
肩の荷が下りた気分になって、それから、こんな綺麗な顔をしているのに顔面から落としてよかったものかと思案した。
なんだか頭が冴えているような気分になっていた。
「銃声で、客も店員も全員逃げました」
男が話しながら、先程まで自分が座っていた席に向かう。バッグを取って、こちらに戻ってきた。
「マツキさん、でしたか、こちら、契約書です」
「どうも……」
私はそれを受け取る。ポップ体の「同意書」には、私のハンコと個人情報が羅列されていた。フォントも相まって、なんだか非現実的なものに映った。
「では、よろしくお願いいたします」
「はい」
私はそう言って、拳銃を取り出し、自分のこめかみに添えて引き金を引いた。乾いた音がして、私は意識を失った。
気が付くと、白い天井が眼前に控えていた。
電球のおかげで天井と認識するには大して手間取らなかったものの、その白さ度合に困惑した。虫が舞っていない。
「あ、気付きましたか」
隣から、男の声が聞こえる。マグカップを口に付けて、何やら飲んでいる様だった。右手のカップは持ったまま、左手のパンフレットを私の体の上に置く。
「頭蓋骨って案外硬いんですね、びっくりしました」
死んだかと思っていたが、どうやら生きているらしい。生きている方が現実味が無い現状に、私はもう一度目をつむる。それから、ゆっくりと口を開いた。
「あの人は?」
「あなたが殺した人ですか?」
男が飲み物を啜る。もったいぶった様な沈黙が流れて、少し苛立つ。
「死にましたよ、直ぐ」
「そうですか」
寝返りを打って、男とは反対の方を向く。ごり、という感触があって、枕元に拳銃が置いてあることを知った。
「物騒なもの持ってますよね、最初から自殺するつもりだったんですか?」
「いえ、別に」
「まぁいいんですけどね、偶にありますし、自暴自棄になる方もいますから」
私は上体を起こして、拳銃を握った。男の方を向けて引き金を引く。
機構の一部が素早く動いて、音を立てた。
しかし、何も発射されることなく銃口は黙ったままだった。
「抜きました、弾は」
「なるほど」
納得して、私は拳銃を放り投げた。
遠くの棚に当たる音がして、陶器が割れた。
男が舌打ちをする。
男の右手が持つマグカップが私の頭上で翻って、頭頂部から生暖かい液体が流れてくる。舐めると、少し甘かった。
「カフェラテです」
「なるほど」
私は至極冷静になって、ベッドに座り直した。
男は立ち上がって、私の投げた拳銃を拾いに行く。
「あなたを理解してくれる人はいませんよ、どんな奇行をしようとも、どんな奇声を発しようとも、誰も」
私は黙って壁のシミを探している。黒い点の一つすら見つからない。男が隣に腰掛けた。マグカップから湯気が躍っている。
「カフェラテです」
「そうですか」
男がカフェラテを啜って、小さく息を吐く。
「カフェの店員も、隣の客も、あの女性も、ご両親も、そして私でさえ、あなたの背景や状況なんて知らないんです。仮に知ったとしても、どうでもいい」
「全部、見てたんですか」
「仕事ですからね」
「どうして止めてくれなかったんですか」
「行動の責任を、そうして私に擦り付けようとしても無駄ですよ、だってそれはあなたの咎だ」
男はカフェラテを啜る。二杯目のカフェラテを啜る。
「あなたがどんな状態であろうと、それは社会から見たら事実の原因になるだけで許容の理由にはなりません。あなたは人を殺して、死ぬ。自暴自棄が原因。簡単でしょう?」
「あなたは私を殺して、死ぬ?」
男がカフェラテを飲み切った。マグカップが枕元に置かれる。
「そうですね、いずれですが」
私はそのカップに口を付けて、残りの水滴を啜った。
どうしてそうしたのかは分からない。原因なんてないし、理由だってなかった。
しかし、眼前のこの男は、私の行動に原因と理由を付けるだろう。
精神異常、多動、空腹、好奇心。なんでもいい。
「あと何時間ですか、私の手術まで」
男が腕時計を見る。上等な腕時計だった。私の体より上等だった。
「あと十二分ですね」
「じゃあ、お願いします」
「はい、よい旅を」
男が出て行く。私は同意書を手に持って、口に含んでみた。
多色刷りのパンフレットは非常に苦く、食えたものではなかった。
吐き出して、私はそのまま眠りに就いた。
心が凪いで、どうにもうるさかった。
4年10月短編集 真槻梓 @matsuki_azusa
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