枕を抱えて見る夢は
朝、普段通りに目を覚まして、枕を抱えて寝たふりを決め込んでいたら、高校生の頃死のうとしていた事を思い出した。
別に何と言う事は無い、至って普通の、苛立ちを覚える程に晴れた午前十時だった。
閉め切りにしたカーテンの隙間から薄黄色が漏れ出していて鬱陶しい。
寝返りを打つように、僕はその光から目を逸らした。
その日も、僕は同じように枕を抱えていた。
その日は暑くて、僕はすぐにそれを投げ出した。
要らないものは捨てればいいし、執着するだけ無駄だった。
拘って、必要以上に求めて、縋って人の足元を掴んでみれば、結果得られるものは他人からの蔑んだ黒い視線だけだと、僕はよく理解していた。
僕は、自分の右手を口の中に突っ込んだ。ぬるりとした唾液が指の間にまとわりついて、ただでさえ気分の悪かった心はさらに小さくなる。
何かを出す為に喘ぎながら、中指の腹を舌の根本に押し付けて、僕は天井を見ていた。
吐き気とも笑い声とも付かない音が喉奥から漏れ出す。
不意に、生きているという意識が僕を席巻した。
もう、それだけで十分胃もたれするくらいの気持ちになってしまう。
馬鹿馬鹿しくなった右手は口を出て、汚れたまま布団に横になった。
腹の奥が痙攣して、心臓がただ騒がしかった。
水を飲みたかった。しかし、布地の一畳から出られる気はしなかった。
深呼吸をする。身体が静かになっていく。
思考が嫌にゆっくりで、大いに辟易した事を覚えている。
そして、僕は大きくなり始める。
助詞「は」はこの場合自発を示し、文脈から「が」は不随意的であるという意味を生み出す。その点で不適切で、やっぱり「は」だった。
身体の内側から、何か大きい物が膨らみ始めて腹を破ろうとしているのが分かる。
しかし、腹膜は優秀で、それを少量の吐き気と圧迫感に引き替えて、上体の方へと流した。
心臓が圧迫されてどうにも苦しい。肋骨が邪魔だ。こんなに苦しいのに。
胸を押さえて天井の隅を見るように体をよじる。
布団に横になったまま嗚咽を垂れ流していると、段々僕の身体が膨張に順応し始める気配がした。
身体全体が膨張していく。部屋の端から端まで僕になっていく。
それでも腹の中の大きい物はそれ以上に大きくなろうとして、僕は部屋が狭過ぎる事に気が付いた。
手に胸を当て、呼吸をしようとするが、結局し得ない。とっくに肺は役割を放棄して、死にかけのカエルのようになっているだけだった。
瞬間、部屋の境界が消滅して、僕は楽になる。
多量の空気が僕の肺に流入して、肺機能が即座に復活する。心臓が徐々に正規のリズムに戻っていき、僕の目頭から涙が流れ出した。
大きくなったまま、僕はしばらく当然のように生きていた。
圧迫感を忘れて、どこか知らない所を浮いている感覚だった。
そして、徐々に僕と僕の境界も消えていく。それは、膨らみ過ぎた事による副作用みたいなもので、要は、僕の容積がその実際に対してあまりに大きく、密度が低くなって希薄になったのだ。
これ以上膨らむのは耐えられなかった。
僕は、僕の首を絞める。
頭は透けたみたいに不明瞭だし、首から下も心臓が付いているだけの状態になっていたけれど、首は消えていなくて安心した。
風船の口を閉めるように、首に手を回す。
気道ではなく動脈を止めるのは、生きている限り僕はまた膨らもうとするだろうし、そうなった時に逐次気道を止めるよりは、いったん考える事を止めるほうが遥かに現実的だったからだ。
すぅ、と息を吐く。
じりじりと焼き切れるような音がする。
布団から微かなホコリの匂いがして、僕はこんなところで寝ていたのか、と嫌になった。
右手がぬるりと滑って不快だった。
それだけだった。
カーテンを開けた。
今日は雨で、外には傘を差して歩いている人が居た。
洗濯物は、あいにく干したままで、静かに湿気を吸い込んで今にも溶け出しそうになっていた。車が走る。
太陽はまだ出ていないらしく、世界全体が何となく暗かった。
違うや、と気付く。雨雲が張って見えないのか。
太陽を、いつもあるものだと思うと足元を掬われる。
もう朝の十時で、今日もきっと誰かが死んでいた。そういう朝だった。
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