4年10月短編集
真槻梓
灰色の天使は牛舎の前で
薄暗い牛舎の中、年端も行かない少女が、死体を前に祈っている。ところどころに血液が付着した、ぼろ雑巾のようになった衣服を身につけ、異様な臭いをまとった少女が祈っている。目をつむって、あり得ないほど無防備な状態で。
私は少女の首元に、小さなキッスをした。少女は気が付くことなく祈り続けている。
足がしびれたのか小さく動いて、重力に従って揺れた髪が異臭を放つ。私はまた、少女にキッスをした。気付かれないことに得も言われぬ興奮を感じ始めた。
死体を見つめていた牛が、何かを感じ取って今度は私の方を見る。虚ろな目は、どのくらいこの個体が栄養不足の中に置かれているかを如実に表現していた。私はその視線に構うことなく、少女にまた、ささやかな愛情を送り続けた。
暫く祈った後、少女はその死体の指を千切って、金属製の指輪を外したのち、牛の方へ投げて寄越す。牛が、一瞬の躊躇の後に汚らしい咀嚼音を出しながらその指を食べる。少女はそれを無感動な目線でもって見ている。
最初に手首、その次に足首、と取れやすい部位から、少女は順番に牛に差し出す。先ほど手に入れた指輪は、少女の指に対して大きすぎるようで、少女は嵌めることもせず手の中でいじっている。
「美味しい?」
少女が初めて口を開いた。牛は反応しない。掠れた、およそ人間の声とも思えない少女の声が、私の感情を大いに昂らせた。
段々と牛が食べなくなってきて、少女は残った部位を藁山の下に隠し入れた。力のない腕で動かしている間に、牛が少女の髪を咥える。何の抵抗もなく、少女の頭から髪が抜け落ちていく。牛の口にくわえられたまま、少女の髪は風に揺れている。
全てが終わって、少女はそのまま牛舎を出て行った。
遠くに光が見えるだけの、農村の道を少女は歩く。私はその後ろをついていく。
砂利だらけの道を、少女は履物もなしに歩き続けている。足は完全に硬化しているようで、時折尖った石を踏みつけることがあっても、気にすることなく歩いていく。
星が良く見える、それだけが取り柄の道を、少女は先ほど盗んだ指輪を見つめながら、一歩一歩ゆっくりと進んでいる。
やがて、少女の足は郊外の教会の扉、その前で止まった。
教会の中は、天井にところどころ開いている穴のおかげか、月の光で少し明るく感じる。適度に管理がされているようで、ほこりっぽさは少ないが、どことなく疎外感を感じさせる。
礼拝所が望むに並べられた長椅子は、随分と使い古されているようで、木肌がささくれ立っている。おまけに、垢だか土だかわからないような汚れまでが付着していて、お世辞にも綺麗とは言えない。
長椅子が作る細い通路を、少女が進んでいく。ひたひたと響く足音が反響している。
先頭に近い長椅子に辿り着いた少女は、ポケットもついていないような衣服に隠すこともせず、指輪を手の中に握りしめたまま、横になって寝始めた。
私はそれを、ずっと見つめていた。
未発達な足の、指の隙間に埋もれた土汚れが、乾燥して白く、月の光を反射している。
土踏まずに深々と刺さった物体が、その周りの皮膚を汚染するように化膿している。
二の腕も、やけどしたように皮膚がはがれかかっており、痛々しい。
少女の持つ幼い雰囲気を裏切るような痩せこけた頬に、虫が止まっている。
衣服の股間付近が赤黒く変色してそれが私の目を引いた。
結局、私は一晩中、少女を観察し続けた。
多分幽霊か何かなのだろう。私は。
そう気付いた瞬間、私の脳内に多量の興奮剤がぶちまかれたのを感じた。これは運命に他ならなかった。
朝日が昇る前に、少女は目を覚ました。まるで寝ていなかったかのようにすんなりと起き上がって、そのまま教会の外へ出ていく。
農村とはいえ、この時間には誰も起きていないようだ。また太陽は昇る前で、冷たい空気が少女の生傷をなでる。
教会から少し離れたところにある畑で、少女は適当な野菜を収穫した。泥を少しだけ落として、口にくわえる。くわえたまま、先ほどまで野菜が植わっていた部分を土で隠した。
野菜を食べながら、昨日居た牛舎の方へと移動する。
少女がのろのろ歩いている間に、近隣の住民は目を覚まし始めたようだった。遠くの家々に、活気がともっていくのが分かった。少女はそれを見ることもなく、野菜を齧っている。
目的の家に到着すると、牛舎ではなく家屋の入り口で、数人の女が集まって騒いでいた。
少女はその横を通り過ぎようとする。女たちは、少女を不躾に眺めて、ひそひそと話し始めた。
「今日は忙しいんだ、帰ってくんないかな」
女の中の一人が、少女に声を掛ける。この家の住人であるようだった。
少女は女の声に反応することなく、そのまま牛舎の方へと歩いて行こうとする。
「今日は帰ってくんない?」
語気荒く、女が少女を叱りつける。
「なんで」
やっと少女が反応をする。他の女たちの中には、少女が反応したことを受けてほっとしたような空気が流れた。
「あんたに構っている暇はないんだよ」
「なぁ、この子なんだい?」
「あぁいや……うちの牛をよく触りに来ているんだよ、放置していたけど……それだけさ」
女は何かを隠しているような素振りをする。女と少女は前からの面識があるようではあるが、少女があまりにも女に対し無反応であること、それに女が触れて欲しくなさそうな態度をとるものだから、周りの女たちも遠慮をして指摘しない。
「良いから行った、ちょっと大変なんだよ」
女は少女を少し小突く。少女は柳のように、少し揺られて、そのままその場に立っていた。
「おい、お前が牛に食わしたのってこの女の旦那だろ?」
私は少女に声を掛ける。私の声は、少女以外に聞こえないようで、衝撃的なこの発言も、この場を支配するには至らなかった。
「そうね」
少女がここに来て、初めて口を開く。周囲の人間から見れば、誰の言葉に反応するわけでもないのに、発言した不思議な人間だ。女たちが口を覆いながら、陰口と思しき何かを話している。
再び進もうとした少女に、しびれを切らしたのか、囲いのうちの一人が少女を力強くひっぱたく。少女はその場に倒れ込む形になる。
「なに、空気読まない方が悪いわよ」
少女は地面を見つめたまま微動だにしない。顔を覗き込んでも、その能面のような顔面に感情らしきものは見つけられなかった。私はまた、筆舌に尽くしがたい「激情」を感じる。これは昨夜、少女の汚らしい容姿をまじまじと観察した時に感じたあの興奮だった。
「もうちょっと粘ろうぜ」
少女は私の声に反応することなく、立ち上がってそのままもと来た方角へと帰り始めた。女たちの中に、何か安心したような、そんな空気が流れたのが分かった。
「いつも行っているんか」
私が少女に話しかけたのは、教会への道を歩き始めて数刻経った後だった。女たちはもう視界の外側まで消えていて、あのうるさい声すら聞こえてこない。
「毎日行く」
少女はそっけなく、しかし芯のある声で返事をする。断られたことで何かしら傷つくような反応を見せるかと思ったが、まるで意に介さない少女の子供らしからぬ様相に、つまらなさすら覚える。
私は、この少女に何を求めているのだろう。この少女から目を離せない事実を説明するのに、何か確固たる理由があるわけではなかった。確かにこの少女は魅力的だ。幽霊になってまでついて行って、私はこれに、どのようになってほしいと思うのだろうか。
「あなたは誰なの」
歩きながら、今度は少女の方が口を開いた。無感動な少女の意識を引くことができたことが私を震わせる。しかし、こればっかりは私自身も知りえないことだった。
「わからんなぁ」
「そう」
会話はそれきり終了する。少女は私の方を向くことなく、遠く地平線を眺めている。私は面白くなくなった。
「なぁ、なんであの時牛に人間食わせてたんだ」
「人間じゃない、死体」
「なんでもいいさ、何で食わせてたんだ」
「食べたけど、美味しくなかったから」
「食べたのかよ、すごいな」
少女、無反応。段々と会話を続けること自体が馬鹿らしくなってくる。
「牛は食べたそうにしてた、から」
今度は少女の方から話し始める。いつも目くらいは合わせているはずの女にさえ無反応だった少女が、期待を込めた目でもって話しかけてくる、その滑稽さに薄ら笑いをする。少女の視線の方角に私が居ないことから、声は聞こえているが姿は見えていないというところか。
「なるほどな」
「私にしか聞こえないのね」
「そうらしいな」
「ねぇ、天使?それとも神様?」
少女の突然の発言に、戸惑ってしまう。質問の意図を完全に汲める前に追撃の発言が来る。
「いい子にしてたから?」
「そうだなぁ……」
返答を考えながら、私はひたすら祈っていた少女の姿を思い起こす。見るからに知能の低そうな少女はそれでも、あの祈り姿だけは本心からのようだ。不格好な少女の在り方に、無関係ながらも情けなさを覚える。
「天使は自分のことを天使って言わないんじゃないか」
否定してやろうとも思ったが、はぐらかした方が面白くなりそうだと直感で理解した。私の発言に、少女は少し満足げに、半分疑問を持ったような反応をした。
このような天使が居てたまるか。そもそも天使や神なんてのは想像上の代物だ。しかし、幽霊が存在する以上存在してもおかしくはないと考えるともっともだが、少なくとも私はそうではないだろう。年端も行かない人間に、燃えるような「激情」を抱く、私が。
その後は会話もないままに、上機嫌の少女は教会に入る。がらんどうの教会の、通路の一番奥で、少女が死体を前にしたときと同じように祈り始める。相変わらず少女の容姿はみすぼらしいことこの上ないし、祈る先が今まで何か助けてくれた試しがあるわけではないだろう。どうして祈るんだ、と少女に尋ねる。
「こうすると、全部ゆるしてくれるから」
借りてきた言葉であることは明白だった。形だけの祈りを、気が済むまでやっている少女を、私は何遍も何遍も、気が済むまで舐め回し続けた。
陽光が斜めに差し入って、昼にもなろうかという頃合い、教会奥の扉がゆっくりと開いた。神父と思しき人物が、人のよさそうな笑顔を湛えたまま入ってくる。少女が足音に反応して、神父の方を向く。
「いい子にしていましたか」
「牛触れなかったからすぐ戻ってきた」
「ずっと祈っていたんですね、さすがです」
神父が少女の頭の上に手を掲げて、頭でもなでるのかと思いきや、些かの逡巡の後にその手を戻す。神父の眉間には微かに皺が寄っていた。少女は特に気にするそぶりも見せず、両の手を神父の方へ差し出す。神父が懐からパンを出して、少女に与えた。一心不乱に食べる少女を見て、神父は気の毒そうな、曖昧な笑顔を向けている。私は強い不快感を、この神父から感じた。
「こいつ、お前の何なんだ?」
口いっぱいに頬張っている少女は、私の言葉に頷くような反応だけを寄越す。面白くない。
「明らかに気持ち悪いと思われているぞ、お前」
少女はまた首肯をするだけ。
私は神父に、短い声を掛ける。特に反応はない。
「神父然としているが、これはとんだダメ人間なんじゃねぇのか」
少女が食べ終わって、神父の方を向き、小さく礼をする。神父はそれを片手で受けて、ほほ笑んだ。
「おい」
私はまた、少女に話しかける。
「こいつの何がいいんだよ」
「ご飯くれる、こうしてると」
少女のその発言で、私の中のもやもやは少し払拭される形になった。また、急に独り言を話し始めた少女に、疑問を感じているだろう神父の表情も、私を悦に浸らせるには十分だった。この「激情」は、独占欲に他ならないのだろう。私は存在しない舌で、少女の首元をもう一度舐めた。
「どうしたんだい、急に」
神父が、少女に問いかける。少女は神父の疑問が理解できないという様子。
「いや……誰と話しているのかい」
「わかんない」
神父が疑問の表情をする。それを受けて少女は少し、苛立ちに近い感情を露にした。
「天使様だよ!」
「えっ……あぁ……」
少女は、神父のことを少しばかりは信頼しているのだろう。また、いつも自分に天使だ神だなどと言って聞かせてくる人間が、いざ認識できないとなるとさすがに少女も座りが悪いと見える。神父の口角が、曖昧に上がる。鼻から妄言を吐いていると思っているようだ。私はそれを鼻で笑う。
「おい、こいつには無理だぜ」
「ここにいるの!」
少女は半ばむきになって、自分の周囲をでたらめに指さす。神父はその指先を追って、私のいるところに視線を向けた瞬間、血の気が引いたような顔をした。神父の動きが固まって、少女は何やら得意げな表情をする。
「最近何か、変なことに巻き込まれたりしませんでしたか」
今までずっと立ったまま、少女を見下げて話していた神父が、初めて少女の目線に合わせてかがんでいる。
「別に……」
「牛に死体を食わせたことは変なことじゃないのか」
「もったいないから」
虚空に向かって返答をする少女を、神父は恐ろしいものを見る表情で見つめる。その反応を見る限り、神父は私の場所を理解できるものの、声は聞き取ることができないようだ。一瞬少女の肩を掴もうとする動きを見せて、しかしこの手を膝に戻した。
「何かあったら言うんですよ」
「こいつ見捨てる気だぜ」
少女は神父にも、私にも反応を見せない。少しだけ頷く。
「この後はどうするつもりですか」
神父は少女の方に体を向けながら、意識の方角は私の方を向いている。その反応は、私に対して何もできないということを示すに十分だった。
このまま、私は少女の隣にいよう。所詮神職もこの程度とあれば、怖いものなんていない。私は主だった悪さを何もしていないし、存亡の危機が訪れる気もしなかった。
「何もすることない」
「おや、牛さんに会いに行かないんですか」
「行かない、今日はダメって言われた」
「何かあったんですね、少しお話でもしませんか」
露骨に私に対する敵意をみなぎらせながら、少女には柔和に話しかける神父。その展開は、私には何も面白くない。そういえば、少女が死体から盗んだもんはどこ行ったんだ……そう思った瞬間、教会の入り口が開いた。見れば、今朝の女だった。
女は周りを気にするそぶりを一瞬だけして、少女と神父の他に誰もいないとみると、足早に近づいてきて、少女に詰め寄った。
「ねぇ、あんたこれ知っているでしょ」
女の手に握られているのは、少女が昨取っていった指輪だった。しかし少女は覚えていなかったのか、わからないといった反応をする。女が嘲笑する。
「わからないってことはないでしょ、あんたがうちの前に落としてったんだから!」
神父が少女と女の間に割って入る。
「落ち着いてください!」
少女は押し黙って、例の無感動な顔をしたままになっている。その態度が、女の怒りに油を注ぐ。
「盗んだんでしょ、うちの主人をどこにやったんだい」
「神の御前ですよ!」
その発言を受けて、女の照準が神父の方を向く。
「まだ神、神、神って……その神が何かしてくれた?」
「今はその時ではないというだけです」
「今の生活がなくってどう生きて行けって言うわけ」
「善行があって初めて報いがあるのですよ、少女を脅すようじゃ……」
「やけに庇うのね、グルってわけ?」
「何のことかわかりません、落ち着いてください」
女は溜息をつく。神父では埒が明かないと判断したのか、再び少女の方を向く。
「あの前の夜も会ったんでしょ、うちのと」
「知らない」
「じゃあどうしてうちの主人の指輪をあんたが持ってたわけ?」
「あったから拾った」
「馬鹿を……太って抜けなくなった指輪がどこかに行くわけないじゃない」
沈黙。神父は、少女が何周も年上の男を組み伏せることなどできないだろうと思ってか、馬鹿にしたような笑いを始める。女がそれを睨みつける。
「お前が牛に食わせたのってこの女の旦那だったんだろ、ていうかそもそもどうして死体が落ちてたんだ」
少女は口を結んだまま、私の発言にすら返答しない。先ほどまで嬉々として話していたのにも拘わらず、この仕打ちである。
「何とか言いなさいよ!」
「いや、こんな小さい子ができるわけないでしょう」
「知らないわよ、悪魔かなんかに頼んだんじゃないの」
その発言で、神父の表情が少し曇る。女がその反応を受けて、神父を詰問する体勢に入る。女の意識が神父だけに向いたその間隙をついて、少女が教会の外へと駆けだした。
「待ちなさい!何か知っているんでしょ!あんたが最後に会ったに違いないんだから!」
「何でそう断言できるんですか!」
「それはっ……!ともかく待ちなさい!」
女が少女の髪を掴もうとして、神父が止めに入る。痛いところを突かれたからか、または少女の髪が例によって抵抗なく抜け落ちたからか、辛うじて少女は教会の外へと飛び出した。
教会の外からも、神父と女が怒鳴りあっている声が聞こえる。少女はいつになく真剣に、砂利道を走っていた。
「なぁ、お前が殺したんだろ」
私は走り続ける少女に話しかける。食事も禄に取らずに、どうしてここまで走れるのかが私にはわからなかった。
「何でかは知らんが、あの死体が見つかったらもうダメだろうなぁ」
確実に聞こえているだろう。少女の意識は間違いなく、私の方を向いている。この事実に、興奮する。
「もう牛は死体を食わないだろうな、賢いからわかるだろうよ、いくら栄養不足でも、毒は食わない」
「隠せば……」
「いいや、いずれバレるよ、隅々まで探せば……時間の問題さ」
少女の表情が曇っていく。私は、これ以上の快感を知らない。少女が、うめき声を上げる。砂利でも踏んだのか、あるいは事態を悲観したのか。
「どうすればいいか教えてやろうか」
私のその発言を受けて、少女は急停止する。私は、少女の胸元をゆっくりと舐めた。快楽。
「教えてっ……」
=====
神に仕える父親を、私はずっと慕っていた。だからこそ、父親と同じ、神父という職業を目指して努力してきた。
村の人々も、父を慕っていた。事実、父が村を歩けば、住民は我先にと話しかけていたし、父と同じ神職に進むと話せば、住民は皆、私に賞賛と応援を与えた。
父をそこまで至らしめたのは、他者への貢献だった。平日、祭日問わず父は住民の生活を支え、仕事を手伝い、しっかりと神父の仕事もこなしていた。村はずれの教会は、貧相ななりをしていたが、それなりに人を集めていた。人に好かれ、人を好く、模範のような神父。私は父に憧れていた。
ある夜、私はトイレへと向かう道すがら、父の姿を見た。いつも夜は早めに就寝する父が、こんな真夜中に松明を持って立っている。不思議だと思いながらも、松明の明かりに照らされた父親に、美しさと、初めての畏怖を感じた。
一瞬驚くが、暗闇に浮かんでいる父の表情に、何も言うことができず黙っていると、少しだけ笑って、ついてこいと促された。初めてにして最後の、父と二人きりの散歩になった。
父は、液状の何かを含んだ革袋を持って、夜の道をゆっくりと歩いていた。私は黙ってそれについて行った。私は、父の醸し出す雰囲気がどことなく怖くて、話しかけることすらできなかった。やがて、教会から少し離れた一家屋に到着した。
父は、私に松明を預けて、革袋の中身をその家屋の前に巻き始めた。異様な香りのする水だった。すぐに中身はなくなって、父は私の持っていた松明を受け取った。その表情は、これ以上なく安らぐ、神聖なものだったと、記憶している。
父は、松明を、一瞬の躊躇もなく家屋に投げ入れた。
すぐに水に引火して、家屋は火に包まれた。その家には、働けなくなった老人が住んでいた。あまり日の元に出てこないが、人のいい人間だった。私が呆気に取られている間に、父はまた別の懐から酒を取り出して、飲み始めた。
「外国から仕入れたのさ、みんな知らないからね」
私はその場で、固まって動けなくなる。その表情を見て、父は笑う。
「必要なんだ、こういうのも」
父が、酒を飲んだまま遠くを見る。
「明日は家屋の修繕をしなきゃな、忙しくなるぞ」
父は、私の手を引いて家に帰ろうと促す。私が父の要請を拒んだのは、後にも先にもこれしかなかった。それは、私が失禁してしまっていたこと以外にも、理由付けができるだろう。
「『必要悪』なんだ、いずれ、わかるようになる」
父は私を置いて、教会の方角へと進み始めた。その後、私がどうやって床に就いたのか、私はまるで覚えていない。ただ、次の日に、父が修繕工事を率先して行ったこと、神を信じなければ報いが下ること、この世には因果を越えた運命が存在すること、それを住民に語って聞かせていたことは、覚えている。
父は、住民に慕われていた。
=====
「よぉ」
私は、神父のいる寝室に現れた。少女の存在なしに神父が私を知覚できるかどうか不安ではあったが、杞憂だったようだ。神父は、驚愕の表情を露にする。
「悪魔め……」
「別に悪魔ではないんだよなぁ、好きな存在に忠実なだけで」
「殺しに来たか、そうはいかない」
「言葉が通じないって不便なんだな」
神父が何か、ありがたい呪文でも唱えるが、私には特に影響がない。神父はただ、私のいる方向を向いて、睨むことしかできない。
「は、人間だった頃も悪行しか為してこなかったクズが」
「人間だったころ……?」
私は、自分が人間で会った記憶を持ち合わせていない。目が覚めたら少女の横にいて、その前の記憶自体が存在しない。しかし、この神父の確信めいた目を見るに、何かはったりを仕掛けようとしている様子ではなかった。
「あの女と話と、少女の行動でわかったよ、幼気な少女を手籠めにしていたんだろう……牛舎の中で夜な夜な……あの女が話してくれたよ、全部……下衆めが……」
私はその話を聞いて、心底腑に落ちた。私があの少女に抱いていた感情の、根源はずっと昔から私の背中に張り付いていたのだ。大声で笑いだす。笑い声が聞こえたとは思わないが、その動きからだろうか。神父が少し、してやったりといったような表情で口角を卑しく上げる。
「あの少女は腹の中にお前の分身がいるみたいだな……妄執か変態が!ささっと消えればいいものを……」
笑いが止まらない。この神父の、負け犬の遠吠えじみた言動も、あの少女が空っぽのまま私を信じている様子も、全てが感激するほどに面白い。
「あぁ、あれに会いたくなってきたな」
「さっさと消えろ!悪霊が」
「まぁいい、もうそろそろ頃合いだろうよ」
神父の表情が固まる。視線が一転に釘付けになる。その醜態に、私はまた、笑ってしまう。視線の先には、少女。
「そう……」
「いやっ、君がそういう反応する……必要はないさ」
「そうさ、『必要悪』だもんな」
「『必要悪』……」
「難しい言葉を知っているんだね……」
あからさまに動揺する神父に、私は近づいた。
「かなりうなされていたみたいだしな」
「近づくな!」
「なぁ、知っててなんで助けなかったんだ?このガキが困っていると知りながら」
神父の顔が、青ざめていく。私の言葉が聞き取れたわけではないだろうが、私の話を少女が聞いたとき、驚愕、落胆、諦観、その感情を、少女は明確に顔に出してしまっていた。
「あの女が、俺の咎を知っていながらついぞ言及しなかったことと、お前の態度、まるで同じだな」
ふいに、煙の臭いがする。
「要は、自分の手を汚したくない偽善者ってことだな、深層意識は正直だなぁ……」
煙の臭いが強くなる。神父は、異様な臭いに気付いて、辺りを見回す。その目には、現実だと受け止めない楽観的な光が潜んでいた。
「なぁ、これはお前の夢じゃない。全部現実さ」
(区切り的な何か)
人の気配がしない家屋の前を通って、死体と牛と少女の祈りがあったあの牛舎に向かう。私は少女の背中にぴったりとくっついてついていく。牛舎の中は相変わらず、一匹のうなだれた牛と藁山があった。少し、腐乱臭がする。
「あの藁山の下だよな、死体を隠したのは」
「うん」
「じゃあまずはそれを出しておけ」
ハエの集っている内臓を、少女は何の躊躇もなく取り上げる。
「これをまた食べさせればいいの?」
「いや、それは後だ」
私には考えがあった。私の中の、この「激情」を慰めうる考えが。「激情」の向かう先、この少女は私の言うことを全て鵜呑みにする。これ以上の幸いはなかった。
「そうだな、可能な限りの悲鳴を上げて見ろ」
「ここで?」
「そう、今すぐに」
少女が掠れ声で、汚らしい大声を上げる。それは悲鳴と呼ぶには単調で、感情のこもっていない形だけのものであったが、誰か一人でも呼び出すには十分な声量だった。
来るのが一人だったら大丈夫だ、二人だったら厳しいな……考えながら少女の声を聞いていると、何たる幸運か、あの時の取り巻きの女が一人、牛舎を覗きに来た。
「大丈夫?」
「内臓を女に見せろ」
少女は私の言うままに、かつて死体に収まっていた内臓を、女に掲げて見せる。女の表情が硬直して、気の抜けた息が口から漏れ出した。
「牛の方へ、誘導してあげろ」
少女が内臓を、女の方に近づける。女は後ずさりをして、段々とうなだれている牛の方へと移動していく。背後の牛が色めきだってきているのは明らかだった。
「押してやれ」
少女が内臓を女に投げ出す。女が強張った表情を崩さぬまま、牛の上へと倒れ込む。反射的に、牛が大きく首を突き上げて、物々しい悲鳴が女から飛び出す。傑作だった。背中に牛の猛攻を受け、地面に伏した女に、牛の右足が重くのしかかる。悲鳴の代わりに、あぶくの様な情けない音が口から漏れ出している。
「どうだ」
私は少女の顔を見た。少女の目は、限界までに見開かれていた。
「死んだ……?」
「死んだな、お前が殺したわけだが」
ここまで驚愕するとは思わなかった分、私も興奮する。死体を牛に食わせ、指輪を盗み出すような少女が、自身の行為によってもたらされた死に、ここまで反応するとは。
「お前は慣れていると思ったんだが」
「殺したことなんてない……」
「じゃあその内臓はなんだ?」
「これはだって……死体だから……」
「じゃあその死体はどこから来たんだ?」
「違う、私じゃない……」
「いいや、お前だよ、ずっとお世話になってたんだろう」
少女の風体、そして半裸で置かれていた死体、総合した状況などから、推測はできていた。この死体は少女を強姦し、何かのはずみで殺されたのだろう。牛がやったのかもしれないし、少女がやったのかもしれない。はたまた突然病魔に命を取られたのかもしれない。だが、真実など知った事ではない。
「お前が殺したんだよ、二人目だ」
「いやっ……」
「大丈夫だ、天使サマは見捨てないさ……お前の幸せを祈っているからな」
「本当……?」
少女が縋るような目を、虚空に向ける。どこに私がいるかはわからないはずだが、偶然方向が一致して、私は一瞬寒気を覚えた。声が震えそうなるのを堪えて、言葉を紡ぐ。
「さぁ、最後の一仕事だ。この藁山を運ぼうか」
「どうするの?」
「お前の敵を焼き殺すんだよ」
煙の臭いが、鼻をつんざく。思えば、幽霊なのに嗅覚があるなんて不思議な話だ。
「火、つけちゃった」
神父は目を限界まで開いて、少女を見る。少女の背後、寝室の入り口の扉は開け放たれていて、遠くに火が見える。
「どうして……」
「私が自由になるから……天使さんが教えてくれたの」
神父はその場で縮こまり、動かなくなる。思考を放棄したのか、それとも何か打開の準備をしているのか見当がつかないが、そんなことは私にはどうだっていい。
「さ、じゃあ予定通りに行こうか」
少女が自分の首にかけた紐を解いて、神父の腕へ、背中へ、そして首へと回し、背後の机に縛り付けた。
「この男とはお別れだ、お前の幸せを邪魔するからな」
「そうなの……?」
少女の目は黒く沈んでいて、少女の内面は、最初にあった時に比べてひどく歪んでしまっていることが傍目からも理解できた。
「現に、お前が殺されかけていたのを知っていただろう」
「そっか」
少女は、神父にかかった紐を強く締め付ける。神父がくぐもった悲鳴を漏らすが、主だった抵抗はしない。
「正義感のある人間は大変だな」
何度も何度も、少女は繰り返し紐を締める。ルーチンワークのように行った結果、少女の手から血液が滲みだしていた。煙が寝室まで充満してくる。
「そろそろ行くか、出られなくなるからな」
「うん……」
教会の外へ、寝室の窓から出ていく。神父のすすり泣きが聞こえたが、少女も、ましてや私もそれに構う理由はなかった。野次馬のいない火事を尻目に、村の周縁、山間の中へと進んでいく。少女が、徐に笑い出した。それは、快楽や幸福からというよりは、何某かの感情に強く押された結果栓が壊れ、漏れ出してしまった水のようだった。喉に仕えるような声を漏らす少女に、私はあの「激情」を感じた。
この「激情」は、きっと恋なのだろう。私は知っていた。幽霊になる前、ずっと少女の細い腕を握りしめていた時に感じた、あの情動と相違ないだろう。
私は少女の唇を舐めた。わからないはずの血の味がした。
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